ツァイ・ミンリャン[蔡明亮] インタビュー

映画/芸術とともに
インタビュー / アンドリュー・マークル


All images:『郊遊〈ピクニック〉』2013年、DCP、136分、2013 Homegreen Films & JBA Production

ART iT 昨年、『効遊〈ピクニック〉』を第70回ヴェネチア国際映画祭で上映した際に、あなたは商業映画に求められているものが、芸術的な創造性を過度に制限するようになったと、劇場映画からの引退を発表していますね。もはや映画には物語形式として追求すべき可能性が残されていないのでしょうか。

ツァイ・ミンリャン(以下、TM) 物語に関する諸問題は、現在の映画が置かれている状況の一部にすぎません。芸術家は自分の作品がなんらかの形で観客を向上させ、より理想主義的に、友好的に、他者や社会を尊重し、理解するように働きかけることを期待するでしょう。しかし、今日、人々の関心事はお金だけで、映画もまた金儲けがすべてになってしまいました。
現在流通している映画は基本的にハリウッド映画ですよね。映画館で公開されるあらゆる映画は基本的に決められた形式に従っていて、それが物語の表現方法にまで及んでいます。例えば、今日、映画をつくろうと思ったら、スターや俳優が欠かせない。そのため、格闘技系の映画やアクション映画にはデジタルエフェクトが必要となり、あらゆる要素が画一化していきます。台湾や中国、東南アジアでは、映画製作の背後にある考え方が確実に固定化してきました。幽霊の話であれ、裏社会の話であれ、ラブストーリーであれ、物語を語るというもの。なんらかの内的必然性に基づいて映画を製作しているのは、ほんの一握りにすぎません。
もちろん映画館で上映される映画は、その黎明期から商業的な側面を抱えていましたが、当時の人生は比較的ゆっくりとしています。人々は娯楽として映画を観ていたのでしょうが、その体験からなにかを学び、他者の人生やより広い世界について知ろうとしていたのではないでしょうか。現在の観客が最近の映画に求めているものがあるとすれば、それはただ刺激のみではないでしょうか。最も表面的で、使い捨てられるものが観客を満足させているのではないでしょうか。つまり、映画の現状はもっぱらビジネスと消費の対象で、それこそがプロデューサーの最大の関心事であって、それ以外は無意味なのだと。
そして、ビジネスにはマーケットが必要です。かつて、映画には映画専用の施設が存在しましたが、現在、それらはすべてショッピングモールの中にあり、そこで上映されるあらゆる映画は商業志向となっています。私の映画は商業志向ではなく、観客にとって魅力的ではありません。私の映画を上映することは、映画館にとってギャンブルのようなものです。仮に上映しても、初日に観客が入らなければ、打ち切りです。
以前、台湾で自分自身でチケットを販売してみるという実験をしてみました。事前に1万枚のチケットを売って、それから映画館の支配人と二週間の上映期間を交渉しました。事前にチケットを購入してくれた1万人は観に来てくれたものの、私の映画は消費しやすいものでも娯楽とかそういうものでもないので、観客動員数はそこからあまり伸びませんでした。というわけで、最初の1万人が観終わったら、そこでおしまい。それからDVDになって、映画が充分に味わえないテレビやパソコンのモニタみたいな形で鑑賞される。DVDが出れば、中国から海賊版が出て、海賊版は生産コストがゼロに等しいから本当に安い値段で売られています。もしくは、自分で約2,000枚のDVDをつくるとすると、200枚くらいはファンが買うけど、残りの1,800枚は結局かなり安い値段でマーケットに出すことになるでしょう。
この全体の状況に疑問が湧きませんか。たとえ私がどんなことをしても、私の映画に対する見方は変わらないのではないだろうか。誰が私の映画を観るのだろうか。そして、その映画はどれくらい上映されるのだろうか。そこで、こうした状況に対してなにかできることはないかと考えてみました。今後、台湾とマレーシアでは自分自身で作品の独占的著作権を保有するつもりです。そうすれば、映画館で見せたくなかったら、別の場所で発表することができる。こうすることで、現状をいくらかコントロールできるし、それができれば、観客を育てていくことも可能です。
とりわけ台湾では、自分の映画の上映場所に最も適しているのは美術館だと思っていて、美術館での上映は解放感を覚える経験になりました。ハリウッド映画は長くても約二時間に収めねばならず、それを超えると、観客は長すぎると感じるし、映画館の経営者は興行が成功しないから公開したくないと言ってきます。映画祭ですら、作品時間を短くしないと招待しないなんて言ってくるところもありました。こうした問題が繰り返し起こるので、映画が完全にマーケットの概念に支配されていると考えるようになってしまいました。投資家の望む映画、観客が欲する映画をつくらねばならず、映画はもはや芸術ではなく商品のひとつにすぎない。映画が芸術だと思うのであれば、それをショッピングモールの真ん中で見せようなどと考えられるでしょうか。

ART iT ほとんどの場合、あなたの映画は標準的なドラマのアプローチから根本的に逸脱しているので、そんなあなたにとって、物語とはどういうものなのかが気になります。あなたは自分独自の物語をつくるためのフォーマットを探していますか。

TM 映画にとって、物語は最重要でないと考えています。小説やラジオ、テレビなど、あらゆるメディアを通じて、観客は物語やプロットだけを追っているように考えられていますが、そうした物語はみな作り話で、現実を描いていません。現実とは通常、そこまで美しくもロマンチックでもなく、もっと退屈でつまらないものです。それにもかかわらず、興行収入を目的とした映画の題材として、あらゆるものが魅力的に、誇張して描かれなければなりません。ここで、物語は現実を映すものとして用いられていません。
こうした文脈において、結局のところ、映画とはなにかを考えることが大切なのです。映画は視覚芸術です。映画とは「見ること」であり、それ以外の物語を扱うメディアとは一線を画しています。「動く」ということを除けば、絵画に近い。このことは何を意味しているのか。私にとって、映画とは時間をつくりあげることを通じたイメージの表現です。必ずしも観客が理解するために物語的手法を用いなければならないとは限らない。ただ、観客はこれまでに映画とはプロットで構成されているものだと条件付けられているだけ。これは非常に残念なことですが。映画に対する私たちの理解はますます衰退していっています。映画製作が視覚芸術であるならば、なぜ、それを理解するために物語が必要とされるのでしょうか。
どうやら、100年以上続いた映画の進化は止まってしまったのかもしれません。唯一進歩しているのは、マーケティングと映画ビジネスで、誰もが同じようなことをやりたがっています。ほかの芸術形式ではあらゆる実験が可能であるにもかかわらず、映画では不可能なのです。こんなに素晴らしいメディウムが、充分にその可能性を探求されないなんて哀れで仕方ありません。金稼ぎの道具として使われたせいですね。映画はもはやかつてそうであったようには、時間や美学という問題に挑んでいるわけではないと思っています。白黒の無声映画を観てみると、その名作は本当に素晴らしい。視覚的な構図やその舞台装置を見て、詩の本当の意味を見出し、役者の演技や表情にもそれを見てとるでしょう。しかし、現在では何よりもまず物語であり、それが映画を行き詰まりへと向かわせています。

ART iT あなたは台北の中国文化大学の演劇科で学んでいますが、現在、映画に比べて、演劇はオルタナティブな創造的可能性を示していると思いますか。

TM 演劇の状況も映画のそれと似たようなものです。演劇もまた物語を語るための道具になっていますね。実は、リー・カンション[李康生]との演劇プロジェクト「玄奘 The Monk from Tang Dynasty」がヨーロッパで終わったところなのです。舞台上には大きな白い紙が敷かれているだけで、ウィーンやブリュッセルなど複数の場所で発表しましたが、毎回、その白い紙だけが劇場空間に対する最小限の介入です。
まず第一に、なぜ演劇があるのかを考え、そして、本質的なパフォーマンスや本質的な演劇をつくりたいと思いました。ひとつのメディウムをある段階まで発展させると、それは産業基準に従いはじめてしまいます。照明に音楽、そして、物語に台本、演技が必要とされる。テレビ番組も変わりません。台本と娯楽性のある内容、気の利いた台詞が必要とされます。とはいえ、劇場で観ることは家でテレビを見ることとは違います。少なくとも、本質的に同じであるわけがない。これは映画館にも言えることです。今、あらゆるものが混同されているのではないでしょうか。
そういったわけで、この演劇プロジェクトを製作するにあたり、演劇に定着している要素をすべて外してみたら、どんなことが起こるだろうかと考えていました。例えば、一言も台詞がなく、ただ沈黙だけ。一切演技もなく、シンプルな動きだけ。最小限の音楽と変化のない照明。これでもなお演劇なのだろうか。ここから新しいものが生まれてこないだろうか、と。
『効遊〈ピクニック〉』においても、本質的にはこうした問題に言及しています。どんなメディウムも、この場合は映画ですが、100年くらいで硬直化します。そして、その硬直化を誰もが知っているにもかかわらず、それを変えるために動こうとする人はいません。誰もそこまで深く気に掛けてないから、どうやって変えるかなど考えることはありません。ただ、金稼ぎの道具として使われる。でも、私は本当に映画を愛しているのです。映画はメディウムとしての生命力を失ってしまったのではないかと感じていますが、それを受け入れることなどできません。自分の映画に生命力を与えるために、メディウムとしての重要性を熟考しなければならない。事実、私のアプローチはとてもシンプルです。例えば、台詞のように、退屈だと思う慣習的な要素を取り除きました。誰もが台詞のない映画などありえないと言うのですが、無声映画がありますよね。あの頃の人々はどうしていたのか。つまり、私の方法はあらゆる本質的ではない部分を取り除いて、何が起こるのかを見てみるというものです。それでもそれを映画として受け入れ、そこからなにかを得られるのか。こうしたことが私の映画になにか異なる生命力を宿すのではないかと考えているのです。
個人的には、観客の眼を『効遊〈ピクニック〉』に留まらせるのは、この映画の美学、つまり、イメージの構図であり、リー・カンションの顔ではないかと思っています。彼はかっこいいわけじゃないし、その顔は従来の映画に出てくるタイプではないし、観客動員が期待できるわけではない。彼はアイドルじゃないしね。それでも、彼は二十歳の頃から私の映画に出ていて、今では45歳になりました。ある意味、これは映画の慣習や観客の期待を完全に裏切っていますね。ところが、別のインタビューでは、彼の顔をもっと見続けていたかったとインタビュアーの女性が言っていました。ですので、彼の顔がなにかを表しているとすれば、時間という概念ではないでしょうか。1本の映画ではなく、これまでの20年間分の映画が、この時間という概念をつくりあげているのでしょう。これこそ、ほかのメディアにはなし得ない、映画が面白く、創造的なメディウムである証拠ではないでしょうか。
映画に際立った特徴のひとつは時間芸術であるということです。一方、演劇の怖いところは終演したらそれで終わりだということ。花のように咲いて、枯れていく。なんらかの形でその舞台を記録しても、そこに舞台と同等の生命力は存在しえない。舞台を生で観たときに得られる感情は、自分ひとりだけのもので、たとえ同じ演目でも次の日はまた別のものになる。それが演劇です。
映画には時間を止めるという不思議な力があります。ここでいう時間とはなにかを説明するのは非常に難しいのですが。例えば、『効遊〈ピクニック〉』に出てくる廃墟で、リーやチェン・シャンチー[陳湘琪]演じる登場人物が立ち止まり、壁画を見つめる。時間のみによってこの空間は創出され、そこに芸術的な介入はありません。私はコンピュータやデジタルエフェクトによる現状をかなり心配しているのです。おそらくあなたも知っているのではないかと思いますが、『天気待ち 監督・黒澤明とともに』(文藝春秋、2001年)という野上照代さんの著作がありますね。この題名は映画という芸術の本質をよく表しています。待たなければいけない。そうして現れてきた雲が、本物の雲なのです。今はCGで簡単に雲をつくれますが、以前と同じ感覚は失われています。本物の雲こそが本物の感情を持ち、CGでつくりだした雲はまがいものにすぎません。こうしたことを支持する人々が首をかしげることはわかっていますが、社会的進歩が加速することによって、芸術的な表現は苦しめられているのではないかと思うのです。芸術はゆっくりとあるべきなのです。

ART iT あなたは長回しを多用することでも知られています。個人的な印象では、日本語で言うところの「もののあはれ」という美意識、もしくは死や儚さに対する美学に関係しているように思えるのですが、どう思いますか。

TM それはかなり的確だと思います。『効遊〈ピクニック〉』を製作しているとき、私はしばしば老子と、彼の「天地不仁(天地は仁ならず)」という言葉について考えていました。天地というのは無情であるが、それは必ずしも悪いことではなく、それ故に、天地は基本的に公平だということ。天地は人間の特異性など信じておらず、だからこそ、万物は等しいのだと。私たちはみな生まれ、年をとり、そして、死んでいく。あらゆるものと同じく、生には限界があり、また別の限界もある。ひねくれて考えるのであれば、私たちはもっとリラックスして自分自身の生に向き合うことができるし、あまり厳粛になる必要はないということを意味しているのではないかと思いました。必要に迫られない限り、追い求める必要などないのだと。
この映画でリー・カンションはあらゆるものを無くしていきます。ある種の純粋な生のみ。これが生きることなのです。あなたは彼を見ながら、自分自身のことを考えるのではないでしょうか。リーがすべてを失っていき、そういう状態で生きているのを見るとき、彼を彼足らしめているものとはなにか。そして、あなたをあなた足らしめているものはなんなのか。今のところ、あなたは依然としてたくさんのものを追い求めているかもしれませんが、いつか、あなたもまたすべてを失い、自分の命すらも失うでしょう。

ART iT 長回しや、日常の社会的な関係や出来事を客観的に捉える方法から、あなたの作品はしばしば疑似ドキュメンタリーだという印象を残しますが、そこには必ず「現実」が破綻する瞬間が描かれていますね。『効遊〈ピクニック〉』の場合、映画の後半で「病的な家」が再導入されるところで、その雰囲気は転換点を迎えますね。もうひとつの現実が喚起され、それまで見てきたものが新しい光の中へと投じられます。『黒い眼のオペラ』でも、全編を通してその予兆はありますが、三人の登場人物がベッドの上で漂っている最後のシーンで、それまでのあらゆることが夢にすぎないのだと提示されます。作品の中で、現実と夢の関係をどのように考えているのでしょうか。

TM 私の作品は観客に常に彼らが映画を観ていることを再認識させます。私は観客を映画の中に深く没入させようとは思っていません。
私も製作しているときは同じような態度を取っています。私は単なる観察者にすぎないし、この映画の中の問題を解決できるわけではありません。他人の人生の問題を解決できないのと同じことです。
映画は現実を映す手段ではない。映画を使って、もうひとつの世界の真実をつくりだそうとしていますが、それが必ずしも現実世界の真実とは限りません。映画の世界は創造と変形を通じて形成されているので、夢やシュルレアリスム的な感受性を呼び起こします。すなわち、現実ではありません。
なぜだかわかりませんが、今朝、既に引退した私の映画のフランスのプロデューサーが夢に出てきました。私とリーはあるパーティで彼に出会い、そこへ私たちの写真を撮りたいという人が現れる。プロデューサーの彼は恰幅もよく、長身というかなり大柄な男で、私たちが並ぶ姿は非常に不思議なものでした。現実なら、彼は私とリーの間に立つはずですが、夢の中では、私が向こう側に立ち、リーが真ん中、そして彼が反対側に並びました。こんなこと、現実には一度もなかったんです。
このような認識は映画にも当てはまるでしょう。自分が映画を観ているという意識もこのような不思議な状況をつくりだす可能性があります。とはいえ、ほとんどの映画はこうした感覚をもたらしません。ただ情報のみが提供される。つまり、物語しか与えられない。感動するかもしれないし、感動しないかもしれない。笑えるかもしれないし、笑えないかもしれない。ただそれだけ。そんな映画は人生にとってまったく不必要である一方で、夢はときどき欠かせないものです。この夢の意味はなんだろう、何を暗示していたのだろうと考えることはありませんか。だから、私が映画を製作するとき、それはまるで夢を扱っているみたいで、自由を手にしている。従来の映画製作の慣習に従って、できるだけ物語をわかりやすくするようなことはありません。わかりにくければわかりにくいほど、私にとっては良いものになるでしょうから。
言うまでもなく、映画は絵画に近い。それだけでなく、映画は詩にも近い。誰かが体験したことではなく、自らの体験をもとに詩を書く。自分自身の体験を描いているのだから、私にそれを正しく理解しているかどうかを訊ねるのは意味がありません。観客はそれぞれ感じるままに感じ、そこに答えを見出だす必要などはなく、誰もが各々の視点を持ちうる。映画とは夜空に浮かぶ月のようなもので、誰にとっても同じように見えるけれど、そこから喚起される感情はそれぞれ違います。すべての芸術作品はこのようにあるべきではないでしょうか。もしかしたら、今夜の月を見て何も感じないかもしれないけれど、明日もう一度見てみたらなにか感じるかもしれない。家出したり、失恋したり、そのときに感じる気持ちは自分が置かれた環境によるでしょう。こうしたことが感情的な反応をもたらし、生きていることや自分の情熱、自分が人間であることを実感させるのです。
私自身の制作態度はほとんど変わらず、それはすごく自由なもの。映画を撮影する度、それがまるで夢じゃないかと思うことがあります。現実なんかではない、と。

ツァイ・ミンリャン[蔡明亮]|Tsai Ming-liang
1957年サラワク州クチン(マレーシア)生まれ。必要最低限の台詞と長回しを用いて、都市生活と社会に潜む問題に深く言及する作品で、台湾第二世代ニューウェイブを代表する映画監督として知られる。
77年に台湾に渡り、台北の中国文化大学演劇科にて映画、演劇を専攻する。在学中より頭角を現し、映画の脚本やテレビドラマの監督、脚本を経て、92年に初監督作品『青春神話』を発表する。台北を舞台に若者の孤独や焦燥を描いた同作品は国内外の映画祭で高い評価を受ける。続く『愛情萬歳』(1994)でヴェネチア国際映画祭金獅子賞、『河』(1997)でベルリン国際映画祭銀熊賞を立て続けに受賞し、国際的な映画監督の地位を確立し、その後も『Hole』(1998)や『西瓜』(2005)など、世界三大国際映画祭をはじめ、数多くの賞を受賞している。
また、2009年にルーヴル美術館の依頼によりヌーヴェルヴァーグ50周年を記念して製作した『ヴィザージュ』をきっかけに、あいちトリエンナーレ(2010)や第52回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2012)の台湾館など、美術の領域での発表を行なう。現在は2011年より継続するリー・カンションとともに世界の都市をゆっくりと歩くパフォーマンスを撮影した「Walker」シリーズに取り組み、同シリーズから「Journey to West」が今年のベルリン国際映画祭フォーラム部門に出品された。そのほか、今年5月にはウィーン芸術週間で過去の映画作品の上映と舞台パフォーマンスを組み合わせた特集が催され、今年8月の台北アートフェスティバルでは舞台作品「The Monk from Tang Dynasty」の演出を手掛けている。
昨年のヴェネチア国際映画祭にて、『郊遊〈ピクニック〉』を最後に劇場映画からの引退を表明した。

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『効遊〈ピクニック〉』
監督 / ツァイ・ミンリャン[蔡明亮]、2013年、136分、台湾、フランス、
配給 / ムヴィオラ
http://moviola.jp/jiaoyou/

引退を発表したツァイ・ミンリャン最後の劇場映画『効遊〈ピクニック〉』は、台北を舞台に水道も電気もない空き家に暮らす父と、幼い息子と娘を通じて、「現代」と「孤独」を描く。父は不動産広告の看板を掲げて路上に立ち続け、「人間立て看板」としてわずかな金を稼ぎ、子供たちは試食を目当てにスーパーマーケットの食品売り場をうろつく。その暮らしは父にとっては耐えきれぬものであっても、子供たちには、まるで郊外に遊ぶピクニックのよう。長回しをはじめとするこれまでの手法をさらに押し進めると同時に、ツァイ・ミンリャンが初めて子供を描いた本作は、第70回ヴェネチア国際映画祭で審査員大賞を受賞し、台湾最大の映画祭「金馬獎」で監督賞を受賞している。ツァイ・ミンリャン作品には欠かせない存在である主演のリー・カンションもまた、同映画祭で初の最優秀主演男優賞を受賞している。日本国内では昨年の第14回東京フィルメックスで特別招待作品として上映された(上映時のタイトルは『ピクニック』)。2014年9月6日より、シアター・イメージフォーラム、シネ・リーブル梅田ほか全国順次公開予定。

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