連載 田中功起 質問する 9-6:杉田敦さんから3

美術批評家の杉田敦さんと、「失敗」をキーワードに、自立・依存・協働について意見を交わす今回の往復書簡。最終便となる杉田さんの手紙は、集団とその主体性を多彩な事例や体験から論じつつ、今後の思考の種子をちりばめたものとなりました。

往復書簡 田中功起 目次

件名:断片的、断続的、あるいは依存的、であれ…

田中さん

今回の返信が最後ということと、話が核心に接近してきたこともあって、いつもよりも返信に時間がかかってしまいました。何かを積み残してはいけないとか、一定の結末を描かなくてはならないという、意味のない使命感とも距離を保たなければという勝手な思い込みもあって、もちろんこちらの方こそ意味のない使命感に過ぎないのですが、いずれにしても反応を鈍らせてしまったようです。

田中さんの論点は、今回もまた、個人の主体性から集団の主体性、そしてその消滅、またそのときアートのなし得ることとは、アーティストが果たすことのできる機能とはと、縦横に移動していきます。ここでの僕の応答は、できるだけそれに応えるものであることを念頭におきつつ、けれども無防備で反射的なものになるように努めたいと思います。冒頭で反応が鈍ったと言っておきながら、反射的という言葉を使うのは図々しいのですが、厳密性よりもその言葉と向き合ったときに引き出された印象を大切にしてみたいという程度に理解してください。


彼は慌ただしくそれを描きながら、けれども同時に、描くことによって示すことを拒否しているようでもあった

個人のものであってはならない?

まず、集団についての問題を括弧に入れた上で、繰り返しになりますが個人の主体性について、少し異なる視点から触れておくことにします。前の返信で、集団型の作品の実践主体が、小規模な組織や集団になっていることについて触れましたが、これは集団型の活動が、ある程度明確な輪郭を持っている場合に顕著ですが、それ自体は社会的な慣例に倣っただけのことのようにも思われます。他者の協力なくして成立しないような活動や、議論を重ねながら方針を決定していくような社会運動などは、個人名に帰属させることに対して誰もが躊躇を覚えるはずです。

ここでの応答でも何度か言及していますが、バカルギエフのドクメンタで、とりわけ印象に残った作品のひとつに、「西サハラの女性たちの国家連合」のプロジェクトがあります。西サハラは、サハラ・アラブ民主共和国とモロッコが領有権を主張する非自治地域で、ポリサリオ戦線が実行支配する東側地域は遊牧民が多いことも原因して、国家や世界から見棄てられたような状態におかれています。カールスアウエ公園のなかに張られたテントの中は、独特のテキスタイルで彩られたエキゾチックな空間で、民族衣装をまとったサハラの女性たちによって振る舞われるお茶やクスクスをいただきながら、会話したり、踊りや歌を楽しみつつ、彼女たちのおかれている窮状について思いを馳せるように誘われます。

そこでの経験は、サハラを一人旅したときのことが思い出されたこともあって、忘れ難いものとして心のなかに残っているのですが、唯一、クレジットが気にかかりました。作品の名義は、「西サハラの女性たちの国家連合」単独ではなく、西サハラ地域の人権問題にも取り組んでいるニューヨーク在住のアーティスト、ロビン・カーンとの共同のかたちをとっていました。もちろん、彼女がいたからこそ、ドクメンタと西サハラの女性たちの活動との接続が可能になったはずですし、共同名義に強く文化的な収奪を感じたり、そのことを糾弾すべきだと考えているわけでもありません。けれども同時に、まったく違和感を覚えることがなかったわけでもないというのが偽らざる事実です。そのときの印象は、断片的ではあれ、まさに砂漠に住む女性たちのコミューンに投げ入れられたということがすべてで、アーティストの個人名がそこに併記されていることに、どこか釈然としない想いを抱いたように記憶しています。言うまでもないことですが、ここには、集団型の作品や社会運動と一体となった活動の主体に関する問題が横たわっています。

擬態する理由

あるいは、まったく異なる方向から個人の主体性について考えてみることもできるかもしれません。僕たちの周囲には、奇妙なことにアーティストが別の肩書きを謳うケースが散見されます。つまり、天才とか、チンピラとか、起業家などです。こうした肩書き変更の真意がどこにあるかはわかりませんが、それを受け取る立場としては、確かにそうした立場の方が、アーティストと名乗る場合よりも個人を実践主体とすることに抵抗がないように思われます。はたして天才であるかどうかは別として、希有な才能があるとすれば個人名で特定できることにこしたことはないでしょうし、チンピラや起業家にしても、少なくとも名指しされることを遠ざけさせるような斥力は持ち得ていない。個人的には、こうした意図された露悪的振る舞いに興味は持てませんが、もしいま述べたような事情が関係しているのだとすれば、重要な論点を提供してくれているのかもしれません。いまやアートは、どれだけ視覚的な造形に偏重した伝統的・保守的なものであろうと、あらゆる角度から社会的あるいは政治的文脈を読み取ろうとする力に曝されます。つまりそれは、ある意味で明確な社会・政治的意図を内包した活動と同質な部分を程度の差こそあれ含んでいるのであり、そのことがそうしたギミックな行動を生み出しているという可能性もあるわけです。

最後の議論が有効であるかどうかは別ですが、いずれにしても、さまざまな局面で個人的な主体性に対する疑義を感得することができる。ただ一方で、この議論を集団に接続させるときに、注意しなくてはならない問題もいくつかあります。田中さんは、集合的な主体までも手放してはどうかと挑発的に提起されていますが、そのこと自体にはまったく異存はないものの、周辺の状況についてはもう少し確認しておきたいことが残っています。

共同体は誰に奪われるのか

前回、集合的自主性について触れた際に、全体主義的な感じがすると述べましたが、誰もが感じるはずのその印象は、見逃せない問題の存在を示唆しています。集団的な活動の見直しや再検討、あるいは再構築の契機として、今日のアートが重要な位置に立ち、何らかの機能を果たそうとしているのであれば、この問題を看過することはできません。

印象に残っている出来事があります。2012年6月に行われた反原発デモです。詳細についてここで触れる余裕はありませんが、それまで原発停止の一点を接点として行われてきたデモに、当時の野田首相退陣をセットとして組み入れたデモが企画されたのです。戦後を代表する思想家のひとり、柄谷行人が声明文を記し、著名な知識人が賛同者として名を連ねて参加者を募りました(*1)。要求項目が2つになれば、参加者が倍になるという誤った統計学を信奉していたのか、あるいは2つの条件を設定すれば絞り込みにしかならないということを知らなかったのかはおいておくとして、知人も賛同者に名を連ねるこのデモは、憂鬱な気持ちにさせられるものでした。原発反対の一点で集合する民衆の現前に対して、関係するとはいえ、ある政治的過程への接続を仕組むということに対するあまりの無頓着と、そこに名を連ねた知識的とされる人々でさえ、そうした認識を持ち得ていないということに唖然とさせられたのです。

民衆という言葉を使ったのは意図的です。僕はここで、モーリス・ブランショの共同体論を想起しています(*2)。統計学に対する無知や無理解が原因であれば、問題はまだそれほど深刻ではなかったのかもしれません。60年代のフランスの左翼デモに対する警察の弾圧による犠牲者追悼のために集散した民衆の姿に、共同体の理想をみようとするブランショ。彼の共同体論はよく知られたもので、まさかそれについて声明文を記した柄谷が知らないということはないはずです。けれども、結局このとき、柄谷をはじめとする知識人たちが演じてしまったのは、ブランショに倣えば政治的な過程への接続であり、ある集団に対して自身を含む支配構造のインストールとも言える行為でした。加えて、声明文に書かれた目的の半分、つまり当時の首相の退陣が実現したことに起因する、表現の自由に対する脅威など別種の危機に対して、声明文の書き手や賛同者たちが、あのときと同様に目に見えるかたちで反応できていないのはもちろん、自省することさえままならないのは嘆かわしいことです。しかし、ここでの目的はその点に関する分析ではなく、集団に対する主体の在り方そのものについて反省的に回収できるものを探すことです。一体なぜ、そのような滑落が起こったのでしょうか。あるいは、ブランショによれば無名性の中に見失われることを望むはずの知識人によって、けれども裏切られ、奪われたのでしょうか(*3)

ともにいることの困難

ブランショが、ジョルジュ・バタイユの体験なども念頭におきながら、知性から逃れた根源的な接触に基づく共同体を想起するとき、当然それはある種の実現の困難をも示しています。集団が、個人の主体性の逃避先として仄見えたときは問題ないとしても、それが特定の目的や機能を持ち始め、主体としての姿を明確にしようとするとき、ある意味でそれは回避しようとした当の対象に接近してしまう。ブランショはそれを、持続の拒否というかたちで回避しようとします。あるいはそれは、田中さんが言うように、先回りして主体性を手放してしまうことによっても可能になるのかもしれません。

理由の説明は別の機会に先送りにするとして、僕はあまりジャック・ランシエールの論調は好きではないのですが、確かにそれは彼の解放された観客が示そうとするものにも近いのかもしれません。あるいは、僕としてはむしろ、アルフォンソ・リンギスの共同体観や(*4)、もちろんブランショの共同体理解、あるいはニコラ・ブリオーの考察の下地とも言える『関係の詩学』を著したエドゥアール・グリッサンの群島的な同一性などを想起します(*5)。さらには逆に、初回の返信で触れた、エヴァ・フェダー・キテイが示唆したケアや依存に基づいた現実的な個人によって構成される共同体は、根源的なものによって結びつけられた集団のようなものにならざるを得ないのではないかと思われます。またこれとは反対に、クレア・ビショップの敵対する個によって構成される集団は、ブランショ的に言えば何らかの持続を希求するものと親和し、その向かう先は、政治過程への失墜でしかないようにも思えてきます。ビショップの議論の詳細には頷ける部分が少なくなくても、全体的に首肯できない印象が残るのは、決して理由のないことではないようです。

もちろん断るまでもないと思いますが、ここでの目的は、種々の思想家の共同体理解を配置し、それらに基づく学際的な開発を行うことではありません。彼女や彼らの名前を引き合いに出すのは、その漠とした姿を、あらゆるものに頼りながら、断片的であれ、断続的であれ、投影することはできないかと考えるからです。共同体についての考察は、今日のアートにおいて欠かすことのできないものです。乱暴な描像はそのためのものに過ぎません。

それはここでも起こっている?

またもちろん、こうした問題は抽象的なものではなく、いままさに直面する問題でもあります。例えば田中さんと僕も参加している基礎芸術というグループについてもそれは当てはまります(*6)。田中さんが言及したArtists’ Guildの場合は、田中さんが機材共有という身も蓋もない現実と言い、他のメンバーも自虐的に互助会のようなものと口にするように、いわば個々の活動のサポートという副次的な意味合いが大きいため、逆に上記の集団に近い性質を帯びているように感じられます。けれども、基礎芸術というアーティストやキュレータ、批評家などによって構成される団体の活動は、決して副次的とは言い切れない協働も視野に入れているため、かかわり方が難しくなってきます。Artists’ Guild における田中さんのように、僕も基礎芸術においては幽霊会員化していますが、それは、そこでの振る舞いや、集団としての現前の仕方に困難を感じているからに他なりません。しかしこの困難は、おそらく今日の状況におけるアーティストとしての振る舞いかたにも通じるもののはずです。田中さんが描こうと試み、けれども逡巡しもした、強い作者性と距離をもつ作家像も、楽天的であるよりはどこか苦悩しているように感じられます。

バカルギエフのドクメンタは、ある意味で今日の芸術における構造変動を反映するものでした。そのことについて、さまざまな人と意見を交わすなかで感じたのは、さほど保守的とは思えない人々にも反動的とも受け取れかねない頑迷さを芽生えさせていたことです。拒絶を引き出さずにはおかないその状況が、その環境における活動の設計を容易にするわけはありません。しかしその困難と苦悩こそが、むしろ救いのように思えなくもない。ヒロイックな姿を想像しているわけではありません。集団的な活動の見直しや再検討、あるいは再構築の契機としてアートは重要な場所に立つことになると述べましたが、それは当然主体や集団のあり方そのものの模索を必要とするはずです。苦境における創意工夫は、現実的に、そのためのひとつの有効な手段であるように思われます……。

しかし、最後もまた、未整理な感じで終わらざるを得ないようです。僕にとってはとても有意義なやり取りでしたし、田中さんからも提案いただいたように、こちらこそいましばらくお付き合いいただければと思います。恐らくここでのやり取りは、いま同時並行で書いている次の本にも大きく影響することになるはずです。そう、言ってみれば僕の本もまた、種々の集団的な判断や想いに依拠しているのです。完結した個などではない、未完の個が、ざわめきに呑み込まれその姿さえ掻き消えようとしている。おそらくきっと、そのようなものになるはずです。

杉田敦
2014年3月

1. 賛同人は以下。雨宮処凛、鵜飼哲、大澤真幸、奥泉光、 鎌田慧、高祖岩三郎、 田中優子、鶴見済、毛利嘉孝。 
2. モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』西谷修訳, 筑摩書房, 1997.
3. モーリス・ブランショ『問われる知識人―ある省察の覚書』安原伸一朗訳, 月曜社, 2002.
4. 例えば『何も共有していない者たちの共同体』(アルフォンソ・リンギス, 野谷啓二訳, 洛北出版, 2006)では、旅先でふと目にした窮状に対する憐れみのような希薄なものによる共同体の可能性を論じる。方向は異なるが、ブランショの政治化の拒否と同じ姿勢のものだと言えるだろう。
5. 『関係の詩学』(エドゥアール・グリッサン, 管啓次郎訳, インスクリプト, 2000)において、多数の島に分散するアンティル諸島の同一性について、関係性を手がかりとして論じている。題名も含めて、ブリオーの思想の原型を読むことができる。
6. アーティスト橋本聡の呼びかけで2012年結成。メンバーは他に、粟田大輔、井上文雄、遠藤水城、齋木克裕、成相肇、藤井光。 http://kisogei.org/

近況:アートの世界に結びつけてくれた『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)が絶版に。15年かかりました。再版を期待しつつ、けれども今年は、本文でも触れましたが2冊本が出る予定です。プロジェクトは、メルトダウンした渋谷原発の20km圏を歩くものに加え、架空のデモ、小さな神様のための集会、そして新しいユニットによるリ・アクトにかかわるものなど。それらはいずれも、ここでの会話を、別のかたちで考えさせてくれることなるでしょう。

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