ヒト・スタヤル インタビュー(2)


The Kiss (2012), detail, mixed-media installation: three-channel video projection; 3D print on plinth; eight light boxes; single-channel video, etc. Installation view, Yebisu International Festival for Art & Alternative Visions 2013: “Public Diary,” at Tokyo Metropolitan Museum of Photography. Photo Kenichiro Ooshima.

 

回路|記録
インタビュー / アンドリュー・マークル、良知暁

 

ART iT あなたの文章を読んで刺激的に感じる原因のひとつに「言葉遊び」の方法があると考えています。例えば、「フリーランサー[freelancers]」という語を、その語源のひとつである雇われの「用心棒」のようなものにまで遡ったり、抑圧や搾取のシステムにも繋がる「貧しいイメージ」という概念を使ったりしています。多数の意味が集合するように言葉を使う、そうした言葉遊びは作品にも見受けられますね。

HS それは非母語話者であるという前提によるものでしょう。ある単語がどこか奇妙に感じて、それを捏ねくり回して見てみると、大抵の場合、その単語の持つ異なる様相が見つかります。なにかを当然のことだと思い込まないこと。たとえば、漢字が多義的であるとき、他の文字にもそういう可能性があるかもしれません。

まさにこの種の言葉遊びを用いた「Strike」(2010)や、抽象とはなにかという考えで遊んでみた「Abstract」(2012)があり、「Red Alert」(2007)では、抽象とモノクロームの他に、崇敬と安全とカラースケールの関係性を扱っています。

 

ART iT 言語もまた、イメージやコンセプトが「もの」になる回路を提供しているのかもしれません。例えば、今年の恵比寿映像祭で発表した「The Kiss」(2012)は、「現実化と客観化」を扱っているとされています。

HS 客観化[objectification]ではなく、客観的フィクション[objecti-fiction]」です。それがあの作品でやろうとしたことです。真に客観的かつ真実味があり、真の事実をもたらすとされる技術を使い、出来るだけ客観的であろうと努めても、あなたが作り出すその「もの」は完全なるフィクションなのです。このようなことが、3D技術に内在しているのです。手にしているデータは、単なるひとまとまりのデータに過ぎず、それによる所産はあるひとつの解釈にほかならないのだから、制作のプロセスで十分にフィクション化する必要があります。基本的には、点と点を繋げなければならず、この技術で作られたいかなるものも常に客観的なものであると同時に、客観的フィクションでもあります。

 


The Kiss (2012), installation view, Yebisu International Festival for Art & Alternative Visions 2013: “Public Diary,” at Tokyo Metropolitan Museum of Photography. Photo Kenichiro Ooshima.

 

ART iT 「The Kiss」はボスニアで起きた虐殺に関する法的証言に基づいています。その証言に現れる登場人物、謎に包まれた黒人男性は、この作品のインスタレーションにおいて、ある種のヴォイドとして存在しています。
しかし、作品自体は非常にドラマチックで、官能的ですらあります。事件を再構築する3Dアニメーションが、3台のプロジェクターから投影され、音楽にはすべて黒澤明の『羅生門』のものが使われていますね。

HS ここに人々がこの技術に真実味を覚える原因の一側面が表れています。通常、この種の再構築は法廷で使用され、その利点はあらゆる角度から物事を見ることができるところにあります。鳥瞰的な視点。これぞ法的な美学でしょうか。鳥瞰的な視点は真正性を強化するとされています。なぜなら、写真の二次元性とは異なり、空からすべてを見渡せるからです。ある意味、鳥瞰的な視点は真正性を裏付けるもののひとつでしょう。

とはいえ、本当に鳥瞰的に見るとすれば、空を飛び回り、奥には何もないことがわかるでしょう。そこには穴、空洞があるだけです。これこそが私が顕在化したいと考えているものなのです。徹底的に追求すれば、客観性や事実、データの一部が失われていることに気がつきます。そして、この失われたものこそ、この技術のドキュメンタリーの核となるものです。なぜなら、この技術に唯一可能なのは、この失われたデータを捉えることだけなのですから。

『羅生門』には森の中を抜けていく長回しのトラッキングショットがありますが、少なくとも50メートルのレールを敷かなければならなかったでしょう。3Dスキャナーによる白黒の点の集合を見たとき、『羅生門』の殺風景な白黒の場面が頭をよぎりました。

 

ART iT この作品はあなたが書いているドキュメンタリー性やドキュメントされうるものの政治学といったものから展開しているとも言えるのでしょうか。

HS そうですね。程度の差こそあれ、私たちは表象されているものの「内容」を疑います。それがどれだけ正確かなど、誰が知り得るでしょうか。その一方で、あらゆるイメージの物質的環境やイメージを運んでいくものに関しては確信が持てます。例えば、ストックフィルム、メディアのファイル形式、圧縮など。これらは一連の事実を伝えており、そこには確からしさがあります。しかし、内容について言えば、そんなことは滅多にありません。

 

ART iT ほかには、「Adorno’s Grey」(2012)や「Amidst Us」(2009)といった考古学的な作品もありますね。リンツを舞台とした「Amidst Us」は、ナチス体制下に建造された橋頭堡の建物のファサードの一部を取り除いて、建造に注がれた労働や搾取、排除の軌跡を反映したパターンを作り、既存の歴史を発展させていくというビデオインスタレーションとともに発表していますね。

HS このリンツのプロジェクトはなかなかできないものだけに気に入っています。制作には約一年かけています。まさか実現できるなんて思っていませんでしたが、結果的には実現しました。ファサードの復元作業の後、修復管理者が100%修復するなど不可能だと言ってきましたね。午後の日差しがファサードを照らすたびに、未だにその輪郭を目にすることができます。気に入っていますね。なぜなら、こうしたことが、私がこのインスタレーションで言おうとしたことのすべてを真に語っているからです。この作品は歴史の消去やそれをファサードの裏に覆い隠すことに言及しています。覆いを剥ぎ取っても、次に別の誰かが再び覆い隠すでしょう。このようにして、この作品は完成されるべきなのです。これが自然な完成の形です。社会的な力が意味のレイヤーを剥ぎ取り、異なるレイヤーを重ねるのです。このときは、漆喰が重ね塗られましたね。

 

ART iT このプロジェクトは欧州文化首都2009の関連事業として依頼されたものですよね。ヨーロッパというアイデンティティやその歴史に対する考古学的アプローチを試みた企画の多くは、ヨーロッパを称賛するという文脈の下で制作されます。このようなことがなんらかの妥協に繋がりませんか。

HS それは興味深いパラドックスです。ほとんどのインスティテューションは、このような歴史の厄介な側面を取り上げないことを望んでいます。その一方で、とりわけリンツの場合はそうなのですが、このような側面を全く扱わなければ、隣国をはじめとする多くの人々が黙っていないでしょう。なぜなら、リンツにはナチス帝国の文化首都として、そこに建てられた美術館にヨーロッパ中から略奪された美術品を展示することになっていたのですから。それ故に、少なくとも、このような歴史の側面に触れることなしに、リンツが欧州文化首都になるなどありえません。

とはいえ、このようなパラドックス全体の力学には、全く逆の効果も存在します。どういうことかと言えば、このような作品は都市のマーケティング上のスペクタクルのための装飾にもなるということです。こうしたことも起きているのです。同じコインの裏と表のように。

 

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Top: Amidst Us (2009), site-specific intervention into the Bridgehead Buildings, Linz. © Andreas Kepplinger. Bottom: Red Alert (2007), installation view, triptych of three video loops shown on 30-inch cinema computer screen. Courtesy Hito Steyerl.

 

ART iT 消去に関して、「Lovely Andrea」(2007)には、スパイダーマンのアニメが引用され、メトロポリタン美術館が購入した新しい絵画を発表するという場面が使われています。最初の場面では、絵画を覆っていた布を取り去ると、そのフレームにあなたのボンテージ画像が挿入されていて、二度目の場面では、スパイダーウーマンによってその画像が消去され、フレームは空っぽになります。

一般的には、アーティストは求めるべきイメージを持ち、そのイメージを目指しますが、あなたはそのイメージを消してしまうことで、求められるべきそのイメージとはなにか、または、私たちがそのイメージに見ようとしているものとはなにかを問うているのではないかと興味深く感じました。自分自身のボンテージ画像という強い、豊かなイメージを得ることを目的とせず、貧しいイメージをネットワークに循環させるという手法も面白いです。前者が西洋的伝統に基づくものだとすれば、後者はより水平的にさまざまな文脈に拡散していくと言えるかもしれません。

HS それは言われて初めて気がつきました。フレームからイメージを取り去るという行為、これは何よりもまず消去でしょう。ウェブ上を循環するあらゆるイメージが消去できないということは重要です。取り消すことはもはや不可能である。だからこそ、消去は要求すべき可能性となるのです。とはいえ、それは消去だけではありません。二度目の場面では、イメージを消去されたフレームに、また別のなにか、それは上下逆さのボンテージ画像、私のアシスタントを務めてくれたアゲハの画像が浮かび上がり、その画像が過去のイメージを引き継ぐ、もしくは、過去のイメージに取って代わります。消去だけではなく、置換もあるのです。

「November」(2004)では全編を通して友人のアンドレアを扱う一方、続編となる「Lovely Andrea」では世界中を循環した彼女の画像がアゲハの画像に置換されます。ふたりの名前はどこか響きが似ていますが、基本的にふたりには何の関係もありません。これらのイメージは伝染性が高く、互いに感染し、接触し、どういうわけかそこには関係し合う力学が働いています。まるで、人から人へ、そしてまた別の人へと渡っていくイメージのようです。つまり、ふたつの映像作品全体において、これらのイメージは循環を続け、交換し続けるのですが、その上で、なにか独自の衝動のようなものも維持しているのです。

 

ART iT そうしたイメージに対する支持体について、どのように考えていますか。貧しいイメージにとっての支持体とはどのようなものなのでしょうか。

HS これも興味深い質問ですね。伝統的なメディアは、すべて支持体とともにありました。絵画はキャンパス、彫刻は石材。写真はもっと移動性があり、いくつかの手段に複製することができます。

貧しいイメージはあらゆる支持体をとることができるというのが私の見解です。現在、このようなアイディアを扱った文章を書いていますが、別の文章では「もの」としてのイメージというアイディアにも取り組んでいます。イメージは「もの」になり得ます。つまり、物質化し得る。しかし、貧しいイメージの場合は、いろんなものになり得るのです。これはスクリーンからこの世界へと移動する過程に関係しています。イメージは文字通りコンピュータもしくはTVモニタ、スクリーンを移動し、この世界にイメージ自体を見出すのです。

こうしたことがどんどん起きています。イメージは世界に実装され、現実化し、物質化するが、そこには常にある種のグリッチが存在するのです。もし、あなたがスクリーンを移動するならば、なにかが起きて、二度とそれまでの自分には戻れなくなります。不可逆の変形が起るのです。こうしたことの最初の例としてシルヴィオ・ベルルスコーニが挙げられるかもしれません。彼は首相になる前からテレビ界の有力者で、イタリアで最も重要な民放テレビ局を所有していました。そう、彼はTVのイメージのようなものから現実へと移動してきたが、その途中でスクリーンを通過せねばならずに、鼻を骨折してしまい、治療が必要になりました。

現在、私たちが目にするあらゆる整形手術は、修復手術であれ、ボトックスであれ、理由がなんであれ、それはすべてスクリーンから現実へと移動し、その鼻を骨折し、治療されたあらゆるイメージの影響なのです。とはいえ、これは人間に限った話で、それ以外のものはスクリーンを通過して、物質化されます。

現代建築の多くはなんらかの位相幾何学的スクリーンなものが現実へと飛び出して、凍結したものです。かつてはスクリーン内に限定されていたものの、今や表面に浮かび上がり、私たちの住む世界の構成要素となった複数の現実が生活環境のかなりの部分へと形を変えています。

こうしたことの興味深い帰結として、現在ではイメージがあらゆる現実環境の大部分を形作り、そうしたイメージがスクリーンから現実へと移住して、私たちを取り囲んでいるのです。それは、私たちがスクリーンの向こう側のものにのみ適用すると考えてきた編集やフォトショップ、ポストプロダクション、映画理論といった基本的にイメージに関するすべてのことが、今では現実に適用されているということを意味しています。

 


Top: Adornos’s Grey (2012), detail, single-channel HD-video projection, 14 min 20 sec, four angled screens, wall plot, photographs. Bottom: Installation view, Wilfried Lentz, Rotterdam, 2012. Both: Courtesy Hito Steyerl.

 

ART iT 最後の質問になりますが、作品では表象の契機に関わるトラウマ的なるものも扱っていますね。「Adorno’s Grey」には、アドルノが教鞭をふるったフランクフルトのゲーテ大学の講義室の壁を削る人物が映されています。彼らが探しているのは、かつてアドルノが学生の集中力を上げるために採り入れたという灰色に塗られた壁の層です。しかし、この作品の裏話のひとつには、アドルノに向かって上半身裸で抗議した三人の女子学生の事件があります。この出来事に彼は絶望したと言われています。

HS この作品においても、これまで私が述べてきたいくつかの点が重要となります。例えば、「もの」としてのイメージ、スクリーンの中に物質化されたイメージやインスタレーションを構成するもの。普段の歴史研究的アプローチを反転し、未来にあるなにかを掘り下げたいのです。

この作品では、私たちはなにかを掘り起こす素振りを見せていますが、何も見つからないことはすぐに明らかになります。なにかを見つけたかったり、なんらかの結果を得たいのであれば、私たちはそれをでっち上げたり、想像しなければなりません。私たちが見つけ出すのは、貧しいイメージであり、どこかの誰かが文字通りアドルノの著書を護身用の物体、ある種の武器に変えてしまう貧しいイメージ、抵抗の貧しいイメージだけなのです。このイメージは過去のものでも、未来のものでもなく、現在に由来する真に貧しいイメージなのです。

言うまでもなく、このような探求全体の引き金になったのは、1969年に起きた「ブレストアタック」と呼ばれる出来事ですが、この件については誰もが話したがりませんでした。そう、ある意味で、過去はその出来事を解決できなかったのです。しかし、それはアドルノのいくつかの考察を再び一致させようとする現在によって解決されるべきだったのです。これこそ、私の作品において重要性を増してきているものではないかと考えています。過去は修正できない。それを見に行くことはできるけれど、あなたは未来を想像し、現在においてそれを修正しなければならないのです。

 

 


 

ヒト・スタヤル|Hito Steyerl
1966年ミュンヘン生まれ、ベルリン在住。メディア環境やイメージの流通を中心にさまざまな領域を横断する問題に理論と実践の両面から取り組む映像作家として知られている。1980年代後半に日本に留学し、今村昌平や原一男の下で映画制作を学ぶ。ヨーロッパに戻ると、制作活動に加えて、ドキュメンタリーやジャーナリズム論を学び、2003年に哲学博士号を取得。現在はベルリン美術大学メディアアート学部で教授を務めるほか、複数の学術機関で映画や理論を教えている。

第55回ヴェネツィア・ビエンナーレの企画展『エンサイクロペディック・パレス』をはじめ、ドクメンタ12やマニフェスタ5、第8回光州ビエンナーレなど、多数の国際展や映画祭に出品、シカゴ美術館やニューヨークのe-flux、ロンドンのチゼンヘールギャラリーなどで個展を開催している。また、2012年には初のエッセイ集『The Wretched of the Screen[スクリーンに呪われたる者]』を刊行。日本国内では、今年行われた第5回恵比寿映像祭において展示、上映の両プログラムに参加している。

 

ヒト・スタヤル インタビュー
Part I | Part II

 

第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ:インデックス

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