マーサ・ロスラー インタビュー


Proposed Helsinki Garden at the Singapore Biennale (2011), site-specific community project commissioned by the Singapore Biennale 2011. Photo Mae Ee Wong. All images: Courtesy Martha Rosler.

 

自ら語る庭
インタビュー/アンドリュー・マークル、大舘奈津子

 

2011年3月、マーサ・ロスラーは第3回シンガポール・ビエンナーレに参加するため、シンガポールを訪れていた。ビエンナーレのテーマは「オープンハウス」。ロスラーは、現地のアーティストやコミュニティーと協力して、旧カラン空港に位置したとある場所を多様な顔を持つ庭へと変えるプロジェクトを手がけていた。

「Proposed Helsinki Garden at the Singapore Biennale」[以下、シンガポール・ビエンナーレにおけるヘルシンキ・ガーデンの提案] (2011)と題されたその庭は、フィンランドにある学校、ヘルシンキ・ビジネス・キャンパスによるコミッションを受けて、計画したパブリックガーデンという既存のプロジェクトから発展させたものである。ヘルシンキでの提案が美術作品であるか庭であるか、そして学校もしくは市のどちらがその運営に関わるかという議論を含むあらゆる原因により、結局この庭は実現されることがなかった。シンガポールにおける庭は特にヘルシンキのプランに似ている訳ではないが、全く新しい文脈においてこの出来事に言及することで、国際的な現代美術の流通、そしてその流通を定義するローカルおよびグローバルで偶発的な事柄を批評していると言えよう。そしてロスラーだけではなく、むしろ地元のスタッフによる実現において、この流通におけるアーティストの共謀や、シンガポール・ビエンナーレのようなアーティストの神秘性を支配し、彼らを支援してくれる人たちを犠牲にしてでも資本化しようとするイベントに対する慎重で内省的な批評を展開している。

しかし、これらのテーマは隠喩的にしか明らかにされておらず、シンガポール・ガーデンは共同緑地としてそれ自体が楽しめるものでもあった。これらのテーマはシンガポール美術館で2011年3月12日に行なわれたビエンナーレ関連のレクチャーにおいてロスラー自身によって詳しく説明された。

ART iT編集部は、ロスラーのレクチャー後、地域における実践とグローバルな可視性について、より深く話を聞いた。

 

インタビュー

 

ART iT 今回のレクチャーでは、国際展における矛盾について、また、国際的な興行において、それらがいかに現地の地域性を必然的に抑圧しているかということについて言及していました。あなたのようにローカルとグローバルの間に立って考えながら国際的な活動をしているアーティストとして、これらの矛盾についてどのような感情を持っていますか。ある種の罪悪感といったものがあるのでしょうか。

マーサ・ロスラー(以下MR) はい、私自身もこうした矛盾から逃れることはできていません。これは仕方がありません。矛盾を認めようとすると同時に、一方で何を植え付けることができるか、いわば両方の方向に進むことも考えています。結局、「シンガポール・ビエンナーレにおけるヘルシンキ・ガーデンの提案」は私のプロジェクトではありません。これは地元のプロジェクトなのです。私は枠組みを与え、扉を開き、人と出会い、そして彼らがプロジェクトを実現したのです。しかし、一方でこれは公開プロジェクトでもあります。これは現実の庭で、流通と地域性を考えるコンセプトのなかで、いくつかの活動が実際に行なわれます。庭でありながら社会でもあり、ここシンガポールに特定的に関係があるものなのです。

 

ART iT このプロジェクトで地元のアーティストと一緒に働くにあたり、あなたはどういう役割を担ったのでしょうか。

MR 私はまず書類を作りました。ちょっとした書類一式ですが、コミュニティガーデンとはどういうものになりうるか、隠喩的な側面も含めて考えたものです。その上でどのような人に参加してほしいかについて、キュレーターのラッセル・ストーラーに伝えたところ、彼はすばらしい人たちを紹介してくれました。私はその人たち——その多くは女性でした——に手紙を書きました。最初に紹介してもらったのはアマンダ・ヘン、スージー・リンガム、シルヴィア・リムとヘーゼル・リムです。彼女たちからさらにより多くの人を紹介してもらい、ネットワークが拡張していったのです。私はやりとりをすべて記録しました。誰がアドバイスをくれたか、誰が手伝ってくれたか、誰がイエスといい、そして彼女たちの最初に提案したものがどんなものだったかを記録しました。そして、小さなカードのセットを作りました。各人それぞれにつき一枚。それによって、私がシンガポールに到着したとき、すぐに電話をして打ち合わせをすることができたのです。実際のところ、私はコーディネーターというか、事務的な管理をする役割を果たしていました。

現場のプランは私が設計しました。この場所全体をプロジェクトが使用していることが来場者にわかるように小径を作りたいと思いました。それから私たちは最終的な提案、予算、そして必要なものをまとめ、ビエンナーレ事務局に送りました。シンガポール国立教育研究所で教授を務めるスージー・リンガムは普段、教鞭をとっている美術教師たちを教えています。スージーは彼女の生徒であるその美術教師たちを連れてきてくれ、さらにその美術教師たちが自分たちの生徒を連れてきてくれたので、プロジェクトは学校の中で美術を普及させるための素晴らしいかたちをとることができました。南洋理工大学のアートデザインメディア学部のルーシー・デイヴィスも、彼女の生徒を連れてきてくれました。これらの多様なグループは、シンガポール自然協会の会長であるショーン・ラムの元で幾つかのプロジェクトを成功させました。シャー・ナジャックは出稼ぎ労働者たちと仕事をしているアーティストですが、地元の労働者の団体を連れてきてくれて、彼らは一体の彫刻を中心としたハーブが植えられた庭をデザインしてくれました。他にも何人かの人が事務的なことにボランティアとして手伝ってくれています。私がシンガポールを離れてからもこのプロジェクトは続いていかなければならないので、これはとても素晴らしいことです。

今回の方法は私の通常のプロジェクトの進め方とは違いますが、今回のシンガポールでの反応に非常に満足しています。今回プロジェクトに参加してくださった人たち、特に女性たちは本当に素晴らしい方々でした。私が何を考えているか、そして私がこのプロジェクトを地域のプロジェクトにしたいと思っていることを即座に理解してくれました。私が連絡をした人々はこう言うこともできたはずなのです。「なぜこのようなことをしなければならないのでしょうか? 私たちの労働にあなたの名前がつくということですか」と。しかし、彼女たちはこの庭は自分たちが作るものであり、なんでも提案できることがわかったのです。もちろん、こうした提案が実現可能性や予算を超えてしまったら実施することはできなかったでしょう。でもそういうことはありませんでした。人々は多様な提案をし、植栽と建設にとりかかったのです。

 


From Proposed Helsinki Garden at the Singapore Biennale (2011). Top: Planning meeting at Old Kallang Airport. Bottom: Yap Von Bing and Shawn Lum of the Nature Society (left) and “Pioneer Landscape Development Project” by Lucy Davis and Shawn Lum (right). Both: Photo Lucy Davis.

 

ART iT ビエンナーレのオープニングでは、まだ植栽が続いている状態だったので、庭が最終的にどのような形になるのかを見るのは難しかったと言えます。庭が完成したら、全体的な外観は必然的になにか意味を持つのでしょうか。

MR 完成形としては、もちろんそれは目に見えないものですが、共同の労働を象徴します。要はそういうことなのです。これはランドスケーププロジェクトではありません。これは、私たちは何をしたくて何ができるかと——一緒にそして別々に——問うプロジェクトなのです。見た目には瞑想にふけったり、レクリエーションや再生したり教育する場所がところどころにある緑のオアシスです。プロジェクトは非常に多岐にわたっていて、科学的なものから詩的なもの、そして食用植物に関するものまであります。中には紫の治療効果のある庭や、日陰に置かれたベンチに周りを囲まれた草の曼荼羅、そして若木が植えられた木々の名前が付けられた場所が書かれた大きなシンガポールの地図もあります。

 

ART iT この種のアプローチは一体何に起因していますか。例えば、現代美術の国際的な動きに含まれている矛盾を扱うことはいつ頃始めたのでしょうか。

MR 1970年代から、アーティストとして招待されるということがどんな意味なのか考えてきました。遠方から単なるメッセージ以上のものとして何をもってくるのか。私は常に文脈に心を配ってきましたし、それはアメリカでのプロジェクトも同じです。作品を制作するときは、地元にとって重要なものと何らかの関係性を持つものを作ろうとしました。そのために検閲されることもたまにあります。

 

ART iT 1989年にニューヨークのDiaアートセンターで、『If You Lived Here…』というプロジェクトを行いました。このプロジェクトがシンガポールのプロジェクトのモデルとなっているのでしょうか。

MR ある意味『If You Lived Here…』は似たプロジェクトですが、あれは都市の住宅事情とホームレスの問題についてのものでした。あのプロジェクトでも個人やグループに参加をお願いしました。Diaはプロジェクトの財政的な支援を申し出てくれましたので、展覧会の準備にあたり次から次へとミーティングを行ないました。そのときの方がより運営が難しかったです。もしかしたらニューヨークが寒い時期だったということが影響したのかもしれないし、アーティストでない参加者たちが忙しかった、もしくはためらっていたのかもしれません。私はアクティビストや支援活動をしているグループを招待しましたが、彼らの仕事のスケジュールから協力してもらう時間を得る必要がありました。なんとかうまくいきました。シンガポールのために、私自身の方法論を繰り返すことになるとは認識していませんでしたが、とりわけ展覧会のタイトルが「オープンハウス」だと知ったからには、グループとしてのプロジェクトをやるべきだとはっきりと思いました。私はドメスティックなものとパブリックなものの両方に焦点を当てたかったのです。それもあって、シンガポールではパブリックな空間をほとんど与えられていない女性に対してプロジェクトを投げかけてみました。

 


From SkulpturProjekte Münster ’07. Top: Luftwaffe Eagle replica at the Principal Markt (left) and two replica cages at the City Library (right). Bottom: Replica bamboo maze on the Lambertikirche plaza. All: Photo Martha Rosler.

 

ART iT 対照的に、2007年のミュンスター彫刻プロジェクトで発表した「Unsettling the Fragments」は共同制作の作品というよりは、彫刻作品と言ってよいものに見えました。

MR そうですね、それは事実です。私の作品の多くは共同制作の作品ではありません。定期的に庭の材料を使って制作をしていますが、ミュンスターの場合は私個人の作品で、地元の人々によるプロジェクトではありませんでした。でも、そのプロジェクトの一部として、庭があったことには気がつきましたか?作品は3つの彫刻的な要素と街の図書館で見せたビジュアルディスプレイの4つに分かれていました。ポールの上にあったナチス政権下のドイツ空軍の名称ルフトヴァッフェの「鷲」と、1535年に起こったミュンスターの反乱で処刑された再洗礼派の遺体を見せるのに使った「檻」と、植物園にあるような「竹の迷路」がミュンスター中心部の教会広場に展示されました。

 

ART iT シンガポールというロケーションでは、制作方法に違いはありましたか。

MR 一部ありましたね。私はすべての招待状に「アーティスト、ブルックリン、ニューヨーク」とサインをしました。あるアーティストは私に手紙で、悪意はなさそうでしたが「ブルックリン在住のアーティストがガーデニングのためにいったい何をシンガポールに持って来なければならないんだい?」と聞いてきたので、私は「庭よ」と答えました。それはあなたの庭であり、私はそれを持ち込むのだと。

ミュンスターの時は幾度も現地を訪れました。なにか地域の歴史に関連することを行ないたかったのです。私は何人かの地元の代表に会い、建築的要素もしくは他の要素を引用するという私のアイディアを発展させました。同じ年に私はドクメンタ12で「Kassel Gardens (from the Perspective of the Mole)」というプロジェクトを行なったとき、庭自体は作りませんでした。その代わりに街の歴史を調査する方法として、カッセルにあるいくつもの庭の写真を使いました。そこでは共同制作という要素はありませんでしたが、いずれのケースも、展覧会を行なう地元との関わりが形になっていると言ってよいでしょう。

2003年のヴェネツィア・ビエンナーレでは私の生徒と一緒に共同制作をしました。このプロジェクトでは30人がいろいろな場所でプロジェクトに関わりました。私は作品の条件を設定しましたが、プロジェクトは彼らのものです。その時期私は3つの国の3つの学校で教えていました。さらに昔の生徒たちによるインターネットを通した参加も加わりました。その意味では教育的なプロジェクトとも言えますが、実際は単に「みんなで一緒にやろう」ということだったのです。しかしこれは今まで話してきた作品の中では地域性ということからは最も遠いものでした。私たちが参加したのは『Utopia Station』という展覧会で、私たちのプランは想像上の国家の中心に位置しました。

 


Top: Meeting conducted by Homeward Bound Community Services at the exhibition “Homeless: The Street and Other Venues,” part of the cycle “If You Lived Here…” at the Dia Art Foundation, New York, 1989. Bottom: Hut constructed by the Mad Housers and other projects at the exhibition “Homeless: The Street and Other Venues,” part of the cycle “If You Lived Here…: at the Dia Art Foundation, New York, 1989. Both: Photo Martha Rosler.

 

ART iT 1989年に『If You Lived Here…』によって最初の一歩を踏み出したのは、何がきっかけとなったのでしょうか。

MR 私にもわかりません。ただそれは徐々に段階を踏んでいって起こったのだと思います。その年、私はDiaで個展をするように依頼されました。ホームレスの問題は、ニューヨークや欧米の工業国において突然、差し迫って目立つようになっていたので、これに関する個展をしようと提案したのです。この時点ではDiaアートセンターが受け入れてくれるとは期待していませんでしたが、彼らは予想を裏切ってくれました。しかし、その後、ニューヨーク以外のあらゆる場所でアーティストがホームレスについてのプロジェクトを行なっていたことに気づき、ホームレス自身に参加してもらうのはどうかと考えました。そして、アーティストだけが引き受けるのではなく、コミュニティグループやホームレスの人々に参加してもらおうと考えたのです。準備を進める1年の間にそうした団体の連絡先を多く得たので、彼らに連絡をして何をするべきか、展覧会空間で何か見せたくないかなどを尋ね、もしなにかプロジェクトを行ないたいのであれば手伝いますと提案したのです。私自身は非常に恥ずかしがりやなのですが、知らない人々に電話をしなければなりませんでした。ホームレスの人々と一緒に仕事をし、共同体や居住の面倒を見る団体に「もしもし、もしよろしければ、美術のプロジェクトに参加しませんか?」と電話をかけました。おそらくこうした行為は最近ではそれほど変わったことではないかもしれませんが、当時は非常に珍しいことだったのです。でも実際、すべてがうまくいきました。そして都市問題の草の根運動に精通しているダン・ウィリーという素晴らしいアシスタントを得ました。

さらに、鑑賞者に対して他者への同情を乞う、リベラル派の哀れみプロジェクトとでも呼べるような展覧会からは距離を置きました。私は住宅供給や都市計画についての疑問をより理解可能な方法で見つめたかったのです。従って3つの展覧会で構成されるプロジェクトにしようと決めました。仮にひとつの展覧会を6ヶ月間やったとしたら、たとえ会期中に内容を変えたとしても、人々は既に一度見た展覧会だといって、再訪することはないだろうと思ったのです。3つの展覧会は、まずはじめに賃借人が奮闘する「Home Front」、次にホームレス問題に焦点を当てた「Homeless: The Street and Other Venues」、最後に建築および都市計画のユートピアプラン「City: Visions and Revisions」と進展し、成功例と失敗例、風刺的な計画も紹介しました。プロジェクトの過程において4つの公開討論を、また、映画の上映やポエトリーリーディングも行いました。結果的にかなり入り組んだプロジェクトになりました。

 

ART iT あなたはレクチャーの中で、主体としてのアーティストについて、そして、都市再生計画が、アーティストが他者の代わりに語ることができるというアイディアを複雑化し、いかに美術を選んできたかについて触れています。それはあなたがDiaのためのプランを作っていたときに考えていたことなのでしょうか。

MR 私は1981年に「In, around and afterthoughts (on documentary photography)」という他者のために話すことの問題についてのエッセイを書きました。私は常々こうした問題に関して、当事者でないアーティストや写真家が多くを得るのに比べ、当事者自身が得るものがあまりにも少ないことから、このようなよくある危険性についてはずっと不愉快に感じていました。あなたがその人たちのためと思って代わりに話しているその人々は「誤訳されていて」、一方であなたは自分自身というたったひとりに焦点をあてたまますべてから取り残されている。だからこそ私は、レクチャーを行なう前に、シンガポールのこの庭のプロジェクトに参加した人たちのリストを読んだのです。それによって、鑑賞者が見ている作品はそうした特定の人々とグループのものであるということを理解してもらうためです。彼らはキャプションにも記載されています。これはヴェネツィアでも起こった問題です。ビエンナーレ事務局は、私たちがふたつのグループの名前、「Oleanna」と「Fleas」にすることを決めたのに、30人以上のコラボレーション作品だと私が明記することを許しませんでした。彼らの名前はカタログに掲載されましたが、私の名前に付随する形です。なので、私たちは彼らの名前をプロジェクトの建築物の脇の壁に書きました。Diaでも同じことがありました。参加者を格下げしようとしたのです。展覧会後に作った書籍の後にアーティストとグループの名前が非常に小さい字で書かれていたので、もうすこし大きくするというたったそれだけのことのために私は戦わなければなりませんでした。

こうした集団のプロジェクトで彼らはいつも同じフレーズをつかいます。「あなたは招待作家だから」。シンガポールではどうやって名前を出すか、そしてより多くの人たちがプロジェクトに来るにつれてどうやって彼らの名前を加えるかを考え出さなければなりませんでした。なぜなら、これも「マーサ・ロスラーによる」プロジェクトだったからです。もし地元の参加による「無名による」プロジェクトと書かれたとしたら私はもっと幸せだったかもしれません。でも運営側の思惑は残るわけです。「あなたがアーティストですから」。私は常々この点については前進するのがどれほど難しいのかについて本当に驚いています。しかし、こうすることによってより多くの人々がより知名度の高い場所で働くことができるようになるのです。

 


Night scene with molehills, toward the Orangerie in the Karlsaue, from Kassel Gardens (from the Perspective of the Mole) (2007), commissioned by Documenta 12, 2007.

 

ART iT 他人のために語ることについての問題は、たとえばより多くの人に影響する出来事についても出てきます。日本の3.11の地震と津波の結果をみるともちろん多くのアーティストがなんらかの形で応えたいと思うだろうことは安易に想像できます。しかしそうした表現は、ある程度の感受性と抑制、そして節度を持って行なわれるべきだとも思います。そうした信用というのはどこから来るのでしょうか。

MR 私は地震について言及することは重要だと思ったので、レクチャーの最初に持ってきました。しかし会話の中にそうした出来事をどのように紹介するかについてのあなたの懸念は分かります。どのように聴き、当事者およびアクティヴィズムや自助組織に関わっている人たちが声をあげるのを助けるか。なぜなら政府の声明は普段、何の信用も生まないからです。マグレブで起きた複数の革命に関連して、ある特徴的な高慢さが見えています。メディアのコメンテーターは、ツイッターがどういうわけか彼らをスパークさせたと主張しているのです。でもソーシャルメディアは単なる道具のひとつです。会話が道具である、というのと同じように。人々が革命を組織したのであり、もちろん、それはもう数年にも渡って行なってきたことなのです。人々は彼らができる限りコミュニケーションをとっていて、非常に重要なのはなんらかの技術的な装置が社会的なムーブメントを創り出したなどと主張したり、解釈したりする権利はないのです。これは人々が動かしたことなのですから。

 


 

 

 

「シンガポール・ビエンナーレにおけるヘルシンキ・ガーデンの提案」参加者および協力者一覧

Susie Lingham and National Institute of Education art education students: Lim Hui Chi & Yashini d/o Reganathan; Nuraniza Binte Jalil; Lee Shi Hua Candice & Noor Faiezah Mohd Jalal; Ng Jingge Jeanne and Huda; Suvitha Prakass & Diana Ghazali; Shi Sarah & Tiayan Sim; Nur Shahidah Binte Mohd Diah; Rachel Subramaniam; Umamageswari; Sheaha Zualzmi; and their students; Shawn Lum with Lucy Davis (School of Art, Design and Media, Nanyang Technological University), (Migrant Voices) with members of Indonesia Family Network (IFN) and Filipino Family Network (FFN): Davy Animas, Rhemz Capanas, Sarialam Daulay, Nurida, Eulenia Prudente, Ria, Tukinah Rogildionti, Parmini Sunardi, Turiyah, Ummairoh; Lucy Davis, Shawn Lum and students at Nanyang Technological University’s Art in Nature & Visual Culture class.

Student Artist Team: Ximena Aristizabal, Sophie Anne Cameron, Chong Kai Fen Bernadette, Han Shengyi, Ong Fang Zheng, Frankie Tee, Teh Shi Wei, Hera; with the collaboration of Tan Shu An Lauren, Wong See Hua, Tan Jing Ting, Gan Li Juan, Clara, Lee Jia Yan Candice, Lio Shi Qi Joanne; and volunteers Erica Denison and Kate Antonich.

With the assistance of Mohamad Azmi Shahbudin at the National Parks Board and Lay Hun Chen and the workforce of Prince’s.

Special thanks to Amanda Heng, Deborah Kelly, Dana Lam, Chen Shian Lim (Archaeology Society), Hazel Lim, Sylvia Lim, Felicia Low, Margaret Tan, Tan Qian Hui, Suzann Victor, May Ee Wong and Stephen Squibb.

 


マーサ・ロスラー インタビュー
自ら語る庭

第11号 地域性

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