アリン・ルンジャン インタビュー

ゴールデン・ティアドロップ:デザートの歴史と世界をつなぐ
インタビュー / クリッティヤー・カーウィーウォン

 


Arin Rungjang, Golden Teardrop (2013), detail, site-specific sculptural installation with wooden construction incorporating wood from Ayutthaya house, iron beams from decommissioned post-World War II factory and 6,000 cast brass pieces, wooden construction: 5 x 5 m; brass sphere: 3 m diameter. Photo Kornkrit Jianpinidnan. All images: Courtesy Arin Rungjang and the Office of Contemporary Art and Culture, Thailand.

 

タイ王国文化省現代美術文化事務局は、第55回ヴェネツィア・ビエンナーレのタイ館代表に、ワシンブリー・スパーニットウォラパートとアリン・ルンジャンの二名を選出。キュレーターにペンワディー・ノッパケット・マーノンとウォラテープ・アッカブータラを迎え、「食物[food]」というテーマに焦点を当て、世界の台所というタイのソフトパワーを推進していく。

アリン・ルンジャンは世界を動かした商品、食品としての砂糖の歴史を絶妙に編み込んだプロジェクトを発表する。味覚の政治学により砂糖の地位を向上し、まさにヴェネツィアが精糖業を導入し、欧州各国の王室、次いで、中産階級へと砂糖を流通させたことでその重要性が増すこととなった。この現象は、旧世界の上流階級の生活へと新世界から天然資源を供給し、初めて労働者の移民を引き起こした。アリンは天然資源とアジア、ヨーロッパ、南米、アフリカ、さらには環太平洋の人々の間の目に見えない繋がりを描き、タイ固有の素材や仏教のモチーフに焦点を当てた作品を制作しがちなタイ現代美術の中で、独特のアプローチを見せている。前世代にあたるリクリット・ティラヴァニ、モンティエン・ブンマー、アピチャッポン・ウィーラセタクンや同世代のプラットヤー・ピントーンらと同じく国際的に活躍できるレベルにあり、アリンの新作もまた、歴史や記憶、小さな物語を参照することで、この世代のほかのアーティスト同様、民族国家や文化的アイデンティティの境界を乗り越え、一方で、戦後、国家によってでっち上げられたタイらしさという単一文化的な思考を脱構築するという兆候が見られる。

歴史の大半は未だに関連したり、連想されたりするどころか、記録さえなされていないことを意識しているからこそ、彼はそこに存在する複数の現実との関係性の中で歴史や記憶について考えている。「Golden Teardrop」(2013)の各作品は、大きな物語と小さな物語の融合を土台として、砂糖の使用や有名なお菓子トーンヨート(別名「golden teardrop」)を出発点に歴史を再考している。このトーンヨートはタイでアユタヤ王朝時代(17世紀)に広まり、日本とベンガルの血を引くポルトガル人のマリア・ギオマール・デ・ピーニャによって伝えられたとされている。彼女はアユタヤ王朝ナーラーイ王時代(1656-1688)のギリシャ人の政府高官コンスタンティン・フォールコンの妻で、このフォールコンはこの時代に植民地化という名のグローバル化を試みている。今回のタイ館で、アリンはこの物語を再構成し、さまざまなメディアを通して語ることで、現王朝へと繋がるシャム王朝の前の王朝、アユタヤ王朝が果たした役割、そして、その王朝がいかに植民地化の影響を受けていたのかに対する理解を鑑賞者に促していく。

下記は、第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ開幕前に、本誌のために行われたクリッティヤー・カーウィーウォンによるアリン・ルンジャンへのインタビューである。

 


 


Arin Rungjang, Golden Teardrop (2013), installation view.

 

クリッティヤー・カーウィーウォン(以下、GG) ヴェネツィア・ビエンナーレのタイ館で発表するプロジェクトの準備はどうですか。そのプロジェクトではどんな問題を扱い、どのように発表しようと考えていますか。

アリン・ルンジャン(以下、AR) 「Golden Teardrop」という映像プロジェクトに取り組んでいるのですが、彫刻的なインスタレーションとともに発表する予定です。彫刻は金色の涙の形をした真ちゅうを約8,000個用いたおよそ5メートル四方の巨大な作品になります。この涙型の真ちゅうは銅線で繋ぎ合わされ、シャンデリアに類似した形をしていて、アユタヤ王朝時代、築二百年の木造建築の梁や、第二次世界大戦後にセメントと鉄の梁の古い工場の鉄を使用しています。

 

GG そのような再利用素材やファウンド・マテリアルを使い、それらが生産された場所と金色の涙型のお菓子トーンヨートの歴史との間に対話を生み出そうとしているのでしょうか。

AR ええ。これらの素材の間にはある言説や弁証法が存在します。真ちゅうのシャンデリアは、直径3メートルほどあり、立ち上がっても、全体の半分辺りまでしか見えませんが、作品の周りを回ることができます。

 

GG ほかにはどんなものがありますか。

AR パビリオンに入り、受付を通り過ぎると、観客はワシンブリーの作品に出会います。私の彫刻は別の部屋の奥の方に位置し、そこに金色の涙型の真ちゅうのシャンデリアがあり、それから、ドアがあり、その左側に映像作品があります。

映像作品ではまず、友人の妻で、現在タイでパン屋を開いているヒサコという名の日本人女性の個人的な記憶を扱っています。彼女はアメリカ合衆国に留学していましたが、出身は広島です。彼女の祖父は原爆投下直後に妹を探して広島中を歩き回り、それが原因でリウマチにかかり、祖母は胸に傷を負っている。曾祖父は茶道の、曾祖母は生け花の師範だったそうです。

次にこの映像作品の主要な部分として15世紀に生きたヘンリー航海王子から始まるものがあります。彼がポルトガルにもたらしたサトウキビを使って、アヴェイロのキリスト教修道院の修道女たちがオヴォーシュ・モーレシュという砂糖菓子を作り、その後、この砂糖菓子が17世紀のタイに伝えられて、トーンヨートが生まれたのです。

ヒサコはこの歴史とは全く関係ないにもかかわらず、歴史の断片が浮かび上がり、それらが互いに結びついていきます。両者を連想づけようとしているわけではなく、ただ同じ机上に並べたいだけです。鑑賞者が作品を見れば、それぞれがそれぞれのやり方で自分と作品とを繋ぎ合わせるでしょう。作品を通して伝えたいことを聞かれますが、作品は多様な解釈に開かれています。断片に過ぎないけれども、鑑賞者は自分で判断して、自分自身の経験に結びつける断片を探していきます。
それ以外にも、壁に貼った写真をアップで捉えた映像があり、例えば、金色の涙型の真ちゅうを制作している労働者を写したものなどがあります。

 

GG 15世紀のアユタヤ王朝時代のポルトガル人村を描いたものを写している写真もありますね。

AR それは実際ナーラーイ王の次のペートラーチャー王時代(1688-1703)のものです。当時のシャム人は、アユタヤ王朝を占有しようとするコンスタンティン・フォールコンに手を貸そうと企んでいると思われるポルトガル人やフランス人を一掃したのです。そのほか、フォールコンの妻マリアがルイ15世へ宛てた借金返済の催促の手紙のイメージ、広島の原爆投下のイメージもあります。

 


Arin Rungjang, Golden Teardrop (2013), installation view.

 

GG アユタヤ王朝とフランスの間には何があったのでしょうか。

AR 1966年のシャム革命でペートラーチャーが即位し、アユタヤ王朝のフランス人を全員追放し、フランスとの国交を断絶したのです。フォールコンは首を切られ、その妻マリアには、1703年にペートラーチャーが息を引き取るまで、宮廷の厨房での労働が課されました。それにも関わらず、彼女は息子の妻とともに、夫フォールコンからの借金を返済するようフランス東インド会社を訴え続け、1717年にフランスの行政裁判所の判決により、生活扶助を受け取る正当性を立証している。また、それ以前にも、1686年に使節チャオプラヤー・コーサーパーンがフランスへと届けたナーラーイ王からルイ14世へ宛てた手紙の下書きをマリアが手助けしています。
この映像作品では、マルコ・ポーロとヴェンツィアについても触れています。なぜなら、ヴェネツィア商人がペルシャ人の製糖法の発明を知り、ヴェネツィアでも製糖所を始めたという記録が残っていて、この技術をポルトガルに持ってきたのがヘンリー航海王子なのです。ポルトガルのアフォンソ王についても述べておきましょう。彼はホアナ王妃の叔父で、後に聖人となり、アヴェイロのキリスト教修道院を設立しました。その修道院では修道衣を作っていて、その製造過程に卵白で修道衣を糊づけるという作業があり、残った卵黄でお菓子を作りだしたのです。

 

GG それはいつ頃のことでしょうか。

AR 1502年には、ポルトガルのマヌエル1世は年間140キロの砂糖をその修道院に送っていたそうです。これらのイメージもインスタレーションの一部になる予定です。タイの歴史では有名なヘンリー航海王子の叔父のイメージもあり、ヴェネツィアの統治下で生まれたギリシャの商人で、冒険家となったフォールコンにも焦点を当てています。

 

GG 複数の断片や物語を連想づけようとしているわけではないと言いましたが、砂糖の存在を基盤として、歴史や現在のさまざまな登場人物により、ヴェネツィアとタイとに繋がりを創り出しているように見えてきます。

AR ニューヨークのレジデンスプログラムでもこのテーマに取り組んでいます。そのときは、奴隷制やアユタヤ王朝とプエルトリコの歴史に焦点を当て、トーンヨート、ボンバダンス、砂糖を扱った映像作品を制作しました。プエルトリコには数多くの製糖工場が建てられ、たくさんの奴隷が働いてたのですが、その頃には砂糖の価格がどんどん下がり、砂糖菓子は世界各地に出回って流行になりました。奴隷はアフリカから連れてこられ、彼らはほとんどコミュニケーションをとれず、彼らには踊りしかなかったのです。ボンバダンスはそうして生まれました。

 

GG そのような関連性なんてほとんど考えつきませんね。人々はそれらが互いにどう関係しているのかを見ていないけれど、これは植民地化の始まりのひとつです。当時は発見の時代で、タイ人の多くはこのような植民地化を関係ないと思っているけど、私たちは最初から巻き込まれていたのです。このような動きから単離していることなど絶対になく、あらゆるものが関連しているのですね。

AR そうです。そのことに気がついて、歴史を書き直そうとするのをやめました。私は歴史家ではありません。権力と交渉できる新しい物語を創出するために歴史の断片を使うのではなく、個人的な記憶に取り組んでいるのです。それはホアナの記憶であり、マヌエルの、マリア・ギオマール・デ・ピーニャの、フォールコンの、それぞれ個人的な記憶で、それらをいっしょにしているだけなのです。

 

GG 小さな物語に関心がある人はわかると思いますが、私もそういうところが胸に響きました。あなたのアプローチは、大きな物語、公的な物語に対して補助的だけれども、バンコクにやってきた日本人女性や工場の労働者といった普通の人々の小さな物語を混ぜ合わせています。主要な登場要素として、砂糖もしくはトーンヨートという砂糖菓子と記憶を使うことで、時間や空間を探求し、歴史をなぞっているかのようです。

AR あの作品には17世紀の日本でキリスト教へと改宗した人々など、最初は予定していなかった登場人物も出てきます。彼らは偶然にもマリアの祖母に関係していて、彼女の祖母は日本でキリスト教が迫害された時代に、キリスト教を信じていたためにベトナムへと国を追われたひとりなのです。日本二十六聖人として知られる長崎で磔の刑にされ、殉教した26人の布教者と改宗者も出てきます。

 


Arin Rungjang, Still from the video Golden Teardrop (2013).

 

GG あなたはタイを拠点に活動しているので、西欧の観客と接する機会は少ないかと思いますが、私がアメリカ合衆国にいたとき、彼らはいつもタイと台湾を混同しており、そういうこともあって、モンティエン・ブンマーやリクリット・ティラヴァニらは文化的アイデンティティの問題から始めていました。ようやく彼らも私たちのことを以前よりも知ってきたので、今こそもっと複雑なことに取り組むべきでしょう。あなたが提示しているのは視覚的なもので、歴史家の語る歴史というより、むしろ知覚体験をもたらす物語を語っていますね。

AR 人々を教育しようというつもりはなく、アーティストとして、彫刻、インスタレーション、映像作品などの視覚芸術や空間を使って鑑賞者にアプローチしています。先の記者会見では、私自身、コンセプチュアルアーティストではないと説明しました。タイにはそのようなアンチテーゼを創り出す共有された知識の総体がありません。

 

GG タイには弁証法的な慣習はないということでしょうか。

AR そのような慣習がないために、アートに対話や弁証法が必要とされていません。実際には10種類ほどのスタイルがあり、コンセプチュアルな実践をしていきたいのであれば、いったん反対側へと移ることが必要とされます。

 

GG それでは、あなたはコンセプチュアルな実践の慣習から距離をとりたいと考えているのですか。「なんでもやりたいことができる」わけで、実際のところ、あなたはポスト・コンセプチュアルアーティストですよね。そこで自分が得るであろうものを心配しているのでしょうか。鑑賞者が作品を理解しないかもしれないとか、自分が物語を語ろうとしないことでうまくいかないと考えているのでしょうか。そうはいっても、物語は存在しているじゃないですか。

AR ニューヨークでプレゼンテーションをしたとき、人々に私がタイではなく、グローバルなアーティストになろうとしていると言われたことが関係している気がします。

この作品は非常に開かれていて、鑑賞者はその構造をひとつの枠組みとして使うことができます。ポルトガル人は作品が自分たちに関係していると感じるでしょうし、ギリシャ人も関係している部分を見つけるでしょうし、日本人もそうだと思います。とはいえ、この作品がそうした地域の人々やタイ人にだけ向けられているわけではありません。それぞれの鑑賞者が自分自身で判断を下すのです。

 

GG このプロジェクトは民族国家や人種も扱っていますよね。私は民族誌的もしくは異なる鑑賞者という点にナショナリズムを見ています。自分自身やアイデンティティ、タイ人アーティストがタイの人々のためだけに制作しなければならないという考え方を脱構築しようとしていますよね。私は植民地時代後のタイを正当化しようとするあなたのやり方が好きです。国籍に関係なく、鑑賞者は理解するだろうとのことですが、「食」のようなテーマは普遍的でまさに基本的なものですが、その歴史という点では、そうした関係性に気がつかないことや、断片的に受け取って理解するのが難しいといったこともあるでしょう。

AR このプロジェクトでは歴史や民族国家を打ち立てる権力機関の別の様相も見せるつもりです。それは私たちが普段目にしているのとは異なる種類のイメージです。私たちはそれについて考えないけれども、もっと考えていくべきです。さまざまな事実がどんどん明らかになっていく現在、私たちの存在そのものに対する不確かさに向き合う機会が増えています。

 


Arin Rungjang, Still from the video Golden Teardrop (2013).

 

GG 「Golden Teardrop」のリサーチにどのくらいの期間を費やしましたか。また、それはどのように進行していきましたか。

AR 「Golden Teardrop」のリサーチは現在も進行中です。最初はデュシタニ・バンコクというホテルのバルコニーで思いつきました。それは母親とほとんど同じ場所に立って、変わりゆく歴史を振り返っているときのことです。その最初のアイディアは、1977年、私が三歳のときに父親に起きた襲撃から来ています。それはドイツでのことで、誤解から生じたものです。私はイデオロギー、歴史、アイディアについて情報を探し、なぜそうした襲撃が起きたのかを歴史的なことも含めて調べたのですが、答えは見つけることはできませんでした。理由などなかったのです。

父親はタイに帰国して間もなく息を引き取りました。母親が彼から聞いたところによれば、ドイツ人は彼のことをフィリピン人と誤解していたのではないかと。フィリピンは第二次世界大戦中にアメリカの基地だったと考えているために、ドイツ人はフィリピン人を憎んでいたのだと。

 

GG その事件がきっかけで、ナショナリズムやレイシズムに困惑したり、問題を抱えたりしましたか。

AR 大衆イデオロギーや民族、政府といったものはなにかが間違っているはずだという考えを抱くようになりました。それはタイという民族国家がその道具として利用するアーティストになることに私が誇りを感じない理由のひとつです。

 

GG しかし、あなたはタイ館に代表として出品しますよね。

AR ええ。とはいえ、私はタイ性を表現しているわけではなく、よりインターナショナルな文脈を扱っています。個人を支配する力や大きな物語を語る力を持たないという事柄を表現しているのです。これはたったひとりやたったひとつの場所から生まれることはありません。

 

GG 政府関係者も観に行くのでしょうか。あなたが交渉する過程で、彼らにあなたのやっていることを伝えたと思いますが、それは反国家的なことだったりしますよね。

AR 彼らは私の扱う情報が正確かどうか、どうやったらわかるのかと質問してきました。彼らには私が情報の精度について話しているのではなく、単純にコンスタンティン・フォールコンの死因について、20個以上もの説が存在しているのだとだけ伝えておきました。ギリシャの歴史にもまた別のフォールコンの物語があります。彼はギリシャの歴史においても非常に重要で、船上の給仕から内務大臣にまで登り詰めたというロマン的なところで有名ですね。

 

GG タイで働いていたということも、彼が有名だということに関係していますか。

AR その通りです。ギリシャ人はタイのことを本当に嫌っています。かつてシャム王国が理由なくギリシャ人を殺害し、それが憎しみの理由となっています。

 

GG この数年間で三つの作品を制作していますが、2012年のシドニー・ビエンナーレの作品についても聞かせてもらえますか。

AR シドニーで発表した作品では、まずベルギーの旧植民地であったルワンダを、次いでオーストラリアを訪れました。

 

GG そこにもポスト植民地主義的な底流があるということですね。

AR 深いところではそうだと思いますが、私はポスト植民地主義の問題を扱っているわけではありません。私が考えているのは、植民地時代の歴史で、これはとてもはっきりとしていて、もしかしたら私の作品は同じ方向を向きすぎているのかもしれないとも思います。

 

GG 直接的に状況に向き合うというより、むしろ物語を見つめているといった第三者みたいでもありますね。

AR 懸念していることはないかとのことですが、そうですね、人々が「タイ人のアーティストであるあなたがなぜこんな作品を作るのですか」と聞いてくることでしょうか。

 


Arin Rungjang, Still from the video Golden Teardrop (2013).

 

GG それはおそらくそういう人々が慣習的な仕方であなたを見ているからでしょう。あなたのアプローチは相互に異なるものを関係づけていて、それはまるであなたの歴史的な経験を共有しているようで、はるかに洗練されたものではないでしょうか。

AR 若い頃、私は憎悪に満ちていたので、そうした強い嫌悪を取り除こうと努めています。強い嫌悪は消えていき、今では人間性や原因不明の理由しかわかりません。あらゆるものは混ざり合っているのです。

「Golden Teardrop」には、涙型の真ちゅうを作る労働者がマンチェスター・ユナイテッドについてタイ東北部イーサーンの方言で話しかけてくる場面があります。行き先のない対話というものがあり、原動力、起きる理由があるのです。

既に話したように、トーンヨートを作る日本人女性とマルコ・ポーロの話は折り重なっています。それは視覚的に美しい。プロダクションチームも非常に優れていました。どちらの話も記憶のように重なり合うでしょう。

 


 

*1 クリッティヤー・カーウィーウォン「Back to the future : Rethinking Thai contemporary art」未刊. シンポジウム「No Countries, Regarding South and Southeast Asia」(クイーンズ美術館, ニューヨーク, 2013年4月18日, 共催:グッゲンハイム美術館, クイーンズ美術館)での発表原稿

*2 フォールコンは英国東インド会社で働いた後、1675年に商人としてシャムを訪れる。わずか数年でタイ語を習得し、ナーラーイ王の下で通訳として働きはじめ、東インド会社での経験により、すぐに王の相談相手となった。妻のマリア・ギオマール・デ・ピーニャは、アユタヤ王朝にトーンヨート(別名:ゴールデン・ティアドロップ)を伝える。

 


 

アリン・ルンジャン|Arin Rungjang
1975年生まれ。バンコク在住。記憶、家族や個人の歴史、移動などに関心を持ち、日常生活空間を調査、解釈することで、慣習化された公/私の境界線の融解を導く作品を映像やインスタレーションを中心にさまざまなメディアで制作している。バンコクのシラパコーン大学にて美術を学ぶ。在学中には交換留学プログラムでパリ国立高等美術学校へ派遣されている。タイを中心に発表を続け、近年では2012年に第18回シドニー・ビエンナーレへの参加のほか、デン・ハーグのWest[ウェスト]での個展をはじめ、欧州での発表の機会も増えている。第55回ヴェネツィア・ビエンナーレではワシンブリー・スパーニットウォラパートとともにタイ館代表に選出されている。


Arin Rungjang: Golden Teardrop (Thai Pavilion at the 55th Venice Biennale) via. West Den Haag

 

クリッティヤー・カーウィーウォン|Gridthiya Gaweewong
1964年チェンライ生まれ。バンコク在住。インディペンデント・キュレーターとして、国内外で多くのプロジェクトを手がけ、タイにおける現代美術の普及に貢献。1996年には非営利の実験的なアートスペース「Project 304」の設立に関わる。現在はジム・トンプソン・アートセンターのアーティスティックディレクターを務める。これまでにバンコク実験映画祭(1997-2007)や『Politics of Fun』(2005, ハウス・オブ・ワールドカルチャーズ, ベルリン)、リクリット・ティラヴァニとともに共同キュレーターを務めた『Saigon Open City』(2006-07, ベトナム)、『Between Utopia and Dystopia』(2011, メキシコ自治大学付属現代美術館, メキシコシティ)、『Primitive』(2011, ジム・トンプソン・アートセンター, バンコク)など、数多くの展覧会や映画祭のキュレーションを手がける。また、日本国内でも東京オペラシティアートギャラリーで開催された『アンダー・コンストラクション:アジア美術の新世代』(2002-03)で共同キュレーターを務めるほか、シンポジウムやキュレーター・ミーティングに参加している。

第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ:インデックス

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