Restaged No. 7 from “Lebanese Rocket Society, Elements for a Monument” (2012), C-print, 100 x 72cm. All Images: Courtesy Joana Hadjithomas & Khalil Joreige.
ムービング・モニュメンツ
インタビュー/アンドリュー・マークル
ART iT 最初に「サーキュレーション(循環、流通)」という考え方に関する質問から始めたいと思います。あなた方はレバノンとフランスの両方にベースを置きながら、映画監督としてプロジェクトを行なうための条件として、「流通」がひとつの手段として必要な国際的な共同制作に従事し、加えて美術作品によって国際展にも参加しています。あなた方はどの程度、制作段階で作品が国際的に広がることをコンセプトとして意識しているのでしょうか。
ハリール・ジョレイジュ(以下、KJ) ジョアナと私が置かれた状況はとても特殊なものです。こうして一緒に制作している状況が、すでにサーキュレーションそのものです。共同制作は単にひとつの場所を共有することではなく、参加するべき場所を共有する場所なのです。そうした共同制作というコンセプトに適切なアイディアを見つけるのはそう単純なことではなく、私自身のアイディアが彼女のアイディアや認識にどれくらい合うかについて理解することでもあります。そこから始まり、サーキュレーションは徐々に育っていくのです。
しかし、我々の作品は常に特定の場所から始まります。それは我々が反応したり、思考したり、作品制作を誘発するような非常に個人的な問題から始まります。たとえば、我々の生活におけるいくつかの出来事だったりします。そしてそこからそうした問題について考え、共有し、発展させていくことで本来の出来事はより大きな何かに広がっていくのです。レクチャーパフォーマンス作品「Aida, sauve-moi [アイーダ、私を助けて]」(2010)のように、映画「A Perfect Day」(2005)の中にある、晩年の夫のイメージを使うことに対する女性の不安を扱った個人的な体験は、ベイルートだけでなくパフォーマンスを行なった日本やその他の国においても共有できる何かに発展しました。
ジョアナ・ハッジトマス(以下、JH) サーキュレーションは重要ではありますが、制作時に実際に考慮しているものではありません。我々はすべてを説明しようとはしていないのです。我々にとってサーキュレーションとは寧ろ出会いのようなものです。もし作品が他者と興味深い出会いをしたとしたら、それは地理的なことは問題ではない、ということです。それは芸術を見るという多様な方法を議論することでしょう。もし我々がみな同じ様な心配事や、興味、ヴィジョンをもっているとしたら、国籍はそれほど関係ないということになります。つまりサーキュレーションはアイディアやコンセプトに関係があるものです。なぜそれについて考えるかというと、我々は出会いがあることを望んでいて、でもそれがどこへ導いて行くのかということが決してわからないからです。
Both: Detail from 180 Seconds of Lasting Images (2006), Lambda photo print on paper, wood, Velcro strip, 408 x 268cm (4500 photograms, 4 x 6cm each).
ART iT しかし、「180 Seconds of Lasting Images」(2006)におけるファウンドイメージの使い方のように、元の素材が深くあなた方の個人的体験に関わるものであっても、あなた方が新たに関わっていく新しい種類のサーキュレーション、それ自体のありかたがあるように思えます。こうした作品の中で発生する、サーキュレーションのレイヤーについてはどう考えているのでしょうか。
KJ 「180 Seconds of Lasting Images」のなかで、我々はまず叔父の持ち物から我々が見つけた、未現像のスーパー8のフィルムを使いました。それは叔父が誘拐される前に撮影したもので、現像に出す間もなく、そのままになっていたものです。我々はまず個人的な歴史から始まり、その後、イメージの力、イメージの感覚、イメージの状態について問うプロセスを経験しました。例えば、どのようにして写真を使ったインスタレーションはスーパー8の映像を見るのと同じ感覚を表現できるのでしょうか。この質問は単に個人的な物語に繋がっているものではありません。これはいくつかのレイヤーを扱っているのです。
多分、あなたは「The Missing in Lebanon」についてあまりご存じないかもしれません。しかし、この作品をまずイメージの問題として関連づけ、それからレバノンの問題として認識し、そして我々の個人的な物語として入り込んでいくことでしょう。そのように最初の入口を通りすぎることで別の入口にたどりつく訳です。
JH 我々がこの映像を見つけたときには、我々は潜像というコンセプトについて何年にもわたり制作をしているころでした。我々が潜像のコンセプトを定義して、そこから出発して制作をしたというようなものではありません。我々はずっと制作を続けていて、急に我々が行っている異なる作品の間に関連があるということを認識したのです。こうした作品はつねに潜像と関連していました。多分、当時内戦がちょうど終了したころで、すべてがまだ一種の熱を持っており、我々の周りには幽霊が存在し、多くのことがまだ未解決のままだった。あたかもすべてが絨毯の下に一掃されて、でもそれらはまだそこにある、といったような状態でした。これこそ我々が見せたかったことです。
こうした作品を作りながら、我々は行方不明の人々についての脚本を書き始めました。ハリールの家族に降り掛かったとても難しい出来事です。彼の叔父は内戦中に誘拐され、決して帰ってくることはありませんでしたが、彼の家族はもう待つのをあきらめる時期かどうかを決めようとしている時でした。その時にその叔父が撮影して未現像だったフィルムを発見したのです。ハリールは彼自身に何週間にもわたり問いかけていました。いったいこの隠れていたフィルムを他者の目に触れされるべきだろうか。それとも自分が隠しておくべきだろうか。それはある意味であなたが尋ねていることと同じような質問です。しかし、我々がそのフィルムの色彩調整をしたとき、真っ白だったフィルムから映像がいくばくか現れたのです。そしてその消えなかったイメージはあまりにも感動的なものでした。我々にはそれが、我々だけのためにとっておくことはできないほど大きなメッセージのように思えたのです。
この作品にはもちろん政治的な観点からも、行方不明の人々、個人的な問題、そしてイメージの問題といったような多くのレイヤーがある、と思いました。イメージとは何か、そしてあなたはそれとどのような関係があるか。それを見せるべきだろうか。イメージというものは将来や過去の約束をどうやって守るのだろうか。
我々はまずそのフィルムに基づいたビデオを作りました。そして「180 Seconds of Lasting Image」のために、そのビデオの部分を取り去り、非常にこわれやすいシングルの合成したイメージに転換したフィルムの全てのフレームを入れることを思いついたのです。我々はすべてのイメージをスキャンし、それらのフレームを全てプリントしてマジックテープに貼り付けました。そうすることで、観客がインスタレーションを見る際に、いつでもそれらのプリントが取れて落ちてしまいそうな印象を持つことができるからです。これはフィルムから出来た新たなイメージを作り出すという意味でも面白いものでしたし、なにか陶器のように壊れやすい性質を持ったという意味でも非常に興味深いものでした。
Top: Installation view of A Carpet, from “Lebanese Rocket Society, Elements for a Monument” (2012), hand-made rug, co-produced by Marseille Provence 2013. Bottom: Detail from Wonder Beirut – Postcards of War (1997), installation of 18 varieties of custom postcards.
ART iT これらの特定のイメージはレバノンの中で流通しているものなのでしょうか。もしそうだとすれば、このように流通する新たなイメージを作るというのはあなた方の動機のひとつなのでしょうか。
KJ 我々が潜像について語るとき、それは実在するけれども見えないものを指しています。別の言葉で言えば、それらを見ることが出来るための条件は、存在しないとも言えます。例えば、想像に関する問題があるとすると、それはなんらかのイメージが立ちはだかりあなたの想像を妨げている可能性がありますが、それについて、あなたは意識をせずに見ているのだと思います。あなたは何か見るべきものがある、と分かっていますが、見る為にはそのことについて知っている必要があります。そこに見ることと信じることとの関係があり、それが映画作品「Je veux voir [私は見たい]」(2008)やインスタレーション作品「Wonder Beirut – Postcards of War」(1997/2012)の中心となっていることです。どのように実際に存在する想像と結びつけるのでしょうか。
我々は現在レバノン・ロケット協会についての新しいプロジェクトに取りかかっています。誰も1960年代にレバノンに宇宙ロケットのプロジェクトの計画があったことを知りませんでした。もちろん、このプロジェクトもレバノンの歴史に残る事実だったにもかかわらず、です。我々はレバノンで計画され、製造され、発射された10のロケットのプロジェクトについて話しています。このロケットプロジェクトは10年間の間、レバノンのトップニュースであり、共有の記憶の印でもあったはずなのに、誰も覚えていないのです。それはどうしても想像できない何かのようです。
同じように、我々の最新作「A Letter Can Always Reach its Destination」(2012)は、インターネットに出回っている詐欺メールを扱ったものです。多くの人がこれらのメールを信じています。例えば、自分が有名な政治的人物の娘や息子だと装って、多額のお金を持っているけれども、それを取り戻すためにいくらかのお金が必要で助けてほしい、といった内容のものです。毎年約2億ドルがこうしたメールによって振り込まれると言われており、非常に有効だということがわかります。こうした詐欺メールは常に政治的に汚職が蔓延する「可能性のある」場所に設定されています。アフリカやロシア、アラブ諸国などです。決してヨーロッパではありえず、なぜならこうしたところでは起こりえないからです。なぜ人々はこんな荒唐無稽な物語を信じてしまうのでしょうか。こうした詐欺師たちは未だに物事の見方において植民地主義的な方法を踏襲したような想像に固執しているのです。
これは映画についての問題でもあります。どのように映画を信じるか信じないのか。例えば「Je veux voir」のような作品における、あなたとイメージの関係についての中心的な質問です。カトリーヌ・ドヌーブをレバノンに連れてくるというアイディアを得たとき、我々は自分たちに問いかけました。どんな人物設定にすれば、彼女はその登場人物がリアルに見える演技ができるだろうか。これは想像と信用性の問題でもあります。どのようなイメージであればあなたは形を与えることができ、信じることができて、ある特殊な文脈のなかに置かれて仕事をするときに信用できるかという問題だと思います。
JH 私もハリールのいう、イメージがそこに存在するという意見に賛成です。存在しないイメージなどではないのです。我々はそれを発見するのではありません。彼が言ったように、そこにはたくさんの記憶があります。しかしどのようにあなたはこうした記憶に関わっていくのか、どうやってそれを関連づけて表現していくのか、どういうタイプの物語を、そうした証言者の記憶とともに書いていくのか。
想像についての議論は非常に重要です。例えば、ポストカードのイメージはレバノンでみることの出来るものです。そしてそれらはベイルートの黄金時代である60年代という我々が保護し、流通させなくてはならない理想のイメージであるために、ある意味、見ることができる以上のものになっています。まず、これらは流通するのに「よい」イメージです。我々が普段やっていることは、現在のイメージをみて、それを切り取り、違う形に転換することです。そこで我々はポストカードのイメージをとり、そこに戦争の跡を挿入し、そうすることでポストカードは「戦争のポストカード」になりました。そしてそれをサーキュレーションに戻したのです。これはまた別の形で、存在するイメージについての仕事になりました。何かを付け加えることによって、別の見方に変化させ、イメージを置き換えたのです。
一方でレバノン・ロケット協会は人々が想像の中に残しておくべきものでしたが、実際はそうではなかったプロジェクトです。私たちはどうしてそれが消えてしまったのかは分かりません。従って、残っているものをとりあえず明らかにしています。
私たちがイメージと共に行なっていることは、個人的でもあり、より共有できるものでもあり、新たな環境に置くことでもあります。パズルのようなものなのです。我々はそれをすべて一緒にして、そこから歴史を作る、なぜなら我々は記憶についてというよりも歴史についての制作をしているからです。
ジョアナ・ハッジトマス&ハリール・ジョレイジュ インタビュー(2)
ジョアナ・ハッジトマス&ハリール・ジョレイジュ インタビュー
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第20回 サーキュレーション