ジョアナ・ハッジトマス&ハリール・ジョレイジュ インタビュー(2)


Still from Je veux voir (2008). Courtesy Joana Hadjithomas & Khalil Joreige.

 

ムービング・モニュメンツ
インタビュー/アンドリュー・マークル

 

ART iT あなた方の映画のなかには、どのように物語を創作しているかということに含まれる繊細さや、その物語が創造的であると同時に破壊的でもあるという考え方への感受性、もしくは考古学にも類似した環境として、壊されることになっている場所からなにかを取り除くというアイディアさえ含まれていると思います。

ジョアナ・ハッジトマス(以下、JH) ハリールと私は、自分たちが信じられるなにか、言うなればこの世界を信じるに足り得る理由を探しています。しかし、一方で物語を信じるための理由を探してもいます。どのようにすれば登場人物を信じられるのでしょうか。またどのようにあるイメージと別のイメージが一緒になって効果を生むと信じられるのでしょうか。イメージを創りだす時には、そうしたことを信じなければなりません。そしてそれはそれほど簡単なことではないのです。俳優に役を与え、そしてあなたが与えた台詞を彼が話すとき、あなたは本当にそれを信じ込まなくてはなりません。あなたがあなた自身の作品の最初の観客なのですから。
我々が現在行なっている制作の仕方、それはつまり単に我々が行なっていることを信じるのに役立つものなのですが、そこにたどり着くまでにはかなり長い時間を要しました。物語は重要ではありますが、あなたが言ったように、それはすべてを支配したり、完全なものではありません。それは現在必ずしも存在しない物事やギャップがあるというひとつの物語なのです。我々が「A Perfect Day[完全なる一日]」(2005)を執筆しているとき、我々はレバノンのような国で心理学や原因と効果を持っている物語さえつくることができるのかを自問しました。ということは、主題として私たちが住んでいる場所から影響をうけたというだけではなく、形式的なアプローチにも影響を受けているのです。
「Ashes[灰]」(2003)や, 「A Perfect Day」そして「Je veux voir[私は見たい]」(2008)はすべて一日の出来事です。そして一日に起こる出来事はゆるやかな展開を生むのです。それが当時、我々がベイルートで感じていたことだったからです。我々は現実、いうなればヒステリックな現実に縛られているように思えました。これはそのことを強調する方法であり、制作の仕方だったのです。あなたは「繊細」という単語を使いましたが、そこには多くの感覚および感情のレイヤーがあります。どちらかというと他者のために場所を創造することなのです。我々の映画の中では、常に他者のための空間があります。我々は観客との生きた繋がりを創りだしたいと思っています。

ハリール・ジョレイジュ(以下、KJ) 先ほどあなたがお話ししていた考古学の例に戻ります。実際、我々は「An Archaeology of our Gaze[注視の考古学]」と呼ぶプロジェクトを行なうことによって実際の制作を始めました。これは我々の初めての大きな展覧会でした。その展覧会はいくつかの写真のインスタレーションを使って、写真家としての我々の注視がベイルートの内戦後のイメージを撮り続けた10年でどのように進化してきたかを見せるものでした。当初から考古学を作ることが、我々の注視やパースペクティブといったものをどう作り上げるかのレイヤーを我々自身に教えてくれることがわかっていたのです。
違う時代を通して、時間の中で構築される場所の定義を与えてくれることを容認してくれるという意味でここでの考古学は非常に面白いものです。それは私をイメージとの関係において、どこかに連れて行ってくれるものなのです。2002年、哲学者のブルーノ・ラトゥールがカールスーエにあるZKMで『Iconoclash: Beyond the Image-Wars in Science, Religion and Art[イコノクラッシュ:科学、宗教と芸術のイメージ戦争を超えて]』というタイトルの展覧会を行ないました。イメージを常に欲するイメージ愛好家と、イメージを壊すイメージ破壊主義者との中間で、イメージに対する別のコンセプトを使おうと試みました。ラトゥールにとっては、イメージを使用することは同時にそのイメージの批評を行なうことなのです。例えば、科学においては、あなたが何かについて、例えば分子や宇宙といったもののように、自分の裸眼で見える範囲を超えたものを研究したい場合に、自分の頭で考えるために、たとえそれが完全に現実のものと同じではないとしても、人工的なイメージを創りだすのです。つまり、その場合、イメージは物事について考え続けることを許容するメディアとしての役割を持っていることになります。ジョアナと私にとってはイメージとは調停の場所でもあり、制作の場所でもあります。したがってイメージについて考え得る方法と楽しみとの関係をあなたはもっていて、それは同時に何か他のものを遮ることもあるのです。

 


Top: Trailer for Je veux voir (2008). Bottom: Trailer for A Perfect Day (2008).

 

JH ある意味、アイディアは常に物語を話すためのものですが、様々な感情的な反応を引き出し得る様々な方法で物語を話すためのものでもあります。「Je veux voir」を制作している時の経験で、2006年のレバノン侵攻期間中あまりにも多くのイメージがテレビに放映されていたために、それらを見て我々はこれらの信じられない—耐えがたいイメージといってもよいかもしれません—を見て考えました。そして、現在、その後、私は何をするべきなのでしょうか。イメージや映画といったものが何をする、何ができるのでしょうか。どのようなイメージなら私は作ることができるのでしょうか。したがって、物語を扱いながら観客が見ているものについて考えるものにする別の方法を見つける必要があるのです。単に「これが、戦争の犠牲者で、これが廃墟なのか。ひどい。でもこれは私や私の人生とは関係ない」と言うようなものではなく。
テレビとは常にイメージと感情的な関係を与えてしまうもので、見ていると巻き込まれながら、同時に距離をとってしまう。つまり見ていても完全には見ている対象と関わりを持つことはありません。なぜなら自分を守ろうとするいくつものフィルターがあり、それがなければテレビを見続けることはできないからです。
「Je veux voir」ではまったく違う経験をつくりださなければなりませんでした。物語において最も重要だったのは、ストーリーが存在してはいるけれども、儚いものだということでした。どの瞬間でも映画は危険になりえました。この映画のなかでは何かに導くものではないが故にどんな時でも危険だったのです。もし私があなたを観客として欲したとして、私が見せているイメージで危険にさらされ、あなた自身も自問し、現実であるかないかはともかくフィクションも、ドキュメンタリーも存在する場所で—それが映画自体が問うているものでもあったのですが—我々は映画を危険にさらさなければなりませんでした。俳優たちはシナリオをもっておらず、何が起こるかもわかっていませんでした。
我々は普段このように制作しています。言うなれば奇妙な即興です。細かい設定をし、状況を作ってから、物事が起こるのを待つのです。例えば、カトリーヌ・ドヌーヴとラビア・ムルエが映画の中で出会う場面で、実際に彼らが会うのはあの時が初めてだったのです。我々も何が起こるかわかりませんでしたし、彼らが一緒になって起こる化学変化がどのようなものかはわかりませんでした。そして、彼らが車に乗り、何が起こるかわからないままに南に向かったとき、我々自身もそのことを知りませんでした。

KJ それはボクサーが試合のために訓練するようなものに近いと思います。皆が準備のために何をするべきか知っているけれども、実際にリングに入ったら何が起こるのかは誰にもわかりません。それに似ています。我々は場所を探すのに何ヶ月も費やしました。我々はある状況においてラビアがある反応するとき、カトリーヌが別の形で反応するだろうということはわかっていました。従って、我々はいくつかの状況を創りだすことを試みました。そして、最終的には全てのイメージを編集し、物語を再構築したのです。しかし、そこに存在し得た映画の危険性は、万が一何もおこらなかったらということだったのです。しかしながら、我々はそのリスクを取りたいと思いましたし、取らなければならないと思っていました。

 


Trailer for The Lebanese Rocket Society (2008).

 

ジョアナ・ハッジトマス&ハリール・ジョレイジュ インタビュー(3)

 

 


ジョアナ・ハッジトマス&ハリール・ジョレイジュ インタビュー
ムービング・モニュメンツ

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第20回 サーキュレーション

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