ダヤニータ・シン インタビュー (2)


From the series “Dream Villa” (2010). All images: © and courtesy Dayanita Singh.

 

円環するイメージの海を航る
インタビュー/アンドリュー・マークル

 

II.

 

ART iT ここまでは、破綻という観点における写真、また、誰が写真を見るのか、誰に写真を見せるのかによって、写真の重要性が異なることについて話してきました。ひとつ、気がついたことがあるのですが、あなたのカラー写真は、写真が唯一絶対の指標であるということに抗い、過剰に指し示しているのではないかということです。例えば、都市の夜景を撮った写真がありますが、そこにはマンションの各部屋の光が写っていて、鑑賞者はそれらの光が個々の生活を現していることに向き合います。とりわけ、フォトジャーナリスティックなキャプションを付けないので、唯一どこかに焦点が当てられるということはありません。また、デイライトフィルムを夜間撮影に用いることで、たとえそれが単なる一本の木のイメージであっても、色彩が増幅し、輪郭はぼやけ、もはやただの木のイメージではなくなっている。しかし、こうした過剰な指標がある感覚は、初期作品の「Myself Mona’s Ahmed」(2001)のときに既に現れていたように思われます。その作品では、モナと娘のアイーシャとの経験を捉えていて、彼女が去勢した男性だという社会的に既に弱かった立場が、子どもがいなくなり、バランスを失ってしまう。写真集全体を通し、モナは複数のアイデンティティを抱えていますね。

DS 「Myself Mona’s Ahmed」はまさに、独りとはどういうことなのかに関する作品でした。この本がジェンダーや去勢男性などの観点からしか見られていないのは残念なことです。この本は第一に疎外を扱っている話ですので、その意味では失敗していますね。最初に、去勢男性の世界に加わることで疎外され、そこからも放り出され、落ちこぼれの中の落ちこぼれになるのです。それについて、孤独に関する話し合いが生まれればと期待していましたが、まったく起こりませんでした。いつでも好奇心を誘う要素こそが支配していってしまうのでしょう。

誰かの好奇心を満たすための作品を作りたくないですし、この好奇心という言葉はわたしが現在、写真を編集する上でのキーワードになっていますね。ある状況がどのようなものなのか伝えようとは思いません。だからこそ、夜はわたしにとってのメディウムなのです。夜はすべての文脈を取り除いてくれます。そして、デイライトフィルムを使うことで、日頃見ている夜とは異なるものとして見えてくるのです。鑑賞者を混乱させたいと考えています。この本のシークエンスが心地良く感じられるとするならば、少しひっくり返してやりたいですね。

 




Both: Spread from Myself Mona Ahmed (Scalo, 2001), hardcover, 176 pages, 20.3 x 17.8 cm.

 

ART iT そうした感性というのは、あなたの本の形式と関係していますか。

DS そうですね。「Mona」は新しい形式を必要としていますね。美しい本なのですが、単純にジェンダーを扱った話になってしまう。そうしてしまうことは簡単で、市場性も高いでしょう。誰もが本来の“ヒジュラ”について聞きたがるでしょう。個人的には“ヒジュラ”という言葉が嫌いですし、今、“ヒジュラ”という言葉を発したことさえ信じたくありません。それは売春婦や男娼という言葉と同じことです。このような性に関する話は尽きることがないので、一生、彼/彼女だけを撮影し続けるということも可能でしょう。「Mona」は実際のところ失敗しましたね。現在、新たなバージョンを実験的にプロジェクションで作っています。プロジェクションはヴェネツィアでの「Dream Villa Slideshow」(2010)や、ヴィンタートゥール写真美術館(スイス)での展覧会『Where Three Dreams Cross』で既に試みています。今では、プリントを作るためにイメージをスキャンしなければなりません。そうなるとプリントを作る理由はなんなのだろうかと。そういうこともあってプロジェクションに興味を持っているのです。

もしくは、モナの話はテキストだけであるべきだったかもしれません。写真は必要だったのだろうか、と考えることがあります。写真は6枚だけでよかったかもしれないし、彼女といっしょに過ごせば、彼女自身の話が写真よりもよっぽど重要なのだと気がつくはずです。ちょうど先週、デリーで、100本のフィルムとその現像に対する、モナの名前を冠した助成を若手写真家に与えました。モナは体調が悪く、授賞式には出席できませんでしたが、電話を通して、その写真家に美しいメッセージを贈ってくれました。「過ぎ去らないものはない。幼少期も、青春時代も。しかし、写真の中にわたしは生き続ける。写真を通して、アラーはあなたを導いてくれるでしょう。モナ・アハメド」。わたしは観客に向けてそれを代読しました。彼女は非常に賢く、写真はその賢さに害を及ぼすのではないかと思うのです。彼女が語るイギリスの愛やヒンドゥーの愛は、まるまる一章を割いて書かれるものでしょう。彼女は賢かったのですが、わたしは彼女に対して、それを書いてみてはどうだろうかと言えませんでした。なぜだか、モナの話はまだそのあるべき形式に辿り着いていないのではないかと感じています。

 




Top: Spread from Sent a Letter (Steidl, 2008), 7 volumes, softcover, housed in a handmade cloth box, 126 pages, 9 x 15 cm each. Below: Cover from Sent a Letter (Steidl, 2008)

 

ART iT もし、本のあるべき形式を探求するという側面が仮にあるとすれば、撮影し、編集する際にもっと計算しなくてはならないと思いますか。

DS いいえ。そうした計算は非常に危険です。もちろん、他者の言葉や読んでいる本、聴いている音楽に耳を貸さなければいけませんが、撮影は直感的でなければいけないと感じています。「Go Away Closer」(2007)は、過去の全作品を再編集して制作したのですが、編集中にそれに気付き、過去を振り返って、新しい作品の中にそうした感情を感じ取りました。「House of Love」では、それは夜の方向感覚を失うような状態。なにか特別なものを探そうとするのではなく、すべては収まるべきところに収まるのです。

これは受け手にもいえることですね。「Sent a Letter」(2008)は、誰のために作るのかによって本が変わってくるのだという好例でしょう。ただ写真を撮りに東京へ行くのと、東京での経験から誰かのために本を作りたいと考えた上で行くのではまったく違うものになるでしょう。その時点では写真を連想するような言葉はまったく頭にありませんけれども。

わたしにとって、作品全体で撮影が占める割合は10%もしくはそれよりも少なく、それ以外の時間を費やす段階へといたる形式と言えます。写真を制作するところから始まりますが、しばらく時間をおいてから編集を始めます。写真をそれぞれ異なる集合に分け、シークエンスを作っていきます。それから速度、音楽の質において不可欠な速度も非常に重要です。

そして、発表形式について考えます。プロジェクションにすべきか、写真集にすべきか。はたまた、箱から一枚一枚取り出して、手を拭いて捨てるようなナプキンにプリントするべきかと。

 




Top: Installation view of Sent a Letter on display at Satramdas Dhalamal Jewellers, Park Street, Calcutta (2008- ). Bottom: Installation view of the exhibition “Ladies of Calcutta,” Bose Pacia Gallery, Calcutta, 2008.

 

ART iT 受け手のこと、ナプキンの使い捨て写真集というアイディア。「Sent a Letter」以外にも、2008年にコルカタのBose Pacia galleryで行なわれたポートレートの展覧会『Ladies of Calcutta』では、展示している写真を被写体となった人々に自宅へと持って帰ってもらっています。あなたの制作における、こうした側面にも非常に興味があります。

DS 撮影した人には必ずプリントを渡しています。『Ladies of Calcutta』では、1996年から98年の間に撮影したポートレートを制作し、彼らにプリントをあげました。最終的なプリントをいっしょに選んでいましたし、その頃はプリントの価値のことなど頭にありませんでした。自分で最終的に選んだ20枚くらいのプリントを持っている人もいますよ。しかし、彼らは恥ずかしがり屋なので、おそらく自宅の壁にプリントを掛けることはまったくなかったと思います。そこで、展覧会では、新しいプリントを分厚いフレームを使って展示し、被写体となった人々にそのままあげることにしました。すべて整えておいたので、彼らはそれを壁に掛けるだけで、フレームがあるのでマットの必要もなく、梱包せずに渡したので、そのまま放っておくこともできませんよね。今ではコルカタにある66の家の壁に写真が掛けられています。

同時期の2008年1月に、コルカタのパーク・ストリートにあるSatram Das宝石店のショーウィンドウに「Sent a Letter」を展示しました。現在でもそこに展示されています。資生堂のショーウィンドウで3年間展覧会を行なっているようなものですね。仮に、そこを通る1%の人々が見てくれるだけで、既にどんな美術館よりもたくさんの来客数となるでしょう。

写真のこのような側面が好きですね。写真の拡散とでもいいましょうか。いったいどれだけの人があるイメージを見て、それについて考えるのだろうかという点で、フォトジャーナリストというものにも関わってきます。わたしにとって重要なのは、拡散と贈与です。わたしは自分の本を愛していますし、たとえ購入するのであっても、それはわたしからその人への贈り物だと感じています。本を制作し、ひとびとに贈り物を与えてきたと感じているので、本を買ってほしいと思っているのですが、そこに十分に重要視されていないように感じています。そこで、現在は、台車のような滑車付きの本棚を自分でデザインしています。三段になっている本棚の上段には「Sent a Letter」、中段には「House of Love」、そして一番下の段にはスニル・キルナニやアヴィーク・センのエッセイが収録された大判の「Dayanita Singh」(2010)を入れようと考えています。ゴアでステンレス製の本棚を作り、デリーで木製の本棚、東京でもひとつ作っています。東京なら質の高い滑車が手に入れられそうです。そうして作った本棚は、さまざまなイベントやオープニングに持っていきます。本それ自体が自分の作品なのだとずっと考えています。

 


Spread from Privacy (Steidl, 2004), clothbound hardcover, dust jacket, 128 pages, 90 tritone plates, 20 x 24 cm.

 

ART iT しかし、そのような贈り物の拡散は非常に両義的でもありますよね。例えば、「Privacy」(2004)のように。そこに写されている人々の社会的地位が、カメラへと投影されていて、非常に興味深い。それにより、物質主義への賛歌とブルジョア趣味への批評という両者を作品が含んでいるように見えてきます。しかし、親密性と得られたイメージが見せているものの間には矛盾が存在するので、どちらか一方を選ぶのは不可能なことですよね。

DS その通りですね。「Empty Spaces」以来、ほかの人とともに仕事をすることに対してとても用心深くなりました。

その一連の中に「Privacy」があったのです。それは当時、フォトジャーナリズムから離れる唯一の方法でした。少なくともさまざまな家族の写真を撮ることができ、彼らは自分の家にその写真を掛けることは出来たでしょう。なぜなら、各家族以外は興味を持つこともないと考えていたので、出版しようなどとは思いませんでした。そのころ、どういうわけか、ロバート・フランクがこのことを知り、莫大な助成金を贈ってくれました。そうでなければ、撮影して、プリントをあげるには、あまりにも制作費がかかってしまいます。
自身の作品を批評するとすれば、本当に形になってきたのは「Go Away Closer」からで、それ以外のものは、そこへ至る準備だったと言うことも可能でしょう。ある意味では、それまでは学生時代の作品を発表していたとも。「Zakir Hussain」(1986)、「Myself Mona Ahmed」、「Privacy」、「Chairs」(2005)を経て、「Go Away Closer」では、なにかが確かに開いたのです。

現在、「House of Love」にも似たような要素を感じています。しかし、それはまた別のなにかになるのでしょうし、そのことで頭がおかしくなってしまうかもしれません。それはまるで、山を転がり下りていくときに、どこにぶつかるのかまったくわからないことのようです。「Zakir」直後より、物語はわたしの言語の一部となっているのだと思いますが、「House of Live」からどこへ向かっていくのかわかりません。実際のところ、それを知りたいとは思いませんが。やめる日がくればわかるでしょうし、そしたら、ガーデニングでもなんでも始めればいいでしょう。最終的な成果に興味があるわけでないのです。180度転換してみる。転倒や転倒後に来るものに興味があるのです。それは最終的にわたしを写真から連れ出していくかもしれません。今も撮影していますが、どういうわけか、写真から逃走してもいるのです。

 




Both: Spread from Go Away Closer (Steidl, 2007), softcover, 32 pages, 31 tritone plates, 16 x 20 cm.

 

ART iT 「Go Away Closer」というタイトルそれ自体も矛盾していますね。

DS それが愛でしょう。親子の間にはそうしたことが起こりませんか。両親が子どもを愛しているのと同様に、子どもから離れられたらと望んだりもする。でも、子どもがいないなんて想像できない。一方、子どもも両親を愛していると同時にいっしょにいることに耐えられなくなったりもする。わたしにとって、写真はそういうものなのです。なにかをしっかり掴もうとして、その過程でそれを押しやってしまう。いかなる場合も、人生は既になにかが終わり、それを手放している。このような矛盾がわたしには重要なのです。もし仮にわたし自身の人生に関する作品を作らなければならないとすれば、「Adventures of a Photographer」が最終的に、「Go Away Closer」と呼ばれることになるでしょう。

 

ダヤニータ・シン インタビュー (1)

 

 


 

ダヤニータ・シン インタビュー
円環するイメージの海を航る

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第16号 記憶

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