椹木野衣 美術と時評90:砂守勝巳 – 風景が黙示する(2)

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砂守勝巳『カマ・ティダ 大阪西成』(1989年)より All images: © Katsumi Sunamori Photography Office

 

承前)では、砂守勝巳とはいったい何者なのか? このことについて詳細に追っていくとそれだけで一冊の本が書けてしまうほど、ことは複雑である。ここでは最小限に留め、要約的に紹介しつつ論へと広げていきたい。

砂守は、フィリピン人の父と奄美大島出身の母のもと、1951年に生まれた。ともに仕事を求めて故郷を離れ、沖縄本島で出会ったのがきっかけだった。フィリピンは第二次世界大戦中、日本によって統治され、戦後は一転してアメリカの支配するところとなった。他方、奄美大島も戦後は日本から切り離され、アメリカの統治下に入ったものの、沖縄のような軍事拠点の対象となることもなく、そのため朝鮮戦争後の「特需」にあずかることができず、多くの島民が困窮し、生きる糧を求めて基地の島、沖縄へと渡っていった。父、サベロンと母、和子のふたりは、このような支配と統治の主体がめまぐるしく反転し、自分の帰属が二転三転する時代の奔流のなかで出会った。だが、出会いからまもなく、朝鮮戦争は沖縄をめぐる状況をも一変させた。軍事拠点としての基地が沖縄に定着するにしたがい、米軍は雇用を沖縄の現地人から賄うようになった。その結果、軍属として沖縄に滞在していたサベロンは失職し、すでに生まれていた砂守とともに和子の故郷、奄美大島に移ることになる。だが、軍属を離れたサベロンに奄美大島での仕事はなく、砂守が8歳のとき、フィリピンへと帰国、いつしか音信不通となってしまう。このとき、失われた父への慕情の念が砂守の生涯を決定したと言って過言ではない。他方、家計を支えたサベロンを失った母の和子は極貧を極め、砂守が15歳のとき突然、病死してしまう。

親戚の伝手で自活のため大阪に出ていた砂守は、これを機にますます父との再会を熱望するようになる。父の名にちなんだリングネーム「サベロン砂守」を掲げ、砂守は大阪のジム、神林拳闘会からプロボクサーとしてデビューする。この名でチャンピオンになれば、父がそれをどこかで知り、もう一度会えるのではないかと考えたのだ。だが、順調な成績を残し、いよいよ機を得た西日本新人王決定戦の日、砂守は悩んだすえボクシングをやめてしまう。対戦相手が棄権し、戦わずして勝つことが決まっていたことへの気持ちのしこり、人を殴って相手の肉体を壊すことで栄誉を奪う心の葛藤、さらには東日本から勝ち上がってきた強敵に自分が通用するかどうかの不安などが入り混じった複雑な気持ちの表れだった。

ボクサーから一転、砂守はカメラが好きだった父の想い出に惹かれてか、大阪の現像所で働くようになり、やがて昼はカメラの修理工場、夜はキャバレーで働きながら学費を稼ぎ、大阪写真専門学校(現・ビジュアルアーツ専門学校大阪)へ通って技術を習得し、卒業後はフリーランスのカメラマンとして働き始める。一年で辞めた広告代理店への勤務のあと、被写体としての砂守の関心を引いたのは、縁あって訪ねた広島の原爆スラムだった。そして、日本で被爆してなお、なんの療養的な補償も与えられることなく、バラックに住んで苦しみに耐える朝鮮人被爆者たちの存在を知り、その姿を写真に撮るようになっていく。砂守はこれらの撮影をきっかけに、朝鮮人被爆者だけでなく、健康を害して仕事を失った多くの被爆者が広島を離れて大阪の釜ヶ崎へと流れ着き、その日暮らしの肉体労働(日雇い)に従事していることを知る。しかし、砂守は彼らをすぐに撮ることはしなかった。その頃、すでに釜ヶ崎は社会的告発の場として多くのマスコミ、カメラマンたちが関心を寄せる場になっていた。だが、砂守は彼らがそうしたような潜入的な隠し撮りや、被写体から報道的に適度な距離を置く撮影をよしとしなかった。そうではなく、みずから釜ヶ崎に移り住み、彼らとともに暮らし、飲み食いや喜怒哀楽を共にすることのほうを優先した。また、釜ヶ崎が位置する西成区の隣の大正区には沖縄から移住した多くの者らが暮らしていることも知った。釜ヶ崎で砂守は広島を経てもう一度、沖縄でのかつての漂う自分と再会したのだ。結果的に砂守が釜ヶ崎に通うかたちで写真を撮って世に出すのは、もっとずっとあとのことである。1979年に釜ヶ崎を出るまで、現地での暮らしは1年3ヶ月に及んでいた。

 


砂守勝巳『カマ・ティダ 大阪西成』(1989年)より

 

こうして発表に至った釜ヶ崎の写真で、砂守は初めて写真家として名を上げる。当時は珍しいカラー写真で釜ヶ崎を捉えた連作「大阪流転 1978–1983」で1984年、砂守は『月刊プレイボーイ』(集英社)誌上、第4回ドキュメント・ファイル賞・奨励賞を受賞する。そしてこれが、現在にまで至る砂守の代表作のひとつといってよい写文集『カマ・ティダ 大阪西成』(IPC、1989年)へと結実する。この「カマ・ティダ」という一聴しただけでは意味がつかめないことばに砂守は相当にこだわったらしい。ここからは砂守の長女で晩年は助手を務め、砂守が他界してからは残された写真や資料の整理や管理、論考を独自に進めてきた砂守かずら氏(以下、敬称略)による論文を参照しながら、私なりの批評を交えて考察していくことにする。たとえば『カマ・ティダ』で真っ先に気になるのは、なんといってもそのタイトルである。論文でも言及される砂守かずらによるIPCの元編集長、中川右介への聞き取りによると、中川が「『カマ・ティダ』という題名だとなんのことだか意味がわからないと伝えると、砂守は『カマ・ティダ』じゃないといやだとゆずらなかったという」のだ。なぜ、砂守はこの言葉にそこまでこだわったのだろう。

すぐに気がつくのは「カマ」が釜ヶ崎を示すことだ。他方、「ティダ」(ティーダ)は教えられなければなかなかわからない。これは沖縄の方言で「太陽」を意味する。そうすると「カマ・ティダ」とはいわば「釜ヶ崎の太陽」の意となる。その真意について故人に改めて確かめることは残念ながらできないが、社会の底辺でみずから若くして苦しみ、かれらと暮らしを共にしてきた砂守にとって、太陽だけが貧富や身分の区別なく、万人に向けて等しく降り注ぐ希望の光に見えていたのではないか。たとえば砂守かずらは、その論文のなかで次のような印象的な一節を記している。

砂守の“釜ヶ崎”の最初の1枚は、早朝の路上で野良犬同士が交尾している写真から始まる。外側からの視線を自らも含め“野良犬のような存在”とし、釜ヶ崎の入り口として象徴づけている。夜の間冷え切った空気が日の出とともに少しずつあたたまり始めると、太陽が隅々までを照らし、人々の生活が始まる。
(砂守かずら「写真家砂守勝巳が見つめた釜ヶ崎の太陽」より、下線筆者、括弧内注記省略)

 


砂守勝巳『カマ・ティダ 大阪西成』(1989年)より

 

つまり、釜ヶ崎の日雇い労務者たちにとっては人工の照明ではなく(かれらのなかには路上で一夜を明かす者も少なくない)自然の太陽こそが一日の訪れを知らせ、それと同時に命を維持するための活動が始まる。言い換えればふだんは文明の力で見えにくくなっている私たちの社会で、太陽が命の源泉、生きることの根源であることがひどくはっきりする場所が釜ヶ崎なのだ。先に例で出された交尾する野犬の写真も、二匹とも背後から昇る太陽の光を浴び、まだ冷えた空気へ吐き出す息は白く、シルエットは暗く細部ははっきりとしない。ここでは交尾する犬というよりも、その向こうで一日の訪れを告げる太陽が隠れた主題となっているのではないか。というのも、砂守は未発表の文章のなかで「カマは〈釜ヶ崎〉の略称であり、ティダは、この町に奄美や沖縄出身の人たちがたくさんいたからだ。私は彼らに、レンズを通して、せめて『太陽の光』をあたえたかったのである。なんらかの形で光明を見いだして欲しかったのである」と綴っているからだ(砂守かずら、同前論文における「Nさんへの手紙」引用部より、下線筆者)。

その太陽を光源に釜ヶ崎をカラー写真で彩り豊かに(色彩が氾濫する南島のように?)撮影する――そのとき砂守の脳裏に先行する大きな写真家、東松照明が沖縄から東南アジアにまで至る南島の姿を鮮やかな光で捉えた『太陽の鉛筆』(別冊『カメラ毎日』、1975年)があったかは定かでない。けれども、日本という国家・領土の範疇では捉えきることができない、沖縄の島々からフィリピンを含む東南アジアの島々に至る脱領域的なひと綴りのあざやかな世界を、境界のない海を媒介に一体の連続性のもと捉えた東松の『太陽の鉛筆』は、それを目にしていたとしたら、砂守に強烈なインパクトを与えたに違いない。実際、砂守はかねてから目の前に広がる大海原が、失われた父、サベロンと自分の居場所をつなぐわずかながらの希望の風景として見えていたと述懐している。それを東松は「太陽」という普遍の光=鉛筆(写真術を発明したひとり、タルボットの『自然の鉛筆』に由来する)で捉え、高らかに謳った。『太陽の鉛筆』は、沖縄をはじめとする南島をカラー写真の連作として撮影した点でも先駆的な試みだった。それは釜ヶ崎にうごめく命を「太陽の鉛筆」(東松)で、ゆえにモノクロ写真によるリアリズムを優先した社会的告発ではなく、様々な来歴の生命が交わり、横溢する路上を捉えるため、カラー写真で撮るという砂守の試みに、大きな触発を与えたのではなかったか。そう思うと、なぜそこまで砂守がこの自著の名を「カマ・ティダ(釜ヶ崎の太陽)」と呼ぶことに執着したか、わずかながら理解できる気がする。

もうひとつ、写真家としての砂守について語るとき、その解釈の範囲を著しく広げている来歴が別にある。砂守が釜ヶ崎の連作で写真家として初めて名を上げ世に出たちょうどその頃から、公私を問わないゴシップ・スキャンダル写真で一世を風靡した写真週刊誌が続々と大手出版社から創刊される。事実、砂守も講談社『FRIDAY』や光文社『FLASH』に写真を提供するカメラマンとして多くの「成果」を残している。当時、過熱するこれらの写真週刊誌のなかにあってなお、ひときわ大きな衝撃をもって迎えられた事件の現場写真に、悪徳商法の詐欺事件で総額にして2000億円超、数万人の被害者を出した豊田商事の会長、永野一男が、報道陣のカメラが詰め掛けるなか、こもる部屋に通路から二人の男に窓を割って侵入され、公衆の環視のなか刺殺されるに至った場面がある。そのうちもっとも広く流布した数カットが、まさか砂守の手によるものであったことを今回、私は初めて知った。いったい、釜ヶ崎の太陽を生きる希望の光=太陽の鉛筆に見立てていた砂守と、社会の暗部を容赦なく暴き立て、スキャンダル・ゴシップを狙う侵入者としてのカメラマンが、砂守のなかでいったいどのように共存していたのだろう。

 


砂守撮影による豊田商事会長刺殺事件の写真(1985年)。会長自宅に詰め掛けた報道陣の目の前で男2人が窓ガラスを割り侵入、騒然となる現場で砂守は隣接ビルに駆け登り、その様子をとらえた。このあと男たちが窓から出てきた際の写真が『FRIDAY』1985年7月5日号に掲載される。

 


さらに砂守は現場マンション側に跳び移り、会長が絶命している室内を窓から撮影。その写真は上述誌を通して世に衝撃を与えた。当時のフィルムには前後に上のようなショットもあり、切迫した現場での砂守の動きを想像させる。「ノーファインダー。何度もシャッターをきった」(砂守勝巳『スキャンダルはお好き?』、毎日新聞社、1999年)。

 

このことについて考えるうえで、砂守がボクシングをやめる際に抱えていた心の葛藤がひとつの伏線になるように思われる。幼い頃から喧嘩が嫌いで、誰に対しても優しかったという砂守が、プロボクサーとして相手を殴り、敵の肉体を破壊することで成果を得るという容赦のない現実を受け入れられたのは、サベロン砂守という父の名をもらった「別人格」と、その父に再会するための手段としての「格闘」という割り切りが必要であったのは確かだろう。だが、それだけではボクシングは結果を得るための手段であって、自己に根ざした目的ではありえない。

興味深いのは、砂守がいつの頃からかボクシングを自己表現の一種としてみなすようになっていたという事実だ。やはり砂守かずらによって保存されている砂守の遺稿のひとつ、「後世花」(未発表、執筆年不詳)には、以下のような文言が記されているという。

ボクシングは単純にながめるならば、スリリングな肉体の壊し合いである。けれども、ボクサーの胸のうちはそうではない修練した高度な技術を駆使して、相手に挑むのだ。いかに相手のパンチをもらわず、自分のブローを、牙をむいて襲ってくる敵に叩き込むかだ。それはひとつの技であり、洗練されれば〈美〉となってリングのなかで花ひらく華麗な〈表現〉として、いつまでもファンの脳裏にきざみつけられることになる。喧嘩の体験すらなかった私がボクシングの世界にすなおに身を投じることができたのも、あるいはトレーニングをつめばそれができるのだと錯覚したせいかもしれない。〈美〉は可能だと、〈表現〉は可能だと。(砂守かずら、同前論文より、下線筆者)

ここに出てくる〈美〉や〈表現〉を、格闘技としてのボクシングからスキャンダルを追うカメラマンに置き換えれば、それはそのまま、写真週刊誌を舞台に、世間が非難するスクープ狙いの被写体の「プライバシーの破壊」などではなく、華麗な写真術の技の駆使によって見る者の記憶に長く残る(実際、豊田商事会長が刺殺された場面は、私のなかで今なお強烈な印象として残っている)場面を切り取ろうとする、ゴシップではなく、美と表現を探求するひとりの写真家の姿が見えてくる。実際、砂守による当時の現場への直撃の仕方は迅速、かつ判断が的確で、侵入者としての優れた技を備え、余人では到底真似のできないプロボクサーのそれを思わせる。ふたたび砂守かずらの論文から、別の事件(現役教師による女子大生への強姦強盗未遂)をめぐる写真にふれた記述を引用する。

砂守は署内に無断で侵入し、撮影対象(ターゲット)が送検から所轄署の須磨署に戻り、外にいる報道陣から逃れ気が緩む瞬間を狙い、出会い頭に撮影した。至近距離でストロボの光を浴びせられ、刑事は驚き左手を上げ犯人を隠そうとしている。取り調べに疲弊している犯人の腰紐と手錠が繋がった手は、所在無げに中途半端な位置で動きが止まっている。本来なら顔を隠したいところだがあいにく紐の長さが足りない。目は虚ろにうつむいている。突然の撮影らしく、斜めに撮られた画角と背景のブレがスピード感を増し、咄嗟の撮影である臨場感を醸している。(砂守かずら「雲仙・普賢岳災害写真から読み解く砂守勝巳のリアリズム」より、改行部分省略、下線筆者)。

これはもう、リング上のボクサーが相手に決定的なダメージを与えるため、瞬時にして状況を判断し、繰り出したパンチが敵の急所を直撃し、ノックダウンの寸前でかろうじて立っている描写として読んで、まったく不自然ではない。実際、砂守によるかつてのボクサーとしての肉体の修練と技の洗練は、被写体の現場にいち早く駆けつけ、情報の錯綜を縫って事態の核心部に正確に降り立ち、何重にも敷かれた防備をかいくぐって決定的なカットを手にする格闘者=カメラマンとしての能力を発揮するのに、おおいに役立ったことだろう。そして同時に砂守は、そこにみずからの写真家としての〈美〉と〈表現〉を、おそらくは見ていた――ゴシップを追うことでもなお「〈美〉は可能だと、〈表現〉は可能だと」。

だが、砂守が結局はボクシングを拒み、ボクサーとしての肉体の壊し合いを〈美〉であり〈表現〉であるとは見なしきれず、「あるいはトレーニングをつめばそれができるのだと錯覚した」と振り返っているように、スキャンダラスなゴシップ・カメラマンに徹し、そこに「〈美〉は可能だと、〈表現〉は可能だと」とも、同様に思い切ることができなかった。言い換えれば、だからこそ砂守にはそれらの突撃写真を撮ったあとで、もう一度釜ヶ崎の連作を、今度は「大阪流転」ではなく「カマ・ティダ」として、言い換えればあてのない流転ではなく、希望の太陽として発表し直す必要があったのではないか。そうして砂守は、『カマ・ティダ』の刊行を契機に、世間でも誰かのためでもない、純粋に自分のための写真(作品)を撮り始めるのである。

 


砂守勝巳『漂う島とまる水』(1995)より 名瀬湾全景

 

その最大の成果が、のちに写真集『漂う島 とまる水』(クレオ、1995年)へと結実する。第15回土門拳賞と第46回日本写真協会新人賞を同時受賞することになる本作で砂守は、沖縄本島、奄美大島、マニラの三つの故郷に引き裂かれつつ、両親も家族もそのなかで離散していった群島をもう一度、過去から振り返りつつ距離を置き、同時に連携させながらイメージを作り上げていく手法を見いだす。その原型となる同名の写真展を砂守は1993年、銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロンで開いている。

 


砂守勝巳『漂う島とまる水』(1995)より 再会した父

 

この『漂う島 とまる水』は、ある時、自分の妹だと名乗る者から砂守のもとに手紙が届き、それをきっかけにマニラを訪ね、とうとう実父サベロンに出会うまでの劇的な物語を潜伏的にはらんでいる。その意味では、ボクサーからカメラマンへと「漂う」砂守を突き動かしていた憧憬がついにかなった、生涯でも決定的な場面を収める。だが、いつか海の彼方から成功した富を携えて戻ってきてくれると密かに待望していた父と、それはあまりにもかけ離れた姿だった。

だが、結果的に今日に至るまで砂守の代表作として欠かせない地位を占めているこの写真集は、他方で、数奇な命運に苛まれた砂守勝巳という写真家のイメージを物語的に固定する強い要因にもなっている。その一方で、同時期に雲仙岳の被災地に通って撮り貯められていた一連の写真「黙示の町」は、こうした砂守のイメージからかけ離れたものがあり、1995年という「悪い年」に発表されたことも相まって、写真集になることもなく、次第に忘れられていく。だが、私はこの「黙示の町」にこそ、砂守が生涯にわたって継続した行動の原基となる衝動が秘められ、いまなお解読されるのを待っているように感じられるのである。(次回に続く)

 

*参考文献については、本論考第1回の末尾を参照。

 


筆者近況:ゲスト・キュレーターを務めた「砂守勝巳 黙示する風景」展が原爆の図 丸木美術館(埼玉県東松山市)で2020年2月22日から5月10日まで開催(会期延長)。ただし4月9日より当面の間、臨時休館。新型コロナ感染症の影響による臨時休館を経て6月9日から再開、同展は8月30日まで会期を再延長。アーツ前橋での「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」にて、作家とのトークイベントに登壇予定(会期が4月24日~6月28日に、トークは6月27日に変更)。は会期を再延長(6月1日〜7月26日)、関連イベントはいずれも中止となった。なお砂守については「砂守勝巳写真展 CONTACT ZONE」も開催予定(ニコンプラザ新宿 、ニコンプラザ大阪。ただし現在、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため臨時休館中ゆえ、詳細は今後の公式発表を参照のこと)であったが、新型コロナ感染症の影響による臨時休館によって実現されなかった。

*上記、筆者近況情報を更新しました(2020/06/22)
*上記、筆者近況情報を更新しました(2020/04/13)
*昨今の新型コロナウイルス感染症対応をめぐり、展覧会、イベント等も各所で一時閉鎖や延期・中止となるケースが少なからず生じています。最新情報については公式サイト等でご確認ください(編集部)。

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