艾未未のことば23:自由を求めた後で

自由を求めた後で
責任編集・翻訳 / 牧陽一
Radio Taiwan International [Rti](台湾国際放送)によるインタビュー「呼喚自由之後」(聞き手:吾爾開希[ウーアルカイシ]、公開日:2022年5月9日、出典:https://www.youtube.com/watch?v=rqAineC299c

 


艾未未《S.A.C.R.E.D. (Entropy)》2011-2013年 Courtesy of Ai Weiwei Studio

 

艾未未(以下、AWW) カイシ、これ、テレビの番組?

吾爾開希(以下、W) ドキュメンタリーです。

AWW 何話もあるシリーズだね?

W 多くの人にインタビューします。全体で10人です。題名は「自由を求めた後で」です。

AWW 主にどんなことを話せばいいの?

W まず、中国での自由に対する体験、専制に抵抗することの経験、そしてその後の流浪することによって得た、自由の概念についての新たな思考や認識についてお聞きしたいです。

AWW いいですよ。映画の題は「野良犬の話」でしょ?

W ははは、似たようなものですね。

 


「呼喚自由之後─艾未未」Rti中央廣播電臺公式YouTubeチャンネルより

 

AWW 実は、人が道を選ぶとき、それは必ずしも主体的な選択というわけではないだろう。我々の中には、とうの昔から体の中に潜んでいた遺伝子があるのかもしれない。例えば、私の父はフランス留学から帰国後に、国民党の監獄に入れられて、6年間の刑を受けて服役した。その時、彼はまだ20代だった。だが、これが歴史であり、そして運命だ。そうだろう?

1957年、私が生まれたその日、私の父は流刑に処せられた。それも私の運命だ。まず、彼は北大荒(黒竜江省江の荒地)に行き、その後は新疆に移った。誰がこんなことを望むだろうか。そのような状況でも未来があると言えるだろうか。その後、私の父は、いわゆる「解放」をされ、名誉を回復した。さらに今では、愛国主義の詩人として国家に尊び崇められている。私自身の状態だが、私はひとつの道を歩き始めた。反逆とまでは言えない、私は生まれながらに反骨精神を持っていた。私は父に放っておかれたからね。私は基本的には極端なまでに議論好きな人間だと言える。

[※Rtiのインタビュー映像に挿入される事象:1919 五四運動|1960s 文化大革命|1978-1979 西単民主の壁運動|1989/4/15-6/4 89民主化運動/天安門事件|2008/12/20 零八憲章|1957 反右派闘争|1954 新疆建設兵団|鄧小平|中国共産党150団12連隊|艾青(1910-1996)]

 


艾未未『Disturbing the Peace(老妈蹄花)』2009年
「さっき警察局長にも言ってある。言ってある。警察手帳を出せ。―私の手帳。
動くな、ことを荒立てるな。私は公共の場所で写真を撮っているだけだ。何の証明書があって写真を撮らせないのだ?お前の身分証明書を出せ。執法する前にまずはお前の身分証明書を見せろ。」

 

AWW 1979年当時、私は22歳くらいのとき、初めて、私は政治が私個人の生活に関わるものであるということを、身を以って経験した。以前私は、父親と一緒に、新疆で生活していた。父は半ば流刑、半ば再教育を受ける身だった。なぜなら父はいわゆる間違いを犯した人間だったからだ。

そういう環境で成長してきたからか、実際に、抵抗は一種の習慣のようなものだ。あなただって特殊なものとは思わないだろう。私の青春は来るのが遅かった。そして私は反逆しはじめた。一体どうしたんだ?なぜ民主の壁は急に取り壊されてしまったのか?この第一次天安門事件(1976年四五運動)は初めての反革命動乱だった。実際、六四天安門事件の雛型となった。人々が反対の声を上げるとき、或いは疑問を投げかけるとき、感情的な態度をあらわにするとき、中国共産党がそれを許すことはありえない。彼らはとても残虐で、当時は戦車はなかったが、一夜のうちに、労働者による民兵が、巨大な棍棒を手にし、頭を抱えて逃げ惑う人々を殴りつけた。

1989年の時も第一次天安門事件とそっくりな状況だった。違うところは、戦車を使うようになるなど更に残虐になったことだ。あの第一次天安門事件の時が体制との最初のお付き合いとなった。そして、その頃、私はここを離れようと思った。私は、辺境だろうがどの方向でもいい、ここを離れられればいいと思った。ここにいることはもうできなかった。直接の危険があったわけではないが、私はこの環境に馴染めないと感じた。私は生まれる所を間違えた、そんな感じだ。

[※1976 第一次天安門事件(四五運動)|1979 西単民主の壁と星星美術展|1989 六四天安門事件(天安門学生運動)]

 


艾未未《Study of Perspective – Tiananmen Square》1995-2003年 Courtesy of Ai Weiwei Studio

 

AWW 1993年に中国に戻ったが、本当に何もすることが無かった。状況は私がニューヨークにいた時と同じようなもので、私は中国に変化が起こるなんて信じてはいなかった。父親が病気になっていたから帰ってきたのだ。母親が私のことを家から追い出すまで、ぼっーとしているわけにはいかない。母は家にこもっていてはいけないという、そこで、私はアトリエを構えた。

一度アトリエを開けば、すぐ店じまいというわけにはいかない。いくらかの建設プロジェクトに参与した。この頃は、私と政治との関係は近づいていた。なぜなら、建築というのは非常に政治化した活動だからだ。

ちょうどこの頃、微博(ウェイボー)が出現した、いや微博ではなくてブログだ。私が毎日ニュースブログを開くと、自分でもどこからそんなやる気が出てきたのかわからないが、1日に2、3篇もブログ記事を書いた。一体どうしてかは分からないが、常に私のブログは、20万、30万も転載される。中国人にとって、個人がこれほど自分の意見を発表できる可能性が他のどこにあっただろう。一瞬の間にこんなに多くの人が見てくれる。私は当時、そのことに驚いてまるっきり狂気じみて次のように発言した。私に3年くれ、もし、その間私のブログを検閲しなかったら、全世界に変化をもたらすことができる、と。だが、やはりすぐに私のアカウントは削除され、禁じられてしまった。すべてが消え去り、私自身までもが存在しないことになってしまった。

[※艾未未のスタジオのあった北京の草場地|オリンピックスタジアム「鳥の巣」|北京オリンピック|艾未未的BLOG|『Ai Weiwei’s Blog』(MIT Press、2011)|『艾未未:此時此地』(広西師範大学出版社、2010)]

 


艾未未『So Sorry(深表遺憾)』2012年

 

AWW では、なぜ私は抵抗するのか。実は、私は水のような存在だ。ときには谷を流れる渓流のようになり、ときには広々とゆったりした水面にもなる。もちろん、それは私に面倒で煩わしいこともたくさんもたらした。抑圧され、すんでのことで命がおしまいになるところだった。脳溢血だ。そして監禁された。秘密裏に監禁されたのだ。それでも、私にはそれだけの価値のあることに思われた。私に改めて生まれ変わらせ、人生設計をやり直させた。しかし計画してできるような事ではなかった。

私にとって自由、言論の自由とは、人々が異なる声を発することを許すことであり、また反対意見を言えることである。それが許されて初めて、言論の自由と言えるのだ。賛同の声しか発することが許されないのは言論の自由とは言えない。そうだろう。

W そうです。

 


艾未未『Coronation』2021年 ※公開は2020年だが、ここではRtiの映像に併せて2021年と表記する。


艾未未『Cockroach』2020年(Ai Weiwei Films ウェブサイトより)

 

AWW アメリカでは、言論の自由を語ることは本当に幼稚なことだ、幼稚すぎる。もちろんそれを犯すことが無ければ、言論の自由がある。あなたが誰かを罵っても、誰も構いはしない。そうだろう?誰があなたを構うだろうか。ウォールストリートの連中かあるいは大金持ちの奴らが政治の方向を決定することができるのだ。そうだろう。まったくもって強欲な資本主義制度のもとで導き出された必然的な結果なのだ。

すると現在、彼らにとっても、中国との関係は変わらない。実際、私は自由という概念についてずっと言い続けている。自由という言葉はまったく空虚な言葉だ。それは存在しない。自由という言葉はないのだ。なぜなら、話してはいけないことの範囲に入らないことを話している限りは、自由は存在しないからだ。だから、欧米人は自分たちには自由があるという時に、私は彼らに、何が自由であるか分かっていない、と言うのだ。自由とは必ずや抵抗や闘争から得られるべきものなのだ。闘争のないところに自由はない。その闘争の範囲によって、また自由の性質も決まる。もし闘争の範囲がいわゆる中国共産党という存在に限られるのであれば、あなたの自由の概念は依然として非常に狭い。真の自由とは自己との闘争だ。この闘争は、実際、私たちひとりひとりが、闘っている相手と共通する何かを持っていると理解することが求められる。それがこの闘争の最も困難な部分だ。

むしろ私は外国を流浪する方が好きだ。外にいると、基本的な保証があるから。以前は何も感じなかったが、いま感じるのは、故事が示すように「恒産なくして恒心なし」つまり、安定した財産や職業がなければ、たゆまぬ道徳心も精神の力も維持できないということだ。正直に言って、変わらない意志を持ち続けるのは今日の世界では難しい。

W うん、確かにそうです。

[※《中国の地図》2005年|《コカ・コーラの壺》2014年|《Free Speech Puzzle》2014年|《監視カメラ》2010年|《S.A.C.R.E.D》2011年|《遠近法の研究 天安門》1997年]

 


艾未未《Remembrance(念)》2010年 2008年に発生した四川大地震で亡くなった生徒5196人の名前を読み上げる。

 

AWW そうだろう。私たちには、欧米のように代々受け継いできた財産はない。だがこの財産というのはお金を意味しない。あなたの心の帰属意識だ。とするならば、私たちは皆同じなのだ。最初に、私は自分の言語から離れ、次にあの国から離れた。あの国は、私を国の人間であると認めないばかりか、敵と見なした。これは本当に面倒なことだ。実際、アーティストであるということは、基本的には退屈なものだ。つまり、私はこのアーティストと呼ばれる身分を気に入っているわけではない。しかし、アーティストという職業が持つ姿勢は気に入っている。既存のルールに対する懐疑的な姿勢のことだ。あるいは一定のものに価値を与えることができ、他の本質的な価値を否定できるからだ。それは良いことだ。確かにアートは実用的ではない。我々人類の直接的な経済や政治の発展には関係がないように見える。しかし、芸術家の態度は常に注意を喚起するものでもある。人には感情や幻想があり、さまざまな情熱や想像力を持つ動物であるということ。また、人間の観念の世界は、この物質的で論理的な世界よりずっと大きな存在であることを指摘することができる。

 


艾未未《Free Speech Puzzle》2014年 Courtesy of Ai Weiwei Studio

 

W 食べましたか?

AWW 食べたよ。私はずっと食べている。

W では食べ終わるのを待っています。

AWW 食べ終わったよ。

W まだだったら、どうぞ食べてください。

AWW もういいよ。

W 急がなくていいです。

AWW あなたが訊けばすぐに。

W ディレクターは食べながらでもいいと言っています。

AWW そうだ、それで……

 

 


関連書籍

艾未未アート「戦略」——アートが「政治」を超えるとき
宮本真左美著、水声社、2023年
http://www.suiseisha.net/blog/?p=18076

現地調査や作家本人へのインタビュー、既存の評論の整理検討などを通じて、艾未未作品の背景にある具体的なプロセスを明らかにすることで、作品の本質的拠所や作家自身の思索方法の解明を試み、艾未未作品の解釈に新たな視座をもたらす1冊。ニューヨークから帰国して最初に取り組んだ陶磁作品から、第55回ヴェネツィア・ビエンナーレやテート・モダンのタービンホールで発表した作品、複数のドキュメンタリー映画、香港国家安全維持法施行後の香港M+での展示をめぐる論議、ロンドンのデジタルアート・プロジェクト「CIRCA 2020」における作品まで、多岐にわたる制作活動を詳細に考察している。

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