艾未未(アイ・ウェイウェイ)のニューヨーク:デュシャン+ウィトゲンシュタイン+ギンズバーグ


艾未未「Self-portrait」1987年

 

艾未未(アイ・ウェイウェイ)のニューヨーク:デュシャン+ウィトゲンシュタイン+ギンズバーグ*1
文 / 牧陽一

 

艾未未は1976年、新疆ウィグル自治区石河子から北京へと戻る(と言っても北京の記憶があるわけではない)。*2 やることもなくぶらぶらしている艾未未に父艾青は挿隊し、働くようにと急かす。何かやらなければいけなかった。そしてたまたま絵を描くことにする。中山公園や頤和園に出かけて写生した。手に入れた後期印象派の画集、そこにはゴッホやセザンヌ、ゴーギャン、モネ、ドガの作品があった。*3 それは艾にとって聖書以上に大切なものだったという。それらの作品を模倣することから、絵画の修養が始まった。また父からの紹介で、工芸美術学院の鄭可教授の指導を受けることとなった。鄭可は毎回新しい作品を見せるように要求した。描かないわけにはいかなかった。そして鄭可は艾に北京電影学院の芸術院校を受験させた。もう一点は手に入れた画集の中にはジャスパー・ジョーンズのものもあったが、理解できずどこかにやってしまったということである。この点については後述する。

詩人の蔡其矯が趙振開(北島)を艾青に紹介したのをきっかけに艾も北島と知り合う。*4 さらに北島を通じて後に芒克を知り、今天の野外詩会で、八一湖、円明園、桜桃溝へ出かける。しかし新疆出の田舎者である艾にとって、男女がダンスをしたり、パーティーをしたり外国人と交流することができる、まさに当時の流行の先端ともいえる空間は、居心地のいいものではなかったようだ。艾は回想している。「ある時、頤和園の林の中でコンドームを拾った。このコンドームを見て、驚きを感じた。世界の全てと人生の運命がこの小さなコンドームの中に溶け込んでいると思った。そのとき、世界は真に禅の境地にあったが、禅には深意がある。私たちには何もなかった。」禅というのがかなり唐突ではあるが、当時の性的な欲求と思春期の空虚さをよく示している。*5

 

さらに北島を通じて黄鋭を知り、星星画会に参加することになった。*6 1978年北京電影学院に入学するものの、学生という社会とは隔絶した存在でいながら、変なエリート意識を持った連中に我慢がならず、デッサン用のアリストテレスの石膏像を粉々にしたという。また親のコネを頼りに大学に入ったことも、彼を気後れさせたのだろう。それは星星でも同様だったのではないだろうか? 星星のメンバーの殆どは業余作家で社会人労働者だった。中で大学生は多分、薄雲(李永存)と艾未未ぐらいしかいなかっただろう。つまり大学にも馴染めないし、学生であるが故に星星の中でも多少孤立していたのではないか。どこかに親の社会的地位への後ろめたさを感じていただろう。親のお陰で19年も辺境の地で過酷な生活を強いられてきても、このときの自分の幸運を艾は認めたくはなかった。

星星画会は文革後の新しい中国現代アートの先駆けとして名高い。艾は1979年と80年星星画会の2度の美術展に出品している。しかし、記念の写真には登場することなく、1979年10月1日の政治の民主と芸術の自由を訴えた西単から市政府へのデモ行進にも参加していない。後に艾は、彼ら先輩たちほど社会を変革しようとする意志に欠けていたからデモには行かなかったと述べている。艾が北京を離れようと思った理由の大方は、民主活動家の魏京生らの逮捕に中国政府への失望を抱いたからだろう。星星のデモに参加した『四五論壇』の劉青は1980年秋に、徐文立は1981年4月9日に逮捕されている。そしてもう一点は先に述べた居場所のなさだったと思われる。自由な表現への希求は大いに認められるとして、民主化運動自体の持つ正義感や正当性、その中心に向かう情熱そのものに違和感を抱いたのではないか。ここを離れたい、自分だけの道を進みたいというのが当時の心境だろう。

 

1981年艾は星星画会の中では最も早く中国を離れアメリカに渡る。だがその後も星星画会のメンバーとの交流は途切れることはなかった。

アメリカでは、今天の詩人でもあり、星星メンバーの厳力(1954年生まれ)と1985年以降帰国する1993年まで最も長く交流している。厳力は1985年4月にアメリカへ行き、後に当時ニューヨークのイーストビレッジ3番街にあった艾の家に3か月居候している。*7 1987年5月にはニューヨークで「一行詩社」を起こし、「一行」詩歌芸術季刊を刊行している。(後にウェブ雑誌へ移行)*8 一行の意味は「詩,一行行寫;人,一行行人」(詩は一行一行書き、人は一群れの旅人)。初期の発行部数は1000部、毎年4期、1995年以降は年一期、2000年の12月に最終号を出し、全部で25期刊行した。記念集を合わせると32期である。創刊号には艾の詩も艾訳のアレン・ギンズバーグの詩も収められた。 また1985年12月刊行の第3期に艾は「十五段」を発表している。また挿絵も提供している。「1. 芸術とは独特な言語である。この言語は非美学的で非理性的かもしれないが、芸術なのである。2. 非理性的な意思の表現と理解には、更に成熟した感性と理性が必要である。3. 芸術は反自然的であり、真実の歪曲ではあるが、人間心理では誠実さである。4. 如何なる芸術への理解もすべて誤解であり、誤解は少なくとも理解と同様に重要である。…」*9 また1985年12月刊行の第3期に艾は「十五段」を発表している。*10 また挿絵も提供している。「1. 芸術とは独特な言語である。この言語は非美学的で非理性的かもしれないが、芸術なのである。2. 非理性的な意思の表現と理解には、更に成熟した感性と理性が必要である。3. 芸術は反自然的であり、真実の歪曲ではあるが、人間心理では誠実さである。4. 如何なる芸術への理解もすべて誤解であり、誤解は少なくとも理解と同様に重要である。…」*11 十五段には艾のアートに関する理解が表出されている。アート=言語=非美学、非理性、反自然、誤解 アート≠真実ここには後に述べるマルセル・デュシャンやウィトゲンシュタインへの傾斜がみられる。厳力は艾が英語の勉強もかねてマルセル・デュシャンの本を読んでいて、面白いところは厳力に説明してくれたと回想している。具体的な書名は明らかではないが、かなり読み込んでいたことが分かる。

 


厳力と艾未未、ツインタワー前

 

1985年の8月には二人で、ツインタワー前で裸の写真を撮っている。当時イーストヴィレッジ12番街にはアレン・ギンズバーグが住んでいた。彼は1980年代初頭に中国で艾青に会っており、その関係でギンズバーグから艾に連絡があった。その後1985年の秋には艾と厳力はギンズバーグに会っている。ここで厳力はギンズバーグからオフィスと自宅両方の電話番号を教えてもらう。艾は「たいていギンズバーグはオフィスの電話しか教えない。君は特別なんだろう。女性だったら何にも教えないよ。」とゲイのギンズバーグに見初められたのだと冗談を言う。この手の冗談は、最近も変わらない。2015年の6月にろくでなし子が北京のホテルで艾を訪ねた時も「艾未未(AWW):今夜6時にも草場地の赤レンガにあるChambers Fine Art(前波画廊)で、オーナーの誕生パーティーがあるよ。彼は印象派の専門家だけど現代美術の画廊をやっている。/ろくでなし子(RK):ぜひ見に行きます。/AWW:招待するよ。/RK:ありがとうございます。うれしいです。/AWW:でも彼にはまんこ(のマスコットのプレゼント)はいらないよ、彼はゲイだからね。」と言っている。*12 こうしたゲイをめぐる諧謔性は今も変らない。それが決して差別的意味ではなく、多様な性のあり方を認め、逆に親愛の思いから出ていることは言うまでもない。

1986年6月には中国前衛芸術展がニューヨークのシティギャラリーで開催され、艾未未、李爽、厳力、邵飛、趙剛らが参加している。*13

 


米中詩歌朗読会(左から江河、貝嶺、厳力、艾未未)

 

さらに1988年末から1989年、アレン・ギンズバーグによって米中の詩朗読会が開かれる。四川省からは公劉、李鋼、北京からは北島、江河、顧城ら今天の詩人が招かれた。ここで艾未未は通訳として参加した。写真には江河、貝嶺、厳力、艾未未が写っている。ギンズバーグは北島に関心があって、討論は二人だけの会話になってしまい、面白くない。艾はギンズバーグの「君の詩の深いテーマは何だい?」という問いに「性」を付け加えて中国語訳する。「…セックスのテーマは何だい?」中国側は唖然とし、いよいよギンズバーグが本性を現したかと思う。北島はきまり悪そうに、「私の詩はセックスがテーマではない」というが艾は「セックスが無ければ詩にはならない、私の詩の全てにセックスが現れている」と「英訳」する。アメリカ側は喜んで訊いてくる。「セックスは君の詩の中にどのように現れているの?」このわけの分からない質問に中国側は互いに顔を見合わせている。北島は「私の詩は…セックスとは関係ない」というが、艾は顔色も変えずまた「英訳」し、その訳はいよいよギンズバーグらの興味をそそることになる。艾は彼らアメリカ側の要求の一つずつを笑いに堪えながら聞き取り、中国語訳して言った「アメリカ側はセックスをテーマにした詩を各自2首ずつ朗読してくれと言っている。僕が英訳してみよう。」艾の通訳に観衆は大喜びだったという。*14

ここからうかがえるのは艾の悪戯、ユーモアだが、一方で北島らの生真面目さも映し出されている。タイプが違うと言えばそれまでだが、艾はもうすでに北島ら文革後の朦朧詩の世界を乗り越えられたものとして捉えていたのだろう。そうでなければこんな冗談もできまい。だがその先に何があるかは確信できていたとも思えない。ただ、従来の詩的言語、いうなれば言語が意味すること、後に述べる「写像形式」をいっそ持たないことに関心が移っていたのだろう。さらに退廃的で雑然とし破滅的な詩作をビート世代のギンズバーグらに見出していたことは間違いないだろう。

また1989年には香港、台北で開催された「星星十年」展に参加している。ここでは後に述べる「Old shoes-Safe sex」を出品している。

星星の中心的メンバー 黄鋭は艾の事を星星の反逆精神を最も持っている人物だと述べている。*15 また艾が帰国した最初の年1993年には黄鋭の「毛沢東生誕百年記念」展を艾の東四 十三条の実家で開催している。相互に尊重しあえる存在だったと思われる。

また1985年、87年星星の王克平がニューヨークの艾の地下室の部屋を訪ねている。そして代表作の「偶像」(1978年)とともに裸体で写真を撮っている(1987年)。これは先に述べた今天の詩からの卒業とともに、今度は「偶像」を偶像として記憶の彼方に葬り去る意味で、星星画会への一種の超越も示す写真作品と考えられる。従来の彫刻、現実を写しとる像を否定する態度を意味しているだろう。

また後に艾の写真作品の「裸体」は重要なメタファになる。公開し隠さないことで、真相を隠蔽する政権を痛烈に批判するという意味を持たせていく。厳力や王克平の裸体はこの表現の始まりに当たっている。まずそれは抵抗と諧謔の含意をもった。艾が終始「星星」的精神でいることが明白だろう。もちろん星星の仲間である二人への気安さも伴っているだろう。だがそれ以上に気になるのはビート世代の持つ裸体への意識だ。

「…肉体をむき出しにし、魂をさらけ出すことをこのように強調したのは、ビートたちが感じとった裏切りに対する直感的な反動であった。その裏切りとは、大衆が自力で自分の道を決定するというアメリカ的思想の堕落変質を容認したことである。裸体とは、再生のしるしであり、自己同一性(艾デンティティ)回復のしるしなのだ」。*16

とすれば、行き場を失っていた艾の何ものでもない「自己」の確立を示すのかもしれない。そして何に対する裏切りへの直感的反動か?と言えば、もちろん街のクリーン化を進めるニューヨーク、アメリカ当局、そして捨ててきた祖国なのだろう。体制にとっては「ゴミ」のようなものでしかないだろう浮遊する自己をそのものとして受け入れる、それが艾にとっての裸体表現の始まりだったのかもしれない。若き日のギンズバーグとグレゴリー・コーソの写真は艾未未と厳力の写真に重なってくるのである。

ところで、いつも艾未未の批判を繰り広げている『環球時報』が「中国芸術は西側の芸術の前菜になってはいけない」2011年11月を掲載した。ここでは西側は中国の本当の芸術を理解していない、西側で認められる中国アートの全ては輸出用アートだと批判した。また艾の作品もまたそうした西側の需要に答えるものであって、本物ではなく、民族的でなければ国際的作品とはならないと述べた。*17 これに対して王克平は、作家は民族的である前に個人的でなければならず、艾や私はすでにそうした問題を超越した存在だとし、艾を高く評価し弁護している。*18 2013年には北京798で王克平の個展が開催され、50もの作品が展示された。アフリカのプリミティブ・アートから影響を受けたと言われる王克平作品の連続は、現実を映しとる像ではない物質化した存在、また存在そのものまでもが無化していくかのような「認識」へのプロセスとして、西洋の伝統とは異質な修養の軌跡に思われる。美術展の記事では艾未未と王克平が写真に納まっている。40年にもなる長い繋がりが見出されるだろう。艾が艾青の息子であったことで美術との関りが生じ、文革後の新しい潮流に参加できたのだろうが、渡米後はまさに艾自身の放浪の旅の始まりだった。

 


艾未未「Violin」1985年

 

艾はパーソンズスクールオブデザインも全く授業に行かず、奨学金も打ち切られた。アメリカに来て2年目の1983年には艾は不法滞在者となった。路上の似顔絵書き、映画のエキストラ、ハウスキーパー、草取り、ベビーシッター、建築労働者、電気屋、運送屋、様々な仕事をしている。7番街52号の地下室のアパートには、映写機、タイプライター、小型発電機、電気ドリル、チェーンソー、溶接機まであったという。*19 弟の艾丹が1986年にやってきてその頃の事を「ニューヨークノート(紐約札記)」に描いている。*20 内装はプロ級で、仕事の請負業までやっていたようだ。ニューヨークの町中に何でも屋の広告ビラを貼って、仕事をさがした。何でも屋の広告には「専門技術、親身で丁寧、安価で確かなサービス、わずかな予算で古い家が新築に」千枚もの広告を電話ボックス、店のウィンドー、地下鉄の駅、公園の木に貼って歩いたのだという。だが電気工事では、大した修理の必要ではないものを大げさな工事を装ってけっこう高い手間賃を手にしている。また音楽家の胡詠言と譚盾が路上でヴァイオリンを弾けば、たくさんの投げ銭が集まった。だがその半分は艾の銭だった。つまりはサクラをやっていた。当時はちょっとしたコソ泥の裏社会にも精通し、誰かがカメラや車のオーディオを盗まれても取り返してくれたという。 また1987年から二年かけて艾はかなりのギャンブラーになっていた。ニュージャージー州アトランティックシティのカジノからキャデラックがお迎えに来ることもあった。当時一晩で3千から5千ドルも勝つこともあったという。

しかしいい事ばかりではなかった。1986年7月スタジオを探していた艾と厳力は格安物件を見つけたが、契約した後、建築ゴミが放置されたままで、その撤去費用も自分で払うことが契約に入っていた。泣く泣く契約を反故にして、1800ドルも損をした。だから艾にとってのニューヨークは愉快な記憶ばかりではないはずだ。やはり帰国を決心させたのはアーティストとしての不遇が決定的だったからなのだろう。

1991年には後に大ヒットしたテレビドラマ「北京人在紐約」の撮影で馮小剛や姜文らがニューヨークへやってくる。ニューヨークに詳しい艾が助監督を務めた。屋内の舞台は艾の住んでいた地下室だった。

た艾の帰国の際には大きな荷物や作品を厳力の友人グレイン・ステインマン*21 の実家に預けに行った。帰国後、作品を受け取るまで7年もの間、保管してくれていた。ニューヨーク時代の艾は、まるで孤立無援のように思われがちだが、今天や星星のメンバーとの交流が続いていた。そして艾未未が帰国後に刊行した『白皮書(ホワイトカバー)』(1995)にも厳力の写真作品『ニューヨークの物語(紐約的故事)』が掲載されている。それは骸骨がヌードのグラビア雑誌を見ている作品だが、自然とアレン・ギンズバーグの「骸骨たちのバラード(The Ballad of the Skeletons)」(1995年2/12-16)*22 を彷彿とさせる。おそらく艾未未がこの厳力の作品を掲載した理由はギンズバーグを記念することだったのだろう。

 


艾未未「One Man Shoe」1987年

 

1993年、帰国した艾未未がまず行ったのは『黒皮書(ブラックカバー)』(1994)、『白皮書(ホワイトカバー)』(1995)、『灰皮書(グレーカバー)』(1997)の編集と刊行だった。詩とアートの雑誌として1978年北京の『今天』、1987年ニューヨークの『一行』を継続させた仕事ともいえる。現代アートの進行形を示したこれら三部作は、64天安門事件後、中国現代アートの動向を示す格好の資料として、今もその価値を高めている。その中心となったのは北京東村の裸体によるパフォーマンスで、馬六明、張洹、段英梅、朱冥、蒼鑫らを輩出した。また写真家では榮榮、音楽家では左小祖咒が、このメンバーだった。

ここで気になるのは馬六明の裸のパフォーマンス「芬・马六明的午餐(芬・馬六明のランチシリーズ)」(1994)という題である。容易にウィリアム・バロウズの『裸のランチ』を想起させるからだ。シリーズのⅠ(4月19日)は魚を水槽から出して、鍋で調理し、皿にのせる。馬は洗濯機の排水管の一方ペニスにはめ、一方を咥える。観客は魚を少し食べる。魚は骨と身に分けられ、再び水槽に戻される。Ⅱ(6月12日)では馬は鍋にジャガイモ、紙に描いたジャガイモ、描いたペン、身に着けていたイヤリング、腕時計(ブレスレット)を入れて煮込む。最後は茹でたジャガイモを木のそばに埋めるものだった。*23

切りつなぎ手法(カットアップ)がそのままパフォーマンスに流用されていると言えるだろう。ウィリアム・バロウズは、読書から集められた断片、会話の一部、新聞記事、ランボーやT・S・エリオットら文学者からの引用、バロウズ自身の作品に繰り返しあらわれるモチーフなどをむりやりくっつけ、すべてを一見何の中心思想もないままひとつのモザイクに仕立て上げる。あるいはテキストのページを切って上下を入れ替えるなどして偶然性的につくるカットアップによって『裸のランチ』をつくる。*24 芬・馬六明の死んだ魚や死んだジャガイモを再び水中にあるいは地中へと「戻す」行為は、カットアップの後のリミックスという行為に重なってくる。つまり馬六明のパフォーマンスは言語の解体と再構成を「行為として」行っているのだ。

ここで想起すべきは艾未未が「ジャスパー・ジョーンズを通じて、マルセル・デュシャンや、言語と哲学に関するウィトゲンシュタインの本を読み始めました。ふたりに共鳴しましたが、両者とも東洋的経験とは無縁なのだからとても奇妙なことです」*25と2009年時点で述べている点である。そして先に引用した2010年時点でもウィトゲンシュタインの名を繰り返している。*26 そして2009年森美術館でジャスパー・ジョーンズの作品名からとった「何に因って?」展を開催している。

中原佑介は新潮社『デュシャン』の解説でウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を引きながらデュシャン作品を論じている。*27 まずあらゆることが同語反復であること、「同語反復においては世界との一致の条件―すなわち描出の条件が相殺され、その結果同語反復は現実といかなる描出の関係にもなくなるのである」(『論考』4・462)。それはデュシャン作品のタイトル(言語)と絵画(現実)の乖離への自覚となる。そしてクールベ以降の絵画があまりに「網膜的」で、眼に訴えるだけのものに偏っているというデュシャンの反省は、言葉が絵画の中に埋没してしまっていることを示す。そしてデュシャンは「言葉を絵画から引き出し、さらに言葉だけの独立した領域をつくりだすこと、そして、それを絵画と並置させ」たとする。「大ガラス」を再現的なものではなく「数学的」だといい、科学や数学への関心も言語との関係に根差している。いわゆるレディメイドは『論考』の「像」に関する以下の内容に関わってくる。「像は、それと形式を共有するすべての現実を映しとれる。/空間的な形式をもつ像はすべての空間的な現実を映しとれ、色の形式をもつ像は色に関するすべての現実を映しとれる、等々」(2・171)「しかし像は自分自身の写像形式を写しとることはできない。像はそれを提示している」(2・172)。そして中原佑介は「写像形式をもたない像」としてオブジェを浮かび上がらせる。そしてデュシャンは言語システムの多義性を活用し、言語(論理)と物体を並置することで驚きを誘発したとする。さらにデュシャンの「大ガラス」に対する「そもそも問いがないのだから回答はない」という言葉もウィトゲンシュタインの「答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。/謎は存在しない。/問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる」(6・5)の裏返しであると指摘する。

とすれは先の「十五段」(1985)で艾が述べたアートは言語だという理解や、アートが現実ではなく、誤解でもよい。アートは非美学、非理性、反自然的であるという考えは、あらゆることが同語反復であることや「写像形式をもたない像」としてレディメイドを示すのだろう。つまり艾はウィトゲンシュタインとマルセル・デュシャンに共通する考えに共鳴していたと考えられる。

 

 

1988年艾の個展『Old Shoes-Safe Sex(旧鞋・安全性)』がニューヨークのアートウェイブズ・ギャラリー(イーサン・コーヘンギャラリー)で開催される。ここで提示された「ヴァイオリン」(1985)はヴァイオリンにスコップの柄を組み合わせたもの、「性安全(Safe Sex)」(1986)はアーミーコートにコンドームを取り付けたもの、「軍衣・五星(Army Coat)」アーミーコートを五星の形で床に並べたものだ。他にも靴の踵を切って縫い合わせた「ワンマンショー(One-man shoe)」(1987)やその踵を平面から突き出させた作品、赤い本の表紙から靴が飛び出したもの「無題」(1986)、マルセル・デュシャンの横顔を針金のハンガーでつくった「ハンギング・マン」(1985)、毛沢東の写真を反転させて飛沫をかけた「マオ・イメージズ」(1985)がある。

これらを仮に反復同語として並べてみるならば、芸術は労働である、生活は芸術である、軍は性である、軍は民族である、などが挙げられるだろう。写像形式をもたない像である物質と言語を並列させている。現実の描出ではない現実とは無関係な物体、言語だけの独立したアートを提示したと言えるだろう。ただ一旦はポップアートまで進むものの、デュシャンに戻っている。艾の絵画との決別はこの時期に当たるが、ここでは触れない。デュシャンさらにジャスパー・ジョーンズとの関連も含めて稿を改めて論じてみたい。

さらに先のインタビューの答えではデュシャンとウィトゲンシュタイン「両者とも東洋的経験とは無縁なのだからとても奇妙なことです」と述べている。とすればその東洋的経験はチベット仏教や禅に傾倒していったアレン・ギンズバーグの思想が補うかもしれないし、艾自身が帰国後に把握していった部分かもしれないが、今後の研究にゆだねたい。

筆者はかつて艾のニューヨーク時代最大の収穫は、報道写真による真相の究明、一個人が権力と戦う方法を学んだことだと述べてきた。加えて今回は現代アートの基本的な考え方と実作を修練したことを加えたい。そして1993年の帰国以降の中国という舞台はこれらの行動の方法と現代アートを発展させ、確認させていく場所となった。そこが独裁政権下の「悪い場所」であったことが、より一層根源的な姿勢を際立たせる結果となったのである。

 


 

*1 牧陽一「アイ・ウェイウェイのニューヨーク : テンシャン+ウィトゲンシュタイン+ギンズバーグ」『研究中国』5号, pp.30-38, 2017年10月初出。本稿は同誌編集部の許可を得て転載再録した。

*2 艾未未の石河子での高校生までの生活については「艾未未(アイ・ウェイウェイ)の少年時代」として、ART iT(2016年6月29日)に掲載。http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri13_j/zShUFqAs2bEP6ZVYn7k8/

*3 ケイティ・ドノヒュー「変えていく力」、Whitewall Magazine、2010年春号、阪本ちづみの翻訳にてART iT(2014年6月7日)に掲載。http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri13_j/hlnDbdcYyeVZIABC6s4J/

*4 1977年の初夏に舒婷,北島,艾未未が八達嶺で撮った写真があるから、それ以前には知り合っていたと思われる。舒婷「生活、書籍與詩」廖亦武編『沈淪的聖殿』新疆青少年出版社、1999

*5 〔原文〕…记得有一次,我在颐和园的小树林里捡到一个避孕套,我看着这个避孕套,觉得这东西简直太新奇了,似乎世界的一切、人生的命运都能融在这个小小的套子里。那时的世界真的是一种禅的境界,但是禅是有深意的,我们却什么都没有。…
艾未未:最具“星星”精神的人2004年10月27日11:01 新京报
http://ent.sina.com.cn/2004-10-27/1101546439.html

*6 当時、艾未未の家は豊盛胡同で、黄鋭の家は趙登禹路だから、両方城内の西城区、かなり近い。数百メートルだろう。

*7 厳力「紐約的艾未未」貝嶺編『瞧艾未未』傾向出版社、台湾台北、2011

*8 《北京之春》的人物回顧1978-81年的中国民主運動 ウィーン大学 厳力
https://pekinger-fruehling.univie.ac.at/index.php?id=189373&L=27

*9 前出 艾未未:最具“星星”精神的人 2004年10月27日11:01 新京报http://ent.sina.com.cn/2004-10-27/1101546439.html
詩海鈎沉|北京人嚴力與紐約一行詩社 https://kknews.cc/zh-hk/culture/3jp8zqo.html

*10 艾未未著/牧陽一編著訳『アイ・ウェイウェイ スタイル』勉誠出版、2014年、p19・20
中国語は前出の厳力「紐約的艾未未」貝嶺編『瞧艾未未』傾向出版社、台湾台北、2011、p55・56

*11 厳力「紐約的艾未未」貝嶺編『瞧艾未未』傾向出版社、台湾台北、2011、p55・56

*12 牧陽一(企画、文、翻訳)「対談:艾未未 x ろくでなし子」ARTiT(2015年7月7日)http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri13_j/lo2GJytpL9N6T7b0MV85/

*13 1986 Avant-Garde Chinese Art, City Gallery, New York; Vassar College Art
Gallery, NY; University Art College, Albany, NewYork, USA

*14 貝嶺「中美詩歌「性」交流」貝嶺編『瞧艾未未』傾向出版社、台湾台北、2011、p25-27

*15 貝嶺「中美詩歌「性」交流」貝嶺編『瞧艾未未』傾向出版社、台湾台北、2011、p25-27

*16 ジョン・タイテル著 大橋健三郎、村山淳彦訳『ビート世代の人生と文学―裸の天使たち』紀伊国屋書店、1978年、11p

*17 朱苓:中国艺术不能只是西方的佐餐2011-11-22 08:54 环球时报作者:朱苓 旅居德国的艺术评论人 http://opinion.huanqiu.com/1152/2011-11/2194303.html
朱苓はドイツ在住の記者で、編集長単仁平とともに艾未未の批判を展開している。
さらに艾未未批判を集めたサイト「红色文化网 为实现中国梦传播正能量 艾未未评析」がある。http://www.hswh.org.cn/s/277/
例えば[外媒报道]艾未未背后的瑞士艺术寡头(上)2011年5月12日では艾未未がアーティストとして台頭したのは全てスイス資本の操作によるもので、著名な中国現代アートのコレクター ウリ・シグ[Uli Sigg]のお陰だという。艾未未の作品を扱うウルスギャラリー、国家体育場鳥の巣の設計をしたヘルツォーク&ド・ムーロンもすべてスイス人で、ウリ・シグが背後で操作しているとする。しかしウリ・シグは2012年の6月、中国のアーティスト350人の1400件ものコレクションの殆ど全てを2019年開館予定の香港視覚芸術博物館(M+)に寄贈している。ウリ・シグは投機のために中国現代アートの作品をコレクションしたわけではない。歴史をつくるためだった。とすれば、資本の操作とは全く関係ない個人的な判断で、中国現代アートを守り、中国へ返したと言えるだろう。だが香港が安全な場所で居続けられるかどうかは、中国共産党支配がどこまで浸透するかという今後の問題になる。ウリ・シグが敢えて香港を選んだことは、中国共産党政権への挑戦とも受け取れる。それはウリ・シグコレクションが中国共産党にとってナチスの「退廃美術展」となるか否かという歴史と未来への問いでもある。

*18 王克平:艾未未是当今艺术潮流的领军人 rfi時事観察 作者 杨眉 播放日期 02-12-2011 更改时间 06-12-2011 发表时间 07:27
http://cn.rfi.fr/%E4%B8%AD%E5%9B%BD/20111202-王克平:艾未未是当今世界艺术潮流中有大成就者

*19 萬静・崔迪「艾未未在紐約的「那些爛事兒」貝嶺編『瞧艾未未』傾向出版社、台湾台北、2011

*20 艾丹『紐約札記』花山文芸出版社、石家庄、1992

*21 厳力「紐約的艾未未」貝嶺編『瞧艾未未』傾向出版社、台湾台北、2011、58,59p

*22 Glen Steinman[格林-斯仲达]1982年北京大学へ留学。厳力ほか中国詩の翻訳家。青島ビールのアメリカへの販路を開いた実業家としても知られている。http://www.poetrysky.com/quarterly/14/yanli.html

*23 1993年10月18日イギリスのロイヤル・アルバート・ホールで開催されたポエトリー・イベントのフィナーレにポール・マッカートニーが特別出演し、アレン・ギンズバーグの「骸骨たちのバラード」の朗読にエレキギターで伴奏をつけた。その模様はYouTubeで見ることができる。
Allen Ginsberg and Paul McCartney playing “A Ballad of American Skeletons”

*24 Ⅰはビデオで見ているがⅡの詳細については 吕澎「芬·马六明的诞生」芸術档案2015-05-23 10:01 http://www.artda.cn/view.php?tid=9656&cid=21

*25 ジョン・タイテル著 大橋健三郎 村上淳彦訳『ビート世代の人生と文学―裸の天使たち』紀伊國屋書店、1978年、175p

*26 「艾未未(アイ・ウェイウェイ)」ART iT、2009年8月26日 http://www.art-it.asia/u/admin_interviews/XzZfNuKY3Es2dLlvB8DT/

*27 前出、阪本ちづみ訳「変えていく力」

*28 『新潮美術文庫49 デュシャン』1976年

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