連載 中島りか 新しい死者の書 第三回

「土星はその大きさに対して最も軽い惑星であり、もし十分に大きな海があれば水に浮くだろう」というキャプションがついた、惑星の密度を説明する比喩を表した図。ポストコロニアルの視点から占星術を読み解く、ニューヨーク在住のアリス・スパークリー・キャットがブログ[1] の投稿に使っていたミームからの引用。2026年2月2日の本投稿では、占星術に基づくホロスコープでは、土星が魚座から牡羊座へ移動するタイミングにあり、権威との関係の見直しが全体の大きなテーマだった。信頼できる指導者や明確な導きが不在のまま、制度や価値観の再編だけが進んでいく時期と警告し、今ファシズム政治の「政治の美学化」は、結果的に政治的無関心を生み出すよう設計されており、一人一人が歴史や制度の文脈に向き合い、自己判断力を育てるべき局面にいるとも指摘していた。

 

2025年10月末、安倍晋三元首相を殺害した犯人である山上徹也被告の初公判が始まった。その頃私は、2022年から東京谷中で運営していたプロジェクトスペース「脱衣所 – (a) place to be naked」(以下、脱衣所)[2] の建物の取り壊しが決まり、最後の企画に向け忙しくしている時だった。3年前、事件が起きた7月は、脱衣所のオープニングのために建物をDIYで埃まみれになりながら改修作業していたことを思い出し、この事件と脱衣所は何の関係性もないがタイミングがどこかシンクロしているようで、この3年を別の角度から考えるきっかけになった。当時、そのオープニングイベント「憑在実験 vol.1」を終えて無事にスペースとして始動した後も、事件から浮き彫りになったカルト問題とその2世が抱える宗教虐待の実態、そして事件後すぐに発案された「国葬」の論争が続いていた。脱衣所でも国葬について話し合うイベントを、多文化なバックグランドを持つコレクティブメンバーと共に企画し、偶然にも同年9月に亡くなったエリザベス女王の最新の葬儀も踏まえて、さまざまな海外の国葬の事例を照らし合わせて話し合ったことも、初公判のニュースを聞いて思い出した。

あの時、なぜ国葬が行なわれたのか。財務省近畿財務局の職員の赤木俊夫さんを自殺に追い込んだ森友問題の責任が一切問われることもなく、まるで国を代表する善人のように国葬された元首相。数々の深刻な問題が未解決のまま、刻々と深刻さが更新されてきた結果が現在の日本政治の状態なのだと痛感する。その後継者と自称する現首相が就任した直後に、山上被告の公判が始まったのは、偶然ではあるようだが、少々嫌な予感がした。現政権が英雄視する被害者を殺した犯人は、今日の司法でどのように裁かれるのだろうか。統一教会の問題を長年取材するジャーナリスト鈴木エイトさんの記事「山上徹也は死刑になるのか」[3] を読んで、原文は死刑にすべきではないという内容ではあったが、やはり死刑制度を持つ日本でこの事件には極刑が出る可能性がゼロではないことを実感し、一連の裁判の動向がより気になった。(今年1月に初公判の結果は無期懲役の判決が出され、被告人含む弁護側が控訴したため、引き続き裁判は続く予定。[4]

 

脱衣所のオープニングイベント「憑在実験 vo.1」1日目のパフォーマンス「撥水教徒によるコーティング」を行なうアーティスト千葉大二郎さんの様子。オープニングイベントの打ち合わせで、2022年7月下旬に千葉さんと会った際に、事件後奈良に偶々用事があった千葉さんが現場に立ち寄った話を聞いた。また、eitoeikoが2020年から主催する「桜を見る会」で過去に出展していた両者の作品が事件後に意図せず「上書き」されたことも話し合った。千葉さんには、脱衣所の最終日となった2025年11月30日にも儀式をしてもらっている。

 

山上被告は、事件の半年前にヴィクトル・ユゴー原作『レ・ミゼラブル』のミュージカル映画(2012)の冒頭曲「囚人の歌(Look Down)」を朝から晩まで聴き続けていたことを、自身のSNSに書き残していた。[5] 私はこの事実を知ったとき、あの事件の犯行心理の内側を目撃してしまった気分になったと同時に、その精神状態を想像して思わず発狂しそうになった。高校生の頃、私も同ミュージカル映画を観て、かなり触発されたことを覚えている。抵抗する人々の姿や信仰のあり方に関心を抱いたのも、その頃だったかもしれない。バリケードの上で歌われるエピローグ曲「民衆の歌(Do You Hear the People Sing?)」によって、最後に盛り上がる演出で幕が閉まるため、観終わった後にエンパワーメントされた感覚が残る。私は山上被告とは異なるこの曲を繰り返し聞いてきた。

けれども、この物語で実際に描かれているのは、輝かしい革命の「勝利」ではない。映画のなか、革命を歌う多くの人々が、自分に未来がない事を予期していることは言うまでもない。あの感動的な最後のシーンが、劇中で死んでいった登場人物たちのみによって歌われていた事に、高校生の私は気づいていなかった。ラストシーンに受けるこの興奮は、それらの「亡霊」に取り憑かれた感覚に近い。マルクス主義をひとつの完成された思想体系としてではなく、つねに現在に回帰し続ける「亡霊」として捉え直すジャック・デリダの著書『マルクスの亡霊たち』で提示された「憑在論」の可能性とはこのことを指しているのかもしれないと、映画を久しぶりに観ながら考えた。

この事件は、政治犯ではなく超個人的な犯罪だと、事件直前に山上被告がカルト問題のルポライター米本和広さんに宛てた手紙[6] から察した。権力への抵抗手段に「暴力」を前提としない今日の日本社会の流れの中で、だからより一層この事件は異質であり、衝撃的だった気がする。この事件の影響によって実際に起きたのは、日本政治と統一教会の癒着の問題が可視化され、今まで論じられることがなかったカルト2世が抱える宗教虐待の問題が論じられる、改善された社会の変化だった。犯行に至った動機を報道することは「テロリスト」の思う壺とする、あまりにも的外れに裁判内容を批判する言説が出てくる一方、統一教会と自民党の長年の癒着の歴史を遡れば、カルトを制裁するばかりか、利用し匿ってきた政治家の責任は明らかに重く罪深い。[7]

 

画像は、2014年の香港雨傘革命の写真。撮影者:Cecilia Pang 私が2019年12月に参加した香港の民主化運動の抗議でも「民衆の歌(Do You Hear the People Sing?)」が英語で歌われていた。この曲は、香港だけでなく、フィリピン、イラク、トルコ、ウクライナ、そして日本など、非西洋諸国の抗議運動で近年歌われている。[8] フランス発の物語の受容は、西洋中心主義に追従する振る舞いにも映ることに、今となっては少々懸念も芽生えている。

 

11月20日、第10回目の裁判から被告人質問が始まった。最初に弁護人から「自分が45歳まで生きていると思っていましたか」と質問され、山上被告が「生きているべきではなかったと思います」と返答したという報道[9] に、少々攻撃的な質問の意図がすぐに汲めず私は混乱した。事件前に自殺未遂をしていた被告に対して現在生きている自分をどう思っているか確認する質問と後に理解したが、裁判が如何に演劇のように構成されているかがよく分かる、印象の強い最初の被告人質問だった。安楽死のリサーチの際に、弁護士フェルディナント・フォン・シーラッハ原作による演劇作品『GOTT』を調べた際も、裁判の持つ演劇性についてはすでに興味を持っていたが、山上裁判を通してその性質により強く関心を抱いた。

11回目が開かれた25日には、安倍元首相が統一教会を賛美するビデオメッセージを観たときの心境について問われ、被告はそれに対し「絶望と危機感」と返した。この発言には本事件の犯行動機が伺えると鈴木エイトさんは主張している。[10](しかし、その後の裁判判決では動機面が不明確とし、更には被告の生い立ちは一切考慮されなかった。)[11] 個人的に印象的だったのは、その後の山上被告の兄の死についての話だ。障害があったために母親と同居を続けていた兄が自殺したことで、被告自らも罪悪感に襲われたこと、通夜に突然やってきた統一教会員によって強引にも教団式の葬儀が行なわれてしまったこと、それについて母親が兄が救われたと理解して兄の死を喜んでいたことなどが公判で言及され、この裁判内容[12] を知った私は想像以上の深刻な境遇に思わず鳥肌が立った。

11月30日、脱衣所をすべて引き払った後の12月2日から3日間、奈良県に泊まり込みで裁判傍聴に挑んだ。鹿が歩き回る奈良公園の抽選会場には報道通り多くの人が集まっていた。倍率が高いことは重々承知していたため、3日間の内に一度でも当たったらラッキーと思っていたが、驚くことに到着した初日に傍聴券が当たった。この第12回目は、事件後に被告と面談を重ねた宗教社会学者の櫻井義秀さんの証人尋問があるため、特に傍聴したい回だった。裁判では、山上被告はまさに「囚人の歌」のシーンの背景で俯きながらとぼとぼ歩く囚人のように入廷してきた。山上被告は、報道を通した印象とはかなり違った。法廷画にはそもそも美術作家の個性が露骨に出ているものであることを知り、それもまた被告本人を見た上で表現の観点から興味深い。個人的には、朝日新聞に掲載されていた岩崎絵里さんの絵[13] が本人を見た記憶に近いと思った。

 

裁判を傍聴した後日、事件の現場を訪れた時の写真。地面にうっすら3年前にあったガードレールの囲いの跡が残っていたが、道路両側には花壇が設けられ、横断歩道も改良され、その場は出来事の記憶を無理やり消そうとしているようにも伺えた。12月2日に傍聴した裁判では、右奥に写る事件現場から90メートル先のパーキングの壁に、(銃弾が)2cm以上めり込んでいたのは考えづらい結果と被告自身が証言していた事もあり、その現場を歩いてみた。

 

裁判中は、できる限りメモを取り続けたが、休憩を含めて4時間を超える審理の情報量は想像以上で、終わった後はとにかく頭が一杯になり疲れた。当日の傍聴席は一般35席、メディア32席の計67席しかなく、傍聴希望人数401人に対して、[14] あまりにも閉ざされた状況だと感じた。この裁判で直接聞くことができた証言では、事件前日から当日までの被告人の行動の事実確認や心境を確認できた。山上被告自身、安倍元首相を支持していたことも裁判中に認め、さらには犯行直前に期日前投票では事件現場で街頭演説をしていた自民党の佐藤啓議員(現総理側近)に投票したという証言にも、その場が少しざわついた。他にも重要と思われる情報が複数出ていた本裁判の中で、山上被告自身が事件直前の心境を説明する際に「偶然とは思えない」と二度、事件前日と事件当日の場面で発言したこと[15] について、私は特に考えを巡らせている。この言葉には、メモを取りながらも思わず耳を疑った。

偶然の巡り合わせで起きる出来事は、一般的に偶然ではあるが、運が良かった、または悪かったと解釈される。裁判中の山上被告は、淡々と正直に質問に答えていて、二度の「偶然とは思えない」という発言も、感情的な供述ではなく、その事実を率直に答えているといった印象だった。特に2回目の「偶然とは思えない何か」という言葉遣いは、「何か」という言葉に何が当てはまるのか、個人的にとても興味が湧いた。山上被告が抱いた偶然ではないという感覚は、前日と当日の詳細を知った上で、今まで不幸や失敗続きだった山上被告にとって、確かに驚くほどの「偶然」の連発は、それが全く偶然とは思えないほどだったのだと理解できる。その後の報道において、殺人心理におけるこの予想外の発言をどのように報道するべきなのかという困惑がメディアの報道[16] からも伺えた。

裁判の証人尋問で櫻井さんは、「偶然とは思えない」という必然、または運命と捉える山上被告の発言について、統一教会の信者である母親に似ていると指摘していた。山上被告が事件前に書いていた手紙で「(銃を作ることに没頭する)その様はまるで生活の全てを偽救世主のために投げ打つ統一教会員、方向は真逆でも、よく似たものでもありました」[17] と自ら記していたことを踏まえれば、そういった傾向はすでに本人は承知の上だったことも分かる。犯罪行為を運命と語る被告人を受け入れられない社会の感覚は、ある種の当たり前でもあり、近代合理主義による社会の中では仕方がないことも理解できる。それでも、人が偶然の出来事に意味を見出すという感覚を受け入れられないことそのものにも、どこか現代の病的な側面がある気がしてならない自分がいる。

裁判傍聴した2日後の12月4日、抽選会場で映画監督の足立正生さんたちに偶然会った。公判初日から全日、奈良公園に通い裁判傍聴に挑まれている中で、一度も当たっていないことを聞いた。初日に会場がすぐに分からず道を教えてくれた人も全日通って2回当たったと言っていたので、一度も当たらないというのもまた奇妙だなと思う。第15回目の抽選結果が発表されるまで、一緒にコーヒーを飲みながらお話を聞かせてもらった。本人にも予めお伝えしたが、私はその時点で足立さんの映画『REVOLUTION +1』(2022)[18] をまだ観ていなかった。観たくなかったわけではもちろんなく、安倍元首相の国葬前日に行われた上映会の情報を見つけ、少し悩んでいる間に完売になって諦め、その後も機会を逃していた。

悩んだ理由には、作品の持つイメージの強さに自分が良くも悪くも影響を受けすぎてしまう気がして躊躇ったのだと思う。裁判で本人の言葉が公に出るまで、山上被告を分析する数ある書籍も一切確認せず、事件直後に本人が残した手紙やSNSの言説を少し調べて読んでいた程度だった。今年2月にようやく足立さんの映画を鑑賞することができ、細かい描写が思った以上に裁判で出てきた事実に沿っていることに驚いた。私が傍聴した12回目の裁判で、裁判官から山上被告に母親の銃撃を考えたことがあるか問われ、考えたことは否定せず、しかし母親の献金は統一教会の教義に従ったものとして母親も被害者だと思い、実行しなかったと述べていた。こういった裁判まで語られていないはずの心の描写を、丁寧に見抜いて制作されていたことに流石だと思う。そしてこの映画が、国葬の前日に上映されていたことの重要性を、時差はあったが改めて考えさせられた。

 

12月4日、第15回目の山上裁判傍聴抽選結果が発表されるのを待っている間、足立さんからパレスチナにいく直前にジャン゠リュック・ゴダールと交流されたお話などを伺った。その後の抽選結果は、私も含めその場にいたみんな当選せず、なかなか当たらない足立さんの気持ちを綴っていただいたノートの1ページ。

 

私は美術よりもずっと前から「宗教」に興味を持っている。不思議とひらがなで「かみさま」という存在が幼少期から自分の中に存在していた。一神教かと聞かれれば、そうかもしれないし、そうではない気もする。私の家系自体は、仏教と神道などの年行事をたまに行なう程度のいわゆる無宗教家庭で、ニュータウンという土着的な文化が乏しい環境で生まれ育った。けれども、幼少期から自分の中に存在する信仰のような「何か」に対する探求心もあったのか、海外研修でホストファミリーに連れて行かれた教会に惹かれたり、倫理の授業でキルケゴールの哲学に興味を持ったり、『レ・ミゼラブル』にもはまったり、ここでは書ききれないきっかけの積み重ねから、キリスト教に興味を持って教会に通い始めた。勧誘されるどころか自分から飛び込んだため、自分の中では何の危うさもないつもりではあったが、家族や友人は私が宗教に騙されたと思い、本気で心配していたそうだ。

大学進学でイギリスのロンドンに移住してからは、日本で通っていた教会に紹介された福音派の「メガチャーチ」に通っていた。私が通っていた教会は、トランプ政権で信仰局長を務め、統一教会とも親交が深いポーラ・ホワイト[19] と同じく、ペンテコステ・カリスマ派の流れを汲んでいるが、組織的な直属関係はない。しかし、近しい組織に属していたことを知った時はショックが大きかった。教義の詳細、特に「繁栄の神学」[20] への傾倒度には大きな違いがあるようで、ホワイトのようなキリスト教シオニズムを教理として明示するわけではないが、それでも、平和を標榜しているにもかかわらず、彼らの政治的中立と偽る黙殺行為や、潜在的なイスラエルを擁護する価値観が透けて見えることに対しては強く批判したい。イスラエルがパレスチナ人を原則死刑できる法案を可決したことで、人殺しに正義を見出すシオニズムのカルト問題がより深刻になる現状[21] もあり、もっとこの問題には注力して向き合いたいとも思っている。

数年ほど教会に通った後、大学で現代美術に関心を持ちはじめる過程で、次第に教会へは通わなくなっていった。「通いにくくなった」と言った方が正しいかもしれない。福音派とはいえ、比較的、革新的な一面もある教会ではあったが、イスラム教をはじめとする他宗教やLGBTQへの偏見などがコミュニティ内で少なからず内在していることに気づいたことが、通わなくなったひとつの大きな理由でもある。今となっては、自分もクィアにあたる「ノンバイナリー」と自認できるようになったが、当時は普通になることに必死だった気がする。通っていたメガチャーチは、ごく稀にも同性愛のカップルが通う場所ではあったが、それはその同性愛の「罪」を神が許してくれたという認識であると聞き、それは私にとって受け入れがたいものだった。

それらの違和感に加えて、私が教会に通わなくなったもうひとつの理由には、自分の中で「アート」への探求心が生きがいの中心になっていったからではないかと後から振り返る。この時期に私の信仰はアートによって回収されたのかもしれない。イギリスの芸術大学が批評性が中心にある教育だったこともあり、保守的なコミュニティに属し続ける上で障壁となっていったのだとも思う。私はこの頃から「アートは宗教である」と思っている。この思考とセットで、私の制作では芸術文化と宗教の違いを探求している感覚もある。それらを比べる時に考える対象のひとつが「壺」の存在だった。

 

2023年にTALION GALLERYで開催した筆者の個展「□より外」[22] の展示作品《□消し》のインスタレーションの一部の写真。天草の隠れキリシタンの葬儀「経消し」とその儀式で使われる教消しの壺のリサーチをして制作した。事件後に、ネットオークションで数百円で叩き売りされていた統一教会の壺を取り寄せ、筆者独自の儀式を通して叩き割った高麗大理石の破片がギャラリー床に落ちている様子。この壺の破片は透明の容器に納められ、作品《土は土に、灰は灰に、ちりはちりに(なぜくしゃみをしない?)》としてギャラリーで販売された。

 

日本で宗教が怪しい壺を押し売りするイメージが、どこからくるのか気になって調べた記憶もあるが、自分のリサーチが甘かったのか、いまいちどこの団体が壺を売っているのか分からずにいた。統一教会が名前を変える沿革のなかで統一教会とはっきり特定できる情報が当時少なかったのか、2022年の事件が起こるまで私は団体を特定できていなかった。ネットでは霊感商法という情報のみが多く見受けられたが、そのほとんどが統一教会だったというのはこれまた驚くことだった。一般的に宗教の話題の語られなさから、次第に人々の「宗教アレルギー」が生まれ、政治・社会問題でもあるカルト問題も話題にできなくなるほどの空気が、またその問題解決を遠ざけていたのだと思う。

今日の芸術文化における「壺」、または作品全般は美と資本の価値基準によって見定められる。それは合法的なマーケットに基づいて売り買いされていくため、当たり前にも霊感商法には到底当てはまらない。コンセプチュアルアートになれば、作品形態が見えないコンセプトに委ねられていく傾向もあるため、作品を説明するプロセスは、皮肉にもどこか否定できない前者との類似性があるように思う。けれどもその物質ではなく見えない美に、私は本気でその価値を見出している自分の立場も否定できない。それは、アートを信じる人同士で共有できる美への信頼性によって成り立つ共同体、もしくは宗教的共同体の中でのみ存在しうる「美への信仰」だと考える。一方で、美しいという評価は個人の価値観に委ねられているはずなのに、値の高くついたものは価値が分からなくても「すごいものらしい」と評価を少々強いられた感覚になることは、アートにおける資本主義宗教[23] にもよく見受けられる。一部のアート界隈では、すでに美と資本の価値のバランスが崩壊し、芸術が投資に使われて資本的価値だけで品定めが行なわれるようになっていることに対して、厄介なカルトを見るように私は警戒している。

 

スイスのローザンヌにあるヴォー州立美術館の企画展「Surrealism. Le Grand Jeu」(2024)にて鑑賞した、マルセル・デュシャンの作品《ローズ・セラヴィよ、なぜくしゃみをしない?》(1921/1964)の写真。TALION GALLERYで開催した個展「□より外」で壺の破片を作品販売する際に、筆者が参照した作品。リサーチしていた作品の本物を初めて鑑賞することには嬉しさもあったが、実際に観たその作品はやはりそれほど感動できるものではなかった。しかし、それもまた興味深い。

 

教会に通わなくなってから他の宗教をリサーチしていくなかで、自分の関心が徐々に強くなってきたテーマは、各々の宗教がどんな死生観を持つかについてだった。福音派の教会で、現世で自分が天国に行けるか試されているというビジョンを信じようとしていた過去の自分を振り返ると懐かしいが、その点では今の自分が何を信じているのかを考え続けてはいるものの、いまだにかなり曖昧だ。芸術を宗教として考えるとすれば、死後もどこかで誰かに保存され、語り継がれることにより半永久的に残り続けるかもしれない文化芸術の財産となる「作品」にアーティストの多くは自らの生きがいを追究するのかもしれないと思うことがある。美術館は墓場または霊廟であるとする美術館批判の言説[24] が存在する一方、その場が提供する死との出会いに次世代が影響を受けて新しい作品の生が誕生しているとすれば、死が所蔵されることも勿論大切に思う。

12月2日の裁判傍聴中に、裁判員から山上被告への質問で統一教会以外の宗教についてどう思うかと聞く場面があった。被告は意味深にも事件前かそれとも後かと聞き返したのち、事件前に仕事先で知り合った他宗教の2世信者と話した記憶から、その宗教は「現世利益」を一緒に共有するとして「一般信者にもメリットがある」と述べ、母親もそのような宗教を選んでいたら良かったのではと答えていた。統一教会が信者に高額献金を促す教義のひとつ「解怨」[25] では、献金しなければ先祖が恨んで子孫に悪さをすると説く手法で、この思想では現世利益は全くなかったとされる。

今年3月17日の国会で、高市総理は深刻化する未成年の自殺対策に対する質問の回答にその「解怨」の概念と酷似した7代前まで遡る250人の先祖という血統論を持ち出していた。[26] 本人が信者か否かということが気がかりというよりも、悲惨な境遇の中で自殺を選んでしまう子供たちに対して、個人の生と死の選択が先祖という他者により決定づけられるかのように語る、あまりにも核心から外れた答弁に私は唖然とした。与党の独裁的な立ち振る舞いに懸念が増す今の国会の中でも、この発言は特にリアルで恐ろしいと思った。世の中の自殺とされる多くがいじめや虐待、ハラスメントなどによるある種の「他殺」であると言える。表に見えづらいそれらの暴力を取り締まるどころか、逆にそれらに加担する権力がある限り、自殺の問題も、さらにそれに起因するカルト問題も根本的な解決はできないと思う。

 


 

*1 https://www.alicesparklykat.com/articles/704/February_2026_Horoscopes/
*2 https://www.instagram.com/datsuijo/
*3 文藝春秋2025年11月号 pp.190-199
*4 https://www.jiji.com/jc/article?k=2026030400229
*5 五野井郁夫、池田香代子『山上徹也と日本の「失われた30年」』集英社、2023、p.154
*6 https://www.theheadline.jp/articles/659
*7「「TM特別報告(統一教会幹部からTrue Mother 真のお母様への特別報告)」自民党に巣喰った統一教会」Tansa、2026年1月22日 https://tansajp.org/investigativejournal/13097/
「『スパイ防止法』は「治安維持法の再来」となるのか―海渡雄一さんインタビュー」Dialogue for People、2026年3月19日 https://d4p.world/35410/
*8 David Jays「You still hear the people sing: Les Mis protest anthem blazes from France to China」The Guardian、2020年2月13日 https://www.theguardian.com/stage/2020/feb/13/do-you-hear-the-people-sing-les-miserables-france-china
*9 https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000467813.html
*10 鈴木エイト「山上徹也と安倍晋三「運命が交錯した16年」」週刊文春2026年1月1日・8日号 p.177
*11 https://www.jiji.com/jc/article?k=2026030400229
*12 https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000468851.html
*13 https://www.asahi.com/articles/ASTD12TQXTD1OXIE00CM.html
*14 https://x.com/cult_and_fraud/status/1995655660068098366
*15 筆者の12月2日裁判傍聴メモ(「偶然とは思えない」という山上被告証言の2箇所抜粋)
1回目「6月末にも安倍元首相が(応援演説をしに)奈良に来ていたので、まさか自分が銃撃に失敗した翌日にまた来るとは思っていなかったので、偶然とは思えない気がした。」
2回目「本当に来たんだなと思いました。…(安倍元首相の)後方が空いていたので、撃つならこの方向だと。ただ真後ろに警備員がいたのでどうしたものかと。どこから撃とうか、横か前かと迷っていたら、真後ろの警備員が私が考えていた方向に移動した。これも偶然とは思えない何かと思った。自転車とか台車の人が横断して警備の目がそれにそれた。今かと思い、車道に入った。」
*16 https://www.youtube.com/watch?v=2RWcBzLlZD8 @OneselfAppearingと言うアカウントで筆者がコメントしている。
*17 https://www.theheadline.jp/articles/659
*18 映画『REVOLUTION +1』(2022)https://revolutionplus1.com/
*19 https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2545702?page=8
https://www.youtube.com/watch?v=VU_RI97APpA
*20 臼田宣弘「【書評】加藤喜之著『福音派─終末論に引き裂かれるアメリカ社会』」CHRISTIAN TODAY、2025年10月27日 https://www.christiantoday.co.jp/articles/35276/20251027/evangelical.htm
*21 イスラエル、「テロ攻撃」認定のパレスチナ人死刑法案を可決https://jp.reuters.com/world/security/TBSPVZ3SB5LLDJZDGJWICGDOZY-2026-03-30/
*22 https://taliongallery.com/jp/past/exhibition086/index.html
*23 ヴァルター・ベンヤミンが1921年に提唱した概念。資本主義を、神学的な教義を持たず、ただひたすら功利主義の「祭祀」を休みなく営む純粋なカルトと定義した。最大の特徴は、それが人々を救済するのではなく、無限の「負債(ドイツ語で罪も意味するSchuld)」を負わせる絶望のシステムだという点。哲学者ジョルジョ・アガンベンは著書『創造とアナーキー』(2017)でこの洞察を引き継ぎ、現代の金融資本主義が、人間の生そのものを負債の網の目に従属させる神学的な権力構造であると批判している。
*24 ボリス・グロイス『アート・パワー』現代企画室、2017、p.93
*25 櫻井義秀 『統一教会: 性・カネ・恨から実像に迫る』中公新書、2023、pp.172-174
*26 https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202603170000463.html

 


 

中島りか|Rika Nakashima
1995年、愛知県生まれ。アーティスト。理性主義や資本主義に基づいて形成された公/私の境界に疑問を抱き、都市空間におけるそのあいだの曖昧な境界(閾=いき)をテーマに、主にインスタレーション作品を制作する。現代における生と死の概念を手がかりに、現在は国内外の墓地や慰霊碑、または自然葬などのオルタナティブな埋葬のあり方のリサーチを行なっている。主な展覧会に「TOKAS Project Vol. 8 絡まりのプロトコル」(TOKAS本郷、東京、2025)、「INTERSTICE」(le ventre、ヘーゲンハイム、2024)、「□より外」(TALION GALLERY、東京、2023)、「I tower over my dead body.」(Gallery TOH、東京、2021)など。2022年よりプロジェクト「脱衣所 – (a) place to be naked」を始動し、以降はメンバーとともにさまざまな企画を手がける。(2025年11月にスペースは終了し、以後はポップアップ形式で継続している。)2023年10月以降、パレスチナへの寄付金を募る企画やイベントの運営にも注力し、2026年より政治や社会の出来事にアートが即時的かつ批評的に応答するための対話型プラットフォーム「アート・リスポンス」を開始、定期的にイベントを行なう。
https://www.rikanakashima.com/

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