連載 田中功起 質問する 17-6: 未来のあなたへ

第17回(ゲスト:田中功起)―過去との往復書簡 あいちトリエンナーレ2019の、渦中のひとに向けて

「あいちトリエンナーレ2019」参加前後の自分自身との往復書簡。この想定で始まった今回、しかし時を超えた手紙は書かれませんでした。締めくくりとなる今回は、田中さんが当初考えていたこと、いま考えていることを率直に綴ります。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:あいちトリエンナーレ2019について

 

あいちトリエンナーレ2019について書く今回の往復書簡はいまのところ往復していなかった。一方的にぼくから過去や未来に向けて書きつづけてきたけど、この最後の手紙は(当初の計画では)、過去からの返信が現在のぼくに届いた、という体裁にする予定だった。つまりフィクションとして。でも書き進めていくうちにどうしても先に進めないことに気付いてしまった。
相手がいる往復書簡というルールを一時的に変更し、ぼく自身の過去や未来との対話として書いてきた今年初頭からの複数回はここから通常モードになる。過去や未来を想定して書くのではなく、いまのぼくがいまこれを読んでいるあなたに向けて書いている。いや、それでは往復書簡の体裁を保てていないけど、次のサイクルではまたゲストをお願いするので、この手紙は現実に戻るための目覚めのアラームのようなもの。

いままでの往復書簡は、相手と併走することで数ヶ月にわたって書きつなぐことができた。でも今年に入ってからここまでひとりで書いてきたけど、正直かなりしんどかった。そもそも誰があいトリについてのこんな細かい話に関心を持つのだろうか。そう思っていた。それでも書きつづけたのは、かっこよくいえば未来のため。将来、誰かが気になってあいトリ問題を調べたときに、ひとつのガイドになるようなものが必要だと思った。公式カタログにも時系列で事の経過が記録されているけど、そこに記録されていないこともぼくは残しておくべきだと思ったのだ。

 


2019年7月8日 愛知県立美術館にて

 

書かれなかった手紙について

 

さて、まず書かれるはずだったフィクショナルな手紙についても触れておく。ここでフィクションの設定をつかってまで書こうとしていたのは、あいトリの展覧会としての評価である。もし仮に「表現の不自由展・その後」閉鎖問題が起きなかった場合(つまり一部の「市民」や政治家による「攻撃」がなかった場合――この設定自体が非現実的だよね)、どのようにあいトリは受け取られたのか。過去に遡って、そこで分岐した別の可能性について書こうとしていた。むしろこう書いたほうが正確かもしれない。どのようにぼくはあいトリを見たかったのか。たとえば7月の時点に戻って、そのときにあいトリについて考えていたこと、期待していたことをここに書き記しておきたいと思っていた。「不自由展」閉鎖前の、「市民」による憎悪の波が訪れる前の、平穏なあいトリの状況から冷静に読み解くこと、それは、ある意味では希望のようなものになるはずだった。

その希望について少しだけ書いてみる。
社会問題や政治は、ぼくが学生のころは(1990年代後半)、避けるべき表現の方向性だった。2000年に大学を出たころも、社会問題を扱う政治的表現は大げさな身振りによる方法論でしかなく(いまはそう思っていない)、それとは真逆の身近なものに関心を寄せたいとぼくは思っていた。当時のぼくにとって「身近」であるというのは、文字通りに手を延ばせば手に取ることのできるものを扱う、という意味だった。例えばトイレット・ペーパーとか、その辺に転がっている物体を使って、技術も必要としない、DIYの精神にのっとった、誰にでもできる芸術を目指していた。でもそれは結果として、ポスト・バブル期の経済的に低迷する日本社会を反映した表現である、と解釈された。実際とてもチープな素材を作品制作につかっていたわけだし。経済的に厳しいことはぼくらの世代にとってはあたり前のことだった。「日常」もこの世代の表現を示すキーワードとして使われていた。
当然の指摘がここであると思うけど、本来は身近なところにこそ社会の諸問題は隠れているし、そうしたパーソナルなことこそが政治なんだと思う。

それでもぼくは社会から目を背け、ずっとトイレット・ペーパー(比喩的な意味でだけど)を扱っていた。それが揺り動かされるのが2011年の震災と原発事故である。多くの日本にいたアーティストがそうだったかもしれない(まあ、ぼくはそのとき日本にはいなかったけど)。社会的な問題や政治を扱うことが自然なことになった。震災以後の社会を考えることは、原子力を考えることは、ぐっと身近な問題になり、切実な問題になり、自らの問いになったわけである。日本の現代美術がそうやって社会性を取り戻していく、当時そんなふうにぼくはロサンゼルスから日本のアート・シーンと自分自身の変化を観察していた。
その大きな流れのなかで、2019年のあいトリは日本の現代美術(史)におけるソーシャル・ターン(社会的転回)を担う象徴的な展覧会になるんじゃないか、と思っていた。そうした美術史上の転回について書いておきたいと思った。これはそのままぼく自身のこの10年の変化にも関係する。でも、この視点は素朴すぎた。
希望を書くには素朴さが必要だ。屈託なく書かなければならない。ぼくにはできなかった。ぼくらは過去に戻ってこの世界をもう一度やり直すことはできない。このあいだに経験したことをいったんリセットしてあいトリを見直すことに意味を見つけられなかった。トリエンナーレが終わってから一年以上がたったいま、希望について脳天気に書くことは難しい。

 

「あいトリ」がなくなったこの世界から

 

行き詰まってつづきが書けなくなったもうひとつの理由は、あいトリの名称変更問題が気になったからである。「新・国際芸術祭(仮称)」という仮の名前が使われはじめている。名前をそうやって変えるということは、以前のあいトリとは同一ではない、という明確な意思表示である。たとえば「ゴジラ」と「シン・ゴジラ」の関係性は明確である。それらが同一シリーズであることは疑われない。少なくともあの「ゴジラ」とこの「ゴジラ」は同種の別バージョンとして認識される。しかし新しい展覧会は「新・あいちトリエンナーレ」や「シン・あいちトリエンナーレ」ではなく、「新・国際芸術祭(仮称)」である。それは現時点では抽象的な名前にすぎない。「国際芸術祭」というのは日本に「ビエンナーレ」が輸入されるときに使われてきた一般名詞である。例えば「ゴジラ」が、次からは「新・怪獣映画(仮称)」という名称になります、と宣言するようなものだ。その抽象性には「あいちトリエンナーレ2019」の色を脱色して、一旦プレーンに戻したいという欲望がはっきりと読み取れる。この名称変更には暴力性すら感じられる。内実はある程度同じなのかもしれない。中心となる開催場所も愛知芸術文化センターなのだろう。でも、この名称変更によって、あいトリはあっさりとなくなってしまった。
個別具体性を欠いた抽象的な名前。抽象の暴力によって、2019年のぼくやあなたの懸念、迷い、行為、行動、その経験でさえもなかったことにされようとしている。ぼくやあなたがあいトリ経験を経て2020年の現在考えていることもまとめて忘却しよう、という宣言にも思えてくる。

この脱色/リセット/忘却という抽象的ながら(ゆえに)実効的に思える暴力を前にして、ぼくがここに書こうとしていたのはフィクションとしての希望だった。それはまったく意味がない。
過去に戻って、展示準備中の気持ちを思い出して、展覧会を想像し直し、そこから可能性を拾い集めてくる。展示される作品群やパフォーミング・アーツの演目、映画部門や音楽部門も含めて、自由に作品同士を繋げて、こんな順番で見ると作品同士の関係性が見えやすくなる。こんなテーマの繋がりもある。そんなことを書こうとしていた。
でもいまはそうすべきではない、と思う。
希望はない。まずはその認識に立ち、それから再スタートする。

田中功起
京都にて
2020年10月25日


近況:
個展「可傷的な歴史(ロードムービー)」(アートソンジェ、ソウル)がはじまり、グループ展「抗体」(パレ・ド・トーキョー、パリ)にも参加しています。ただしパレ・ド・トーキョーはパリのロックダウンの影響で閉鎖中(それを予想してか「抗体」展のwebコンテンツを充実させていました)。行われる予定だった「How to Survive – art as survival strategy」(Sprengel Museum Hannover、ハノーファー)もロックダウンによる影響でオンラインに移行の予定。担当講師を務めたゲンロン新芸術校 第6期 グループCの展覧会「『C』 戻れ→元の(世界)には、もう二度と←ない」(ゲンロン五反田アトリエ)が2020年11月15日まで開催中です。

 

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