連載 田中功起 質問する 16-6 :ハン・トンヒョンさんから3

第16回(ゲスト:ハン・トンヒョン)―アーティストは「社会」を必要としている、のか

社会学者のハンさんとの往復書簡。ハンさんの最後の書簡は、社会学とアートの協働について改めて自身の考えを述べつつ、『可傷的な歴史(ロードムービー)』をめぐる作り手の創造性について問います。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:『可傷的な歴史(ロードムービー)』上映を経て、とりあえず最後に、そして改めて

 

田中功起さま

「むしろ納得していたからスルーしていた」――その言葉だけで十分でした(笑・いや単に、つねに不安なのです)。それは半分冗談ですが、1通目の返信での投げかけに対し、最後にとても丁寧に応じてくださってありがとうございました。私はアートについては門外漢なので、アーティスト側からの見方は、とても勉強になります。

 


町の人口の1割をブラジル人が占める群馬県・大泉町で。歩道橋がブラジルカラーの緑と黄色だった。
4月1日、外国人労働者の受け入れを拡大するための新たな入管法が施行された。

 

とはいえ前提として何点か。「アートが社会学に(美学を)提供する」という問題設定は想定外で、こちらが提示したものではありません。私はあくまでアート作品の制作における協働を前提に考えていたので、社会学の側におけるアートへのニーズについては想定していませんでした。また役割分担については、具体的な協働ではなくもう一段抽象度の高い議論として提示したつもりでした。さらに、理論と論理が混同されているような……。要は、SEAをめぐる話のなかで出てきたいくつかの要素の整理として、運動とジャーナリズムを具体の領域に、芸術と学術を抽象の領域に位置づけたうえで、そこでの主たるアプローチが芸術は美学、学術は理論ということで、当然ながらそれぞれにそれぞれの論理(と感覚)が存在するのだと思います。

話を整理しようと4象限のようなものにしてしまったのですが、それがむしろ理解を妨げたところもあったかもしれませんね。あれはあくまで便宜的なもので、当然ながらすべてが並列というわけではありません。だから今回、田中さんが私の整理について、(私は必ずしもそのように示したつもりはありませんが)論理と感覚の二分法と受け止め、そこに違和感を抱いたことも、またそれぞれに別の論理が存在しその先に感覚的なものがあると書かれていたのも、よくわかります。私の感覚としてはむしろ、協働について語るためにはそれぞれの差異、独自性について明確にするプロセスが必要だと思ってあのような整理を試みたわけですが……(リスペクトがあるがゆえ、です)。

とはいえこのすれ違い(?)こそが、言葉、そして論理の限界なのかもしれません。この往復書簡は言葉のやり取りであり、文系の学問も基本的には言葉の世界です。論理的であることに努め、言葉を尽くしても(尽くした、とは言いがたいかもしれませんが)、噛み合わなかったりすれ違ったりすることはある。だからこそ、様々な手法を駆使し、他のジャンルからも貪欲に取り込みつつ、言葉や論理の外の世界を扱える芸術に価値があるし、うらやましいと思っているのですが……(同時に、当然ながら意思疎通、理解し合うという意味では、言語や言語外のもろもろも動員しつつ行われるコミュニケーションの蓄積、それによる信頼関係の構築も大事ですよね。往復書簡には、往復書簡の外の私たちの関係性があるし、協働による作品にも、作品の中だけでなくその外に協働にかかわった人々の関係性がある)。

 

『可傷的な歴史(ロードムービー)』上映をめぐって①

 

ということで、ここからは、シアターコモンズで上映されたシングルチャンネルの、「映画」版としての『可傷的な歴史(ロードムービー)』について。

私は上映後、あの場でモデレーターとして観客とともに語り、また打ち上げの席で田中さんに直接伝えましたが、アーティストとしての語りのメタ視点の部分での「難しい」という言葉が、がっかりさせるものになってしまっていた、というのが、そのときの主な感想でした。簡単に答を出せないという弱さを見せようとする誠実さがそうさせたのだと思うけど、難しいと簡単に言ってしまうのはむしろ軽さや逃げに見える、逆の効果を生んでしまったのではないか、と。

ギャラリーや美術館で鑑賞するマルチチャンネルのインスタレーションに比べ、映画館で上映されるシングルチャンネルの1本の「映画」は、受けとめ方において見る側の裁量、能動性により制約があるように思います。それは、作品そのもののなかでの作り手の意図、あり方をよりクリアにせり上げるような効果を持つ。観客は映画館という空間で身体的に拘束された状態でいわば受動的にそれを見せられるわけで、メタな部分の扱いはより難しくなるのかもしれません。メタな部分がメタな部分として存在していてもしていなくても、それが全体にいかに構造的に織り込まれているのかが問われてくるのだと思います。

たとえば一般的なドキュメンタリーの観客は、そこに作り手の変化や成長を読み込もうとします。私は3通目の書簡で田中さんが「ずっとぼくの作品には情緒がないと言われてきました。アイデアだけであると」と、書かれていた率直さに心を揺さぶられました。このような作り手の感情の取り扱いが、よくも悪くもある種のドキュメンタリーのひとつの鍵になると思います。

設定と操作、つまりコントロールに対する意思は見えるのに、テーマと対象に対する意思と変化が見えない。こだわっているとおっしゃっていたとおり、「人びとの感情の機微に宿る政治性」――本作においては優希さんが自身の問題を語りやすい環境を整え、優希さんの気持ち、その「感情の機微をその複雑さのまま記録する」ことがおそらくできていたからこそ、その背後にあるアイデア、つまり設定と操作の存在感、印象がむしろ強まってしまって、作り手のテーマに対する意思と変化が見えにくいことが、一部の厳しい批判につながったのだと思います。要は、映像の美しさと巧みさゆえに、コントロール≒予定調和からはみ出る部分がないように見えてしまったのではないか(「理想の記録」を目指し、よりフィクショナルなものを指向していくのだとしたら、的外れなコメントになってしまっているのかもしれませんが)。

 

『可傷的な歴史(ロードムービー)』上映をめぐって②

 

6つのレイヤーからなる複数のチャプター。1通目にも書いていたことなのに、上映を見てモデレーターを務め、考えたうえで、改めて作品の構造について解説されると、まったく見えてくるものが違いますね。

6つのレイヤーがそれぞれバラバラのチャプターとして組み立てられていることで、個人のアイデンティティの話と社会的な構造や歴史の話、言い換えれば小さな物語と大きな物語が因果というかたちでなく並置されていた。違和感なくつながっているように見えましたが、おそらくオーソドックスなセオリーからは逸脱していて、だからこそひとつの物語として成立させるのは簡単なことではないし、場合によっては批判も招きかねない。でも、この辺がつながっているようでつながっていなかったりするのも、在日コリアン――だけに限ったことではありませんが――個々人のひとつのリアリティで、それは、ひいては在日表象としての新しさを生んでいるようにも思いました。

日本社会の、そして世界的なバックラッシュの状況下で、後景に退けられていて、語ることが難しくなっていた、個人的なアイデンティティの、小さな物語が語られるということ。それは田中さんの作為的なようで実は天然なところが可能にしたのかもしれないと思っています(ほめているつもりです)。思えば私自身は、水戸でそういう話をあまりできなかった。それはやっぱり、「人びとの感情の機微に宿る政治性」をとらえようとし、その「感情の機微をその複雑さのまま記録」しようとした試みが、今回、ある程度成功したということなのかな、と。でもだからこそ、大きな物語と、この映像のなかで自らのアイデンティティについてはvulnerableじゃなさそうに見えるクリスチャンの間で、どこかちゅうぶらりんになってしまう優希さんの物語、優希さんの問いの行方が気になってしまうところもある。そこはやはり作り手に返ってくるところで、改めて田中さんの受け止め方が問われてしまうのだと思います。

私の書いていることももはやあまり整理されていませんが、2通目で問いかけたこと――共有した知識が、最低限の倫理としてではなく、作り手の創造性として、どのくらいどのように発揮されたのか。この問いについては、今後も考え続けながら、見届けていきたいと思っています。さらに作り手が、何を発見し、何を更新したのか。それをいかに提示していくのか(それともしないのか)。そこに、当事者との距離(の変化)をいかに織り込めるか(それこそが、当事者と非当事者の二分法ではない新たな地平を提示するものだと思ったりもするのですが。また同時に、この間やり取りしてきたような、協働のあり方、協働のかたちの問題もここにかかわってくるかもしれません)……。

田中さんが書いていた、言語の積み重ね、映画でもなく本でもない、その中間にあるようなものとしての映像。それはやはり、アートならではのもので、その自由度こそがアートなのでしょう(アートはアートである、という言明でしかもはやアートを規定できないけれど)。さて、そんなアートは社会を必要としているのでしょうか……? とりあえず、あいちトリエンナーレでの新作を楽しみにしています(そういえば津田さんは、アートはジャーナリズムに近いかもしれないと言っていた・笑)。続きはまた直接!

2019年4月

 

近況:毎年1年生の担任をしていることもあり、この時期はいつもプレッシャーで憂鬱かつ疲れています(苦笑)。5月には、2014年に出た『平成史【増補新版】』(河出書房新社)をさらに加筆修正した『平成史【完全版】』が刊行される予定。私の担当は「外国人」改め「外国人・移民」です。この改題が象徴するところを、歴史的な流れのなかで把握できるように努めたつもりなので、ご一読いただけるとうれしいです。


【今回の往復書簡ゲスト】

はん・とんひょん(韓東賢)
日本映画大学准教授(社会学)。1968年東京生まれ。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンを中心とした在日外国人問題。最近は韓国エンタメにも関心あり。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィー)――その誕生と朝鮮学校の女性たち』(双風舎、2006年.電子版はPitch Communications、2015年)、『平成史【増補新版】』(共著、河出書房新社、2014年)『社会の芸術/芸術という社会――社会とアートの関係、その再創造に向けて』(共著、フィルムアート社、2016年)、『ジェンダーとセクシュアリティで見る東アジア』(共著、勁草書房、2017年)など。「Yahoo!ニュース個人」で不定期執筆中。
 

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