田中功起 質問する 15-6:藤田直哉さんから3

第15回(ゲスト:藤田直哉)― 展覧会の「公共性」はどこにあるのか

批評家の藤田さんとの往復書簡。藤田さんからの最後の手紙は、アレントによる『人間の条件』を参照しながら、芸術にとっての「公共」の意味を考えます。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名:アレントの芸術観に抗い、アレントの美学を作る(試み)

 

田中功起さま

お元気ですか。返信が遅くなりまして大変申し訳ありません。
以前この往復書簡に参加なさった杉田敦さんが彼の三通目の冒頭に「何かを積み残してはいけないとか、一定の結末を描かなくてはならないという、意味のない使命感とも距離を保たなければという勝手な思い込みもあって」と書かれていらっしゃいますが、ほとんど同じ気持ちです。これまでのやりとりの全てに応答しなきゃとか、二通のメールで積み上げてきた内容に対して「序破急」的なオチをつけなきゃとか、ついつい思ってしまいますね。

しかし、それをやろうとすると、半年ぐらい書簡が遅れそうです。なので、今は、この締め切りまでの間になんとかできる範囲の応答だけをしようと思います。現実の世界でも、限られた時間の中で、完璧に理解はできていなくても、何か決断し行動し応答しなくてはならないことって、たくさんありますよね。自分の応答が非常に限界のあるものでしかなく、きっと未来になってもっと理解度が上がっている自分が読んだら恥じ入るものになるだろう、ということを覚悟の上で、「えいや」っと投企(?)のようにお手紙を書くしかないのだと思います。


2017年のハロウィン、渋谷。若者が自発的に公共空間に集まっている稀有な場

 

アレントの美学を、アレントに抗って作る

 

さて、前便で「美術」と「公共性」を架橋するために「アレントの美学」が必要なのかもと言いました。そして、実際にアレントを読んでそれを作ってみようと思いました。が、いざ実物を読みながらあれこれ考えていると、うまくいかない部分が出てくることがわかりました。まずは、その話からしたいと思います。

アレントが芸術について語っている代表的な著作は『人間の条件』と『カント政治哲学講義』です。ここでは、代表的な著作である『人間の条件』を取り上げることにします。

『人間の条件』の中でアレントは、有名な三つの概念「労働」「仕事」「活動」を提出しています。「活動」は、生命維持のための必然性や有用性の要素がほとんどなく、自発的に他者と交わっていく悦びそれ自体の中で、自分自身でも知らなかった姿が自他に開示されていく、対話的な行為だと言われています。

「多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう」(*1)という記述を見ると、多文化主義的な、違いや個性を認め合う価値観それ自体が「活動と言論」が生産されるために必要な「条件」だとしており、この考え方が、現在の多文化主義的な芸術のパラダイムにとてもよく合うのは確かだと思います。

前回確認したように、アレントの「公共性(公的領域)」観は特異で、普通日本語で「公共事業」などと言うときのような、国家や自治体というニュアンスとは全然異なっています。生存のために必要な範囲を超えて人間が何かをして人と交わり、言論活動をすることによって、「人間とは何か」が認識の世界の中に創設されていき、動物ならぬ「人間」とは何かが自分自身によって発明され更新されていく、そんな空間というニュアンスです。なぜ人がそれをするのかといえば、「卓越性」を目指すからだとされている。要は「目立ちたい」とか「認められたい」とか「歴史に名を残したい」からだとか、そういう動機で人は「活動」をすると考えられています(もっと高尚な動機なのかもしれませんが)。

その、自己の定義を更新し、新しい認識や思考・感性の世界を生み出していき、なおかつ、直接的な生存のためには有用でないという性質の部分が、「美術」のあり方に似ているのではないか。非物質的で、社会や地域と関わる芸術を評価する「美学」は、このアレントを参照すれば作れるのではないか。前回、そう言いました。

が、現在主流の、コミュニティ・コミュニケーションを造形する、非物質的な部分に核心があり、社会や地域に関与するタイプの芸術に応用可能な「アレントの美学」を構築するためには、アレント自身の芸術観に抗わなくてはならない、ということがわかりました。というのも、アレントは「活動」と「芸術作品」を対立的に考えているからです。

「芸術作品は、そのすぐれた永続性のゆえに、すべての触知できる物の中で最も際立って世界的である」(*2)とアレントは言っていますが、同時にそれは「死んだ」ものだとも言っています。どういうことかというと、優れた芸術作品は理念的には永続性を保つし、生み出した人間よりも長く残り、他の人間にとって「環境=世界」を構成する部分となる、その意味で永続性がある。言葉とか、芸術とかによって生まれる認識とか概念とかのおかげでぼくらは「リアリティ」を共有できるようになる、その「共有」の領域がアレントのいう「公的空間=世界」です(この概念は、どこか、保守思想家やコミュニタリアンの言う「伝統」に近い印象です)。

しかし、生きて動いている思考や生命と比すれば、形にするために「流れ」を止めたものであることも確かで、その意味で作品そのものは物質としては「死んで」いる。「活動」は流れで、アレントの考える「芸術作品」は、あくまで物質的な芸術作品モデルに留まっている。

もしぼくたちが、現在の芸術を論じるために「アレントの美学」を作り上げるとしたら、このアレントの物質に偏った芸術観を否定しなければならないでしょう。生きた思考、生命が、言論や創作などで社交したり議論したり衝突しながら何か新しいものを開示していくダイナミックな運動、そういう「活動」をベースにした美学は、一部はアレントの考えを借りながら、一部はアレントの芸術観を否定し乗り越えなければならない、そういうものになりそうです。

 

死んだ「物」と、生きた「活動」

 

アレントはこんなことを言っています。「芸術作品は、偉業や達成を称賛し、ある異常な出来事を変形し、圧縮して、その出来事の完全な意味を伝える。しかし、行為者と言論者を顕にするという、活動と言論に特殊な暴露的特質は、活動と言論の生きた流れと解きがたく結びついているから、この生きた流れは、一種の反復である模倣によってのみ、表現され、『物化され』る」(*3)と。

すごく単純に言い換えると、「活動」をしている、つまり、生きて創作したり話したり動いたりしている人それ自体は芸術作品ではないが、それを伝記にしたり劇や物語にすれば(模倣すれば)物質として、芸術作品となるのだ、ということだと思います。

これを読んで、ぼくは田中さんの作品と、田中さんの作品の多くの撮影を担当されている藤井光さんの作品のことを思い出しました。そこにいる人々は、現場に来て、何が起きるかわからないまま「社交」する。「議論」や「自己開示」をする。それは「活動」です。その生きた流れを、カメラとマイクが記録し、映像や音声のデータに変換し、再生可能にする。つまりは伝記を書くのではなくて、カメラとマイクによって「模倣」し、展覧会場などで上演ならぬ上映をしている。おそらくそういう関係になっているのでしょう。「活動」と、物質としての「芸術作品」を両立するアイデアになっていたのだなと、今頃ようやく思い至った次第。

思えば、田中さんにも参加していただいた論考・対談集『地域アート』の中で、藤井さんは最初からこのことを語っていらっしゃった。藤井さんとの対談のタイトルは、「エステティック・コンディション」というもので、これは藤井さんが書かれた論文のタイトルからお借りしたものでした。アレントの『人間の条件』は(英語をカタカナに直せば)「ヒューマン・コンディション」というタイトルなのですから、藤井さんはそれを明確に理解し実践されていたわけですね。

……随分と「遅れ」を伴った理解に恥じ入るばかりですが、しかしこういう「遅れ」というのは(自己弁護みたいで恐縮ですが)、結構重要なことで。自分自身が、相手から受け取った言葉を、数年越しに理解するという経験は、実は結構頻繁にあることでして。自分がそうやって遅れを伴う理解をするからこそ、その場では伝わっていないとしても、何か言葉を発信したり、表現することの可能性を信じられるようになったりします(そのときは言われてもわからず反発などもしていたことを、数年後越しで理解することはとても多く、その度に反省し赤面することしきりです)。

 

批評と責任、あるいは、作品と生の流れ

 

おそらく、田中さんが「批評性と責任」で問題にされていることも、このアレントの分裂の観点から考えると整理しやすいかもしれません。高山さんの「ワーグナー・プロジェクト」は、田中さんの記述から判断する限りでは、上演と活動(生成)が一致するような劇を構想し、実現させているように思います。活動を記録し、再現して上演するのではなく、活動それ自体が上演になるというものですよね。

一方、生活や生そのものである「ふれあい館」は再現できないし、再現されるべきものでもないし、再現されようとも思っていないし、されなければいけない理由もない、と当人たちも思っている類のものかもしれません。磯部涼さんが『ルポ川崎』という本に書いたように、外部にいる他者が記述することでそれが表象されることはあるでしょうし、それには意味があると思いますが、基本的にはこの二つの差はあるでしょうね。

「活動」が同時に「記録(模倣)」や「再現」などに結びつく……実はぼくは、最近はこういうものって結構あるって気がしています。たとえば、SNSでの論争などもそうだと思います。人々が言葉でやりとりするメディアスペースを、ハーバーマスの言った意味で「公共圏」と呼べるとしたら、SNSは紛れもなく公共圏です。そこで話されている内容がいかにくだらなくても、公共圏なのでしょう。希望を持てるかどうかは、別の話として。

そこでは人々が、インターネットを通じて、言葉によって「社交」したり「議論」したり「論争」している。当人たちがリアルタイムに近いチャットのような時間軸で使っている場合、そこには「活動」がある。生きた思考と精神の流れのようなものがある。同時に、それは字を書いてネットに投稿しているわけですから、SNSのサーバーに絶えず記録されていき、他の人々が引き出して表示できるようになっていく。「活動」と「記録(模倣)」と「再現」が重なり合うように起こっているわけです。

多分、SNSの面白いところは、この性質にあるんじゃないでしょうか。SNSに自己パフォーマンスの要素があるのは確かですが(日本でツイッターが普及し始めた頃に、津田大介さんが、その「広告」の機能を強調していたことを覚えています)、研究者や物書きのSNSの使い方を見ていると、どうもそのような有用性を超えた使い方をしている。それを「SNS依存」「承認欲求」と看做すのは容易いのだけれど、生存のためや有用性のためという範囲を超えた自発的で自由な行為である「活動」をしていると看做してもいいのではないか。「いいね!」なども、「承認」であり、アレントの言う卓越性への志向を動機付けているのかもしれない。

SNSは「公共」である、そう考えると、むしろそこに「プライベート」があるという認識の方が錯覚なのかもしれない。アレントは「公私」の区分けに非常に拘った人で、彼女の「私的」な領域とは「親密圏」のことで、つまりは家庭の中とか、家族や愛人との隠された領域のことだった。「開示しない」あるいは、見られることを拒む「プライバシー」の領域、それが「私的」な領域です。SNSで自己開示しているものが「私的領域」なのか、実に怪しい。AKB48が、楽屋や自宅などの「私的」「秘密」を暴露しているような見かけをしていつつ、周到に計算し演出して「見せている」のと似ているかもしれません。それは「私的」「親密」を錯覚させる演出に過ぎない、と考えることが、冷静な判断かもしれません。

ハロウィンの日に渋谷に集まっている若者を見に行く機会があったのですが、公共空間に勝手に集まって、見知らぬ人同士がコミュニケーションしているという意味では、祝祭的な公共性のようなものがあったかもしれないし、「活動」的な要素もあったかもしれない、とも思います。しかし、そこで興味深かったのは、多くの人がコスプレをしていて、互いに撮影したりしているし、カメラで生放送を行っている人たちも多いんですよ。見られる、撮影される、放送される、ということが、その祝祭性や公共空間の成立条件に織り込まれている、と考えるしかないと思います( TVでよく放送される渋谷の交差点をわざわざ祭りの場所にすること自体、それがリアルスペースとメディアスペースの双方に意識の上で跨っていることの証拠ではないかと考えています)。そこでは「活動」と「記録(模倣)」と「再現」が不可分になっている。
この話題がどこに繋がるのか、わかりません。単なるアイデアとして、投げ出しておきます。

 

第一の誕生と、第二の誕生

 

田中さんは「批評性と責任が相互に関係し合い、繋がり合うような状況。ぼくはそんな場を来たるべき展覧会として想像します」と書かれていました。

こういう「批評」と「責任」などと書かれると、ついつい、戦時中に書いた批評について、「戦争責任」のようなものを問われた小林秀雄が「僕は無智だから反省なぞしない」と居直った件を思い出してドキッとするのですが、文脈的にそういう話ではないですね。

「批評性」とは美術の自己批評性で、構造があるもののこと。「責任」は、「ふれあい館」のような生きる行為それ自体のことですね。

田中さんが狙っている領域、広げようとしている箇所は、非常に明瞭だと感じます。そしてそれがどのようなものになるのか、ぼくも知りたい。

「『批評家』と『活動者』としてのその個人は、一時的な判断と長期的な判断保留の間で、いったりきたりします。その場限りの出来事への反応と人生という長さは、ひとりの人間の中に同居します。美術館という制度も、そもそもそういうものだったはずです。現状に対応する一時的な企画展と、作品収集と調査研究による長期的な活動。その双方の往復が、美術館という場所に意義を付与している」と田中さんは書かれている。

時間性については、完全に同意します。ぼくらは、回顧展を見たり、全集を読んだり、作家の死後に刊行される伝記や研究などを読むことで、自分自身の人生や仕事の成果すら、そのような長期的な視点から理解するようなバーチャルな視点を内面化していきますよね。

本人すらわからない「生涯」の実践の意味を、キュレーターや研究者たちが後から「作っていく」、そして評価や解釈は変えられて更新されていく、それを身も蓋もない単なる事実として目にするわけですから。

今ここでぼくたちが全力で生きて、努力して、実行していることが、人生の終わりの時点や、あるいは百年後にどういう意味になっているのか、どう意義付けられるのか考えつつも、「未来がどうなるかなんてわかるわけないだろ」という半ば投げやりな自由の感覚も持つわけです。

価値判断のパラダイムすら根本的に変動するかもしれない未来に対するバッファとしての「判断保留」の感覚をどうやって増大させていくのか。それは難しい話です。似た問題系だと思うんですが、大学の研究も、今すぐ役に立つ有用で成果が出るものを研究せよという原理に次々と侵されてきています。何もかも、短期的な思考しかできなくなっている。

このことにどう対応するか。これについての、ちょっとしたアイデアが、アレントの美学の中にもありそうに思いました。
最初に、「労働」「仕事」「活動」というアレントの大変有名な区別を紹介しました。「労働」とは「人間の肉体の生物学的過程に対応する」とされている。生き物としての人間の生命の維持に関係する作業のことです。それに対して、「活動」は、そういう生存の物質的・動物的条件から自由なものとされています。
しかし、本当に対立しているものなのか。

「活動は、出生という人間の条件に最も密接な関連をもつ。というのは、誕生に固有の新しい始まりが世界で感じられるのは、新来者が新しい事柄を始める能力、つまり活動する能力をもっているからにほかならない」(*4)

「活動する」とは、語源において、「始める」ことである。それは「第二の誕生に似て」(*5)おり、「新しいことは、常に統計的法則とその蓋然性の圧倒的な予想に反して起こる(…)したがって、新しいことは、常に奇蹟の様相を帯びる」「人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」(*6)

つまりは、人間は生まれるだけで「活動」である。「活動」によって新しいものを開示するのは、誕生という「始まり」への反応である。

「『始まり』としての活動が誕生という事実に対応し、出生という人間の条件の現実化であるとするならば、言論は、差異性の事実に対応し、同等者の間にあって差異ある唯一の存在として生きる、多数性という人間の条件の現実化である」(*7)

……これは実に奇妙な話で、活動は「公的領域」の話だったはずなのに、むしろ「私的領域」の親密圏での行為によって生じる「出産」の延長線上に「活動」があると考えられている。それは「自由」な行為であるのに、生物としての身体に強く条件付けられている。

ひょっとすると、ここになにがしかの道がないか。奴隷に働かせてモノを考えて社交しているような自由な人間の「活動」と、動物的な生存を維持するためだけの「労働」とが、対立にならない道が。

 

芸術の「出産-赤ん坊モデル」

 

言論その他の「活動」が「第二の誕生」だというのは、実体験に即してみても、よく理解できます。
何かを書くことによって、自分が何を考えていたのか知ることも多いですし。議論の中で、自分自身の固有の拘りについて知ることも多いです。作品との出会いの中で、自分の価値判断の根拠を探ることを通じて、自分の特有のどうにも変更しようもない感覚を知ることもある。あるいは、作品や言葉から受けた何かが、時間をかけて自分に影響していることも強く感じます。それは、はっきり言語化して意識されていなかったりするし、公言しない場合の方が圧倒的に多いのですが。
そうやって、絶えず自己更新していく人間のあり方を、アレントは、宇宙と生命の歴史と結びつけ、壮大なビジョンで語っています。

宇宙に惑星ができて、無機物から有機物が生じ、有機物から生命が生まれ、動物から人間が進化し(これはアレントが実際に書いていることです)、そして精子が卵子に受精し、生まれてくる。宇宙から無機物を通じて生命の進化の一番先っちょに生まれてくる。そういう生き物として、人間は、とにかく「生もう」とするし、これまでの狭い世界を打ち破って「生まれ直そう」とする。

……こういうビジョンは、長いスパンの「時間」の感覚を意識させたり、有用ではない何かの価値を多くの人に感じさせるために、「使える」のではないか。
ぼくたちが「責任」を否応なく持たされるのは、出産のあとです。新しく生まれた子供の人生に、親は責任を持たなくてはなりません。赤ん坊は、そのままでは特に有用な存在ではない。何につながるのかわからない学習や実践を繰り返す。何がどのように影響するのか、超長期的にしかわからない。

このような、「出産-赤ん坊モデル」で芸術を考えたらどうか。これだったら、一神教の伝統のない日本でも実感を伴った共感的な説得力を持ちうるのではないか。壮大なSF的ビジョンと、進化論っぽさは、理系の人にも説得力を持ちうるかもしれません。

ぼくたちは、まだ(第nの誕生という意味で)生まれていないから、生まれるために、社交をするし、何かを作ったり発信したりする。そのことで、世界を認識するための装置が積み重なっていく。この「積み重なり」の世界こそ「公共性」なのでしょう。

次々と人類それ自体が更新されていき、同時に世界それ自体も更新されていく開放的な未来に向けて(アレントの考えでは、宇宙開闢から惑星や物質や生命の連鎖全てを通じて)ぼくらを動かしている力が、これまでも積み重ねてきたし、これからも積み重ねられていく、そういうものが「公共性」だとするビジョンが、「芸術の公共性」である、と考えてみてもいいのではないか。少なくとも、芸術を語るときの「公共性」は、単なるメディアスペースや共同体のことを意味すると考えない方が良さそうですね。芸術が社会運動や町作りなどとは異なった「公共性」への関わりができる、重要かつ特異なポイントはここにあるのだと、ぼくは信じています。

断片的な内容ばかりしか応答できず、恐縮です。たぶん、田中さんが投げかけられた様々な問題系は、ぼくのなかでゆっくり時間をかけて思考され、成熟していくことだろうと思います。いつか、未来に、それぞれの仕事の中に、その反映が見えるかもしれませんね(特に、ぼくは、理解したり気づくのが遅いですから)。

田中さんの今後のご活躍と、創造によって切り拓かれる新しい地平を、楽しみにしております。(いつも遅れて認識し、言語化するしかない宿命を持った)批評家として、その開示された新しい何かに少しでも接近し、ご相伴に預かれる日を、心待ちにしております。

 

藤田直哉  2018年6月、東京にて

 

近況:結婚して一年になりました。子供を持つという意識になってみると、世界の見え方が変わってきた感じがします。公共性とか、独身の頃だったら真面目に考えなかったかも……。


1. ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳、筑摩書房、1994年、p. 286。
2. 上掲書、p.264。
3. 同、p.303。
4. 同、p.21。
5. 同、p.288。
6. 同、p.289。
7. 同、p.290。


【今回の往復書簡ゲスト】

ふじた・なおや(批評家)
1983年、札幌生まれ。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)、『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)、『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など。震災後の当事者たちの言葉を集めた文芸誌『ららほら』を創刊準備中。

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