田中功起 質問する 15-5:藤田直哉さんへ3

第15回(ゲスト:藤田直哉)― 展覧会の「公共性」はどこにあるのか

批評家の藤田さんとの往復書簡。田中さんからの最後の手紙は、これまでの議論やビショップの公共空間論をふまえつつ「時間性」の2つの相の往復を考えます。

往復書簡 田中功起 目次


 

件名: 一時的と長期的なことの往復

 

藤田直哉さま

短い期間ですが、はじめてギリシャ、アテネに行って、ファスト・フォワード・フェスティバルという演劇/パフォーマンス/現代美術のイベントを見てきました(去年のドクメンタ14のアテネ会場は見逃しています)。アテネ市内にはアクロポリスを含めて多くの遺跡がありますが、一番目についたのはグラフィティと廃墟です。街のそこかしこに廃ビルがあって、経済危機後の状況があからさまに目に入ってきます。なんと言ったらいいか、過去の遺物と現在の遺物が編み込まれて街を覆っています。一方で、夕食は遅めに取るらしく深夜を過ぎても普通に街のレストランは賑わっていて。経済的な困難さも感じる一方で、のんびりとした雰囲気もただよっている。FFFの今年のテーマは「考古学」、来年は「コモンズ」です。ぼくは来年参加の予定ですが、はたして何ができるのでしょうか。

 


アテネの廃墟

 

さて、「公共」をめぐる交通整理、ありがとうございました。
藤田さんが言うように、「なぜ美術は公共的でなければならないのか」という問いは、アートをめぐる言説からすれば、距離があると感じたかもしれません。でも美術館が公共性を担保するべきであるというのはくり返し問われてきたことです。例えば1977年に始まったミュンスター彫刻プロジェクトは、そもそもひとつの公共彫刻設置に対する市民の反対運動を受けて、美術館の中で彫刻史のおさらいをし、屋外で当時の若手だったアーティストたちによる展示を行うというきわめて教育的なものでした。キュレーターが公共的な役割を担って土台を提供し、議論の活性化を図ったわけです。

とはいえ、ひとつだけ付け加えれば、ぼくは、アートは必ずしも公共的である必要はないと思っています。ぼくにとって重要なのは「展覧会」は少なくとも公共的であるべきだという点です。もちろんそれは抑圧的な「公的」機関としてではなく、藤田さんが書くようなアレント的「活動(action)」が可能になる、自由な空間であるべきです。でもこれでは藤田さんへのぼくからの最初の書簡のくり返しになってしまいます。おそらく藤田さんは次回、「アレント的美学」のさわりを書くのではないかと予想するので、ぼくはもう一度、藤田さんからの一通目に書かれていたリアル・スペースとインターネットの関係についての着眼点から、議論を進めたいです。

 

私有化される公共と24/7

 

2015年にミュンスターを訪ねたときにクレア・ビショップによるレクチャーを聞くことができました。そこでは、彼女が言うところの「委任されたパフォーマンス」をめぐる考察が展開されていたのですが(パフォーマンスの劇場空間 – ブラック・ボックスから、展示空間 – ホワイト・キューブへの移行に伴う困難:パフォーマーの労働も問題視されていました)、最後にパブリック・スペースについて少しだけ触れています(*1)。新自由主義的経済とデジタル・テクノロジー/ソーシャル・メディアの双方によって、現在、プライベートとパブリックの関係性が大きく再編されつつあると。以下、彼女の論旨に即して書いてみようと思います。

伝統的な公共空間の例としては、まず公園や広場(スクエア)というものがイメージされます(ぼくもこの書簡でそう書きました)。しかし新自由主義下の現在、そうした場所も私有化されている。公園や広場は民間会社によって所有され、管理され、監視カメラによってチェックされ、活動が制限される。よって望まれない活動の類い、政治活動も、あるいはホームレスも排除されてしまう、とビショップは書いています。ここからが彼女らしいのですが、そうしたストリートや広場におけるひとつひとつの「政治化の否認」があり、やがて政治的活動/政治的パフォーマンスはしにくくなり、その一部は、守られた、美術館という場所に収容される。ぼくが思いつく例は、オキュパイ・ウォール・ストリートのグループがベルリン・ビエンナーレ(2012)のときにクンスト・ヴェルケの中でイベントを行い、ドクメンタ13(2012)でも同様の活動を行ったことですね。もちろんこれを逆に、公共性がビエンナーレの中で保たれていると言うこともできるかもしれません。でも彼女のトーンはむしろ厳しい。不合意を示すストリートの活動が、合意をベースにした美術館での展示になってしまう。展示空間では戦略的に多様性が採用されるが、例えば階級については不問にされる。そこにはある種のフィルターがあるわけです。

もう一方の軸に話が移ります。それはデジタル・テクノロジーによって私たちの仕事の仕方が変わってきているという点です。ジョナサン・クレーリーが言うところの、時間なき時間としての「24/7」。24時間週7日間、毎日毎日つづく、仕事とプライベートのオン/オフがない時空間における労働のあり方です。メールやスカイプ、あるいはラインやWhatsApp等のソーシャル・メディアによって私たちはどこでも仕事にアクセスできる。海外の仕事があれば、時差は気にされず、終始、仕事が向こうからやってきて対応しなければならない。同時にソーシャル・メディアによって、日々の生活すべてがパフォーマンス(自己プレゼン)としてカウントされることになる。例えばアーティストのようなクリエイティブ・レイバー、もしくは認知労働者は特にそうかもしれません。Facebookやインスタグラムへの投稿を通して日々、自己プロモーションが行われている。

そしてこのように、新自由主義経済によって公共が私有化され、デジタル・テクノロジーによって自己パフォーマンスとして再編された休みのない日常生活の中で、アートの時間性についての実践はどのように関係するのか。ビショップの問いはおそらく今後何らかの形でまとめられるのでしょう。

さて、こうして描かれている事態は、それほど真新しいことではありません。むしろよく聞くインターネット以後の社会批評ですよね。藤田さんは少し踏み込んで、現実空間とインターネット空間の相互関係による公共性の変化を「新しい公共」として書いていました。ぼくはプライベートとパブリックの再編については、むしろ以下のようにポジティブな面もあるのではないかと思っています。公共性を担うべき公立美術館で自由な表現が敬遠されている日本においては、むしろ私的空間の方が公共的自由を保つことができます。公立美術館で見せることのできない政治的な表現も、ギャラリーでは気兼ねなく見せることができる。ただ、少し気になるのは、それだけでは個人の裁量に公共性が担わされているため不安定です。持続的に公共性を担保するためには公的美術館への締め付けを緩和する環境設計が必要なのかもしれない。

 

「活動」の不可能性——批評性と責任(2)

 

ビショップによるまとめは、アレントの「活動」についても別の光を当てます。新自由主義とデジタル・テクノロジー下にある人間の行動は、そのすべてが効用/理由/必要に満ちているのかもしれません。まったく無駄/意味不明/自由に見える行為も、ソーシャル・メディアにおいては多くの「いいね」を獲得し、パフォーマンスとして回収されてしまう。クリエティブでなければならないというのはほとんど呪いです。無意味な行為さえも、クリエイティビティの名の元に、効用/理由/必要として収まってしまう。もはや自由な「活動」はもうどこにもないのかもしれない。例えば「なにもしない」ことこそが、現状ではもっともラディカルな行為かもしれません(これは実はTai Kwun Contemporaryという香港の新しいアート・センターで発表する、ぼくの新作の中でインタビューをしたひとりが語ったことでもあるのですが)。

でももうひとつ回収されない、というかされにくい「活動」があります。それはたぶん「時間の長さ」に関係します。
ぼくが前回の書簡で書いたのは、批評的であることと責任をもつことの二つのフェーズが一体となるような空間のあり方です。アートは自己批評性を持つから構造があり、構造があるため把握されやすいけど、その分消費もされやすい(一時的)。生活には構造はないから理解しがたいけど、他者の人生を抱えた場合、そこには責任が生じる(長期的)。「批評性と責任が相互に関係し合い、繋がり合うような状況。ぼくはそんな場を来たるべき展覧会として想像します」、そう書きましたが、むしろこれは個人の「活動」との関係において考えた方がいいのかもしれません。後者の、責任を伴う長期的な行動は、簡単に良し悪しを判断できません。それは人生そのものであるから、ほとんど判断できない。新自由主義とデジタル・テクノロジー下にありながらも、「効用/理由/必要」にも「無駄/意味不明/自由」にも回収されない、保留の状態をいかに作り出せるか。

藤田さんは、「誰もが「批評家=観客」であり、同時に「演技者=活動者」であり、その相互作用の中に「公共的領域」が立ち現れる」と書きました。ぼくはここにこの「時間性」の二つのフェーズを関係させてはどうかと思います。「批評家」と「活動者」としてのその個人は、一時的な判断と長期的な判断保留の間で、いったりきたりします。その場限りの出来事への反応と人生という長さは、ひとりの人間の中に同居します。美術館という制度も、そもそもそういうものだったはずです。現状に対応する一時的な企画展と、作品収集と調査研究による長期的な活動。その双方の往復が、美術館という場所に意義を付与している。

ちょっと抽象的になりすぎたかもしれません。次回のお手紙、お待ちしてます。

 

田中功起
2018年5月、京都にて

 

近況:引きつづきTai Kwun Contemporary(香港)とミグロ現代美術館(チューリッヒ)で発表するための二つの映像制作をしています。


1. このレクチャーはのちにテキストとして発表されています。Claire Bishop, “Black Box, White Cube, Public Space,” Out of Body, Spring Issue 2016, Skulptur Projekte Munster 2017
https://2017.skulptur-projekte.de/#/En/Publications/OutOfBody/377/Black-Box
https://rokfor-muenster.rokfor.ch/asset/378/4281/Out_of_Body_EN.pdf


【今回の往復書簡ゲスト】

ふじた・なおや(批評家)
1983年、札幌生まれ。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)、『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)、『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など。

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