共有地を求める省察の身振り


ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ《どこにもない場所のこと:エクリプス》2022年

 

共有地を求める省察の身振り
文 / 権祥海

 

「ノアの洪水のとき、全能の神は人間を創造したことを悔やまれた。そのとき水でされたように、今は疫病の矢で人類を絶滅されるつもりだ。」(メアリ・シェリー『最後のひとり』)[1]

 

人類が終末を迎え、誰もが消え去った世界でたったひとりが生きる場面は、SF小説や映画でよく見られる素材のひとつである。極限の状況で生きる人間たちの物語は、恐怖や孤独といった感情を擬似体験させるだけでなく、いつか我々自身にも同じ現実が訪れるかもしれないという暗示を与える。大規模な戦争、自然災害、気候変動、伝染病などによって人類が滅びた世界は、「アポカリプス(Apocalypse)」と呼ばれ、ジャンル用語としても用いられている。アポカリプス=黙示は、終末を描く新約聖書の『ヨハネの黙示録』に起因するが、元来、アポカリプス自体には終末という意味は含まれていない。現在のアポカリプスの意味合いは、メアリ・シェリーが1826年に発表した小説『最後のひとり』に端を発している。「ポスト・アポカリプス」小説の嚆矢とも言えるこの作品は、ほかの動植物には一切被害を及ぼさない疫病に襲われる人類の姿と、最後まで生き延びるひとりの人物を描いている。

韓国のアーティストデュオ、ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ(以下、ムン&チョン)の《どこにもない場所のこと》(2012-)は、アポカリプス前後の世界を生きる人物によって芸術やアーティストの役割とは何かを問いかける。タイトルは、19世紀後半、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を主導した思想家・小説家のウィリアム・モリスが1890年に発表した小説『News from Nowhere』(日本語訳のタイトルは『ユートピアだより』)に由来する。同書が200年後のユートピア的未来を旅する人物を通して現実に批判的観点を導入した一方で、ムン&チョンの《どこにもない場所のこと》は、その手法を参照しながらも、現実の不確かさや不安を投影する世界を描くことで今日の生に潜む矛盾に気づかせる。さまざまな領域の専門家との対話に基づいた映像、インスタレーション、アーカイブ、ワークショップ、印刷物によって、芸術の領域を越えた拡張性のあるプラットフォームとなってきた。

金沢21世紀美術館開催の『ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ:どこにもない場所のこと』では、新作を含む《どこにもない場所のこと》の映像作品ととも、2020年から金沢で行われてきたプロジェクトが紹介されている。

 


ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ《世界の終わり》2012年 金沢21世紀美術館蔵


ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ《世界の終わり》2012年 金沢21世紀美術館蔵

 

つながりのための身振り

ムン&チョンの映像作品に共通する特徴として、ナラティブにこだわるよりは人物たちの身振りそのものに焦点を当てる点が挙げられる。身振り(gesture)は、その語源のひとつが「なされたこと」を意味するラテン語の「res gestae」に由来することから、他者とのコミュニケーション、物体や環境の操作、自己の探求による身体の軌跡と考えることができる。それは、日々の生活や社会での象徴的な身体動作に基づきながら、人間存在の本質を映し出す鏡でもある。ムン&チョンが描く人物たちは、『最後のひとり』のライオネルのように、アポカリプス前後の世界という極限状況で黙々と探索・収集・記録を繰り返しながら、自らの行動に意味を見出していく。ここで私は、そうした人物たちが時空を超えて知や情動を伝える切実な身振りによって、自己や他者、世界の歴史とつながる姿を捉えることにする。

横並びのふたつの画面で構成された《世界の終わり》(2012)の映像は、終末を迎える男性と終末後の世界を生きる女性を描く。窓越しの風景を見渡す男性の目に入るのは、塵に覆われた道路や車、建物が並ぶ荒廃した街である。彼はガラスが割れるような爆音が相次ぐ建物の中で、生き延びるための行為は何もせずに、ショッピングカートいっぱいに積んできたガラクタ(その中には死んだように見える犬もいる)で、ひたすらアッサンブラージュ(Assemblage)のような作品を作り上げる。窓の外側を覗いたり、ソファにぼうっと座ったりしていた彼は、突然、部屋の中から姿を消す。

女性は実験室のような真っ白な部屋で、集めた植物や過去の遺物を分類・陳列・分析する作業を繰り返したり、本来の用途を知らないクリスマスツリーの電球をじっと観察する。名状し難い存在感に動揺し部屋の中を見回すと、壁の裏側で見知らぬ部屋を発見する。そこは、男性が過ごしていた部屋と似た空間である。ガラクタで作られた作品をしばらく眺めてから自分の部屋に戻った彼女は、(男性の作品にも使われていた)電球を頭に被って理由の分からない涙を流す。ここで鑑賞者は、離れたふたつの時間軸がつながる瞬間を経験すると同時に、美しいと感じる何かに没頭する人類の普遍的な感覚に遭遇する。女性は帰還命令を受けると、電球をケースに入れて、収集した植物を見ながら「その時から私の人生は変わった。今、私は新しい世界を夢見ることができる」と呟く。遠い未来にも芸術が存在するとしたら、それは個人の感覚に変化をもたらすと同時に、他者との交感を可能にすることを暗示する。

 


ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ《どこにもない場所のこと:エクリプス》2022年

 

新作の《どこにもない場所のこと:エクリプス》(2022)では、小さな救命ボートに頼りながら大海原を漂流するひとりの男性の姿が映し出される。彼が遭難した経緯は不明だが、日食を観察するために世界を回る「エクリプス・チェーサー(Eclipse Chaser)」のようである。食糧と水が底を突き、救助信号も届かない中でも、日食を観測しようとする男性の意志は止まらない。ぼろぼろになった上着の穴から入ってくる光が一瞬日食にも見えるが、本物にはどうしてもたどり着けない。救助のために耳を傾けるラジオでは、今は何の役にも立たないアリーオ・オーリオパスタの作り方がひたすら流れる。

ボートが浮かぶ海には、時々グリッド状の白い線が現れては消え、まるでCG撮影のセットや編集画面が剥き出しになったようである。男性が船内の壁に刻んだ日数を表す線も、ある場面では突然消えてしまう。この仮想の世界でもがく男性の姿は、理想の世界を追求する人間の欲望がその儚い夢の中で無限に反復する状態を隠喩する。それは彼が海辺に足を下ろす夢を見た途端、目が醒めて映像の最初の場面に戻るループ状の構造にも現れている。映像画面の外側の空間に広がる大型LEDパネルは、グリッド状の檻のように鑑賞者を仮想世界へと誘い込む。

この作品は理性に縛られたひとりの姿を通して、我々が置かれた絶望的な状況を映しているだけではない。たとえば、男性が海から拾い上げた色とりどりのパラソルを見ながら明るい笑みを浮かべる場面では、日食観測や生存といった目的志向とは違った遊戯的なものの可能性が感じ取れる。また注目すべき場面は、男性が自らの生命と直結するペットボトルに入った水を自分が育てる植物に与えるシーンである。地上に足(根)を下ろさないと生きられないという生存条件を共有する人間と植物が水を分け合う身振りは、人間と自然が相即不離であることを再び喚起する(パスタの材料のほとんども植物から由来する)。

 


ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ《どこにもない場所のこと:フリーダム・ヴィレッジ》2021年 installation view at National Museum of Modern and Contemporary Art, Korea

 

《どこにもない場所のこと:フリーダム・ヴィレッジ》(2021)でのフリーダム・ヴィレッジは、韓国と北朝鮮の間に位置する非武装地帯(DMZ)内に実存する村の名前である。臺城洞と呼ばれたこの村は、1953年に締結された停戦協定によってフリーダム・ヴィレッジと名付けられ、現在まで国連の管轄下にある。自由の村という名前とは違って、村の住民の出入りは制限されており、夜には点呼をとられる。男性は32歳になると村に残るか、離れるかを選ばなければならない。この村は、朝鮮半島をめぐる戦争や理念の対立が未だに続いていることを語ると同時に、パンデミックによる断絶を経験する我々に世界規模の危機が反復するものであることを知らしめる。

表裏2面のLEDパネルには、フリーダム・ヴィレッジで生まれてから一度も村の外に出たことのない32歳の男性Aと、自分の住居から一度も外に出たことのない20代の男性Bが映し出される。ふたりの移動や居住を含む行動は、監視員やカメラによってすべて制御されている。Aは、村の写真や記録を集めて歴史を調べたり、村の周辺で植物を採集しそれを細密に描いた図鑑を作る。Bは、会社から送られる食料を取りながら、汚染がひどく人影も見当たらない地球の地層を調べ続ける。ある日、BはAが飛ばしたビニール風船を拾い、しばらく悩んだ末に中身を開けてみる。風船の中には、植物の標本とフリーダム・ヴィレッジに関する内容が書かれた紙が入っている。Bは、標本から出てきた種が若芽になった時、何かを決心したように部屋の外へ足を踏み出す。サイレンの音が鳴り始めるこの場面は、反対側の画面でAが風船を飛ばすタイミングと一致する。この時の音は、得体の知れない権力がふたりの逸脱行為を警告するようだが、ふたりにとってそれは解放や繋がりの瞬間を告げるものかも知れない。

孤立したふたりがつながる手段でもある植物は、フリーダム・ヴィレッジの立入禁止、開発制限という特殊な条件によって守られた生物多様性の所産である。ムン&チョンは、そういう村の特殊性に目を向けながらも、持続可能な共存という普遍的な価値を想起させる。それは、現在や未来における「どこにもない場所」を関連づけ、対立や危機を共有するための思考を徐々に広げる連帯の種となる。

 


ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ《どこにもない場所のこと:フリーダム・ヴィレッジ》2021年 installation view at National Museum of Modern and Contemporary Art, Korea

 

ムン&チョンがこれら作品で描いた人物たちの身振りは、芸術の役割を考える上でどういった意義を持つのだろうか。彼女たちは、ひとりの人間が直面する極限な状況を想定することで存在の意義や芸術の意味を探ろうとしたと語っている。終末を前にした人間が繰り広げる行為は、孤立という状況を超えてほかの存在や時空間への「つながり」を可能にする。作品で見られる探索・収集・記録する身振りは、単純に物質そのものへの関心を示すものではない。それは『最後のひとり』を引用すれば、「自分の歴史や存在意義をたどる織物を、まわりのあらゆる形や変化から織る」[2] こと、つまり自我や他者、世界を理解するために、周りの事物や出来事を織りなす照応の過程と言える。

人物たちがガラクタ、枯れた植物にこだわる点は、ヴァルター・ベンヤミンの「屑拾い(ragpicker)」とも関連する。「屑拾い」は、一見、無価値なゴミを宝のように収集することで、公式文書(アーカイブ)とは異なる民間の歴史を寄せ集める存在である。[3] 未来の監視社会で自動化・機械化した人間像を描く《世界の終わり》での電球、《エクリプス》でのパラソル、《フリーダム・ヴィレッジ》での植物は、大きな歴史を証言するものではないが、それを発見した人物たちにとっては思考や感覚の転換をもたらすほど鮮烈なものである。その能動的な収集行為は、絶望的な状況や自由を奪われた状況でも、人間は想像力を発揮するのみならず、大きな歴史にならない固有の物語をほかの時空の存在に伝える身振りとなる。

ムン&チョンは、想像の未来を単に描くだけでなく、今日の日常に内在するディストピア的要素を実感させ、それに対応することを促す。芸術の役割を問いかけるのは、現在と未来をリンクさせ、現実を批判的に捉えるための出発点である。言うまでもないが、環境汚染、パンデミック、戦争によるアポカリプス的状況は、遠い未来の話ではない。彼女たちは、これら現実を作品の中で主題化すると同時に、映像内の人物たちが身につけた衣装や装置をデザイナーや建築家と共同で作ることで、未来に活用できるアイデアを考案してきた。人々の知恵を集めそれを作品の内と外につなげる作業は、ムン&チョンが探るアーティストの社会的役割の重要な一面を反映しているに違いない。

 


ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ《モバイル・アゴラ》2015年– 画像提供:金沢21世紀美術館

 

移動する共有地(commons)

《どこにもない場所のこと》の全貌を知るためには、ムン&チョンが取り組む建築・経済・社会・科学を含む他領域との学際的なコラボレーションによるプラットフォームとしての機能に目を向ける必要がある。彼女たちが2009年頃から諸領域の専門家との共同作業を始めたのは、アート界隈の閉塞的かつ自己完結的な雰囲気を反省し、「芸術の役割とは何か」を考えるためだった。[4] それは、私たちの現在的危機や未来をめぐる争点について考える議論の場として一連の実践につながった。ふたりはドクメンタ13(2012)での《世界の終わり》の上映及びリサーチアーカイブの展示を含め、世界各地で大災害、環境・都市問題などの社会現実を扱うプラットフォーム活動を行ってきた。

その活動の中心には、移動可能な議論の場、いわば「モバイル・アゴラ」がある。モバイル・アゴラは、各都市の特色を活かした屋台、ショッピングカート、タイヤ付き舞台、迷彩柄のベンチなどを使って、いつどこでも人々が集まって議論できる広場をモチーフとしている。今まで、それぞれの場所や作品の内容を反映したトピックを中心に、アート関係者やさまざまな領域の専門家によるトーク、ワークショップが行われた。これらの活動は、移動し続けながら共同の知恵を蓄積していくことで、従来の個人中心的なアーティスト像を脱却し、共有地へと向かう可能性を提示してきた。

 


ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ《サイレント・プラネット》 2020-2022年

 

今回の展覧会でも、《どこにもない場所のこと》のプラットフォームとしての側面を見ることができた。まず同館のアーティスト・イン・レジデンス・プログラムでのリサーチ及び滞在制作による《サイレント・プラネット》(2020-2022年)が挙げられる。このプロジェクトは、過疎化が進んでいる金沢の街並みに着目し、都市のアイデンティティや歴史を活かした建築プランや映像作品で構成された。マンホールの設置、船を改造した舞台の提案は、リバプールなどでのプロジェクトとつながる面がある一方、海辺のフェンスを再利用するプランは金沢独自の都市問題にフォーカスする点で興味深かった。映像作品は、人影のない金沢の街を小型ロボットが探査する姿を映しており、「静かな街」という現象が世界中どこにも存在しうる共通の問題であることを表すものだった。

7月1日に行われたモバイル・アゴラでは、豊田啓介によるレクチャー「量子化する身体と世界」を皮切りに、デジタルデータやVR(仮想現実)技術を用いたメタバースにおける人間の身体や芸術の在り方をめぐる議論が行われた。芸術やアーティストの役割といったムン&チョンが扱ってきた内容とともに、《エクリプス》でのLED照明や音響によるインタラクティブな空間体験とメタバースの比較など、今回の展示内容にまつわるトピックが語られた。ムン&チョンの対話の特徴は、自らの表現を絶対的なものとして提示するよりは、芸術に対する疑問や躊躇そのものを観客と共有する点である。それは、プラットフォームとしての試行錯誤という新たな可能性に近づく努力の過程を共有することで、その経験を各自の観点でもうひとつの広がりへとつなぐことを促す試みである。[5]

今回のモバイル・アゴラでは、今までの特定のデザインによる移動式の客席は使われなかったが、場所の選びには工夫が見られる。会場となった「光庭2」は、館内の空間でありながら天井がないため、屋外ともつながった飛地のような空間である。観客をそのような風通しの良い場所に居合わせたのは、共有地を求める思考や対話を運び続けてきたムン&チョンらしいアイデアである。実際、暑い夏の日にもかかわらず、涼しい風と広い空が与える解放感に包まれながら、密度の高い時間にたっぷり触れる経験ができた。そこで交わされた身振りが《どこにもない場所のこと》というプラットフォームに集積され、次の共有地にたどり着くための道標となることを期待する。

 

 


 

*1 メアリ・シェリー『最後のひとり』(森道子, 島津展子, 新野緑訳、英宝社、2007年)、456頁。

*2 メアリ・シェリー、前掲書、499頁。

*3 Frederic Le Roy. 2017.‘Ragpickers and Leftover Performance: Walter Benjamin’s Philosophy of the Historical Leftover’. Performance Research. 22:8. 127-134.

*4 「[문경원&전준호] 스스로에 대한 반성과 검열의 작업이다 ([ムン・キョンウォン、チョン・ジュンホ]自らに対する反省と検閲の作業)」Cine 21、2012年6月15日。

*5 「Interview: Moon Kyungwon&Jeon Joonho, Joowon Park」『MMCA Hyundai Motor Series 2021: Moon Kyungwon & Jeon Joonho(韓国語版)』(韓国国立現代美術館、2021年)、75頁。

 


 

ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ:どこにもない場所のこと
2022年5月3日(火・祝)– 9月4日(日)
金沢21世紀美術館
https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=17&d=1797
担当学芸員:中田耕市(金沢21世紀美術館 キュレーター)

 


 

権祥海|Sanghae Kwon
1990年韓国生まれ。キュレーター。韓国月刊『PUBLIC ART』日本通信員。東京藝術大学国際芸術創造研究科博士課程修了。現代美術とパフォーミング・アーツを横断するキュレーション、プラットフォーム運営、研究活動を主軸に、パフォーマンスにおける共集性を捉える。主な企画に「覚醒と幻惑:見えないものとの対話」(ゲーテ・インスティトゥート東京、2022)など。

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