ナムジュン・パイク《Hand and Face》1961年「ナムジュン・パイクのビデオ書斎(https://njpvideo.ggcf.kr/)」よりスクリーンショット(アクセス日:2026年9月7日)
選ばれざる道
私が日本に留学したのは、20年前の2007年のことである。その前年、在韓日本大使館で国費外国人留学生の面接を受けた際に、「志望する大学に受け入れられなかった場合、ほかの大学を受けてみますか」と質問されて、「その場合には留学を諦めます」と、少し生意気な答えを返したことを覚えている。日本文化に対する憧れから留学を目指していたら、研究生となった最初の1年間をもう少し楽しめたはずなのに、東京藝術大学大学院映像研究科で藤幡正樹さん(1956年生まれ)の指導を受けたいという目標しか考えていなかったため、設置直後の博士課程に2期生として進学できるだろうかという不安とずっと戦わなければならなかった。学部で英文学と心理学を、修士課程で映像工学を専攻した私は、予備校から美術一筋で勉強してきたネイティブの日本人の学生に対して劣等感を感じていたのだった。いまでもその劣等感は残っているけれど、自分に欠けている部分を少しずつ自分らしさの一部として受け止められるようになった気がする。
留学を諦めることになったら、韓国の大学院でナムジュン・パイク(白南準|백남준|1932-2006)の研究をするつもりだった。学部の時に受けたメディア美学の授業で初めて接したパイクの作品と思想から、芸術が社会に想像以上に深く関わり合っているのだと知ったことが、人生の大きな転換点になったからだ。それから数年後、私にとって「選ばれざる道」だったパイクの研究に、日本語を活かして参加するように誘ってくれたのが、友人のパク・サンエさんである。現在、韓国京畿道美術館のチーフ・キュレーター(Head of Curatorial Department)として勤務しているサンエさんは、2008年にオープンしたナムジュン・パイク・アートセンター(Nam June Paik Art Center)で、2009年から16年間にわたりアーカイブを担当していた。公共記録物管理法が1999年に制定された韓国において、サンエさんは記録に携わる専門家、なかでも現代美術のアーキビストとして草分け的な存在である。
学部で文献情報学を、大学院で国際政治外交学を専攻し、外資系金融業で5年程度勤務したサンエさんは、『미술전시 기획자들의 12가지 이야기(美術展示企画者の12の話)』に収録されていた「美術アーカイブ、作品を除くすべてのこと」というエッセイを読んで、美術のアーカイブに関心を持つことになった。ニューヨークのプラット・インスティテュートでアーカイブを学びながら、グッゲンハイム美術館でインターンシップを受けていた頃、学部の時には文献情報学がそこまで好きではなかったけど、情報の構造に対する理解が情報メディアを用いる力になることに気づいたそうだ。卒業後、同館の初代館長ヒラ・リーベイ(Hilla von Rebay)のコレクションを担当するプロジェクト・アーキビストとして働いていたサンエさんに、開館準備中だったナムジュン・パイク・アートセンターの仕事を勧めてくれたのが、キム・ホンヒ(1948年生まれ)だったことを聞いて、なるほどと頷いた。これは、日本の読者にとって少し目まぐるしい話だろうけど、「素敵な人同士ってやっぱりつながっているんだな」と思った経験は誰にでもあるのではないかと思う。キムは、韓国で最初の民間主導の複合文化センター・オルタナティブ・スペースであるサムジー・スペース(SSamzie Space、1998-2008)の館長、京畿道美術館館長、ソウル市立美術館館長などを歴任して、現在はナムジュン・パイク文化財団の理事長を務め、2024年には韓国の女性作家に関する研究書『Korean Feminist Artists: Confront and Deconstruct』を韓国語と英語で上梓した人である。そのキムの初期の重要な仕事は、1995年に開かれた第1回光州ビエンナーレの特別展「Info ART」のキュレーションで、共同ディレクターは、パイクと『Digital Visions: computers and art』(New York H.N. Abrams; Syracuse: Everson Museum of Art, 1987)の著者のシンシア・グッドマン(Cynthia Goodman)だった。
ナムジュン・パイク・ビデオ・アーカイブのテープ(一部)、ナムジュン・パイク・アートセンター所蔵、2011年、撮影:パク・サンエ
沼のような作家
ソウル市内で見かけたことはあるけれど、個人的に会って話したことはなかったというパイクのアーカイブの仕事を16年間も続けてきたサンエさんに、あえて「パイクはどんな人ですか?」と質問してみた。すると、韓国国内では「クックポン」(※国+ヒロポンの俗語。ここでは自己陶酔的なナショナリズムの対象としてパイクを受容する人たちに対する皮肉的表現として用いられている)の作家だけど、個人的には「沼」のような作家だと思う、という答えが返ってきた。調べれば調べるほど、研究したい観点が次々と見つかり、抜け出すことができないという意味だそうだ。その切り口は大きく分けて4つ。ひとつ目は、芸術とメディアの観点から見たパイクのビデオ・アート。ふたつ目は、毎日15種類の新聞と雑誌を読み、芸術はもちろん、哲学、美学、科学技術史にいたる広い学識を持っていたパイクの思惟。そして三つ目は、企業や政府・自治体などと協力しつつ、放送を積極的に利用して社会一般に新しいジャンルが認知される土台を構築した芸術政策家としてのパイク。最後の四つ目に、パイクの人間性。そうしたパイク研究の難しさと楽しさについて問うと、サンエさんは微笑み、いつまでも研究が終わらないことが難しさでもあり楽しさでもあるのだと答えた。
若い読者のために少し補足しよう。パイクは1932年に日本の植民地だった朝鮮半島の裕福な家で生まれた。朝鮮戦争が勃発した1950年に東京大学に留学して、美学と美術史、音楽史を勉強した後、1956年に西ドイツに留学して、国際的な前衛芸術運動のフルクサスに合流。1963年の初個展「音楽の展覧会:エレクトロニック・テレビジョン(Exposition of Music: Electronic Television)」では、プリペアード・ピアノや改造したテレビ(実際に放送中のテレビ局の番組を受信)などを用いた参加型作品を発表した。これは、美術史的にビデオ・アートという新しいジャンルの序章と評価されている。1964年に渡米、亡くなる2006年までアメリカを拠点に、芸術とコミュニケーションの関係性やメディアの社会的な可能性を探る制作活動を続けた。いまや美術に詳しくない人も誰もが知っている「韓国出身の世界的なアーティスト」として、国民的誇りになったパイクだが、馴染みのない芸術を韓国へ持ち帰った1984年には、歓迎しない人も少なからずいたらしい。パートナーだったアーティストの久保田成子(1937-2015)との間に子供がいなかったため、パイクの著作権は、パイクを経済的に支援した兄の息子、ケン・ハクタが運営するエステートに管理委任されている。2026年にガゴシアンがソウルのアモーレパシフィック美術館(APMA Cabinet)で開催した「Nam June Paik: Rewind / Repeat」展の報道資料にある「25年ぶりにして国内初となるナムジュン・パイク・エステート公式協力の個展」というキャッチフレーズは、それまでにソウルで開かれたパイク展のすべてが「公式」の協力ではなかったかのような奇妙なニュアンスを含んでいた。
興味深いのは、世界市民というべきパイクの生き方が、作品や思考だけでなく、彼の言語にも反映されていることである。韓国語、日本語、英語、ドイツ語を流暢に駆使し、フランス語も少し使えたパイクは、それらを自由に混ぜて話したり、書いたりしていたため、なかなか容易には解読できないところがある。私はサンエさんを手伝って、「パイキッシュ=Paik+ish」と呼ばれる、この独自の言語の日本語パートの翻訳をした。それは、作品《ロボットK-456》(1964)や電子的な形態と色彩を作る編集装置《パイク=阿部・ビデオ・シンセサイザー》(1969/1972)を一緒に制作・開発した、パイクの一期一会の友人、阿部修也(1932年生まれ)との書簡集『Paik-Abe Correspondence』(2018年)、『ナムジュン・パイク:馬からクリストまで(Nam June Paik: Du cheval à Christo et autres écrits)』(2018年)[1] に再録された「あさってライトー明後日の光の為に」(1988年)[2]、そして後ほど紹介する映像資料の字幕翻訳などである。特に、1963年から2005年まで主にアメリカにいたパイクと日本の阿部がやりとりした、葉書、年賀状、手紙、航空郵便などの97通の画像と、その韓国語訳と英語訳を収録した『Paik-Abe Correspondence』は、パイクの幼稚園時代の幼馴染のイ・キョンヒによる一次翻訳を経て、編集者のサンエさんと私が直接阿部に相談して確認しながら解読した後、キム・ミンキョンが英訳した。とても難しくて楽しい作業だった。
パク・サンエ編『Paik-Abe Correspondence』収録手紙、龍仁:ナムジュン・パイク・アートセンター、2018年
パク・サンエ編『Paik-Abe Correspondence』収録手紙、龍仁:ナムジュン・パイク・アートセンター、2018年
パク・サンエ編『Paik-Abe Correspondence』収録手紙、龍仁:ナムジュン・パイク・アートセンター、2018年
ナムジュン・パイクが末永く住む家
ナムジュン・パイク・アートセンターは、1996年の脳卒中で半身不随になり、闘病中だったパイク本人によって、「ナムジュン・パイクが末永く住む家」というミッションを与えられた美術館である。サンエさんは、ナムジュン・パイクというアーティストの名前を掲げた世界で唯一の美術館として、パイクの作品を展覧会で見せることだけでなく、彼の実験や挑戦の精神を受け継いで実践するために努力してきたと説明した。「アートセンター」とは、コレクションを持たないクンストハレという意味ではなく、実験と挑戦の精神という設立の理念と活動の方向性を示す名称だそうだ。また、その特徴として、2008年にはまだ美術と距離があったパフォーマンスを開館記念展からひとつの軸として捉えたフルクサス的なジャンル横断性と、研究基盤の企画システムを取り上げた。開館当時、サンエさんを含む学芸課のメンバーは、全員が専門的な経験と知識を備えた30代の女性で、約10年間にわたりパイクの共同研究を続けながら、そこから得られた新しい視点を展覧会と出版物の形で世に送り出していった。個人的には、サンエさんの主導で出版されたインタビュー集のシリーズが好きだ。
一般的に、作品のコレクションと資料のアーカイブは分けられる。しかし、メディア・アートのアーカイブ、とりわけ、パイクの作風の影響を受けたナムジュン・パイク・アートセンターのアーカイブには映像作品と映像記録が混在している。記録資料の中に、収集された作品と同一の複製データが含まれていたり、作中に引用された広告、番組、映画など、他人の著作物が混ざり込んでいたりするのである。《エレクトロニック・オペラ第一番(Electronic Opera No. 1)》(1969)、《グローバル・グルーヴ(Global Groove)》(1973)、《グッド・モーニング・ミスター・オーウェル(Good Morning, Mr. Orwell)》(1984)をはじめとする、主要なシングルチャンネル作品や人工衛星を活用したプロジェクトは、世界各国の放送局とのコラボレーションだが、一般的な放送番組のように綺麗な映像ではなく、放送が可能な範囲内で限界まで増幅されたノイズを含んでいる。「パイクは放送局の仕事をしながら、放送と芸術の違いについて考えていたのではないかと思います」と、サンエさんは言う。後の世代は、そのノイズの美学をどのように保存・修復するか、という難しい課題に直面している。それはつまり、高解像度という進化と発展の一方向で進んでいく技術に、いかに過去の時間を保たせるのかという問題である。
さらに、そのプロセスに市場経済の論理と美術館のシステムの変化が介入してくる。例えば、ソウル・オリンピックを記念して、韓国国立現代美術館(Museum of Modern and Contemporary Art, Korea|以下、MMCA)の果川館の中心に設置されたパイクの《多多益善(The More The Better)》(1988)は、1,003台のモニターを使用した、18.5mの螺旋型の塔である。モニターの中では、韓国を象徴するイメージ、海外の風景、テレビの調整画面、魚の形状などの4チャンネルの映像が、リズミカルに切り替わり、重なり合いながら流れる。韓国国内で常設展示されているパイクの作品の中でもっとも知られているこの作品が、MMCAではニューメディア部門が設けられるまで建築構造物として分類されていたことを聞いて、私はとても驚いた。2003年に一度老巧化したCRTモニター(通称ブラウン管)が取り替えられ、2019年もたくさんの議論を経た上でCRTモニターを維持する形で修復することはできたが、今後は液晶ディスプレイなど、代替可能な技術を部分的に導入していくことになっている。この作品のみならず、インスタレーションという概念が定着する前の時代に登場した「ビデオ彫刻」という、映像とその再生装置が造形的に組み合わされた表現に関しては、作品の保存と修復をめぐってさまざまな方法論が試されてきた。基本的には、中古で購入した機材に入れ替えるが、生産中止によっていずれ確実に入手不可能になるので、外側のフレームだけ残して、内側に最新のディスプレイとプレイヤーを入れてデータで映像を流すことによって、展示可能性を高める方式も採用されている。時間が経過すると作品が動かなくなることを固有の美学として受け止めるべきなのか、他人が変化を加えてでも作品が動くという機能的な側面を重視すべきなのか。いずれの場合にも、「決して変わってはいけない作品の本質とは何か」という批評的な議論が前提になるべきだろう。
ナムジュン・パイク《多多益善》(1988年)の展示風景 作品保護のため、上映時間は14時から16時までになっている。(2026年9月9日13時50分に筆者撮影)
ナムジュン・パイク《多多益善》(1988年)の展示風景(2026年9月9日15時50分に筆者撮影)
ビデオ書斎
最後に、2021年に構築、2022年に一般公開された「パイクのビデオ書斎(Paik’s Video Study)」の話を聞いた。このウェブサイトは、①ビデオ、②アーカイブ、③コレクションの3つの項目に分かれていて、ログインすることですべての資料を無料で利用することができる。①ビデオは、作品・記録・放送の3種類に分類される。まず、「作品」とは、シングルチャンネルビデオのさまざまな編集バージョン、抜粋、彫刻やインスタレーションのソース映像である。次に「記録」とは、パイク本人や関係者のインタビュー、展示やパフォーマンスの映像、日常の映像、作品の素材として撮影された映像などである。また、「放送」とは、番組として放送されたことのあるドキュメンタリー、インタビュー、ニュースなどである。そして、②アーカイブは、ナムジュン・パイク・アートセンターのアーカイブ・コレクションの中にある作品と関連するイメージとテキストで構成されており、写真、ポスター、展覧会の記録、パイクの作品に関する研究論文などが含まれている。③コレクションは、代表的な彫刻、インスタレーション、ドローイング、写真、ロボット、装置などから選ばれたイメージである。
サンエさんは、この「ビデオ・アーカイブ・ストリーミング・プラットフォーム」が提供するのは、作品ではなく「情報」だと強調した[3]。映像において、作品と記録の違いは何かと質問したら、次のように整理して教えてくれた。「作品」とは、著作権の保護対象となる、目的を持って生成されたものを指し示す。それに対して「記録」とは、「情報」に重点が置かれているもので、制作過程で有機的に生成されるものである。このプラットフォームにおいて「原本」となるのは、パイク本人から購入した、ビデオ・アーカイブ・コレクション「ビデオ・ライブラリー」である。「作品」と「記録」、ならびに「その他」が含まれているアナログ・コレクション2,285本を、1年半の準備作業を経て公開したのが、このストリーミング・プラットフォームなのである。このプロジェクトは、コロナ禍の最中、スマート・カルチャー・プラットフォームに対する韓国政府の支援金[4] が財源となった。
ナムジュン・パイク・アートセンター「ナムジュン・パイクのビデオ書斎(https://njpvideo.ggcf.kr/)」よりスクリーンショット(アクセス日:2026年9月7日)
ナムジュン・パイク・アートセンター「ナムジュン・パイクのビデオ書斎(https://njpvideo.ggcf.kr/)」よりスクリーンショット(アクセス日:2026年9月7日)
世界各地で撮影され、言語も画質もバラバラの映像の中には、日本に関連する映像も含まれている。例えば、坂本龍一(1952-2023)がどこかのリビングでパイクの話を聞くとてもゆるいインタビューやニューヨークのカフェや公園で坂本を撮った日常的な映像、東京都美術館と西武美術館で同時期に開催されたパイクと親友のヨーゼフ・ボイス(1921-1986)の国内初個展とふたりのコラボについて、「日曜美術館」で解説する美術評論家の東野芳明(1930-2005)、パイク、東野、そして作曲家・ピアニストの高橋悠治(1938年生まれ)が登壇した東京都美術館の同窓会みたいなシンポジウム記録映像、番組に出演して宗教学者・文化人類学者の中沢新一(1950年生まれ)やメディア美学者の武邑光裕(1954年生まれ)と対談したり、美術家・小説家の赤瀬川原平(1937-2014)、劇作家の如月小春(1956-2000)、漫画家の久住昌之(1958年生まれ)らと楽しそうに日本語で喋るパイク、批評家の浅田彰(1957年生まれ)が何度もやり直しながらパイクを紹介する無編集動画、パイクの第6回福岡アジア文化賞受賞を記念して、音楽家の小杉武久(1938-2018)とコラボしたパフォーマンス映像などを見ることができる。
日本という国は、パイクにとってどういう存在だったんだろう。サンエさんは、時代的な背景が介在するため、ドイツやアメリカのように自身の意志で選択したとは言えないけど、故郷の韓国と並んで「文化的根幹となった国」のように思われると答えた。私も同じ意見である。家父長制を連想させる表現だから個人的にはあまり好きではないけど、パイクは「ビデオ・アートの父」として知られる。少なくとも私にとって、彼は精神的な父のような存在だった。博士課程で戦後日本社会における芸術とテクノロジーの歴史を調べる中で、時には批評的なメッセージより面白さを重視する娯楽主義や商業主義的な文脈に心が折れて、研究を続ける意欲を失ったこともあった。その度に、その歴史と交差するナムジュン・パイクの芸術と思想は、自分の揺るぎない原点になってくれた。約20年近くアーカイブを研究してきたのに、まだまだパイクについて書きたい論文のテーマがあるというサンエさんの話を聞きながら、本当にそういう存在なのだと、私は頷いた。
*1 オリジナルのフランス語版は1993年に発行。韓国語版の初版は2010年。重訳を避けるため、フランス語に翻訳された日本語の原稿を韓国語に翻訳し直した改訂版が2018年に刊行。
*2 日本語初出:ナムジュン・パイク著、伊東順二構成『あさってライト』パルコ出版局、4-9頁。
*3 パイクの映像作品の公式配給先は、この連載の中で後に紹介する予定のエレクトロニック・アーツ・インターミックス(Electronic Arts Intermix (EAI), New York)になっている。
*4未来技術を活用して、博物館と美術館の新しいコンテンツを開発し、観客に新しい文化体験を提供する目的で、韓国政府の文化体育観光部が実施した2021年スマート博物館・美術館基盤助成事業。公募で全国14の市都から65個の事業が選定された。
馬定延|Jung-Yeon Ma
1980年韓国ソウル生まれ。東京藝術大学大学院映像研究科修了(博士・映像メディア学)。著書『日本メディアアート史』(2014)、共編著書『SEIKO MIKAMI: 三上晴子-記録と記憶』(2019)、論文「光と音を放つ展示空間—現代美術と映像メディア」(2019)、「この領土の芸術、この芸術の領土—ホー・ツーニェンの『日本三部作』をめぐって」(2023)、共訳書『Paik-Abe Correspondence』(2018)、『田中功起:リフレクティヴ・ノート(選集)』(2020-21)など。現在、関西大学文学部表象文化専修教授、国立国際美術館客員研究員。researchmap
本研究の一部は、2026年度 関西大学学術研究員研究費によって行なわれた。
