連載 中島りか 新しい死者の書 第四回

なんとなく気に入っていた池の名前を覚えたのは、その事故を知った時だった。2025年5月14日午後3時頃、実家から車で20分先にある愛知県犬山市の入鹿池に航空自衛隊のヘリが墜落した。名古屋空港と滑走路を共用する小牧基地から出発した2分後にヘリが墜落し、操縦していた隊員ふたりの死亡が事故から8日後に確認された。墜落したエリアは入鹿池の中でも博物館明治村の目の前であり、私が小さい頃に家族でよく訪れていた場所だ。そのため、このニュースにはかなり驚いた。両親が現在も散歩コースとして通うエリアであるため、実際には起きなかったリスクについても考えてしまう。実家周辺には自衛隊の施設が複数存在し、幼少期の頃から自衛隊のヘリが上空を頻繁に飛んでいて、低周波音が不定期に響く環境が日常的にあった。幼少期の頃からさほど変わらない情景を眺める私の心境は、事故後に大きく変化した。空からヘリの音が聞こえる度に報道で見た事故のイメージが頭をよぎり、車窓から景色を楽しんでいた入鹿池を「死者」が眠る場所として見渡す。

 

事故から一年後に訪れた入鹿池の様子。入鹿大橋付近から撮影。

 

報道で目にする地域住民の声は、突然の事故への驚きが多い一方、自衛隊に対する不信感を口にする人は予想したほど多くなかった。寧ろ、隊員自らが犠牲となり民間への被害を避けた可能性を考え、池へ墜落することを選んだのではないかと、亡くなった隊員へ感謝を述べるコメントが多く見受けられた。一方で、1年以上経った今現在も原因の特定には至っておらず、公的に説明もなされていない。犬山市をはじめとする事故周辺都市が、防衛省に対し一刻も早い原因究明と再発防止策を求めたことからも分かるように、[1] 地域住民の多くは声に出さずとも不安を抱いている。この事故をきっかけに調べてみると、これまでの自衛隊事故の前例は思ったよりも多い。今年4月にも大分県の陸上自衛隊の訓練時に砲弾が暴発して3名が死亡する事故が起きている。

自衛隊員は入隊時に自衛隊法施行規則第39条「(前略)…事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います」と書かれた宣誓書に署名するという。[2] ここでの責務は、防げたはずの事故を含めないはずだが、メディアの報道で「殉職」という言葉が使われるなど、[3] 彼らが命を失うリスクは前提のように印象操作されている。このような事故を仕方ないと受け止めてしまう事はおかしいと思いながらも、この印象操作に私もどこか乗せられている気がする。過去の事故では被害者遺族が国を訴え、国側は訴えを退けるよう求めているという記事を読み、やるせない気持ちにもなった。[4]

自衛隊の事故について考えを巡らせるなか、今年3月16日に起きた沖縄県名護市辺野古沖の転覆事故についても複雑な感情を抱かずにはいられない。研修旅行中の高校生と船長のふたりが死亡したというあまりにも不運な事故は、安全責任の観点から責任者たちへの批判は免れない。一方で、当該高校の教育内容にまで文部科学省(以下、文科省)が教育基本法違反と見解を示した前例のない国の対応は、[5] 亡くなった被害者遺族に寄り添うようにみえても、実際にはイデオロギーによって死者を政治利用し消費しているようにしかみえなかった。現政権の対応をはじめ、インターネット上の議論の大半がそうなってしまっていることに歯がゆさも感じる。

辺野古沖の事故が発生する1ヶ月前に私は沖縄にいた。2019年2月24日に辺野古基地建設に対して反対を7割越えで示す結果を残した県民投票を実施した元山仁四郎さんの企画で、毎年開催される「2.24音楽祭」[6] の関連で参加した平和学習ツアーで辺野古二見の浜も訪れていた。このツアーを通して、沖縄戦の歴史から基地問題まで、知っているつもりでいた自分の無知を改めて痛感したばかりだから、よりこの事故に感情が持っていかれるのかもしれない。浜から眺めた基地建設現場は、綺麗な海を背景に海底への杭打ちの音が響き渡っていた。ガイドさんの説明で、基地建設エリアには最大海深90メートルの軟弱地盤が発見されており、その深さへの杭打ちは安全が保証されていないことを現場で知った途端、それらの騒音はより一層不気味で威圧的なものに聞こえた。[7]

 

平和学習ツアーで訪れた、辺野古二見の浜から見た辺野古基地建設の様子。

 

沖縄の米軍基地が住民にもたらす問題は、知れば知るほど頭が痛い。沖縄米軍のヘリ墜落事故は、1972年の本土復帰以降だけでも50件近く発生しており、部品の落下や不時着まで含めれば数百件に上る異常な頻度で起きているそうだ。それに加えてヘリの騒音被害は、オスプレイなどが市街地上空を低空飛行するため、110dB超が日常的に記録され、最大で120dB以上(聴覚機能に異常をきたすレベル)が記録されている。[8] これは、私の実家近辺の自衛隊基地周辺で報告された騒音被害指数98dBを大きく上回る。[9] それに加えて米軍の活動を日本側が制御できないがために、深夜早朝にもそれらの騒音が起こりうる日常は、もはや公害に他ならない。それに加えて、米軍による沖縄市民への凶悪犯罪や性暴力、そしてPFASの水道汚染問題など、沖縄住民の絶え間ない犠牲のもとで、日米安全保障の関係が今日まで保たれていることは、あまりにも皮肉で残酷だ。

平和学習ツアーの数日前から、完成しても辺野古基地が使われない、または普天間基地が返還されない可能性が浮上するという米側の発言が話題になっていた。[10] そのためか、ツアー中に嘉数高台から見下ろした普天間基地はより一層印象に残る。基地が宜野湾市全体の約25%を占めると聞いて、自分の想像より少し小さく見えてやや困惑したのだが、通常の飛行場が周辺と十分な距離をとってるから相対的に広く見えるのとは逆に、ここでは、密集した市街地のなかにあるために小さく見えたようだ。その後に訪問した佐喜眞美術館は、まさに普天間基地の真横に隣接する。戦後には米軍基地の一部にされていた館長、佐喜眞道夫さんの先祖代々の土地の一部を、米軍との交渉を経て取り戻して設立した美術館の持つ歴史。そして、「原爆の図」でも知られる丸木位里氏と丸木俊氏による「沖縄戦の図」を含むコレクション展示には圧倒されるものがあった。

 

奥には佐喜眞美術館の外に隣接する佐喜眞家代々の大きな琉球墓、広場の真ん中には1996年6月に慰霊の日に向けて実施された「石の声」プロジェクトの石積み跡がある。「石の声」は、沖縄戦の戦没者と同数である23万6,095個の石に番号を書き入れ積み上げた、金城満さんと高校生らによるアートプロジェクト。

 

「僕はかれらをなお深く知るために沖縄へ行こうとする、しかしかれらをより深く知ることとは、かれらが優しく、かつ確固として僕を拒絶していることを、絶望的なほどにもはっきりと認識することなのだ。それでもなお僕は、沖縄へ行こうとする。…[省略]… 日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、と思いつめて走り廻っているのだ。」
(大江健三郎『沖縄ノート』岩波書店、1970年(2021年改版)、pp.14-15)

 

音楽祭より少し早く沖縄に到着した私は、那覇から船で40分先にある渡嘉敷島に向かっていた。沖縄戦で米軍が最初に上陸した慶良間諸島のひとつである渡嘉敷島には、国内唯一の地上戦において最も大規模な強制集団死が起きた現場「集団自決跡地」の慰霊碑が設置されている。船から眺める海は、この先にその目的地があるとはとても思えないほど青く綺麗で、思わず自分がどこに向かっているのか忘れそうになった。島に到着してバイクをレンタルし、目的地の北山(読み方は、ニシヤマ)の山頂に向けて、戦中にはなかったであろうコンクリートで整備された道路を登っていく。山頂に着くとゲートを通過して、国立沖縄青少年交流の家の施設内に入った。この施設は、1962年から72年まで米軍の軍用地として利用された土地を、日本復帰と共に返還された平和のシンボルとして運営している。その一部である集団自決跡地に、戦後間もなく「白玉之塔」として慰霊碑が建立されるも、その場所が米軍に接収されたために白玉之塔を別の場所に移動するよう強いられた。日本復帰に際した土地返還から時を経て、1993年にようやく元の場所に集団自決跡地の慰霊碑が新たに設立された。沖縄の戦後史が如何に複雑であるかが、このような細かな歴史からもよく分かる。[11]

施設内を矢印に沿って進むと、ようやく集団自決跡地の門に到着した。バイクを停め、重い門扉を開けて中に入ると案内図があった。自分の現在地を確認して、まだその現場には足を踏み入れていないことに安堵する。さらに斜めに伸びた入り口を抜けると、中には大きな岩の慰霊碑を中心に追悼する空間があった。慰霊碑の裏には、実際の玉砕場の中心地に進む細長い谷間の小道が存在する。目的地に向かう途中で徐々に緊張が増していたようで、慰霊碑の目の前でしばらく気持ちを整える必要があった。慰霊碑の文章に何度か目を通し、2度ほど手を合わせ、ようやく岩の裏に回って小道に入る。入り口付近の「ハブに注意」の看板を見て別の不安がよぎったものの、一度中に入れば落ち着いて下まで降りることができた。最低限の整備で周辺が手すりで囲われているものの全方位が当時のままのような雑木林で囲まれており、何かを探すわけでもなく、できる限り奥を見渡す。そして、この場で犠牲となった330人を想像して、自然と目を瞑り黙祷した。

 

「集団自決跡地」内の案内図。

 

渡嘉敷島で泊まった宿の主人が、渡嘉敷島の玉砕場を生き延びた生存者で、証言活動をしている吉川嘉勝さんと知り合いで、有難いことに本人へインタビューをする機会を設けていただくことができた。今年で87歳となる吉川さんは当時6歳。雨が降りしきる1945年3月27日の夜に、日本軍の命令によって家族と共に北山を3キロほど登り、翌日28日に玉砕場に辿り着く。その場に着くまで何も分かっていなかったと話す吉川さんは、「別に怖くはなかったよ」と少し笑顔を見せながら話を聞かせてくれた。事前のリサーチで私が読んでいた書籍には、日本軍の軍国教育によって、沖縄住民の多くは米軍の捕虜になるくらいなら死ぬべきだという価値観を信じていたという。また、別の生存者は「生き残る」ことがただただ恐ろしかったのだとも述べていた。[12] 吉川さんたちはひとつの円になり、手榴弾で二度ほど死のうと試みたものの、不幸中の幸いにも2発とも不発弾だったそうだ。その瞬間、母親に抱きしめられていたのか、吉川さんは背中のぬくもりを今でも覚えているという。不発弾をどうにか爆発させようと火に突っ込もうとしていたとき、母親は少し遠くで逃げようとする親戚を見つけて正気を取り戻し、咄嗟に「人間は生きれるまで生きるべきだ、死ぬのはいつでもできる!」と戦前の沖縄方言で叫んだそうだ。吉川さんの家族をはじめ、その言葉を聞いた60人近くの人々がそれに続くように山を降り始めたという。当時、日本軍が禁じる方言を使ったことは、とても勇気のあることだったのだと吉川さんは細かく説明してくれた。

証言を続ける原動力は、玉砕場で大勢の命を救った母親の精神からと吉川さんはいう。6歳だった吉川さんの記憶は驚くほどに鮮明だ。玉砕場から逃げる途中、父親は他方から放たれた手榴弾の破片が後頭部に飛んできて惜しくもその場で亡くなったため、その命日に毎年家族で玉砕場での記憶を振り返っていたという。しかし、思い出したくもないし、語りたくもないと多くの証言者が言うように、吉川さんもその記憶を第三者に話したのは50年以上後になる。中学校の教員を経て校長になった頃、知り合いや新聞記者などの周りの人々に強引にも後押しされてようやく話し始めたそうだ。その後、2005年から2011年にかけて、大江健三郎の著書『沖縄ノート』の日本軍指揮官が住民に自決を強いたという記述を巡る「岩波書店沖縄戦裁判」が起き、[13] 更には2007年に文科省が2006年度の高校教科書検定結果で、[14] 「日本軍による自決命令、強制があった」とする教科書に削除・修正させたことが判明する。それに対して、沖縄県宜野湾市海浜公園にて抗議者約11万人による「教科書検定意見撤回を求める9.29県民大会」が行なわれ、吉川さんはその県民大会でスピーチしたことがその後の活動に繋がったと話す。「日本軍がいたところにしか『集団自決』が起きなかった」と吉川さんが強調するように、その事実に向き合う責任が国にはある。極右からの誹謗中傷をこれまで何度も受けてきたが、「自分は一度(玉砕場で)死んだようなものだから、嫌がらせには動じない」と強く語っていた。

 

「集団自決跡地」の出入り口の門に戻ってきた場面。案内図でみるとちょうど赤い円を超えた付近で、緊張が解けた。

 

岩波書店沖縄戦裁判をきっかけに、危機感を感じた多くの生存者が証言者として口をひらき、それらの声が大きく裁判の判決を後押しをして、大江・岩波書店側は勝訴した。しかし、2007年以降の教科書は文科省によって「日本軍に」という主語を削除する、または「強制された」という言葉を削り、単に「追い詰められて集団自決した人」といった、軍の直接的な関与が見えにくい表現に変更された結果となっている。その改編された教科書で教育された私は、戦争になると人はおかしくなってしまうんだなとだけ思った記憶がある。そのおかしくなった原因はあえて言及されず自分の知る権利が奪われていたことを知ったとき、大きなショックを受けた。吉川さんは「集団自決」という言葉は軍隊の言葉であり、住民が使う言葉ではないと言っていた。なぜ渡嘉敷島の慰霊碑に、この言葉が使われ続けているのか尋ねると、教科書検定よりずっと前に国からの干渉があり、軍が住民を強制した事実の記述についての文章も、現在の当たり障りのないものにすり替えられ、それに従わなければ役所から慰霊碑制作の予算が降りなかったとのことだ。近年では、集団自決は「強制集団死」だと指摘する書籍も増えてきているが、ここまで固有名詞化した言葉を変えていくことは容易ではないだろう。「集団自決」という言葉は、日本の戦後の語りや空気そのものを奇妙にも象徴している気がする。

終活も兼ねてまとめたんだと、これまで吉川さんがガイドをしてきた内容を詰め込んだ冊子を見せてくれた。冊子内には、渡嘉敷島の地図や歴史、そして沖縄戦の細かな記録が丁寧にまとめられている。特に強調されていたのは、「戦争は戦いに直接関わりのない女性や子供を犠牲にする」と題したグラフで、戦中の渡嘉敷島内の死者数の内0-5歳児が最も多い数値を示してたことには驚いた。死者の男女比も男136人に対して女244人と大きく上回る統計が出されている。これを見て、私はパレスチナ・ガザ地区について同じような内容の記事を2年ほど前に読んだことを思い出した。[15] まだまだ元気そうである87歳の吉川さんが長生きしてくれるように願うばかりだが、現実的に戦争体験者は年々減ってきている。今の世界情勢や現日本政府が軍拡する動きについて話し、今日の時代をどう思うかと尋ねると、心が痛く怒りが芽生えると言っていた。歴史から学ばない政治家たちがどうして権力を持ってしまうのか、と日々悶々とする私自身も、吉川さんと同じ思いだ。これから先にどのような世界になっても、私は目の前にいる吉川さんから聞いた話を忘れずに、大切に継承し続けていきたいと思った。

 

渡嘉敷島の「アリラン慰霊のモニュメント」(朝鮮人従軍慰安婦慰霊碑)入り口付近からの様子。スマホアプリの地図で慰霊碑を検索した際にたまたま知り、行ってみた時に衝撃を受けた。吉川さんの冊子の中では、最も多いページ数で、このモニュメント設立の経緯から渡嘉敷島に連れてこられた7人の朝鮮人、従軍慰安婦について一人ひとりを細かく記録している。[16] 島の観光案内では、この慰霊碑が戦争関連の観光情報に含まれていないため、慰安婦たちを目にした当時の記憶もある吉川さんからは、伝えなくてはという熱量がより強く伝わってきた。

 

渡嘉敷島から沖縄本島に戻って、再び強制集団死の跡地を巡った。そのどれもが、渡嘉敷島の北山とは違う、沖縄の自然洞窟「ガマ」である。ガマは琉球文化において神聖な場所であり、祈りや葬送など儀式の場所として使用されていたと聞いたことがあるが、戦中においてその空間が時には人々を守り、時には追い詰めて最後を迎える場所となった。その中でも、一番象徴的な場所が、読谷村のチビチリガマとシムクガマだ。1945年4月1日に米軍が読谷村に面する沖縄島西海岸に上陸すると、多くの住民はガマや亀甲墓などに身を隠し、読谷村波平区の住民は、村内のチビチリガマとシムクガマに分かれて避難したという。このふたつのガマを対照的に語るのは、チビチリガマでは避難民140人に対して88人による集団死が起こり、シムクガマでは英語を話す人が米軍に交渉してその場にいた約1000人の全員が助かったという歴史にある。丸木夫妻の「沖縄戦の図」では、チビチリガマには沢山の苦しみに渦巻く住民たちが描かれているのに対して、シムクガマはがらんどうで真っ暗なガマだけが描かれていた。

沖縄に行く前に「集団自決」のリサーチをすると知人に伝えると、複数人がチビチリガマに行くことを勧めてくれた。その理由のひとつは、彫刻家・金城実さんが制作した慰霊碑だ。チビチリガマの現在の場所は、交通量の多い道路に面しており、渡嘉敷島の慰霊碑場所のように静けさもなく、コンクリートの道路の先にガマに向けて降る階段を見つけた時には、やはり緊張して足が止まった。ゆっくり階段を降りると右手奥にガマが見えてきた。ちょうど階段を降り終えた頃、頭上に大きなヘリの音がして驚いた。おそらく米軍のものだろうと思いながら、戦中の身体的な恐怖を現場で追体験した気がした。降りた周辺には、小さな仏像がポツポツと立っている。この仏像たちは、2017年9月に起きた地元少年ら4名によって慰霊碑を破壊及びチビチリガマ内の遺骨や遺品を悪ふざけで荒らした事件に由来すると聞いていた。[17] 金城実さんは、この場の歴史を理解せずに肝試しでチビチリガマを荒らした少年たちと向き合い、対話を重ねながら共同制作し、遺族会と共にこれらの仏像を設置したという。少し緊張していた私は、この仏像たちに癒されて緊張もほぐれ、しばらくの時間をガマの前で過ごした。

チビチリガマから車で4分先にある金城さんのアトリエも訪ねた。野外展示がアトリエで見られることが分かり、本人に会えたらラッキーだなと思っていたら、丁度帰宅されたタイミングでお話を伺うことができた。展示の作品も、一つひとつを丁寧に解説していただき、それについてはそれだけでレポートをしたいほどだ。沖縄の土地や歴史、そして市民の感情に長年向き合い続けてきた記録とも言える数々の作品群に圧倒された後、チビチリガマの慰霊碑設立や、破壊事件について詳しく聞きたいとお願いすると、おそらく沖縄のテレビ局が作ったドキュメンタリー映像を一緒に観せてくれた。その映像には、中学校の先生だった金城さんが仕事と両立して彫刻を制作する姿や、チビチリガマの歴史と向き合って慰霊のモニュメント「平和の像」の歴史的制作課程が丁寧に記録されていた。そして、そこで私はもうひとつの破壊事件を知る。つまり、チビチリガマは2度、破壊された歴史を持っていた。

 

チビチリガマに向かう階段を降りた先にあった仏像たちの様子。

 

渡嘉敷島を含む慶良間諸島の強制集団死の事実が1950年代には公に記録されていたことに対し、全員が助かった同じ読谷村のシムクガマの存在もあって、チビチリガマの残酷な集団死を経験した住民は、戦後しばらくの間、誰も公に語ることができなかった。そのため、現場は、遺骨がある状態のまま40年近くゴミ溜め場と化していたという。やがて遺族の呼びかけに応じて、作家の下嶋哲朗氏が初めて本格的な聞き取り調査を83年に実施し、87年4月に慰霊碑が完成した。この歴史は、他の沖縄戦の慰霊碑の中でも、異例の出来事だったに違いない。同年10月26日、金城さんとチビチリガマの活動を共にしていた知花昌一氏によって、沖縄国体での日の丸を焼却するアクションが行なわれた。その翌々日の28日、知花さんのアクションに反感を持った人物によって、知花さんの経営していたスーパーマーケットが放火されてしまう。さらに翌月の11月には、完成してからわずか7ヶ月しか経っていないチビチリガマの慰霊碑が、右翼団体構成員2名によって破壊される事件が起きてしまった。そのうちの1名は、報復として行なったと自供している。[18]

現政権による国会では「国旗損壊罪」を定めた国旗損壊処罰法が成立し、著しく日本の流れが軍国的に加速していく今日、この事件を知ったことは、私に大きな問いを提起した。沖縄が日本による植民地支配から、本土防衛の「捨て石」と位置づけられて行なわれた悲惨な沖縄戦を経て、戦後も日米に不当に扱われ続ける沖縄で、日本の国旗に抵抗を示すことの意味は計り知れない。アメリカの植民地時代に多くの沖縄市民は日本復帰を懇願し、オリンピックの聖火リレーが沖縄に来た際は知花氏自身も日の丸を振るような少年時代を過ごしていたそうだ。[19] しかし、日本復帰後にも変わることのなかった沖縄が直面する現実を目の前に、知花氏が日の丸を燃やすという行為は、単に誰かを傷つける目的ではないことは明らかだ。これは、決して沖縄に限ったことではない。今日、憲法に基づく表現の自由が脅かされる中で、守られなくてはいけない表現を私たちは失いつつある。今は他人事に捉えている表現者も、いつかこの意味を痛感するだろう。

金城さんのアトリエ近くには、金城さんが作った沖縄戦の朝鮮人慰霊碑「恨(ハン)之碑」がある。日本軍によって沖縄に連行された朝鮮人は、奴隷のように扱われ、最終的にはスパイ容疑にかけられて日本軍によって虐殺された。沖縄住民も日本軍には虐げられていたが、沖縄住民と朝鮮人の間にも平等とは言えない関係による加害性があると、2.24音楽祭平和学習ツアー中に沖縄出身のガイドさんから、宜野湾市の嘉数高台公園内で386名の朝鮮人を追悼するため1971年3月に建てられた「青丘之塔」の前で聞いた。このように、沖縄からまたさらにマイノリティに連帯を示す人々と出会うことが沖縄滞在中に度々あった。自分が生まれる前に起きた日本のあまりにも残酷な戦争犯罪。この日本人の加害性と、私たちはどのように向き合うべきなのか。私は被害と加害の間に挟まれた沖縄で、この問いをずっと考え続けていた。

 

沖縄戦終焉の地とされる「平和祈念公園」。ここには平和祈念資料館、沖縄戦で亡くなった住民から日本兵、米兵までのすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そしては国立沖縄戦没者墓苑、そして各都道府県の慰霊碑が並んでいる。筆者の出身地である愛知県の碑から海を見下ろした時の様子。その日は天気が悪く、かつての沖縄戦の証言者たちが「戦中の海は(軍艦などで)真っ黒だった」と語っていた言葉を思い出した。

 

6月27日、慰霊の日。私がこの日に意識を向けたのは、恥ずかしながらここ最近のことだ。私が小さい頃に受けた「平和教育」は、いつも広島と長崎の被爆者たちを中心とした死者たちの上にあった。世界中で原爆を落とされた唯一の国として、平和を伝えていかなくてはいけないと何度も何度も教わったことを記憶している。3年前の10月から、イスラエルがパレスチナに対してジェノサイドを加速させたとき、私はイスラエルの残虐な加害性を知った。それはまるで、自分が生まれた国の歴史とさほど変わらないことにも気づいた。今年の慰霊の日、高市首相は沖縄の戦没者に対して「尊い犠牲」という言葉を使用した。神聖または価値が非常に高いことを意味する言葉は耳触りは良いが、「犠牲」が連ねられた時には違和感しかない。日本軍第32軍の牛島満司令官が自決し、日本軍が組織的に終息した日に慰霊の日は定められ、この日は沖縄戦の本当の意味での終戦を指すわけではないこと(23日以降も人が殺され、実際には9月7日が沖縄戦が終わった日とする見方がある)を、今年の慰霊の日にアーティストひがれおさんの投稿から私は知った。

基地が多ければ多いほど、戦争時にその地域は狙われる。軍事戦略の観点において、基地の存在がその地域を攻撃の目標にすることは、古今東西の戦争の歴史において共通する観点だろう。米国が今日も戦争下にあり、現首相の「台湾有事」発言により日中の緊張関係が高まり、日本の防衛費も跳ね上がるなか、米軍基地や自衛隊基地が集中している沖縄に住む人々の不安はどれだけのものだろう。沖縄滞在中に受け取った琉球弧の戦場化を許さない実行委員会[20] によるリーフレットには、すでに沖縄離島の先島5市町村で住民の島外避難計画、実質的には強制疎開計画が島住民に指示されようとしているという。現政権は、再び沖縄を捨て石にしようとしていると行っても過言ではない状況だ。私の実家近辺にある自衛隊小牧基地は、1945年に米軍が接収し、1958年に管理権が日本側へ正式に返還された。この時期の本土への基地返還は、全国各地で同じように起きている。しかしその歴史は、逆に言えば、日本の米軍基地の負担を沖縄になすり付ける結果を残したと、現沖縄県知事の玉城デニー氏が出演するイベントで知った。その事実は、私自身が沖縄の基地問題に対して、当事者として連帯する理由をより強くするものとなる。そしてもうひとつ、国際芸術祭「あいち2025」においてそのスポンサーである大手企業大林組が辺野古基地建設に関わることに対して抗議の声が上がったことは、[21] アートに関わる個人としてこのアートウォッシング[22] の問題に向き合わなくてはいけないと、改めて認識させてくれた。

戦争を想像する未来があるなど、子供の頃は到底思ってもいなかった。今日の私は戦争を未来に想像できてしまう。軍事費にどんどん投資される国費、税金を払うだけでその一部として加担しているということは、呼吸しているだけで加害性を帯びていくように息苦しい。しかし、私は最近になって資本主義の終わりを想像できるようになってきた。マーク・フィッシャーがフレドリック・ジェイムソンとスラヴォイ・ジジェクの言葉を引いて論じた「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像する方がたやすい」という言葉は、私の中ではどこか過去のものになりつつあるかもしれない。軍産複合体[23] の企業と手を切れない国内外のアートシーンも、これまでは終わりが想像できなかったかもしれないが、いずれは終わりが来るはずだ。しかしそれまでに、私たちが生き残れるかどうかが大きな壁かもしれない。

 


 

*1 「入鹿池で発生した自衛隊機墜落事故について」犬山市役所、2025年 https://www.city.inuyama.aichi.jp/kurashi/1007140/1007148/1012081.html
*2 自衛隊法施行規則 第五節 服務の宣誓 第三十九条 https://laws.e-gov.go.jp/law/329M50000002040
*3 「自衛隊T-4練習機墜落 「入鹿池は偶然か意図的か」 元統合幕僚長が語る自衛隊パイロットの“決断” 離陸後2分間に一体何が? 愛知・犬山市【大石邦彦が聞く】」TBS NEWS DIG、2025年 https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1919582?page=2
*4 「妻が涙の訴え「夫の命はずさんな訓練によって奪われた…」陸上自衛隊・松本駐屯地でレンジャー隊員が訓練中に死亡…別隊員が誤って落下させた機関銃直撃…遺族が国に対し損害賠償求める訴え」TBS NEWS DIG、2026年 https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2757343
*5 森下裕介「「政治的中立」指針は策定せず 文科相「教育基本法違反」判断受け」朝日新聞、2026年 https://www.asahi.com/articles/ASV620DSSV62UTIL02BM.html
*6 ニイニイヨン音楽祭2026 https://www.224okinawa.org/
*7 「辺野古の米軍基地建設で“前例ない難工事”始まる「マヨネーズ並み軟弱地盤」に打ち込む7万本の杭【サンデーモーニング】」TBS NEWS DIG、2024年 https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1379138
*8 「米軍機の騒音、ヤバいレベルだった 嘉手納基地周辺など、110デシベル超え常態化 聴覚障害のリスク」沖縄タイムス、2023年 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1225909
*9 「声をかき消すような騒音 小牧基地・騒音調査を実施」愛知県平和委員会、2021年 https://peace-aichi.net/202104252006_6767.html
*10 名護市辺野古への移設工事が軟弱地盤問題などで大幅に遅れていることに加え、米国防総省が「辺野古の滑走路(1800m)より長い滑走路を日本政府が選定しなければ、普天間は返還しない」と言及した。
阿部真司「辺野古より長い滑走路なければ「普天間飛行場は返還されない」…米国防総省が文書とりまとめ」読売新聞、2026年 https://www.yomiuri.co.jp/world/20260220-GYT1T00391
*11 「集団自決について」渡嘉敷村、2024年 https://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/soshiki/sitekanri/6/5/35.html
*12 「沖縄戦と「集団自決」:何が起きたか、何を伝えるか」『世界』臨時増刊、岩波書店、2008年、p.32
*13 「Qリポート 集団自決と 大江・岩波裁判」琉球朝日放送、2007年 https://www.qab.co.jp/news/200708153972.html
*14 「<社説>歴史教科書検定 事実を教えてこそ教育」琉球新報、2015年 https://ryukyushimpo.jp/editorial/prentry-241546.html
*15 「ガザ地区の戦闘で死亡、7割近くが女性と子供 国連発表」BBC News Japan、2024年 https://www.bbc.com/japanese/articles/ce8d7873pyjo
*16 ドキュメンタリー映画『アリランのうた−オキナワからの証言』(監督/朴壽南、1991年)https://nutigafu.wixsite.com/park-soonam/okinawa
*17 打越正行「沖縄「チビチリガマ荒らし事件」とは何だったのか? 建築業の現在から見えてくること」現代ビジネス、2017年 http://gendai.media/articles/-/53299
*18 「「死者は三度殺された」 沖縄チビチリガマ、1987年にも破壊事件」沖縄タイムス、2017年 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/141648
「平和の像破壊 右翼2人逮捕」朝日新聞、1987年12月21日夕刊、13面
*19 「あこがれていた日の丸を燃やした僕 拒絶した「強制」」朝日新聞、2021年 https://www.asahi.com/articles/ASP8H25FHP82UPQJ009.html
*20 琉球弧の戦場化を許さない実行委員会 https://lit.link/en/nowar_ryukyuko
*21 Barbara Darling(@barbara.darling.1048)、2025年 https://www.instagram.com/p/DPGuD5mgcoC/
*22 アートウォッシングとは、企業や組織が自らの不祥事や環境破壊などの悪評を隠蔽し、パブリックイメージを浄化(ウォッシュ)するために芸術や文化を利用する行為を指す言葉。
Megan O’Grady「アート界の現在地 ―アクティビストとして活躍する注目のアーティストたち」HARU HODAKA翻訳、T JAPAN、2021年 https://www.tjapan.jp/art/17491502/p4
*23 筆者がこの言葉を知ったのは、Multiple Spiritsのイベントの告知タイトルから。
Multiple Spirits(@maru_supi)、2026年 https://www.instagram.com/p/DW6MF9UiAzJ/

 


 

中島りか|Rika Nakashima
1995年、愛知県生まれ。アーティスト。理性主義や資本主義に基づいて形成された公/私の境界に疑問を抱き、都市空間におけるそのあいだの曖昧な境界(閾=いき)をテーマに、主にインスタレーション作品を制作する。現代における生と死の概念を手がかりに、現在は国内外の墓地や慰霊碑、または自然葬などのオルタナティブな埋葬のあり方のリサーチを行なっている。主な展覧会に「TOKAS Project Vol. 8 絡まりのプロトコル」(TOKAS本郷、東京、2025)、「INTERSTICE」(le ventre、ヘーゲンハイム、2024)、「□より外」(TALION GALLERY、東京、2023)、「I tower over my dead body.」(Gallery TOH、東京、2021)など。2022年よりプロジェクト「脱衣所 – (a) place to be naked」を始動し、以降はメンバーとともにさまざまな企画を手がける。(2025年11月にスペースは終了し、以後はポップアップ形式で継続している。)2023年10月以降、パレスチナへの寄付金を募る企画やイベントの運営にも注力し、2026年より政治や社会の出来事にアートが即時的かつ批評的に応答するための対話型プラットフォーム「アート・リスポンス」を開始、定期的にイベントを行なう。
https://www.rikanakashima.com/

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