「Hollow」 小谷元彦展 プレスカンファレンス インタビュー

「Hollow」小谷元彦展 プレスカンファレンス インタビュー
 2009年12月16日 メゾンエルメス8Fフォーラム

 「Hollow」について

エルメス:今回の展覧会のコンセプトについてお聞かせください。

小谷:彫刻とは、基本的に、彫刻自体がその実体をつくるというか、本体というか、実像をつくるみたいな感じのイメージで彫刻というのは認識されていて、実体ができると、当然光があたれば陰ができるという当たり前のことなのですけど。
この関係性自体をもう少し逆に考えることができないか、というふうな所から発想したんです。要は、影をつくること、陰的なものをつくることによって、彫刻のようなものがつくれないだろうか、ということを考えはじめたのが最初の作品のコンセプトです。

日本語で離魂病という、魂が離れる、といわれる、いわゆる「ドッペルゲンガー現象」つまり同じ空間に自分の姿を見てしまうことですね。結局、それを見た人というのは死が訪れたり、あるいは、逆にそれが身代わりになって、自分が生き続けたりとか。そういった話をきっかけに考えると、そのドッペルゲンガーが起こっている現象自体というのは、実をいうと、本体自体が存在していないような印象があり、両者共に霊的な物体にしかなっていない、あるいはそういった状態に非常に近いのではないかと思いました。
古来、人間というのは実体があって、影ができて、その影に対して恐れとかを感じる。人間は、実在している人間そのものよりも、むしろ影とかに恐れを抱くものであろうという風な印象を持っていて、いわゆるその影的なものというか、気配のような、そういったものを物質体として考えると、わりと空中にある気体のイメージに近いのかなというのもあって、気体の状態に近いような状態の人体に、人型のような、それに近いようなものをつくってみました。

エルメス: 今コンセプトしてお話されていた「実体のなさ」に関連しますが、樹脂という彫刻の素材についてですが、大理石とか木とか、ブロンズとか、そういう他の素材に比べて、質感が非常に希薄な素材というのが「Hollow」には相応しく、その世界観に呼応していたと感じました。樹脂というのは、制作の過程で、実際彫りこんでいってそこに実体をつくるというよりも、型を取るとか、外側があって、中身の型がある。そこに常にネガポジのような関係があって、分裂していく過程を既に制作過程で感じているのではないかと。でも実際はどちらが抜け殻かわからないような。
あとは、文字通り型を取ったことで、そこでプロトタイプで複製が制作できるということが、反対にオリジナルよりも象徴的な存在になるので、「Hollow」的な発想なのかなと思いました。その制作プロセスや、身体的な感覚が制作に反映されたのでしょうか。

小谷:はい、僕自身は、そんなにFRPという素材自体は好きではないんです。透明樹脂であれ、素材のフェティシズムみたいなものが無い素材で、人の感情面を受けづらいというか。そういったものを全く持っていない素材だなというイメージを持っていて、逆に、それ故に、蛻のからであるというような使い方が、できるのかなと思っていました。彫刻自体は、ドローイング的に作るのが非常に難しいし、ドローイングを描いたような形状の塊として作品ができればいいな、と、よく思っていて、特に今回のものに関しては正解の形状なんて何もないし、どこで終わるかというのも全然決まってはいなかったです。
自由度の高さをわざと利用したというのも1つとしてありますしね。例えば、今言われたような、型を取るという作業自体、型を取るっていう作業って何だろう。と究極的に考えると、本体が、やはりこれも無い。

エルメス:白という色についてお話を伺います。エルメスの空間ですが、皆さんもガラスブロックに白い壁があるという風に思っていらっしゃると思いますが、実はその白と思っている壁が、非常に薄いグレーに塗られていまして、二層にわたる、7m以上ある壁のボリュームがガラスブロックとぶつからないように工夫がされているのです。たまたま前回の展覧会で壁画を制作する際に、一度壁をまっ白に塗り直したんです。その時の衝撃といったらなかったのです。気恥ずかしいというか、とても強すぎて、慣れないだけなのかもしれないのですが、ニュートラルとは程遠い。改めて白という色の質量に対して身体の反応を再確認した瞬間でした。
それで、小谷さんと今回の作品で白というのが必然で、色を持たないという意味はもちろんのこと、その色の按配、というんでしょうか、白にも本当に色々なバリエーションがありますよね、あの自然光の中での表情と、夜の照明を受けての白の表情でかなり作品の印象も変わってきます。小谷さんが礎とされた白の按配、質感についてお話いただけますか?

小谷:そうですね。一般的に彫刻的な物質として白が増えてきたのはここ最近の話なのではないのかなと思ってはいるんですが、白の色というイメージだと、この作品とは余り関係のない話かもしれないですけれども、イメージしている白というのは、僕がテレビのドキュメンタリーを見ていた時ですが、盲目の子がはじめて目が見えるようになった時の話があったんです。最初に飛び込んできた色は、当たり前ですが、光の色で、真っ白だったというのですが、その時、その真っ白が飛び込んできた時、それが結構恐怖だったらしいんです。その白色を感じた時、その女の子は暗闇に慣れていたので、その白が怖くなって目を閉じた。という話があって。僕はその話から白の色に対してのこだわりが始まったというのがすごくあって。白という色は、僕らが思っている、わりとニュートラルで、綺麗に見えるという、そういった白のイメージと全く違う白の考え方というのがあるのではないか。
それで僕はその後、やみくもに、白いものに興味を示すようになってきたんですよね。例えば、ホルマリン漬けとかでいる生物も色が抜けてきて、真っ白になっているし、人間自体も結局、骨になっている状態は、白骨化して真っ白ですから、何か、白という色は、究極のミニマルな色でもありながらも、そこには何かその、単純なニュートラルで見やすいっていう色とは違うような白が存在しているんじゃないかと、ずっと思っているんですね。だから僕が白にこだわっているというのは、そういう白の使い方が考えられるじゃないかということは常に思っています。

 彫刻と映像の関係

エルメス:ちょうど展示がほぼ終了したときに、小谷さんが、「あー、映像って手があったんや」と叫んでいて、それを聞いて、なぜか非常に納得したのです。作品が時間的であって、今空間に浮いているものの中に閉じ込められている動きや時間を映像にするんだったら一体どういう作品になったんだろう、「Hollow」というタイトルでどんな映像作品ができたのかなと興味を感じました。彫刻だと実際浮いているんですけれども、吊られているという現実は反対にはっきりしている。より重力に抗えない。その辺が、この展示の中でエロチックさを感じたんですね。その感覚を映像にするとしたら、あるいはこの「Hollow」の世界を、映像作品にできるのかな、と。

小谷:シリーズ的に考えると、何となくイメージはできています。立体物に対して呼応するような状態で映像をちゃんとおさめていけるような形にしていって、彫刻との関係を循環させていきたい、と思っています。

エルメス:「Hollow」という展覧会の総体を作るときに、「Hollow」の新作だけでなく、「New Born」の新作も内容に盛り込まれましたよね。そのことで展覧会の時間や内容が重層的になったかと思いますが、「New Born」を盛り込んだコンセプトをお聞かせいただけますか?

小谷: 最近ずっと、僕自身が彫刻という素材を使って何がしたいのかな、とよく考えたりするんですけれども、それでこれとはまた別に映像作品とかも再び作り始めたりしているんです。その時、やっていて面白いなと思うことは、やはり、時間の問題なんですよね。結局映像というのは時間を、時間のスピードをいじることができるという。単純なことなんですが、これって実はすごいことなんじゃないかと、つまり人間が存在していて、時間は必ず定則で、一定方向、そう、時間はリニアに進んでいくんですけれども、これをねじ曲げるのは、神しかできないのに、それを映像は平気で変化させることができる。
そう考えた時に、すごいな、映像というのはスピードだけで、十分色々なことを見せることができるんだな。と実感して。時間をいじるというのは、実は彫刻と通じているのではないか。と。それは、結局彫刻というのは、ある意味、時間のどっかの部分をコントロール、時間を切り出すというイメージに近い作業で、その「時間をコントロールする」という意味では、映像でも、彫刻でも非常に、近似値で、結局似たようなことをやっているのではないかと思ったんです。
要するに僕は色々な素材を使って、色々なことをしていたんですけど、もっとも、いじっていることがこのテーマなのだろうと。僕は彫刻における時間みたいなことをやり取りしたいんじゃないかと思っていてるんです。そのとってつけたりという繰り返しが、「New Born」というシリーズで時間の可視化、いわゆるモーションの形状化ということになっている。
「New Born」では時間を連続体にする、「Hollow」のどこにも定まっていない浮遊状態はいわば非決定状態にあるようなものでこの二つの時間を対照的に見せていければと思いました。

 タイトル

エルメス:会場でお配りしているハンドアウトに小谷さんがキーワードとして書かれた言葉ですが、作品をつくりながら浮かんでくるものなのか、またはキーワードが常にあって、そこで作品が生まれるのでしょうか。

小谷:そうですね。例えば、インターネットとか言うと、ある言葉で検索をかけた時にタグが出てきてクリックとしたら、その次にまたそのタグができあがり、数珠繋ぎに繋がってくるとことは、普通ですよね。結局、ものをつくるにあたっても、1つのものキーワードが出てくると、それに付随して色々なタグみたいなものが、でてくる。作品自体になるべくタグに近いものを用意して、そこから何かを受け取れるようにしてもらった方が、作品の自由度が高いというか。そう思っています。キーワード自体は、そうですね、制作中に自然に浮かんでくる感じです。

エルメス:そのことはタイトルでも感じました。最後に会場で展示された作品に、小谷さんがタイトルをつけていく作業、それを見ながら、ああ、最後の彫刻をしているんだな、と強く感じたんですね。それはタイトルイコール作品として再定義するのではなくて、作品とタイトルの距離感が等しい、つまりそこから発想、作品が与える発想の距離感を調整するように、循環するように言葉を選んでいらっしゃるのかな、と思ったのですが。

小谷:学生時代は、やけに長いタイトルをつけるのが自分の中で流行っていたんですが、それって結局何もいっていない。内的すぎるというか。内的な世界をそのまま言葉にしすぎるのは、ちょっと危険でもあるな。と。僕は、言葉遊びというか、作品とタイトルというのは循環システムのように密接に関係をもっていてほしい、と常に考えています。
今回展示している壁についていた手らしきもの、あれもピアニストといわれないとわからないんじゃないか。と。実際に、ピアノの鍵盤たたくときの連続体のひとつの構成をして、あれをつくったんですけど。しかもピアニストって、亡霊とかいそうだし。
またベルニーニのルドウィカの頭を拡大化した作品については、この展示で唯一本体を持つもので恍惚体の象徴としてあるですが、そこにはイコンにまつわる人の想いの重力を表するものとして「偽薬」という言葉が最初からでてきました。
タイトルが中身を引き出してくれるというのは、期待もしているし、なにか引きずり出したいなということは思っています。あと「Cradle」ですが、ゆりかごというと、「ゆりかごから墓場まで」という言葉を連想してもらえるように、最終的に「Reversal Cradle」とし、反転しているゆりかごということは、生まれてきた時に、既に死んでいるということかもしれない、という意味で、「反転するゆりかご」と、つけました。その関係を最小限の言葉、タイトルで、作品自体をバックアップしたいな。とは思っています。

 ホラー映画

エルメス: ホラー映画がお好きだとおっしゃっていましたが、その魅力について教えてください。

小谷:ホラー映画、といっても、スプラッター映画とかが好きなわけではないので、あの、いわゆる血が飛び散ったりするようなものが好きなわけでは全然ないんです。いわゆるサイコホラーに関してはすごく興味を持っていて、サイコホラーって、構造自体は結局、陰だと思うんですよね。存在していないものを、どういう風に感じさせるかというか、いわゆる人間というのは他者の陰を怯えるものだと思っていて、それを優れたサイコホラーは、それを、どの場面でも感じさせるようにできている。その気配というのは実は、それこそが、ある意味彫刻ではないか。と感じるんですね。
僕も映画好きだからいろいろ見てきましたけれども、結局「美しいな」っていう場面は単純じゃない。例えば、「Deep blue」みたいに自然が映っているから綺麗だと思うんじゃなくて、やはり得体の知れないものが入ってくる時のほうが、僕なんかはグッとくるし、美しい瞬間に見えるんですね。だからある種の歪みが存在していないと、美しいもの、に昇華しない。
あと、ホラー映画は、やはり人間の本質、深層心理みたいなものをかなりコントロールするものであろうと思っているので、そういったことにすごく興味を持っています。

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