曹斐 (ツァオ・フェイ)

「アートとポップカルチャーの架け橋」、そんな役割ができればいいなって思うんです。

急激な都市化・近代化を遂げつつある中国都市部。そのひとつ、広州に生まれ育った若き作家は世界アート界の希望の星となりつつある。ヴェネツィア・ビエンナーレにも出展する俊才を育んだ環境とは?

聞き手:小山ひとみ
ポートレート:冨田里美
協力:東京画廊+BTAP

―― 去年は忙しい1年でしたね。拠点を北京に移したけれど、ほとんどいなかったのでは?

広州、台北、香港、韓国、ニューヨーク、オランダ……とにかく国内外、あちこち動き回っていました。


Cosplayers: A Mirage, 2004, digital C-print.

―― 今日は、生い立ちや、どんな環境で育ってきたのかということから聞かせて下さい。生まれ年の1978年は、中国が改革開放に向けて動きはじめた年にあたります。初めて触れたアート作品はどんなものでしたか。

父も母も彫刻家なので、最初に触れたアート作品は両親の彫刻だったってことになりますね。母が美大の教師で、構内にある教師専用アパートで生活していました。両親から特別な美術教育を受けたことはないけれど、美大生との交流も盛んだったし、幼い頃からアートが身近にあったと言えるかな。アートに対する感性は生まれつきなのかもしれません。

―― ご両親の彫刻のほかに身近にあったものは?

小学生の頃は両親が買ってくれたマンガ、テレビでは日本のアニメをよく観ていました。

―― タイトルは覚えていますか。

マンガだと『タンタン』とか、アニメだと『鉄腕アトム』『ドラゴンボール』。私が観たいアニメと父が観たいニュースの時間帯が重なって、いつも喧嘩していました(笑)。

マンガ、アニメ、MTVの影響

―― その後は? 広州だと、すぐ近くの香港の情報や、香港経由の海外情報がたくさん入ってきたでしょう。

12、3 歳頃だったか、ポップカルチャーに興味を持ちはじめました。ブレイクダンスにポップミュージック、音楽番組のMTVに夢中になって、親に内緒でダンサーからダンスを教えてもらったり、18歳に見えるような大人っぽい格好をして、口紅をつけて、姉のIDカードを持ち出してディスコに行ったり……。もちろん、親は知りませんでした。

―― いまの曹斐からも想像がつきます(笑)。当時の中国では、どんなポップミュージックが流行っていたんでしょうか。


Un-Cosplayers: Bunny’s World, 2006, photograph.

マイケル・ジャクソンとか香港のアイドルとか。当時はまだいまみたいに自由旅行が当たり前の時代じゃなかったけれど、ある程度お金を払えば旅行として香港に出入りすることができたんです。それで、両親とふたりの姉たちとよく香港に行きました。大陸ではなかなか観られないMTVも、香港の知り合いの家で観たりして。

―― ご両親は、娘がポップカルチャーにはまっていることをどう思っていましたか。

親の世代の人たちは、政治活動に取られていた時間を取り戻そうと、改革開放後は自分たちの仕事に一生懸命で私にかまっていられなかった。だから、両親からの束縛もなく、好き勝手に過ごしていました。

―― 高校ではどんな学生でしたか。確か、初めて演劇に触れたのは高校生のときだったとか。

そう、学校で毎年開催される演劇コンテストに同級生と一緒に参加して、ダンスを習っていたからいろんな音楽とミックスさせて、台詞もほとんどないコメディ仕立ての音楽劇みたいなものをつくっていました。それがとにかくウケて、皆、笑いっぱなし(笑)。それまで発表されてきた伝統的な劇とは全然違うスタイルだったし、毎年優勝していました。

―― さすがですね。その後、大学に入って初めてDV作品を撮ることになります。映像に興味を持ちはじめたきっかけは?

大学に入ってから、シリアスな真の芸術に触れる機会が増えていったんです。まず、香港のインディペンデント映画にはまって、その影響で、99年にDV作品『失調257』を撮りました。当時、中国ではまだDV作品が数少なくて、ただ撮りたいものを撮っていただけですが。

―― その頃、影響を受けた作家は?

いまでも私がいちばん尊敬する作家、寺山修司との出会いは大きかった。99年、香港のアートスペースで大々的に上映されていたときに初めて観たんです。『書を捨てよ町へ出よう』『草迷宮』『田園に死す』『さらば箱舟』……。何てシュールなんだろうって思いました。彼がデザインしたポスターや、詩なども印象に残っています。

日本のアーティストではほかに、オノ・ヨーコには女性としてのステイタスや勇敢さ、強靭で独立したものを感じます。草間彌生の小説は、確か『沼に迷いて』だったと思うけれど、読み終えた後、全身が解き放された感じがしました。文章がとにかくセクシュアル、かつ強烈で解放的。刺激を与えて、意欲を奮い立たせてくれました。

まったく違う事物をコネクトさせる

―― 欧寧(オウ・ニン) とは、いつ知り合ったんですか。

それも99年。『失調257』が完成して書店で上映会をするときに、姉の友人に話をしたら「俺の友だちで映像が好きな奴がいるから呼ぶよ」って。それで、当時、深にいた彼が列車に乗って作品を観に来てくれたんです。その後、彼が立ち上げた映画雑誌で『失調257』を紹介してくれたり、2000年~03年まで、会員制の映画上映会を主催して一緒に活動したり。その上映会では、中国のインディペンデント映画とか欧米の作品とか、本当にたくさんの映像、映画に触れました。


My Future is Not a Dream 02,
2006, digital C-print (from the Siemens Art Project: What are you doing here?).

―― それから、コラボレーションがスタートするわけですね。『三元里(サンユアンリ)』(03)、『大柵欄(ダーチャーラン)』『珠三角梟雄伝(ジューサンジャオシャオションチュアン、珠江デルタ・アンチヒーローズ)』(05)などは、中国の都市や人をテーマにしています。

都市に対して関心を持つようになったのは、やっぱり欧寧の影響が強いかも。アートを通じて実社会に関わるということを、欧寧から教えてもらったとも言えます。私自身も「人間と社会問題」にとても関心がある。例えば、発展途上国が近代に向かうときに生じる強烈な変化とか。特に、いまの中国ではそれがあからさまに現れているでしょう。

毎年、ひとりのアーティストにアートプロジェクトを依頼する「シーメンス・アーツプログラム」では、広東省佛山(ホーシャン) にある電球工場で働く労働者と緒に、半年間『們在這里做什麼?(ニーメンザイチャーリーズオシェンマ一、君たちここで何しているの?)』(06)というプロジェクトを行いました。これまでにプロジェクトに参加した作家たちはただ作品を発表するだけで、「それでアートと労働者の関係って何か変わるの?」って私は思った。せっかくやるなら、労働者たちも巻き込んじゃおうって。まず、50の質問に答えてもらいました。「いまの作業着は好き?」とか「あなたにとって楽しい暮らしって何?」とかね。そして、お互いを知るためにワークショップからスタートさせたんです。アイデアは出したけれど、企画や具体的な作業などはすべて彼らに任せました。

自分たちがつくった電球をインスタレーションにしたり、バレエや孔雀舞が好きな人は普段作業している作業台の横でパフォーマンスをしたり。プロジェクトが終わった後で、労働者のひとりが「生活そのものがアートだね」と言ってくれました。「君のユートピア、それは私たちのユートピア」というのがテーマだったんですが、彼らの実現させたい願望って、実は私たち皆が望んでいることでもあるんです。

―― でも、『Hip Hop』と『Cosplayers』を観て、流行を取り入れただけの作品ととらえる人もいます。


Un-Cosplayers: Housebreaker, 2006, photograph.

私は、アートとはある物事をイメージして作品にするとか、他人が見たことのないものを生み出すことではなく、まったく違う事物の狭間で「コネクション」を探ることだと思っています。例えば『Hip Hop』では、普通の人とポップミュージックをコネクトすると、不思議な化学反応みたいなことが発生する。アーティストって、どちらかと言えば「個」から作品を発表する内向的な人が多いでしょう。でも、私はどちらかと言えば外向的。世界中のあらゆるポップカルチャーとコネクトして、何か引き起こせないかなって思うんです。「アートとポップカルチャーの架け橋」、そんな役割ができればいいなって。

―― 去年の北京東京藝術工程(BTAP)でのパフォーマンスと写真作品『Un-Cosplayers』では、一般市民とコスプレをコネクトさせました。

一般市民の体は「現実」だけど、コスプレ自体は「超現実」だから、「現実と超現実」がコネクトしたということにもなるでしょう。「コスプレ」って言葉自体、いまでは世界共通語になっていて、コスプレ=アニメ=流行っていう図式ができあがるんだろうけど、でも、昔から人は、例えば神話に登場する人物だったり、架空の人物だったり、自分とまったく違う人間の服を着てその人間になりきりたい、「いまの自分を変えたい」って願っている。だから、コスプレそのものが私の目的ではないんです。

初出:『ART iT 第15号』(2007年4月発売)

曹斐 (ツァオ・フェイ)
1978年、中国広州生まれ。2001年、広州美術学院装飾芸術設計系卒業。99年、当時の中国でも数少ないDV作品『失調257』を発表。以降、『Hip Hop』(03~06)、『Cosplayers』(04) 、『Un-Cosplayers』(06)など、ポップカルチャーを現代美術に巧みに取り込み、映像や写真、パフォーマンスなどの手法で表現している。05年、広州トリエンナーレで発表した『珠三角梟雄伝』や翌年の『們在這里做什麼?』など、中国が抱える都市の諸問題を独自の視点で鋭く、かつ軽やかに描出した作品も制作。06年には、中国現代美術賞(CCAA)で最優秀若手賞を受賞し、同年、広州から北京へ活動拠点を移した。07年は、第52回ヴェネツィア・ビエンナーレの中国パビリオン、第9回リヨン・ビエンナーレに出展。ZAIM(横浜)で開催された『ART LAN@ASIA~アジアの新☆現代美術!!』にも参加した。

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