北川フラム (後編)

芸術よりも祭のほうが僕にとっては重要です。大地の祭なんです。

過疎地域の再生を目標に掲げ、760平方キロという広大な地域で開催される『大地の芸術祭』。「難産」の果てに、世界最大級の国際芸術祭にまで育て上げた総合ディレクターに聞く、芸術祭の過去・現在・未来。

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ガウディに学んだ「地域に関わる楽しさ」

——北川さんは1980年代の終わりに『アパルトヘイト否!』という国際美術展を企画されていますよね。日本全国、200ヶ所近くを巡回しています。このときに地方を回った経験が『大地の芸術祭』につながっているんでしょうか。

『アパルトヘイト否!』の前、70年代の終わりにガウディ展をやっているんです。それが先にありますね。僕はガウディを地域主義みたいなところで捉えていて、カタルーニャ探訪協会のメンバーであったとか、カタラン語で話して捕まったとか、あるいは職人たちといろいろなことをやっているとか、そういうことを含めて、ガウディが地域の中に非常に深く関わっていたということを学んだんです。『アパルトヘイト否!』では、受け手が多様な角度から入れるような仕組みを作りたいと思っていました。日本では、美術はものすごくカテゴライズされていて、いわばN響会員と同じような「現代美術会員」、まあ『美術手帖』を読む層ですが、これが数千人くらいしかいない。そういうところを何とかしていかないとどうしようもないな、と思ってやってきたところがありますね。

——その考え方の背景に、例えば良寛研究家でいらしたお父様の存在とか、宮沢賢治とかがいると言われていますが、ご自分でもそう思われますか。

まあそうでしょうね。宮沢賢治の羅須地人協会は僕にとって重要な話です。自分の学生たちと一緒に、地域のいろいろなものを探り、いろんなことを楽しみながらやっていく。ある意味でガウディと似ているんです。でもやっぱり、ガウディから学んだことがいちばんですね。職人たちと一緒に、設計図は作らずに200分の1の模型を造り、みんなでああでもないこうでもないと言って20分の1の模型まで行く。あとは1分の1を作ればそれが本物だというわけですね。僕は、そういう人と一緒に何かをやっていくのが面白いと思うところがあって、その中で受け手側の関わり方を増やしていく。つまり、見るだけじゃなくて作っていくと面白いという側面があって、これがいちばん違うところかな。だから『大地の芸術祭』も、もちろんアーティストも関わるわけだけど、地域の人とかこへびとかがどう関わる仕組みを作るかというところが大きいですね。

——つまり、もちろん美術が核にはあるけれど、いちばんの目的はある種の「共同体の再興」であるというようなことでしょうか。

「共同体」はちょっといやというか、あまり考えたくないですね。それよりは「共同作業」。そこはかなり意識的にやっていますね。例えば今日も会議があったんですが、そこで話されることはどういう作品かということより、現場のロジスティクスの問題です。つまり、こへびがどう集まって、どう動いてどういう飯を食べるか、ということのほうが僕は興味があるし、ずっと重要だと思っています。

福武總一郎との出会い

——前回、「福武ハウス」というものができましたね。ベネッセの福武總一郎さん(現『大地の芸術祭』総合プロデューサー)が声をかけて、商業ギャラリー7つが廃校での展示を行った。あれにはびっくりしました。

僕もびっくりしました(笑)。


『福武ハウス 2009』 photo:Keizo Kioku 

——あれは福武さんから提案が出てきたわけですよね。

そうですね。こちらも啓蒙されてきて、今回僕、結構一生懸命やってるんです。というのは、最初はなかなか理解できなかったんですけど、福武さんがやっている大きな理由のひとつに、普遍的に成立するような仕組みに持っていきたいということがあるわけ。

——越後妻有という固有の場所だけではなく?

越後妻有でも福武さんが頑張らなくてもいいように。

——というと?

それはネーミングライツであったり、ふるさと納税であったりですね。僕は最初なかなかわからなかったんですが、福武さんは仕組みを作ろうとしているのが非常に大きい。

もうひとつは、やっぱりいろんなスポンサーシップがない限り、いろんなことが成立しないでしょう。僕は越後だけで考えていたんですけど、福武さんはアジアの市場ということを考えていくべきだと思っていた。福武さんの中でもいろいろ考えが進化していきますけど、それが少しわかってきて、僕が今回やろうとしているのは「北東アジア文化村」みたいなことです。そこに例えば韓国のヘテ財団に協賛してもらうとかね。韓国は今回、いろんなツアーとかでおそらく数百人送り込んできますね。

——韓国にあるヘイリ芸術村みたいなイメージですか。

まあそこまでは行かないけど、ヘイリは今回ツアーでみんな来ます。

美術が「自分の場所」になったわけ

——福武ハウスの話に戻りたいのですが、ああいうふうに商業ギャラリーがいくつか集まって空間を作るというのは、『大地の芸術祭』の中ではどういう位置づけになるんですか。

いろいろがんばってくれるといいなと思います。ほかにも今回、杉田敦さんが国内外の批評家やキュレーターを呼んでシンポジウムを開くとか、AITが学校みたいなのをやるとか、僕とは違う動きの人たちがいろいろやるのがいいなと思ってますね。

ある意味で20代からそういうことは思っていて、日本の改革派というのは啓蒙みたいな形で味方を増やそうとしたんですね。それに対して僕はアレルギーを持っていた。正義の戦いをみんなやろうとしているのが間違いじゃないかと思って、自分がいやだなと思う人たちと一緒にやる道を探すべきだと思っていた。その中で、何で美術が自分のやれる場所になったかというと、これが重要なんだけど、いろんな科目や授業がある中で、人と違っていいのが美術だけだったからですよ。ほかは、うまくやる、早くやる、正確がいい。体育だって速いとか、よく動くとか、その中で点数を付けられる。価値観がみんな非常に似ているんですよ。人と違って褒められるのは美術だけでしょ。それは逆に言えば、人間はみんな違うんだという前提に立っているのは美術だけだということ。そういう意味で、美術が僕にはいちばん合っていたんです。

——だから越後妻有も違うものがいいと。

多様であるほうがとにかくいいと思って。そういう意識でないと焼き物もやれなかったし生け花もやれなかったし。何でもいいよというのが僕の基本ですね。福武さんがその辺を僕よりもよく代弁してくれて、「僕は右だけど北川さんは左だ」と。僕は左じゃないけどね、でも違うものが一緒にやってるのがいいんだと福武さんは言います。富士山は右から行っても左から行ってもいいんだというのが福武さんの考え方ですね。

——なるほど。では最後に読者へのメッセージを下さい。

家族連れとか、いろんな人たちに来てほしいと思いますね。美術なんてうまい下手じゃないし、田んぼを見て歩くだけでも気持ちがよくなる。それにやっぱり妻有は夏がいい。人が大勢いて、イベントがあるときに来るほうが楽しいですよ。

——『大地の芸術祭』で重要なのは「芸術」よりもむしろ「祭」というわけですか。

祭のほうが僕にとっては重要です。大地の祭なんです。

きたがわ・ふらむ

1946年、新潟県高田市(現上越市)生まれ。アートフロントギャラリー代表。68年、東京藝術大学美術学部入学。芸大卒業後、78年に『ガウディ展』を開催。88年には『アパルトヘイト否!国際美術展』を全国194ヶ所に巡回させる。展覧会プロデュース、都市・建築・まちづくりにおけるアート計画、美術・文化評論の執筆活動など活動範囲は多岐にわたる。代表的なプロジェクトに『ファーレ立川アート計画』(94年度日本都市計画学会計画設計賞受賞)。97年より越後妻有アートネックレス整備構想に携わり、『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ』総合ディレクターを担当。2007年、新潟市美術館館長に就任。『水都大阪2009』プロデューサー、『日本海政令市にいがた 水と土の芸術祭2009』 『瀬戸内国際芸術祭2010』総合ディレクターも務める。

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ 2009
7.26–9.13
越後妻有地域(新潟県十日町市、津南町)
http://www.echigo-tsumari.jp/

ART iT特集:
越後妻有トリエンナーレ
https://www.art-it.asia/u/admin_feature/YoazcUFpqvKVPjsdLRbm/

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