やさしい美術プロジェクト「カフェ・シヨル」 撮影:高橋公人 画像提供(以降すべて):瀬戸内国際芸術祭実行委員会
「徹底的に批判・疑問を投げかけてほしい」という、本人からのたっての希望を受け、先日、代官山のクラブヒルサイドで北川フラムと対談した(*1)。みずからこう求める以上、むろん「美術のゼネコン化、クモカビ事件、行政密着」などをはじめとする通俗的な批判ではありえない。「もっと根源的なところで自分の仕事をクリティークしてほしい」という希望のあらわれなのはいうまでもない。
基本的に私は、氏がこのところ「越後妻有大地の芸術祭」や「瀬戸内国際芸術祭」を通じて実現してきた、オフ・ミュージアムを芯に据え、行政区分にとらわれない広域的な美術モデルを高く評価している。日本列島という地殻変動で生まれた幾重にもわたる山脈や半島、入り組んだ海岸や湾、そして長く連なる群島からなる地理的条件に、欧米のような大陸を基盤に生まれた美術とは異なる可能性を見る者だからだ。国際展にしてはあまりに街おこしや観光に寄りすぎているのではないか、という批判に対しては、従来の国主導の美術は、あまりにも机上の教育政策に偏りすぎてはいなかったかと返そう。たしかに手放しで賞讃できることばかりではなかろうが、従来の美術モデルを組み換えるには、このくらい大きな視野の転倒が必要だし、それを実現することがどんな力業であるかは、傍から見ていても想像くらいは容易いからだ。
求められているのは、そのうえでなお批判してほしい、というリクエストである。氏もずいぶんな難題をふっかけてきたものだ。というより、だからこそ北川フラムはおもしろい、とも言えるのだが。
少し考えて、私は次のような論点を出すことにした——氏の提示する新しい美術のモデルは、たしかに従来の枠を打ち破り、新たな可能性を開くものである。しかしながら、もしも氏の考える美術が、「同時代の少数、少量の人間のドキュメントを表すこと、時間の古層のなかに埋もれている人間の恨みつらみを取り出すこと、それが人間の身体、手によって表現されるものであり、それらは自然につながる身体の生理の現われである」(北川)のなら、実際にそれを実現しえているのは——瀬戸内国際芸術祭で言えば——大島でハンセン病からの回復者たちが暮らす国立療養所 大島青松園でのプロジェクトのような、ごく例外的なものに留まっており、そうしたやり方が芸術祭の全体に浸透しているわけではないのではないか、というものだ。
やさしい美術プロジェクト「{つながりの家} 海のこだま 」 撮影:高橋公人
これについて北川は、そのことをなかば認めたうえで、「大島はもっとも力を入れているプロジェクトのひとつ」「瀬戸内国際芸術祭を引き受けるにあたり大島が入ることを条件に挙げたくらいだ」と繰り返し強調していた。言い換えれば、大島を見ずして瀬戸内国際芸術祭を語ることはできない、ということだ。ここに、世間や美術界が北川をもてはやしたり非難したりする視線(両者はまったく同じものを見て反目している同類にすぎない)との大きなズレが存在する。
いったい、大島ではなにが行われているのか。それについては以前、本連載でも少しだけ触れたことがある(*2)。ここでは、この問題意識を受け、さらに詳しく論じてみたい。
大島で行われている活動は、名古屋在住の美術家、高橋伸行を中心に、彼が籍を置く名古屋造形大学の学生や芸術祭のボランティア「こえび隊」を通じて展開されるプロジェクト「やさしい美術」の一環である。北川フラムの強い念願と支えのもと、高橋はディレクターとして大島でハンセン病回復者たちが暮らす施設に住み込み、あるいは足しげく通い、共同で複数の企画を同時進行させ、今日に至っている。その主軸をなすのは「つながりの家」と呼ばれるカフェ(=カフェ・シヨル)とギャラリー(=ギャラリー15)の運営である。
上下とも:やさしい美術プロジェクト 「{つながりの家} 資料展示室」 撮影:高橋公人
このプロジェクトでなにより注目すべきなのは、ほかの島と違い、瀬戸内に浮かぶ過疎地がはたして会場になりうるかというようなことだけではなく、そもそも会場にすること自体が「許されるか否か」が問われているということだ。
わが国でのハンセン病罹患者への強制隔離と「断種」の施策が根本的な過ちであったことは、1996年の「らい予防法」廃止によって、医学会みずから自己批判のうえ認められている。とはいえ、すでに1940年代から特効薬が存在し完治が可能であり、また感染力がきわめて弱いことが知られていたにもかかわらず、患者や回復者たちは実に50年にもわたって人間としての権利と尊厳を奪われてきた。「らい」を発病したものは強制的に親元から引き離され、遠隔の収容施設に閉じ込められ、一生涯、外の世界に出ることは許されなかった。それだけではない。国は彼らを「根絶やし」にするため、子孫をつくることさえ固く禁じたのである。なかでも大島の青松園は、全国に散らばる国立療養所のなかでも唯一、ごく小さな離島にあった。そこに残された人々の、安易な共感を許さない思いは、「アート」や「芸術祭」という皿に乗せるには、あまりにも重い。
したがって高橋らのプロジェクトは、通常のように、美術家が自分の希望に沿った場所を見出し、そこで協力者と一緒に「作品」を制作する、という単純なかたちを取ることができない。出発点にあるのは、あくまで「入所者の心情であり人間としての普遍的な叫び」(高橋)という、どんなかたちもないものにほかならない。肝心なのは、このかたちのないものから、どうやって有効な機会をつくり出し、「外」との出会いをかたちにするか、ということに集約されている。だからこそカフェでありギャラリーの運営なのであって、そこはすでに作品を収め、人を留めるための「施設」ではない。それ自体が「やさしい美術」そのものなのである(この形容詞を高橋が使うとき、そこにはどこか残酷な響きがある)。
が、そこに至るまでには、簡単には書き尽くせないほどの紆余曲折があったにちがいない。しかし同時に、その過程で高橋は、島の住民との出会いと信頼形成のなかで、失われていた大島の歴史を次々に発掘していく。
やさしい美術プロジェクト「カフェ・シヨル」 撮影:高橋公人
いま「歴史」と書いたが、このことがいかに困難かは、大島とは歴史を持つことが許されない島であったことに言い尽くされよう。断種政策とは、ある人がこの世に存在したこと自体を抹消する目的で行われており、患者は、この島で死ねば遺骨さえ親元に帰ることはなかった。持ち物はすべて処分され、その人は一切合切「なかった」ことにされるのである。
つまりこれは、アートによくある、忘れられた歴史を発掘する云々とはわけがちがうということだ。取り戻すにも、歴史そのものが抹消されている。いわば高橋は、なにかが残ることさえ許されなかった「心情」から、歴史ではなく「記憶」を取り戻そうと試みる。そしてそのために、島に断片のように残された資料以前の「もの」や「こえ」、そして「おと」の蒐集(と言えるかどうかさえわからない)へと歩み出す。そして、そこで高橋は、ひとりの写真家(だろうか?)に出会う。名を鳥栖喬(とすたかし・故人)という。そしてさらには、まったく見ず知らずの、実名さえ不明なこの人物の名を、みずから継ぐに至るのである。
ここに私は、アートをめぐる、これまでとはまったく異なるあり方を見る。そして、北川フラムが夢想する美術のもっとも具体的なあらわれも、そこにこそ宿っていると思うのだ。(後編に続く)
1. セミナーシリーズ「文明の踏み分け道で考える――北川フラムと“アート”を語る」初回、「北川フラムを批評/批判(クリティーク)する」 2014年5月30日、クラブヒルサイドサロン(代官山ヒルサイドテラス)
2. 美術と時評 12:瀬戸内国際芸術祭を観る(後編)
著者関連情報
第48回MOT美術館講座 シンポジウム「1995年に見えてきたもの」
2014年6月14日(土)14:00~17:00
東京都現代美術館
登壇者:佐々木敦(批評家、早稲田大学教授)、椹木野衣、速水健朗(ライター、編集者)、南 雄介(国立新美術館副館長)
モデレーター:藪前知子(東京都現代美術館学芸員)
詳細:http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/chronicle1995.html#tabs=tabs-2