第8号 テキスト
今回のART iTでは、ミランダ・ジュライ、曽根裕、そしてダン・フォーのインタビューを通じて、現代美術におけるテキストの役割や可能性を探る。
ミランダ・ジュライは映画監督、小説家であり、またパフォーマンスや彫刻においてもテキストを使った作品を制作し続ける。彼女が編み出すテキストは、鑑賞者が口に出したり、頭の中で読み上げたりすることによって鑑賞者自身の言葉になりうる。ジュライの短編小説集『いちばんここに似合う人』(2010年、岸本佐知子訳、新潮社)における主人公たちは一風変わった人たちでありながら、読者が共感できる様々な要素を持っている。その意味で彼女のテキストは、彼女の公式ホームページで入力を求められる秘密のパスワード同様、個々に違うものでありながら、あらゆる人に適応可能な普遍性を持っているのかもしれない。ジュライは、性的嗜好や性格が多少変わっていながらも「普通」でありつづける人々の感性をすくい上げるテキストを綴り続ける。そうした出来事や感情をテキスト化することが彼女の制作の中心だとすると、映画、美術、文学といったジャンルや制作手法が複数にわたることは、彼女自身がその選択にためらいを感じたとしても、当然の帰結であることだと合点がいく。
1997年よりロサンゼルスに移住した曽根裕は、ジュライとは違い、どんな場面においても彫刻家である。毎日、制作のために、少なからず身体を動かし続ける。彼にとって書くという行為は制作の実践であり、アイディアを実践に移行するための身体行為の一部である。コンセプチュアルでありながら作品に強烈な身体性が含まれるのはこうしたトレーニングとも見紛う縷縷たる制作行為に裏打ちされているからである。プロセスを見せる多くの作品と明らかに違うのは、プロセス自体を作品化するのではなく、そうしたプロセスが内在化する作品へと昇華しているからであり、スケッチやテキスト、さらにはスキーや、初心者であると公言するギターまでもが、その作品生成プロセスにおいて重要な要素として、彼の彫刻作品に内包される時間性に結びついているのである。
ベトナム人の両親を持ちながら、その両親が難民としてデンマークに亡命したことで欧米の教育を受けて育ったダン・フォーにとって、彼の作品に使われるテキストは極めて形而上的なものである。テキストは事実を語りながら、その事実よりも、それが彼の父によって、清書されることで別の意味を持つ。テキストや写真を含むアーカイブを辿ることで彼は自身の歴史を確認しながらも、テキストを父に清書させ、別の人が彼の両親の故郷を撮影した写真を展示することで別の次元に移行していく。テキストは資料であり、事実を述べるものでもあるが、書き手によって多義的なものに変化する。
アーティストによる、様々なテキストに対するアプローチを浮き彫りにすることで、テキストが美術という視覚芸術において果たす役割が見えてくるだろう。ローレンス・ウェイナーやジョゼフ・コスースといった先人たちが考察しつづけた、作品とテキストとの関係を思い浮かべながらそれに対する新たなアプローチを紹介する。
『ART iT』日本語版編集部
ミランダ・ジュライ メールインタビュー
空から聞こえる声を探して