菅木志雄 インタビュー (4)


Limitless Situation (Stairs) (1970), installation view at the National Museum of Modern Art, Kyoto. Courtesy Kishio Suga and Tomio Koyama Gallery, Tokyo.

認識 枠 行為 イベント 放置 占有

III. 放置・占有

ART iT 過去の文章に「放置・する」という記述があったのですが、これは「放置」ということを行為から離そうとしていたのでしょうか。

KS 僕にとって、ものを見るということはものを知ることです。ただ見ているわけではなく、これはなにかと考えながら、それを規定することです。もっと言えば、ものを見ることは、そこになんらかのものを作っていく、つまりある種の行為、造形的な意味での構造性に関わっています。見ること自体が五感の作用の中で一番強いので、それ自体に心的な意味が加わり、状況が見えるようになり、いろんなものを区別できるのです。触るなら触るだけ、匂いは鼻から、物をかじる時は歯、口の問題となりますが、見ることは全部見ることができる。誰かがなにかを飲んでいるのを見ていると、それがおいしいかどうか考える。つまり、見ることというのは物凄く奥が深いのです。見ることとはもちろん、見る対象があるから見るわけで、見る対象が人間に繋がると同時に、それが造形的にどのようなリアルなものとしてあるのかということがあります。造形的な構造性の中でそれがパパッと組み立てられてしまう。それくらい見ることは重要です。

「放置」についてですが、最初に言ったように造形というのは、ものの存在性、行為、場所でできています。その中でも特に場所の問題が「放置」と関係しています。つまり、ものがあるということは、場所を占有しているということです。僕がここにいる、この場所を占有している。あなたはそこを占有している。誰も入って来ることができません。「放置」は、その文字からは何にも規定されないような状況に思えますが、ものからすれば、その場所を空間的に占有している。更には、時間的にも占有している。そういう空間と時間を占有するひとつの様式、リアルの様式として「放置」というものを考えました。造形的には結びつかなくても、そこにあるという事実だけで、人間は注意を払います。あそこは避けて通ろうとか、飛び越えようとか、人間の行為を誘発します。大きい石があれば、わざわざ乗り越えてはいかずに避けて通ります。従って、ものがあるということは、人間にある行為を要求することになります。大きな木があったとして、これをどうにかしたければ、人間はそれを切ろうとする。その大木自体が人間の切るという行為を要求しているわけです。人間があらゆるものを人間の行為と対等にあることがわかってってはじめて、いろんなものを認識することができます。その意味で「放置」は存在性の占有化を持っているのだと思っています。

ART iT では、生き物においても放置された状態というのはありえるのでしょうか。

KS 例えば、放牧などは放たれた生物が動いて空間と時間を占有する。馬も牛も人間も占有という意味では同じです。

ART iT では、逆に動いていないものもある種の意志を持っているということでしょうか。

KS 持っているでしょうね。今言ったように、もしも生き物がそこに関わっていけば、必ず意識して飛び跳ねたり、避けたり、蹴飛ばしたりするわけです。同じようにやはりものであっても生きていると思っておかしくない。私は、そのことをインスタレーションでもきちんと意識しています。ものをぽーんとその辺に投げる。避けて通って、ぐるぐるまわるという行為をそれによって規定していく。ひもがあったら、当然引っ張りたくなるから、それを引っ張る。そういう人間の自然な行為性を引き出すものが存在しているということがわかります。枝があれば、少しまっすぐにしてみたりする。僕は自然を完全に変化させるのではなく、半分もしくは少々動かすなど、少しだけの行為によって違和感をつけるということをする。それが僕のインスタレーションのやり方です。それでも随分変わるのです。場所の占有性も、見え方も違う。そうしたことを周りにいる人間に感じてほしいと思っています。つまり、ものというのは一様でなく、大きな意味性を持ち、いろんな状態があるということです。今回、僕はたまたまギャラリーでこのAという面だけを見せているけれど、本来はBもCもDもある。そういう状態性をインスタレーションの中で行なうわけです。

ART iT 話は少し変わってしまうかもしれませんが、中東でのアラブの春や、アメリカやイギリスをはじめとする全世界でのオキュパイ(占拠)運動において、人間は自分の身体をどのように空間に置くか、もしくはどのように自分の考えていることを自分の身体で表現できるかといったことを改めてみんなが考えているように思えます。それは「放置論」と繋がっているように思えます。

KS 放置論というのはいい言い方ですね。もちろんそれは繋がっていますよ。人間が生きていても認識できない場所は無数にあります。生きているからと言って、全てを認識することはできません。自分が認識できないものがそこにあると知ることが大事です。自分が見ているものはこれだけではあるが、それを支える無数のものがあり、それによってひとつが出来上がっているという考え方が大事です。その見えないところには、例えば誰も気にしない砂漠の中の石ころもある。しかし、それがあるから全体が成立している。その認識が非常に重要なのです。アーティストは、自分の世界はこうだとかいう言い方をして、世界を作る役割を持っているように言われますけれども、僕は違うと思います。アーティストが求める世界だけではなくて、人が求める世界観も含め、世界というのはそれ自体もう既に存在するのです。ただ、それを認識する手段を普通の人は持ちえないけれども、アーティストはそれをなんとか見ようとしたり、探りを入れる方法論を実行する。それが表現形式ですよ。それによって、今まで見えてなかったものが突然見えたりする。つまり、もので言えば、ひとつのものの形態、あるいは役割、価値観、意識そういうものがバッと変わったときに、世界はちょっと違うものを支えているんだなと思っていいのです。世界というのは探さなくてもあるものなのです。アーティストはその探さなくてもいい世界の自然に対して、体現できる意識を造形的に持っています。アートというものはそういうようにして、造形意識を自分の中で手段として使えるわけですね。

ART iT 例えば、インスタレーションでは、物事の表現性や、存在的な思考を表すことで鑑賞者に、自らの物体としての存在を意識させるつもりだったのでしょうか。

KS そうですね。やはり、そこに自分がいて、自分に関わるものを提示するわけですから。最初の時点では、人はまったくそれが何かわからない。そして、僕がそこにいろんな要素を開示することによって反応する人間も出てくる。それぞれ自分がいいと思うところに反応するのですが、反応するということは、ある種の視野を持つことです。僕が開示するひとつの状況に対して、見ている人自身の意識がそこに開く。それはひとつの世界を見る力の源泉ですよ。だから、僕はそれを助けているに過ぎないかもしれません。造形することと同時にインスタレーションすることによって、みんながなんとなく欲求している世界の見方のようなものを開示しているのです。だからこそ、どこに反応してもらっても良いのです。

ART iT ものの思考性の話に戻りますが、例えば、階段に砂があって、砂を平たくする行為において、砂自体の思考性とはどういうものでしょうか。

KS 砂はみなさんが知っているように細かい粒みたいな、さらさら流れる水のような感じです。こういう細かい単位というのは、70年代に原子や粒子、素粒子の問題などが造形意識の中にも非常によく現れました。つまり、ものとは何で出来ているかということをずいぶん追求しました。
そもそも60年代の終わりに「ミニマル」という考え方が出てきたことから、そこに考えが至ったのだと思います。「ミニマル」というのはどんどん小さくして還元していくという発想です。そして、ものを元素レベルまで小さくしていく。原子や分子、最後はもう原子核みたいなもので出来ているということを考えつつ、そこからまた拡大していく。こうしてものが形になるには粒子がくっついて、固まっているという事実を改めて考えていました。もちろん今でもその考えを持っています。
単に物体の形をそのまま受容するのではなく、小さいものがどういうふうに集まり、どういう質のものがどういうふうに集まり、結果としてこうなっている、という物体感に対する考え方です。その考え方を踏まえると、砂はある意味では小さい。もちろん分子や原子レベルの小ささではないけれど、手から洩れるくらいには小さく、集約することが出来るわけです。つまり、砂はひとつとしてではなく、集めて使うような方法論をとらないといけない。僕は当時、階段を使いましたけれども、階段だけではなくて、造形に対してでもなんにでも使える。人間が作った建物も同じように物体ではありますが、誰かが作った構造体として、空間を作っています。構造もあって、空間もある。では、なぜこれは使えないの、使っておかしくないと考えました。その根底には先に言った依存性みたいなものがあり、ひとつのものが次のものに依存していく。階段であれば、平らにしたら依存できるなというように、既存の構造体になにかを依存させることによって、ひとつのシステムが変わってしまう。階段はくさび形になっていますが、平らに出来ないことはない。へこみを埋めるために、微粒子の砂を詰めました。すると、階段のラインだけが出て、びしっとなる。そうやって材料については、微粒子のレベルから考えて、構造体とマッチさせるような方法論をいつでもとれると思っていました。そうやって出来た作品です。

ART iT 砂で階段を占有する行為があって、木の板で窓の空間を占有するという行為がある。だとすれば、ギャラリーでインスタレーションすることはそのギャラリーの空間で展示しているのではなく、空間を占有するということになりますか。

KS 占有することになります。それが造形的に成立しているということです。

ART iT 空間を占有するということは、空間の利用性、再利用性を変化させるという意識があるのでしょうか。

KS 当然そうです。全然変わらなかったら、却っておかしいですよね。そこになかったものを持ち込んで変わらないはずがありません。ただ、その変わり方をコントロールできるかどうか、どのようにコントロールできるかが造形意識と結びついています。選択肢をたくさんもっていれば、表現の厚みがでますが、ひとつしかなければ、あまりにも貧弱なものになります。もし、アートが人になんらかの意識の揺れを与えられるとすれば、その人が考えたことがない方法論によってのみです。そうやって揺れることによって、それを反動的に直そうとし、その結果、一種の意識の成立が起こるのです。そうしないとやはりおもしろくない。

ART iT 視覚領域を脱出できる可能性もあるのでしょうか。

KS あるでしょう。視覚から消える場合もあるし、あるいは、逆に現れてくる場合もある。そういうことを繰り返すわけです。繰り返しというのもひとつの方法で、同じ行為性をわざと繰り返します。繰り返しても絶対同じことにはならずに、必ず違うことになるのです。生きていること自体にしても繰り返しです。そういう人間の行為性というものはそんなに極端に異様なことをするわけではなく、同じペースではあるけけれどもちょっと違う認識を生む程度のものです。変わるものは行為自体も変わるときもありますが、同じ行為性によって違うものがどんどん出てくる。それが僕のインスタレーションのひとつの側面です。とにかくあるもの消滅させたいわけです。もの自体はどんなものでも時間が経つと風化して、消えていく。これはもう生き物であっても、その辺の頑丈なものであってもも同じで、何百年、何千年経てば消滅します。そういうパースの中でものを考えることが大事だと考えています。だからこそ、可能な限り「放置」するのです。僕もいろんなものを画廊に放置してきましたが、それを嫌がる人もいます。でも、それもまあアーティストの役割だろうと思っているわけですね。ある種の無駄だと思う人もいるでしょうが、アートは決して無駄ではありません。人間の心の意識の底のものをさらってきて、様々な方法を使って、それを顕在化させる。それによって、言葉にしたり、ある種の文脈を作ったりすることで、少しずつ解明させて、みんなで共有するのが良いだろうと考えています。それほど強烈な共有意識はないのですが、出さないと誰も認識できない可能性がありますから。従って、とりあえずは「放置」しましょうと。それで気がつく人も、気がつかない人もいる。それでいいと思っています。

ART iT 造形というのは、物事の計り方のひとつでしょうか。

KS そういうことですね。それは全部ではなく、ひとつでしょうけれども。ひとつの視点でしょう。まず、ものがあるんですよ。そして、人間がいて、行為があるという非常にシンプルなところから始まります。

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第17号 彫刻

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