とある時空の、とある日に
インタビュー / アンドリュー・マークル
Liam Gillick Factories in the snow (2007), exhibition view in Philippe Parreno: “Anywhere, Anywhere, Out Of The World,” Palais de Tokyo, 2013. Photo Aurélien Mole.
I.
ART iT ホテルオークラに宿泊していると聞いて、なにやら奇妙な偶然の一致を感じました。今回のインタビューでは、時間の概念、そして、それを実践や思考へとどのように応用しているのかについて伺いたいと考えていたのですが、あの建築の屋内空間も戦後日本的感性を帯びた非常に特殊な時代へとタイムワープしたかのような感覚を引き起こしますよね。さて、歴史的時間、労働時間、並行時間、時間旅行など、時間という概念はあらゆる形であなたの関心の根幹をなしているように見えますが、一方で、あなたはそれを直接的に扱うのではなく、その周囲を巡っているようにも見えます。
LG そうですね。例えば、フィリップ・パレーノがパレ・ド・トーキョーで『Anywhere, Anywhere Out of this World』*1という個展を行なっています。彼はそこでかなり直接的に時間という概念を扱っていますが、私の場合は、もっと静的、安定した方法を取ることが多いですね。そう、ホテルオークラがあのような独特の雰囲気を醸し出しているように。これはコンセプチュアルな要素同様、ある程度、ものの配置にも関わっています。明快な時間の表現というよりも、物理的なものの存在です。フィリップはどれだけの時間をかけるべきかわからない場所という展覧会に疑問を呈し、展覧会の鑑賞時間というものを扱っていたのではないでしょうか。時間に対する私の核心としては、空間としての展覧会というよりも、作業中に頭の中で考えていることに関係しています。
まず、前回の東京滞在に強い影響を受けたことを言っておかねばなりません。写真も大量に撮影しています。今回の滞在にも強く影響されています。東京に滞在したことで、自分の中にあった確からしさが霧散しはじめたのです。いい意味で。なにかが変化しているのですが、それが一体なんなのかはっきりしない。もちろん、東京はありふれた近代都市のひとつで、自分がおかしなことを言っているのは知っていますが、ここには内と外が混乱するような要素があるのではないかと。東京にあるもののデザイン、そして、それらが反映している東京特有のモダニズムの軌跡に関わるもの、そういうものがあります。私はいくつかのアイディアを試す段階を経て、かつて自分の中にあった確かなものの数々や関心を寄せていた領域が、もはやはっきりとしたものではなくなってしまったのです。巨大なコンセプチュアルな構築物を建てたり、十全な思考を背景とした作品を提示したりするよりも、現在は物事をよく見て、調べて、確認するということに取り組んでいるところです。もっと物質的なものへと戻ろう、頭の中ではなく、ものが成り立つところに集中しようと。東京はそれに相応しい場所です。
Left: Detail of Factories in the snow (2007) at Palais de Tokyo, 2013. Photo Aurélien Mole. Right: Scorpion then Felix (2012), powder coated aluminium; installation: 220 x 200 x 10 cm aprox; door: 210 x 100 x 10 cm. Installation view, Taro Nasu, Tokyo, 2013. Courtesy Liam Gillick and Taro Nasu, Tokyo.
ART iT 内と外との混乱は、今回の展示でふたつの空間を隔てているスライドドアの作品「Scorpion then Felix」(2012)にも見られますね。私が展示空間に入ったときはドアが開いていたので、一方の空間から内側の空間を見ることができ、絵画のフレームを通して見ているような感覚がありました。しかし、そのときはドアとその向こうの空間との関係に特別な意識は生まれず、ドアを閉め、再び柵越しに内側の空間を眺めて初めて、その光景が不意に物質化されたのです。ドアという部分的な障害物を通して見ることで、空間が完成したのです。
LG まさにその通りです。東京に来て、まだまだ学び、理解すべきことがあるという事実に気がつきました。それは日本の文化や歴史、建築と具体的な関係のない、空間の使用法や分割方法、また、空間が貴重である場合、つまり、十分な空間がない場合に、間仕切りや柵といった空間の認識に関わるものを通じて、いかに新しい視野が得られるのかといったことです。
ここであなたの質問に戻ると、時間もしくは持続というものは、普段であれば、まさに私が考えていることになりますが、東京を訪れたところ、空間や錯覚について考えざるを得なかったのです。東京ではどんな空間を見ても、それがどれだけ深く、広く、遠くまで続いているのかがわからない。そこには、かつてドナルド・ジャッドが「リアル・イリュージョン」と名付けた効果、実際には単なる壁や狭い空間にも関わらず、なにかそれ以上のものなのではないかと暗示する効果があります。そこで、今回の展覧会では、東京に来てギャラリーを見てから新作を作るのではなく、まず、そこから離れて、ほかから作品を持ち込み、いつかどこかで現れるものを生み出すための新しい方法について考え始めようと思ったのです。東京での滞在はズレをもたらすはず。おそらく東京での時間は、来年のドイツの展覧会に影響するのでしょう。
ART iT あなたの書いた小説『Erasmus is Late』(1995)*2のシナリオを思い出しました。同一空間に並行する時間が共存するという。
LG そうですね。今朝テレビを見ていたら、新しい駐日米大使となるキャロライン・ケネディが来日したというニュースが報じられていました。ホテルオークラは大使館のすぐ隣りにあるので、彼女もなんらかの外交儀礼のためにホテルに来ていました。もうひとつ、あの建物はJ.F.ケネディ大統領が亡くなる前の年、1962年に建てられています。そこには奇妙な並行する時間が数多く存在していて、いくつものタイムスリップが起きています。
そのとき私が探していたのは対象かもしれません。さまざまな出来事、象徴的な政治、象徴的な建築を伴ったホテルオークラでの滞在経験を通じて、私は幽霊になってしまいました。私は見えない存在。単なる宿泊客ですからね。私はほかの人々と同じようにカメラを取り出し、そう、それは私が何枚か写真を撮ったことを意味します。そこに立ち、時間をつぶしている私の横を人々が通り過ぎていく。昨日は外交官やらいろんな人々が通り抜けていき、私はまるで存在していないかのように静かに立っているだけ。存在しないことに適した場所。誰もあなたに関わらない。そう、それは考えるのに適した、対象を探すのに適した時間。
ART iT あなたはしばしば自分自身の作品が現実と並行的な位置にあると説明しています。また、先のホテルオークラの話もつかみどころのない並行的なものに聞こえました。しかし、その並行的な関係性において、時間が存在することは可能なのでしょうか。
LG 可能です。説明しろと言われると難しいのですが。重要なのは、すべて視点次第だということ。あなたは並行するアイディアや意見を持っているとします。それらはあるところからはバラバラの点に見えるけど、別の角度からは交差しているように見えるでしょう。
おそらく私が話しているのは、新しい対象を見つけることではなく、新しい視点を見つけることですね。ここ数日、建物を奥行きなく描くためのアイソメ(等角投影)を試していますが、この技術は昔の日本美術にも見られますよね。例えば、浮世絵の版画や巻物には建物の前面と背面が同じ長さで描かれていますが、これは作者がイメージ内のすべての情報を遠近の歪みなく表そうとしているからですよね。並行を意識した思考により、私自身が視点を変えることで、作品に内在する時間という要素も変化するのではないだろうかと。
とはいえ、最終的なところはわかりません。あらゆるものを疑うような時期なんです。ちょうどフランスの映画監督と映画を作りはじめたということも影響しているでしょう。彼はゴダールとも仕事をしたことがあり、外科医に関する優れた映画を撮っています。彼はひとりのアーティストを年齢の異なる複数のアーティストが演じる映画を作ろうとしていて、最年長は私の20歳年上で、最年少が20歳年下なので、私はちょうど真ん中。既にニューヨークで撮影を済ませましたが、私はただ語り、説明し、時間について話しました。そうすることで、まるでダメな映画にあるような、ドアを開けると突然広大な野原の真ん中に立っているかのような感覚になりました。私にはドアを通って戻るか、それとも、時間に対応する新しい方法を組み立てるかを決断する必要があります。
Top: theanyspacewhatever (2004), black vinyl wall text, dimensions variable. Left: Singular Roundrail (Red) (2012), powder coated aluminium, 5 x 200 x 5 cm. Right: Restricted Discussion (2013), 2 x wall elements: powder-coated aluminium, plexiglass, each 50 x 20 x 8.5 cm. All images: Installation view, Taro Nasu, Tokyo, 2013. Courtesy Liam Gillick and Taro Nasu, Tokyo.
ART iT 先程、確からしさが霧散しはじめたとおっしゃいましたが、そこでいう確からしさとはどんなものでしょうか。
LG ここ数年、ある種の新たな美術史、すなわち現代美術の歴史の登場による重圧が高まっています。この歴史はしばしば見過ごされてきたものに目を向け、歴史へと連れ戻そうとしたり、過去に起きた物事を再演、再生しようとしています。数多くの蘇生や回復が続いていて、それはなにかが救済され、再演されることを意味している。このことについてよく考えていますね。
ひとつの反応としては、あるアーティストに関する一本の映像作品を作りはじめました。数年前に亡くなったリチャード・ハミルトンについて。アイディアを考える代わりに、言うなれば、自分以外のアーティストのアイディアを綿密に見てみようと思ったのです。彼は優れたアイディアを大量に持ち、デュシャン関連の作品も数多く制作していました。1950年代には時間についていろいろと取り組んでいますし、プロジェクションや形式としての展覧会のことも考えています。彼はほかの人々とのコラボレーションも好きでしたが、ある時点で、自分が尊敬したり、影響を受けたりしたアーティストについてもっと注意深く見なければいけない、彼らが自分にとって何を意味するのかを確認しなければならないと感じたのではないかと思っています。デュシャンの作品の再構成のための長い工程を経て、彼はデュシャンのメモを明確に理解できるような形に解読しました。そういうわけで、私も逃避経路を見つけるもうひとつの方法として、彼に関する映像を作ることにしました。
彼は興味深い人物ですが、もちろんその一方で、まさに中心にいた人物で、周縁にいたわけでも、忘れ去られていたわけでもありません。実際、イギリスのたくさんの人々は彼のことを好きだし、良いアーティストだと思っています。たとえ、彼のことをまったく知らなくてもね。
ART iT その映像は、ハミルトンによるデュシャンの扱い方を凝縮したようなものになるのでしょうか。
LG 正直なところわかりません。すべての編集素材を手にしていますが、どうやって始めたらよいのか見当がつきません。もちろん彼を動揺させることはできませんが、許可を得ずに映像を制作するというアイディアは気に入っています。どこか、過去を反復しているみたいですよね。なにか奇妙な出来事やなんらかの危機的場面が起きるとして、そうしたものを生み出すような状況や条件を再制作する。私はただ、このハミルトンという人物について考え、自分がどんな映像を作り出すのか見てみたいだけです。そこから何が生まれるかわかりませんが、なにか起きるでしょう。
集中して作業し、コンピューターで執筆や制作をしている人物を想像してみてください。私が置かれているのはそんな状況です。ドアをノックする音が聞こえ、周囲を見回す。それが私です。私が周囲を見回すのは、突然なにかを調べなければと気づいたから。物質的なものに関わるもの、見ることや写真を撮ることに関わるもの、新しい対象に関わるもの、人間を対象として使うもの、もしくは都市を。さて、どうなるでしょうか。
*1 『ANYWHERE, ANYWHERE OUT OF THE WORLD』パレ・ド・トーキョー,2013年10月23日-2014年1月12日
*2 『Erasmus is Late』1995,Book Works
リアム・ギリック|Liam Gillick
1964年バッキンガムシャー州エイルズベリー(イギリス)生まれ。ニューヨーク在住。経済や労働など現代社会への考察に基づく、日常的な環境を構築する素材を用いた彫刻インスタレーションをはじめ、多様な表現手段を用いた実践で知られる。その活動は建築やグラフィックデザイン、映画などにも及び、さらには、文筆家としても数多くの文章を継続的に発表している。
2009年には第53回ヴェネツィアビエンナーレにドイツ館代表として参加。ウィーンの建築家マルガレーテ・シュッテ=リホツキーが考案した「フランクフルト・キッチン」に着想を得た空間を構成した。そのほか、第50回ヴェネツィア・ビエンナーレ企画展(2003)やドクメンタ10(1997)など数多くの国際展に参加している。また、ホワイトチャペル・ギャラリー(2002)、パレ・ド・トーキョー(2005)での個展、欧米の4つの美術館を巡る回顧展(2008-10)などを開催。2002年にはターナー賞にノミネートされた。日本国内では横浜トリエンナーレやTARO NASUにて作品を発表している。