アーノウト・ミック インタビュー (1)

政治的行動の残像
インタビュー/アンドリュー・マークル

I.


Glutinosity (2001), still, single-channel video installation. All: Courtesy Aernout Mik and carlier | gebauer, Berlin.

ART iT あなたは、株式市場の暴落時の立会場、バスの事故の現場や暴動などといった場における、典型的な行動の規則が崩れるカオティックなシナリオを描き、細部まで丁寧に仕込まれたマルチチャンネルの映像作品で知られています。これらの映像では、個々人の行動と集団の秩序、ヒステリーと理性との間の緊張関係と、これらの緊張関係が常に揺れ動いていてどこにあるのかなかなか見定めることができないことを探求しています。そのため、小説で似たようなテーマを扱うポーランド人作家ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ(1904–1969)に深い影響を受けていると聞いて非常に興味深いと思いました。ゴンブローヴィッチの著作のどのようなところに惹かれたのでしょうか?

アーノウト・ミック(以下、AM) 正直に言うと、最後にゴンブローヴィッチの本を読んだのは15年か20年も前のことなのですが、美術の世界に足を踏み入れた頃に彼の著書の中のコンセプトに興味を持っていたことは確かです。そのコンセプトとはつまり、物の間に作られる物理的な関係性、関係性を通じて作られるフォルム、繰り返しを通じて意味を持つ偶発的な関係性への親和性、若さと連関する生命力というものなどといったことです。
ゴンブローヴィッチに関して何よりも強く惹かれ、私の作品においても非常に強い活性力となっているのはあなたが言うところの「ヒステリー」ですが、私はそれを一方の物・人物から他方の物・人物へと、殆ど偶然できた関係性を通して「移動[traveling]」することと捉えています。それは作品の中ではカメラが身体の部位から物へ、物からまた別の物へと移動していく様子に見られます。そこには感染、あるいは散開と呼べるような動きがあり、その動きは殆ど独立した力となります。それは映像の中で視覚的な要素でもありますが、作品を見ていると、それ自体が自ら鑑賞者の方に向って行って、ただそこにいるだけで影響されるようなものとして展示空間の中で体験できるのです。


Top: Garage (1998), still, single-channel video installation. Bottom: Softer Catwalk in Collapsing Rooms (1999), still, single-channel video installation

ART iT あなたの展覧会を批評する人はその効果によく触れています。展覧会を去った後にも現実世界を殆ど作品の延長かのように体験する、と。

AM それは私もよく聞きます。だから作品を展示するときにはなるべく環境光を取り入れて、ひとつの層からもうひとつの層へと継続的にかすかな動きで繋がっていくような、フィクションの空間と現実の空間との間の交流を作り出そうとするのです。
ゴンブローヴィッチの日記の中にある美しい場面があります。彼は電車の中で、前に立っている人の首を見ています。そして首をずっと、あまりにも長い時間見つめていたことに気が付きます。その瞬間、彼は一種の罠にはまってしまいます。首そのものが独立した何かになります。身体から離れて他の首と繋がっていき、彼はもう外れることのできない路に連れられていきます。彼の視線によってその首はある意味、切断されるのです。彼がどうあがこうと、首は彼自身の反応の対照となり、それ故に依存していると言えるものになるのです。そういった、何が起こっているのかを勝手に決めてその方向に私たちを引き込む独立した力というのは美しいものだと思います。

ART iT そういう意味ではゴンブローヴィッチの著作は精神的というより自己認識的と言えるかもしれません。内からではなく外から自身を観察しています。

AM そうですね。手足などの「切断」という言葉は私にとって非常に強い意味を持っています。殆どシャーマン的と言えます。何かの本質を見つけ出したり、正体を暴くということではありません。精神的に自己に捕われている類の分裂ではなくて、私たちが存在しその一部を成す様々なネットワークや、私たちは累積的にはただの身体の部位の集積でしかないことを強調する分裂です。


Top: Training Ground (2006), set photograph, two-channel video installation. Bottom: Installation view of Training Ground (2006) at the Museum of Modern Art, New York, 2010. Photo Jason Mandella

ART iT あなたの話を聞いていて、そういったコンセプトがどのようなかたちで映像作品の中で展開しているかは理解できますが、初期の彫刻のインスタレーションはいかがでしょう? 彫刻作品を作っていた時期と映像作品を作り始めるまでの間には驚くほどの継続性が見られます。例えば「Für nichts und wieder nichts」(1992)のようなインスタレーション作品では、ある特定の相乗効果が起こるようにいろんな要素を空間の中で混ぜ合わせていましたが、その相乗効果もまたどこか不穏なものでした。

AM はい。そういう意味では、身体と物との間に起こる効果に対してとても身体的・物理的なアプローチをとっているという点で全てはっきりと繋がっていると言えます。ただし、ある空間における、殆ど脱文脈化された身体的・物理的な存在から、明らかに社会共同体の超文脈化された存在へと私の関心が移っていったという点では大きく分かれているところもあります。空間に大きな亀裂が入って、一続きの空間ではなくなる。たとえ物と物との間に模倣や類似性の連鎖があっても、環境全体を総合的に体験することを不可能にする裂け目というのは必ずあります。ひとつの身体が隣にあるというだけの理由でもうひとつの身体とコミュニケーションをとったり、フォルムや形や存在の見せかけの共感が生まれて共有された空間の中を移動したりします。
映画監督と文化人類学者として活動したフランス人のジャン・ルーシュの映画『狂気の主人たち[Les maîtres fous]』(1953)はまさにこのテーマを取り扱っています[編注:ガーナの首都アクラで撮影されたこの映画は、トランス儀式において植民地支配者の仰々しさや儀礼を模倣することによって力を得るハウカ教徒たちを取り上げた、半ばフィクション化されたドキュメンタリーである]。ルーシュのこの映画における儀式、そして極めて厳粛であると同時に演劇的で偽りでもあるパフォーマンスという概念は好きです。映画の中の儀式では、抑圧者の力を自分のものとすることによってその力関係を乗り越えたい、もしくは転覆させたいという欲望に突き動かされる演者たちが社会的な境界線を幾度となく超えます。ゴンブローヴィッチの著作と同様に、感染あるいは汚染のメカニズムがそこにあります。
この映画に感銘を受けて、私自身の映像作品「Training Ground」(2006)でも示唆しましたが、そのことは一緒に作品を作った人たちには特に話しませんでした。ルーシュと同じく、私の作品にもドキュメンタリーの要素とフィクションの要素とが両方存在します。一種の自発性、もしくはコントロールを失った部分がドキュメンタリーとなりますが、それと同時に明白に人工的なところもあります。ファウンドフッテージ[既存の映像]を使っている場合でも言えることです。

ART iT それは1990年代のユーゴスラビア紛争で世界中の撮影班が撮ったストックフッテージが廃棄されたものを使って作った「Raw Footage」(2006)という作品にも見られます。あまりにも陳腐な映像で、私たちがメディアに条件付けられたようなものとは遠くかけ離れているために実際に紛争を撮影したものだろうかと疑い始めます。そうしてフィクションとなると同時により現実的なものにもなります。

AM そうですね。作品を見る人を、いつも通りに情報を体験する方法から遠ざけることによって何かをもっと現実的にするという側面も当然あります。最初に一種の分離があって、その後、素材と繋がった途端に、実際にはもっと現実的なのに非現実として体験します。


Top: Raw Footage (2006), still, two-channel video installation with sound. Bottom: Installation view of Raw Footage (2006) at Kunstverein Hannover, Germany, 2007. Photo Raimund Zakowski

ART iT 作品を制作する上で、「Training Ground」や「Raw Footage」のように視覚資料を使うことはよくあるのでしょうか?

AM いいえ。資料はもちろん普段から集めていますが、多くの作品においてはアマチュアというか、ゼネラリストであることを心がけています。どのようにして私たちの集合記憶に刻まれているのかを理解するために色々な題材と関わろうと試みています。それらの実態を知りたいのではなくて、私たちがそれらをどう捉えているか、あるいはそれらについてどのように考え方を投影しているかを理解したいのです。
例えば、「Raw Footage」の場合は作品を作る前にユーゴスラビア紛争について調べたりはしませんでした。素材を集めるときに、誰が誰で何が何か分かっている状態は避けたかったのです。紛争について既に知っていたことはいくつかありましたし、それらを否定したかったわけではありませんが、その状況から距離を置いて全体を見たかったのです。ひとつの団体が別の団体を抑圧する構造、被害者と抑圧者との間の一種の類似性、そういった境界が破綻するときの一方を他方から区別することの不可能性、どこが紛争でどこが紛争でないか判断することの不可能性などといったことに興味がありました。特定のアイデンティティーを通じて細かく分析していくのではなくて、こういった不確かなこと全てに焦点をあてたかったのです。
そのような状況に実際に身を置かれると、紛争が具体的にどこで起こっているのかはよく分からないものです。そういう意味では「Raw Footage」は紛争だけではなくて、世界全体についての作品だと言えます。私たちの人生はただひたすら待って何もしないことが大半を占めていますから。

ART iT でもユーゴスラビアの詳細について調べなかったと言うと、素材を形式的な調査に転換させてしまう危険性があるのではないでしょうか?

AM 形式主義的だとは思いません。単純に、象徴的な意味を持たせずに素材を見ているということです。例えば、ある人がどこかに立ってしばらく待っていたり、2人の兵士が前線を歩いていてカメラをちょっと長く回し過ぎているという——これもまたゴンブローヴィッチ的ですね——そのような状況で、長過ぎると感じたその瞬間、それはもう2人の兵士が前線を歩く映像ではなくて、ただ歩くことについての映像となります。その歩くことというのは、本当にただひたすら歩くということだけになります。
その瞬間に私たちはイメージそのものととても純粋に結び付くことができます。象徴だけではなくて、それ自体の存在を持つのです。だから、鑑賞者自身が体験する時間に沿うようなリズムを作中に作り出すようにできる限り長いテークを使いました。そして言うまでもなく、これは私たちが普段メディアから得る、完全に途絶されて分裂しているために表象としてしか体験できない情報とは真逆のものにあたります。

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