アーノウト・ミック インタビュー (2)

政治的行動の残像
インタビュー/アンドリュー・マークル

II.


Still from the video installation Shifting Sitting (for Spinoza) (2009). All: Courtesy Aernout Mik and carlier | gebauer, Berlin.

ART iT これまであなたの作品におけるドキュメンテーションとフィクション、フォーマリズムとリアリズムについて話してきました。その点では、第52回ヴェネツィア・ビエンナーレのオランダ館のためのあなたのインスタレーション「Citizens and Subjects」には問題があるのではないかと感じました。「Training Ground」(2006)、「Convergencies」(2007)、「Mock Up」(2007)といったビデオ作品を見るための環境として拘置所を再現されたわけですが、少しやり過ぎではないかと思いました。シンプルな壁やパーティションを使ったインスタレーションと比べると、ヴェネツィアでの含意のある彫刻的もしくは建築的な要素は映像の解釈を限定しているように思えました。「Citizens and Subjects」の完成後、振り返って考えられることはあったのでしょうか。

アーノウト・ミック(以下、AM) 私にとっては、そのインスタレーションの核心は、あなたが言うところの「含意のある」要素と映像との二つが完全に繋がらず一種のずれが生じるところにありました。出発点は移民問題や国境検査所、そして災害訓練という概念でした。災害に対する恐怖と、移民問題対策として国境検査所を設置することとの間には共通するものがあるように思えるのですが、オランダ館ではその二つの要素を組み合わせました。また、実際に現場を写した映像とリハーサル、訓練と再演との関係性も調査していたので、そのように完全に重なり合わない二つのモチーフがありました。例えば、「Training Ground」の映像には衛生手袋をはめて抑留者の身体を掴んだり検査したりする手が何度も映ります。この身体なき手はある意味、独立したものと考えられます。手袋が触れることに対する拒否を表すという点で、親密な行動として人に触れることの反対と言えます。カメラはこの行動のすぐ近くにあって、その神経質で落ち着きのない様を捉えています。
非常時のための訓練のヒステリーと、入国しようとする人々への対応の仕方とは同じことではありませんが、その二つは繋がっているように思えます。もちろん、彫刻的・建築的な要素が拘置所を基としているのは明白だと言うこともできますが、それと同時に解き放された場所でもあります。束縛的なものや制限的なものを解き放されたものに転換させるという概念をどうにかして表現したかったのです。


Top: Exterior view of “Citizens and Subjects,” Dutch Pavilion at the 52nd Venice Biennale, 2007. Bottom: Installation view of Training Ground (2007) in “Citizens and Subjects,” Dutch Pavilion at the 52nd Venice Biennale, 2007. Both: Photo Victor Nieuwenhuis.

ART iT 今の作品は昔よりも社会と密接に関わっていると言っていました。「Kitchen」(1997)や「Garage」(1998)のような初期のビデオ作品では空間内の行動を実験的に扱っていてフォーマリズム的な要素が見られますが、どの作品をきっかけに意識が変わったのでしょうか?

AM 初期のビデオ作品では、まずシンプルな基本ルールを決めて、俳優がそれに従わなければならないということを試みていました。不条理と言われるかもしれませんが、私自身は不条理主義には興味がありません。どんなルールでも考えすぎると不条理になりますし、私にとっては意味のない言葉です。俳優が特定の環境下でしか動けなかったという意味では、どちらかと言えば行動主義的だったのではないかと思います。
1990年代後半には災害映画という現象に興味を持つようになりました。多分、その辺りから変わっていったのではないかと思います。「Softer Catwalk in the Collapsing Room」(1999)や「Organic Escalator」(2000)といった、より直接的にマスメディアに言及する、より大きなスケールの作品がそれです。例えば、「Organic Escalator」は倉庫やデパートの設定なので、空間に特定の意味があります。ガレージやキッチンのような、何の変哲もない屋内空間ではなくて公的な空間です。
そうして災害に対して皆が持つ恐怖という概念が私の興味の対象をより踏み込んだものにしていきました。だから「Glutinosity」(2001)や「Middlemen」(2001)のような作品には社会的な要素がよりはっきりと見られるのです。


Top: Still from the video installation Kitchen (1997). Bottom: Installation view of Kitchen (1997) at Haus der Kunst, Munich, 2002.

ART iT 「Training Ground」の手もその一例ですが、あなたの作品の多くには微妙に性愛的な、「Kitchen」や「Garage」のように男性の間に肉体的な干渉のある作品では同性愛的な要素があるように思えます。ある種の社会的エロティクスを探求していると言えるのでしょうか?

AM 確かに、「Kitchen」では殆ど同性愛的とも言えるようなところもありました。その作品ではゴンブローヴィッチ的な意味で出演者に自分たちが昔、校庭で遊んだり喧嘩をしたりした経験を思い出すように指示したので、老いた身体を通して若かりし日の身体的な記憶を喚起しようとするときの肉体的な緊張感〔が彼らの中に生じていました。私は集団が生み出すエロティクス、つまり集団の構成者が全員同じレベルでその集団を構成している状況における同一性のエロティクスに興味があります。これは集団の中で拡がるものであって、ときには人から物にまで拡がり、一種のアニミズムへと向かいます。

ART iT このような作品では、何か特定のことへの言及を意図しているのでしょうか? それとも、社会的な状況を観察し、再演しているのでしょうか?

AM ただ単に状況を再演するということはしていません。私たちがよく知っている状況、なんらかの意見を持っているような状況、あるいは怖れている状況を再演することはありますが、こういった作品の構想の段階では、直接的なイメージに反していたり、別の方向に向かう何かを示したりするような反対行動を見つけ出すことも試みています。最終的には、どこか満たされていないところがあるという効果になります。あるイメージを見て、何かに遭遇して、そこにすぐに「レッテルを貼る」わけですが、時間を掛けてじっくり考えてみると、それが次第に全部崩壊してきます。「Organic Escalator」は災害という状況を題材としていますが、それと同時に穏やかな部分もあるので、完全に災害だけについての作品とは言えません。作品のための準備期間や制作期間の間にはよくこういったことを表面化させることを心がけます。常にアクティブであって一つのことだけに言及しない弁証法的なイメージに関心があります。言い換えると、未完でありつつ、様々な物事を一度に表すようなイメージです。そのような作品を作っていると思いたいところです。
もう一つ、マルチチャンネルのビデオ作品「A Survey—Shifting Sitting (for Spinoza)」(2009)も例に挙げられます。この作品では、民主主義的な空間やそうした中で行われるミーティングや会話の場面と、法廷など裁判の場面とが映されているファウンドフッテージを組み合わせました。映像の中では一つの部屋からまた別の部屋へと移っていきますが、全体を通してある種の類似性が見られます。
オランダ館で、完全に関係し合わないけれど関係がないとは言えない二つの世界を作品に採り入れたのと同じ手法です。一方から他方への汚染のようなものはありますし、互いに何かしら言及できることはあるのですが、一方をもって他方を説明することはできません。常に揺れ動いていて不安定なものなので、それぞれについて同時に考える必要があります。これは再演の概念とは全く違うことではないでしょうか。


Top: Installation view of Shifting Sitting II (2011) at Jeu de Paume, Paris, 2011; photo Arno Gisinger. Bottom: Installation view of Vacuum Room (2005) at Kunstverein Hannover, 2007.

ART iT そういう意味では、政治色の強い問題に触れていながらも、あなた自身の意見ははっきりと述べていません。作品を見る人にはどのようなことを受け取って欲しいのでしょうか?

AM 私としては、そういった問題に反応したり政治的活動の土台を発展させたりすることのできる場を作品が作るべきだと思います。展覧会では、そのような動機付けができる場を設置しながらも、それらを鑑賞者自身が咀嚼し、構想してさらなる展開をできる場をも提供することを目指しています。それが展覧会という場の良いところだと思います。つまり、共同空間なのです。もちろん、インターネットのようなものを通してグループ意識を持つこともできますが、——これは単に私個人のノスタルジーかもしれませんが——今の時代では実際に同じ空間にいる機会が減っているように思えます。

ART iT 西ヨーロッパは今や殆どアメリカ以上に民主主義の概念と強く結び付けられていますが、それなのに、そちらの空港で武装警官を見ると、警察国家に入国したとしか思えないような感覚がいつも印象的です。人々は民主主義は制御が必要だということを受け入れているように思えるのですが。

AM ヨーロッパでは民主主義そのものが深刻な危機に陥っています。制御されているからというだけでなく、代議制度の概念が丸ごと大変な危機に陥っているということもあります。今の時点では誰も答えを知りません。

ART iT 私にとっては、「Vacuum Room」(2005)はあなたの作品の中でも最も力強いものの一つです。この作品では抗議団体がなんらかの立法機関の一室に、シャツを頭からかぶって入室しています。特定の目的はないのかもしれませんが、市民が政治に関わることができる方法はまだ他にもたくさんあるという可能性が伝わってくることが個人的に響きました。

AM その通りです。色んな行動が起こっていて、それが突然、その人たちによる抗議のように、ある特定の瞬間に凝縮されます。これは作品を見る人たちに残っていって、各人自身の可能性を生み出していく残像のようなものです。その残像は鑑賞者にとって何かを提供するものですし、私はそのような作品を作りたいと思っています。だから、たとえ政治の世界では私の作品とどう関わればいいのかを理解できる人が少ないとしても、政治的な作品と言えるのです。

アーノウト・ミック インタビュー
政治的行動の残像

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第13号 革命

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