大竹伸朗 インタビュー

邂逅が生む衝動
インタビュー / 大舘奈津子

Time Memory / Cloud (2013), Neon, Stainless pipe, Steel pipe, 314×625×297cm, Installation view at MIMOCA Photo: Masahito Yamamoto

2013年6月、第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展『エンサイクロペディック・パレス』への参加を皮切りに、女木島での新作コミッションワーク「女根」および、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館と高松市美術館のふたつの美術館での個展が開催される大竹伸朗。2010年の第8回光州ビエンナーレ、2012年のドクメンタ(13)そして今回のヴェネツィア・ビエンナーレと、国際美術展への参加が続く大竹に話を聞いた。

ART iT 今回のヴェネツィア・ビエンナーレのディレクター、マッシミリアーノ・ジオーニの企画する展覧会への参加は、光州ビエンナーレに続いて2度目になる訳ですが、何か光州ビエンナーレの時と比べて、変化はありましたか。

大竹伸朗(以下SO)自分も含めて、光州ビエンナーレにも参加していたアーティストが今回も複数参加しているけれど、彼はあの光州ビエンナーレを通じて、何か見えたものがあり、それを追求しているように思えました。彼がART iTでのインタビューで、すでに「百科事典」という単語を使っていますが、コンセプトの基本は光州のときからあまり変わらず、さらにピントを合わせてきたと思います。今回は特に、小さいものを集中して沢山つくるというアートの基本の情熱を見せていました。小さいものがたくさんあり、敢えて選ばないで過剰に見せる、という点が良かった。光州のときよりそうした部分に踏み込んでいる感じがあったと思います。

ART iT 大竹さんのスクラップブックもそうした世界観、過剰性を感じさせる展示でした。

SO 今回は、光州よりさらにこういう捉え方もあるのだと思いました。前の展示から新たに2冊増えていますが、それだけが理由ではなく別の見せ方が呈示されていました。光州での設置では、ジオーニの希望で敢えてキャプションから各スクラップブックの制作年を外しました。その時は、全体でひとつの作品として見るという判断が、自分にとってはデジタル的で面白いと思いました。30年くらいの時間が、一瞬で通過してしまったかのような感覚をもたらす。この一冊を何年に作った、というのを示すことは非常にアナログな発想ですから。その意味でスクラップブックに関して、こうしたデジタル的な発想は自分自身にまったくなかったものです。自分にとっては、一冊目は絶対に1977年のもので、最後は2005年である、という事実を入れるのが普通だと思っていたし、作る側からすれば、その制作の時間というのは非常にこだわっていた部分です。だけど、彼は、例え同じ作品であっても各冊の制作年を敢えて外すことで生じる「異なる見え方」を示したかったと思うし、光州での展示ではそれもありだと判断しました。
しかし、今回は、1977年から2012年という時間の経過が、見えるような仕掛けになっていたと思います。したがって、展示の仕方は同じようにみえるかもしれませんが、呈示の仕方は違ったのではないでしょうか。

Both: Scrapbook #1-66 (1977 – 2012), Mixed media artist book, Dimensions Variable, Installation view at the 55th Venice Biennale, 2013, Photo:Keizo Kioku, Courtesy of Take Ninagawa, Tokyo

ART iT 大竹さんがこだわっている時間軸というのは、それこそ『全景』展(2006年)で顕著なものでした。

SO あれも制作した順番に見せる、という時間軸が非常に重要だった訳です。初めての大きな個展で、時間軸をもとに作品を並べてみる作業をどうしてもやりたかった。美術館側からも何かひとつのテーマに焦点を当てた方がいいのではないか、とアドバイスを受けたときもありましたが、こちらの考え方を通させていただきました。
個展というのは3年や5年の点を見せて行くものです。とくに自分の場合、支離滅裂で時間の特性がないとずっと言われてきましたから。
当然批判は百も承知で、一度制作順という一本の線上に主な作品を並べてみて、そこから浮き出てくるものをどうしても自分自身の目で見たかったという非常に強い思いがありました。だから、自分が子供のころから制作してきたものをそのように並べてみて、あいうえお順に本を組むということをしたわけです。

ART iT それで見えたものというのはありましたか。

SO 何かが見えたか?と問われれば何か確信的な事柄がはっきり見えたといったことはないし、あらかじめ明確に何かが見えるとも思っていませんでした。
2000点を超える作品数の展示による「混沌」ともいえる状況に身を置いた際、そこに静かな空間を感じたことは驚いたことのひとつです。
まだまだ自分の思い描く場所からは遥かに遠い所にいるといった立ち位置は確認できたし、またそれ以外の方法はやはりなかったと強く感じることができました。それは自分にとても大きな収穫だったと思います。

ART iT そうした混沌が集まった場所としてスクラップブックというものがあるのでしょうか。

SO 自分ではスクラップブックが混沌としていると感じたことはありません。 自分にとってスクラップブックというのは、作品を作るようにこういうコンセプトでこういう作品と頭で考えるのではなくて、もう少し実験場として、タブーを失くし、ルールを定めずに行なえる場だと思っています。
ルーティンを決めず、自分の中でのあらゆることからの自由を獲得する場であり、その自由という感覚を保っておくためのひとつの基準としてスクラップブックは存在しています。だから、スクラップブックはもちろん何かを、例えば自分が生きている世界を理解するためのツールともいえると思いますがそこに答えを求めているわけではなく、表現の可能性を探るための実験場といった役割もある。
そういう意味では、定義がないものを探すための百科事典的な要素が含まれていると思います。従って、このスクラップブック自体にどういう意味があるのか、と聞かれるのが一番困ります。

ART iT コラージュ作品も同じような意味合いがありますか。

SO 例えば『日本景』のシリーズも自分の中では制作に当ってはコラージュ的な感覚があります。
仮にコラージュというのは物の上に物を貼ることがコラージュだとすると、日本景のシリーズは技術的には貼るのではなく描くという意味で、その定義からはずれるかもしれない。でも特に「配置する」といったアプローチに対する感覚は一緒です。つまりこの風景とここを合わせて貼るという感覚で、あるものを組み合わせて置き換える。従って方法的には自分の中ではコラージュに極めて近いものだと思っています。
内側にある形を内側に向かって追い求めて行くことは自分には向いていません。
内側の形を見るためには、一見無関係に思える外側に在る形との出会いがないとどうしても自分ではバランスが取れないようなのです。そのため、例えばダークな色調と蛍光色が隣り合うことも普通に起こります。ネオン管の光と油絵の色調のもの、その両方ともが自分であると思う場合はそこに区別はありません。表面的に見ると、何でこれが同時に出てくるのかと見えるかもしれません。けれども、自分はずっとその繰り返しによって近づく方法を試してきました。その典型がスクラップブックかなと思っています。
ルールをもうけないという前提で、こうした極端なものの共存が普通にありうる場なのです。

Seaside House, Afternoon (2000), Poster color on paper, 50 x 70 cm, Courtesy of Take Ninagawa, Tokyo

ART iT その両極端なもののバランスというのはご自身でどのようにとってらっしゃいますか。

SO いつも最終的には「本当に、お前、それがやりたいのか、本当にそれでいいのか」といった自問に至ります。本心を曲げて理解されやすい方を選ぶのか?それともわかりづらくても自分自身の気持ちに対して正直な方へ踏み込むのか?といった自問です。
行き着くところは、制作においても、展覧会を作る上においても、自分に正直かどうかというのが最終的な判断の基準になっているし、またそれが最終的なバランスの役目を果たすと思っています。

大竹伸朗 インタビュー (2)

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