艾未未のことば 6 哀悼

哀悼  
訳/ 牧陽一

どうか静かに、もう騒ぎ立てるのは止めて。塵芥を沈め、死者を安らかに眠らせよ。

災難の中、手をさしのべ、傷ついた人を助けるのは人道主義であって、祖国や人民への愛などではない。生命の価値をおとしめてはいけない。生命はもっと豊かなものだ。生命とは平等への尊厳であるはずだ。

苦しみの日々、人々は祖国や祖国を敬愛する連中に感謝する必要などない。人民が災難に遭ったというのに、祖国は何の庇護も与えはしなかったではないか。崩れる校舎の中、結局子どもたちを救うこともできなかったではないか。政府の役人を褒め称える必要もない。瀕死の人にとって同情の言葉や涙など何の役にも立たない。。緊急措置の方がずっと大事だ。軍隊に恩を感じる必要もない。災難に立ち向かうのは、軍の職務であり、その職責を果たすは当然の事だ。

傷つき、苦しみ、心の深い所、誰もいない夜、明かりのない場所で、私たちは哀悼する。なぜなら死が生の一部であり、逝く者は私たち自身の一部だからだ。死者はすでに失われた。ただ生者が尊厳をもって生きていくことだけが、尊厳をもって死者を眠らせることができる。

誠実に生きていこう。歴史を尊重し、現実を直視しよう。人々を煽情し、蠱惑させることに長けたニセのニュースメディア。死者の悲しみで、国家やナショナリズムと取引する政治屋。亡者の魂で、道徳のニセ酒を調合する仲買人たち。これら是非を混同させる者たちに警告を与えよう。

生者が道義に背離するとき、寄付した金銭も僅かな涙も、失われた者の最後の輝きも消えうせる。意志の陥落と精神の空虚は生死の界を魑魅魍魎の領域に入れてしまうだろう。

集団的記憶の空白と公共的な道義の偏りは、人の心を軽佻浮薄なものにさせる。30年前、あのもっと大きな地震で死んでしまったのは誰だ?度重なる政治闘争の冤罪で死んだ魂、炭鉱に身を落とした労働者は、不治の病にかかっているのに治療を拒否されたのは、彼らはいったい誰だ?彼らは生前どんな痛みを負い、死後にどんな哀悼を獲得したというのか?失われていった悲痛の肉体と不安の魂に、誰かかつて呼びかけたことがあったのか?彼らと真に相通じる生存者はいったいどこにいるのか?

濁った涙でぼんやりとした視界に変わる前に、世界がどんなものなのかを理解すべきだ。生者の無意識と無覚悟から、生き長らえた者の生命価値への軽視から、生きる権利と表現力の麻痺から、そして正義、平等、自由をはき違えたその時から、本当の死者の不幸というものが、はじまるのだ。

ここは公民のいない社会だ。真実の権利を持っていない人間。一通りの公衆道徳も人間性も備えていない人間だ。こんな社会で、誰がどんな責任と義務を引き受けるというのか?生と死に対してどんな理解と自覚があるというのか?この地の生死輪廻は、世界万物の生存価値といったいどんな関係があるというのか?

長い間、国家の血を吸ってきた文化、宣伝機構、奴らの寄付は窃盗と何の違いもないではないか?
寄生者からの喜捨など誰も望まない。奴らにとっての最大の慈善行為とは奴ら自身が一日も早く消滅することだ。

(2008年05月18日)

声なき祭日  
訳/ 浅見洋二

天真にして純粋な子どもたちがこの世界を信じられず、人類に絶望する。そのような日がもしあるとすれば、それは今日だ。2008年6月1日、子どもたちの弱く小さい命が見捨てられることになった日。20日前、あの自然界の強大な振動によって、被災地では幾千もの校舎が倒壊し、6千人あまりの子どもがレンガやコンクリートの中に埋もれた。

震災のまちで生きのこった誰もが手を伸ばし、かつて幼稚園、小学校、中学校だった場所を指し示す。生きのこって救護活動にたずさわる人たち、ボランティアや兵士、四方からやってきたさまざまな職業の人たち、その誰もが耐え難く受け入れられないのは、子どもたちが逝ってしまったこと、災厄が子どもたちを選んだということ。崩れ落ちた校舎のすぐそばに、他の建物は以前と変わらぬ姿で残っているというのに。

いまもなお廃墟となった場所では、子どもたちの身体が埋もれたまま、完全には発見されていない。人々はすでに捜索を放棄し、暗い絶望にとらわれている。子どもたちが、むしろこの世に生まれてこなければよかったとすら願っている。廃墟の泥土の中で眠る子どもたちは、もはや騒々しさに煩わされることもない。子どもたちを取り囲むのは、凝固した恐怖、苦痛、絶望、そして暗黒。

多難こそが国家を鍛える、“かつてない団結”を示そう。どうか、そんな空々しい言葉で冷酷な現実を覆いかくさないでほしい。瓦礫の中で損なわれた子どもたちの身体をきれいに洗い清め、どこか静かな場所にそっと深く埋めてほしい。

20日が過ぎた。死んだ子供たちの名前をすべて記した名簿はまだ書かれてはいない。正確な死者の数はわかっていない。
人々は死んだ子どもたちのことも、のこされた家族のことも知ることができない。いったい誰があの校舎を建て、鉄筋の数をごまかし、基礎と柱に劣悪なコンクリートを流し込んだのだろうか。人々は一生に流す涙のすべてを流し尽くした。人々の善良なる心は知っている。自分が持てるそのすべてを捧げて保護し続けてきたあの命は、もう失われてしまったのだと。

これは恐怖の祭日。この日、生ける者、心ある大人はみな、あの子どもたち、遠い彼方にあってこの世界を信じようとない子どもたちに対して、深く恥じなければならない。子どもたちの運命は民族の運命、子どもたちの心は民族の心、それ以外の心などありはしない。

子どもたちの死に責任ある者は、これからの人生において自らを恥じ自らを責め続けるがいい。その地位や身分の違いを問わず、みな自らの責任を痛感するがいい。役人たち、建築や教育を司り、安全に責任を持つ者たちよ、あなたがたは自分たちに罪はない、この大地と人民を愛していると言うのかもしれない。だが、どうか辞任してほしい、ひとりの人間として責任をとってほしい。そうしたからといって、その恥ずべき罪が軽減されるわけではないけれども。

ここで倒れたのは校舎ではない。民族の魂と名誉が倒れたのだ。この光を失った時代にあって、たくさんの校舎が倒れ、たくさんの命が犠牲になって、いったいそれで何が代りに得られたと言うのか。常に得をするのは誰で、常に苦しみを引き受けなければならないのは誰か。今日という日は、存在してはならない一日である。この日、美しさは死に絶えた。
みな気づかないだろうか。今日という日から、笑い声がすっかり失われてしまっていることに。

子どもたちは逝ってしまった。世間の冷淡や欺瞞を学びもしないうちに。この出来事は、人々に深く記憶されるだろう。暗黒に満ちた卑劣が善良さに取って代わり、虚偽りが誠実さに取って代わる。そのような寓話のひとつとなって。

(2008年6月1日)

謝る必要はない  
訳/ 牧陽一

誰も謝ることはない。集団で消滅するがいい。

いつも人民に対して責任を負うというが、実際はどうだ?何事にも何の責任も負わず、献身を拒み、過失をごまかして、徹底的に腐敗して、絶対的な特権を強奪する。すべての権力が統治者のものとなり、すべての権力はその統治を守るために行使される。

四川汶川の学校の手抜き工事[注1]、全国の乳製品の安全問題[注2]、公安は暴力を使い放題、警察・検察・裁判所は混乱しきっている。一方で尽きることがない災難をつくりだし、一方で常識知らずのでたらめをいう。自覚の欠けた滑稽な政体が前途のない現実を無理やりに維持している。永遠に、自分たち集団の利益を、国家と民族の利益の上に置いている。

何年かすれば、事には必然的に変化が生じる。死ぬべきものは死んで、壊滅すべきものは壊滅する。
この愚昧な政権は、意気地が無くて無能で、善良とは程遠く、真理を拒絶したと、人々に記憶されるだろう。

もっとはっきり言えば、我々は深くそしてずっともう飽き飽きしているのだ。この永遠に人民に奉仕する、人民に代わって主人となる、人民のために憂える、人民に責任を負う、人民の利益を堅持する、人民の情感を擁護する、三つの代表[注3]、八栄八恥[注4]、先進性、調和社会、深く心がとがめ、非常に心を痛め、自ら反省し[注5]…このやりたい放題の政府を。

もし必ず存在したいのだというのなら、我々はこんな政府を望んでいる。清廉潔白で恥を知り、公然と詐欺をはたらくことのない政府。窃盗をしない、秘密裏に裁判をしない、不法に人を拘留しない政府。規律を尊び、法を守る政府。他人に話をさせ、いくらか勇気があり、責任を負うというとはどういうことかを解かっている政府。いつでも下野するつもりがある政府。以上だ。

さもなければ、一日中ひっきりなしに死ぬとか生きるとか騒ぐな、ポカンとして後世にどう記憶されるかを待つがいい。乱脈でボロボロの屋台骨だというのに、まだ無理して踏ん張って諦めきれないでいる。ずうずうしい恥知らずだ。

(2008年9月26日)


[注1] 2008年5月12日14時28分に発生した大地震で5千人にのぼる小中学生が校舎の倒壊で死亡した。原因は手抜き工事だった。

[注2]2008年6月から9月、甘粛省蘭州市で乳児14人が多発性腎臓結石の治療を受けていた。中国では2003年から04年にかけて、安徽省で生産されたメラミンで量を増やした粉ミルクが原因で、10人以上の乳児が死亡した事件が発生。「毒ミルク事件」として問題になっていた。

[注3] 「三個代表(三つの代表)」は、江沢民が2000年2月に発表したスローガン。中国共産党は、1.中国の先進的な社会生産力の発展の要求 2.中国の先進的文化の前進の方向 3.中国の最も広範な人民の根本的利益を代表すべきだとする。

[注4] 2006年3月4日胡錦濤が国民に提唱した道徳紀律の通称。正式名は「社会主義栄辱観」「八つのやるべきこと、8つのやってはいけないこと」アメリカでは「Hu Jintao’s Eight-Step Program」(胡錦濤の8段階プログラム)とも言われる。(国を愛することは名誉であり、国を害することは耻辱である。人民に奉仕することは名誉であり、人民に背くことは耻辱である。科学を敬うことは名誉であり、无知愚昧なことは耻辱である。勤労は名誉であり、楽ばかりするのは恥辱である。相助団結するのは名誉であり、己だけ得するのは恥辱である。誠実にすることは名誉であり、義理を忘れるのは恥辱である。道徳紀律を守るは名誉であり、不法乱紀するのは恥辱である。努力奮闘するのは名誉であり、傲奢淫楽するのは恥辱である。)

[注5]事故が起きた時に責任者が言う常套句。「私達は非常に心を痛め、深く心がとがめ、自ら反省する所存です。責任を負います。」

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