Curators on the Move 6

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルウ) 往復書簡
ビエンナーレを改革する

 

親愛なるHUOへ

月初めにヴェネツィア・ビエンナーレのオープニングで再会できて、とてもうれしかった。いつもの通り、密度の濃い刺激的な「ハリケーンのような時間」が過ごせたね。

今回のビエンナーレは僕たちキュレーターや批評家、その他アートに関わる人すべてが現在置かれている、面白くも微妙な状況を反映していると思う。我々の立場の複雑さを示しているんだ。まず我々は、社会や政治にいま再びアートを通じて関わり、戦争や地政学的な問題に対する批判の声を上げようとしている。その一方で、社会的経済的地位、そして芸術上の選択についても安寧を何よりとする、既存の組織によって規定された一定の物の見方に何らかの制約を受けている。今回のビエンナーレの中心展示にはこの矛盾がはっきり表れていた。つまり、政治的立場を大胆に確認しつつ、ニューヨーク近代美術館に似た展示モデルを採用するという、美学的にははるかに保守的な立場を取るという矛盾だ。

 

「キャビア左翼」を超えて

突き詰めて考えると、こういう保守的な側面から、「美的安寧」の主張に対抗するためには、大いに「キャビア左翼」的になってしまった左派の主張を立て直す必要があるということがわかる。主題、題目、立ち位置、大義名分といった面以外にも、存在の遂行としての言語を立て直さなくては。僕たちが仕事において常に自己批判、自己破壊を続けるということだ。

立て直しへの意欲というのが、君と僕、ほか何人かの同志が10年近く追求してきたものではないかと僕は思っている。僕からすれば、これはすごく意思的な選択だ。

もちろん簡単な仕事ではないし、自分自身の知識、趣味、価値観や社会意識を常に問い直しながら、同じ目的、同じ精神、同じ行動を共有しようと作家たちを動かさなければならないのだから、大きな挑戦でもある。他の作家や関係者とこうして積極的に対話をし、既存のアートや創造行為についての概念を、絶え間のない疑問、挑戦、転覆、破壊、そして更新の対象とするのが、僕はとても重要かつ根本的なことだと思っている。『Cities On The Move』、第2回広州トリエンナーレ『Beyond: an extraordinary space of experimentation for modernization(超越:近代化のための空前の実験場)』といった協働プロジェクトを通して、10年近く君と僕とで議論を交わし、実験してきたのはまさにこれだ。今度の第10回イスタンブール・ビエンナーレでも、この立て直しプロセスの触媒となりたいものだ。

僕はビエンナーレを、単にアトリエや画廊から持ってきた既存作品を展示するところだと思ったことは一度もない。いまあるものに新鮮なエネルギーを注入すること、さらに言えば、生まれ出ようとしている何かに新しい生命を与えることだと思っている。ビエンナーレはまだこうした機能も持っている。20年も経って未だにイスタンブール・ビエンナーレを必要としている理由もここにある。成熟したイベントに新しい命を吹き込むのはなかなか難しくはあるけれど。

だから僕たちは、オリジナルで実験的なキュレーションの方式と戦略を、いくつも考え出しつづけている。ただ感じがよくて面白い展示を見られるというだけのビエンナーレではなく、アートコミュニティを動かして、アートに関わる活動の定義、形式、価値を見直す機会にしたい。文化やアートや、もちろん政治に関わる重要かつ喫緊の問題について声を上げ、それらを共有し、議論し、試してみることのできるプラットフォームを生み出したい。繰り返しになるけれど、この公共イベントを現実社会のコミュニティと結びつけ、それによって同時代の現実に立ち向かうために、アート活動や創造行為が持つ役割を再定義するというわけだ。イスタンブール・ビエンナーレは、この考えを実地に移すにはぴったりの条件下にあると思う。非西洋という点から、西側の伝統や価値に支配された既存のシステムを超えたい、という動機や理由づけに事欠かないからだ。さらに、近代トルコの独特の歴史は、イスタンブールのダイナミックで豊かな都市性にも色濃く反映されていて、非西洋社会が独自の発展モデル、固有の理想主義とユートピアを生み出し、つまりは独自の近代を発明して、近代化していこうとする努力の素晴らしい一例となっている。当然ながらビエンナーレは、アートプロジェクトと都市の現実とを密接に結びつけることによって、現代の都市というものに対して大きな問いを投げかけるものでもある。いわゆる「グローバル/リベラルな資本主義」によって、あらゆるものが私有化や開発・高級化の対象となっている時代に、どこまで一般に開放された空間を思い描くことができるだろうか? 論理的に導かれる次なる問いは、現代アートが多くの場合、商品やコミュニケーションツールと化している世界で、どのように現代アート活動の配置転換をすればいいのかというものだ。

 

消費文化への抵抗

こういうわけで、僕たちがこれまで散々議論したように、展示が「ダイナミックで複雑なシステム」であるべきだという考えに則って、僕は第10回イスタンブール・ビエンナーレに「可能なばかりでなく必要でもある:地球戦争時代の楽観主義」というタイトルを持ってきた。とても長くてわかりにくいけれど、「コンセプトの枠」を複雑にどこか皮肉っぽく表現したもので、構造もとても複雑だ。というのも、消費の論理に抵抗し、今日のアートの世界を圧倒的に左右している消費社会と戦うことが、最も大切で、重要だと思っているからだ。ほとんどのメディア、ひいては世間は、イベントにはわかりやすい宣言やはっきりしたイメージを求めている。数行の文章や1枚の写真で説明できて、「消費」できるからね。知的、文化的、「非物質的」価値のための空間を擁護する、という立場で社会の現実とアートを再び結びつけ、それを通じて公益をもたらすというのが本来のビエンナーレだろう。だから僕たちは、こういうイベントに真の一般性を求めるために、この消費文化に抵抗している。このイベントを理解するには、まず時間を費やし、空間を探検し、最終的にはさまざまな形式、表現、話法、そしてもちろん各作家の個性という複雑なシステム全体との対話に入らなくてはならない。イベントを理解し、説明するのは、かくして努力を要する複雑な活動になるわけだ。作家たちはイベントに関与して、才能あふれる創作を行ってくれるけれど、この豊かな贈り物は、メディアを含む観客にもふさわしいものであり、一方で同様の関与が彼らに求められる。

だから、こういうビエンナーレは、さまざまな制作、成果の可能性を生起しうるイベントだ。相異なる文化状況のもとで、それぞれ独自の近代性や近代化のプロセスがどのように生まれたかを読み解きつつ、都市問題や現在の政治状況を取り上げ、包括的に理解しなおすことができる。さらに、こうしたプロセスにおいてどういった対立が生まれてきたかということも、創作行為への新たな下地となる。

イスタンブールでは、こうしたことがすべて、場所に即した(サイトスペシフィック)一連の展示の形で実現される予定だ。5つか6つの主会場を慎重に選び、さらに仮設会場を設置して総計では30以上となる。また、開催時間も24時間にして、都市に住む人々の日常生活にいっそう一体化されたイベントにしたいと狙っている。眠らない街というのが、刺激的でコスモポリタンなイスタンブールの魅力の最たるものだからね。

会場に関しては、建物自体の性質と関連させながら、近代化計画と歴史や現実における宿命との間に生まれる緊張について、いろいろな側面から問いを立ててみた。それぞれの場所は、イスタンブールを数ヶ月間調査してから選んだんだ。決定にあたって僕が考えたことがいくつかある。イスタンブールを観光の名所、ノスタルジックでエキゾチックな都市と捉える従来の見方を踏襲しないこと。その代わりに、トルコの近代化、つまり共和国のユートピア計画の実験の中心地という見方を前面に出す。もちろんその背後には、東と西、地域特性とグローバルな影響の関係に関するあらゆる問題が隠されている。近代化のさまざまなビジョンやモデルがここで試され、激しくぶつかりあっている。面白いのは、近代化を体現する建築物が観光マップにはまったく載っていない、だから歴史的な場所とは認識されたことがないという点だ。近現代の生活の仕方や生産人口動態など、つまりこの都市の機能そのものを形成するのに決定的な役割を果たした場所なのにね。ところが、その多くは現在、面白いけれど安穏とはしていられない状況に立たされている。世界資本による開発・高級化の波だ。いま世界中で、社会(主義)システムの理想の印となっている建築作品が、豪華で企業向けスタイルの新しいビルに建て替わっているのが目につく。新自由主義、新保守主義の「改革派」勢力がいかにスピーディーに、そして「効率的に」世界中を席巻し、都市の形を、したがって社会や政治のシステムを変えているかがわかる。

 

創作行為と都市との関係

まとめに入ろう。僕たち共通の努力の中で大切にしてきたもののひとつを振り返ろうと思う。この10年というもの僕たちは、よく観察し、現代の創作行為と都市との関係という問題に立ち向かってきた。特に非「西欧」におけるここ10年での空前の都市化が、どれほど現代作品の誕生の泉となってきたか、逆に現代アートが都市の変容をよりダイナミックで激しいものにする役割も果たしていて、想像力や霊感の源、さまざまな戦略、急を要する問題に対する代替的な解決策などを提示してきたかを捉えようとしてきた。

僕たちが一緒に仕事をした『Cities on the Move』と前回の広州ビエンナーレから、ふたつのビエンナーレ、特にイスタンブールまでの過程は、僕にとってまったく論理的な進化だった。僕たちはずっと、批判的な目で状況を観察し、違う視点を展開しようと力を注いできた。例えば『Cities on the Move』は、まさにアジアにおける都市化のダイナミズムと、それが現在の地政学的せめぎ合いの中で、どれほど真に新たな世界的な発展モデルとなっているかを扱ったものだ。

もちろん、経済、政治闘争や紛争、感情や精神性の世界に関する差し迫った課題を忘れずに、もっと詳しく検討することも大事だ。こうした課題は、僕たちを私的で幻想や夢にあふれた空間へと誘ってくれるし、ますます物質的に、物を生産することに傾いていく社会の中で、どれだけ強力な創作への力となるともしれない。

だから、おわかりの通り、ここでは両極端のポイントに二重の焦点が当たっている。このふたつのポイントはほとんど正反対ながら、協働して機能し、新しいエネルギー、新しいダイナミズムを生み出している。それは僕たちに、新しい角度から現実を見つめ、休むことなく変化しつづける声で、改革を表現する機会を与えてくれるものだ。

キュレーションは再び動きはじめた……。

ハリケーンのごとく、幸運を祈って
ハンルゥ

 


実践的な「メタボリズム」的デザインとイスタンブール市場への歴史的参照を組み合わせた、トルコ近代建築の傑作「IMC Bula」。「世界工場」として、近代の経済的、生産的側面の探求を担う予定。

(初出:『ART iT』No.16(Summer/Fall 2007)

 


 

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