Curators on the Move 19

ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+侯瀚如(ホウ・ハンルウ) 往復書簡
空虚に立ち入る

 


Absalon – Cellule No. 3 (1991), wood, cardboard, white dispersion paint, neon tube, Perspex, 133 x 161 x 240 cm; 34 x 25 x 179 cm. Courtesy CAPC Musée d’art contemporain, Bordeaux. Installation view at KW Institute for Contemporary Art, 2010. Photo dreusch.loman.

 

親愛なるハンルゥへ,

手紙ありがとう。中でも鄭國谷(ジェン・グォグゥ)の活動は興味深いね。彼のプロジェクトは、リクリット・ティラヴァーニャの作品「The Land」や生き方のモデルを提唱するほかの多くのアーティストたちのプロジェクトと共通するものがあると思う。君の手紙を読んでいて、僕と君が出会った頃に生き方のモデルをラディカルに主張していたアブサロン(1964-93年) のことを思い出したよ。

アブサロンと知り合ったのは、僕がまだスイスに住んでいて、現在に続く長い道のりを歩みはじめたばかりの頃だった。それは1991年、僕がカルティエ財団から奨学金を授与された年で、ザンクト・ガレンの自宅アパートで開催した『キッチンショー』から1年が経っていた。3ヶ月にわたる『キッチンショー』の会期中の来訪者は31人。平均して1日に1人にもみたないものだったが、当時のカルティエ財団のキューレターだったジャン・ドゥ・ロアジーは、わざわざパリからやって来てくれた。それから間もなくして、彫刻公園、カフェ、そして小規模の宿泊施設を備えた当時の財団の本拠地、パリの郊外にあるジュイ・オン・ジョセに僕は招待されたんだ。素晴らしい発想だと思うんだけど、同財団のレジデンス・プログラムには、アーティストだけでなくキュレーターも招致されていて、そこでの経験は僕のキュレーション人生においてとても有益なものとなった。(今日、こうした若手のキュレーター向けのレジデンスはあまりないように思う。これは緊急の課題だ)

その目的は、プログラム内の出来事をキュレーターがサポートし、証人となることだった。ポール・ヴィリリオが言っていた、アーティストの活動を覗き込む存在という文脈において、僕は「キュレーター・イン・レジデンス」に参加するはじめてのキュレーターとなった。3ヶ月間のレジデンス中に読むための大量の本で武装し、ザンクト・ガレンから愛車のボルボでアーティストヴィレッジに向かった。滞在中の住まいの左隣は黄永砅(ホアン・ヨンピン)と 沈遠(シェン・ユワン)で、右隣がアブサロンだった。 (偶然にも1991年は僕と君が定期的に会う様になったのと同じ時期で、この頃のやり取りが1996年にウィーン分離派100周年記念として開催し、その後長年にわたって巡回し進化し続けた『Cities on the Move』展の起源だと言えるだろう)

アブサロンは、機能を排除したフォルムの言語という独自のスタイルを早い時期から確立していた。僕とアブサロンは、モノの生涯において機能は最も短命な要素である一方で、文化的なシステムにおいて最も重視されるのは(ある一時点で決定される)機能であるということについて繰り返し話し合った。文化が時を経て変化するように、フォルムの機能も進化する。この変性は、アブサロンが何度も言っていた様に、実用性に根ざした世界に属するモノの命には限りがあることを示している。つまり、時代を超える普遍的価値には到達しえないのである。功利主義に見切りをつけ、実用性の範疇を出たとき、モノは美的水準に基づいてのみ存在することができる。アブサロンが20代前半にして確立したこの概念は、彼にとってとても重要なものだった。

彼は1991-92年にはすでにこの造形言語を生み出していた。しかしそれは、アプロプリエーションから導き出されたものでも、レディーメイドから派生したものでもなかった。アブサロンは、そのどちらのコンセプトにも強い疑念を抱いていた。日常にあるモノを流用したいとは思っていなかったので、自らのフォルムを創作した。興味があったのは潜在的な機能性であって、再発見された既存の機能性ではなかった。見る者が現在または未来の機能性の可能性を認識できる何かを作り出したかったのだ。ウリポの創立者であるフランソワ・ル・リヨネーも、彼自身は「実験的」という言葉を好んだが、潜在的可能性の重要さについて言及している。潜在的可能性とは、いまだかつて行われてはいないが実現されえる何かを見いだす試みのことであると。

 


Absalon – Left to right: Cellule No. 6 (Prototype) (1992), Cellule No. 3 (Prototype) (1992), Cellule No. 1 (Prototype) (1992), Cellule No. 5 (Prototype) (1992), Cellule No. 2 (Prototype) (1992). Installation view at KW Institute for Contemporary Art, 2010. Photo Uwe Walter.

 

その時期アブサロンは、とても興味深い居住可能な彫刻作品の構想を持っていた。アブサロン本人が中に住んでいるのだから、鑑賞者も中に入りたいと思えば少なくとも潜在的には可能な作品だ。入ることのできない小部屋といえば、ハンス・ホルバインの有名な作品「墓の中の死せるキリスト」(1521)を思いだす。墓の中に入ることは不可能だけれど、作品の前に立つと中にいる様な心理が起こり、アブサロンの作品と同様、想像の中でイメージへと入っていくことができる。アブサロンは、ミクロとマクロの緊張関係を巧みに操り作品のサイズを変化させた。

彼の作品は室内空間への提言でもある。アブサロンは、僕たちが立ち入るほとんどの室内(カフェ、レストラン、ホテルなど)が耐え難いものであると思っていた。1993年にホテル・カールトンで展覧会をした際、僕はアブサロンと彼のパートナー、マリ=アンジュ・ギュミノをはじめとする60名のアーティストを参加作家として招待した。アブサロンは、ホテルの部屋のテレビモニター自分の映像作品を映し出した。そしてほかの作家と同様に、僕とヴァルター・クーニッヒが考案した絵はがきセット用にホテルの絵はがきを制作した。アブサロンは、彼がひどいと考えるホテルの部屋の写真を絵はがきにしてもいいかと聞いてきた。ホテルの部屋のインテリアに手を加えた作品「intérieur corrigé(修正されたインテリア)」は、この絵はがきから着想を得ている。とはいえ、作品のサイズに関してはひとつのスケールに限定するということはなかった。ガラスの陳列ケースを都市や理想の住居のマケットで埋め尽くしたかと思えば、それらすべてを実物大のスケールで制作するというアイディアを持っていた。アブサロンは作品のサイズについてよく語っていた。室内空間に言及する彼の作品には、常にミクロとマクロの関係が介在していたんだと思う。

色の中で最もすぐれた「白」という概念も面白い。白は、そのすべての光において、 光線の総体で構成されている。彼が白だけを使うようになったのは石工を用いていたことによるものだと思うが、ここで重要なのは、イヴ・クラインの青がそうであった様に、アブサロンにとっての白が抽象性を象徴していたかということである。僕は、いろいろな観点から、白という色がアブサロンにとって非常に重要な要素だと思っている。みんなが知っている「白より白い」という洗剤の広告文句がよい例だが、西洋社会で白といえば、清潔、純粋、生を連想させる。だが、アブサロンにとってその白の象徴性は反対の方へと働き、生から死への推移を意味した。エドモン・ジャベスも散文詩「Intimations. The Desert」の中で、そのことに言及している。ジャベスは、白が砂漠や海の記憶、砂丘、浜辺、砂のイメージにつながるメタファーであると考えていて、円および無、忘却、死、神の象徴である数字のゼロの概念と絡み合わせて考えている。(ちなみに、雑誌『DU』が1989年に「Weiss/White(白)」をテーマにした号を発行。フェリックス・フィリップ・インゴルトが「Weiss sein(白とは)」と題し、白色が東洋および西洋の歴史においてどの様に受容されてきたかを検証する記事を掲載している)一連の出来事がアブサロンにとって重要な参考となっていることは間違いない。

アブサロンの作品たちはひとつの抵抗の形である。作家自らの身体、引いては精神にあわせて制作した禁欲的な住居は、彼が本来あるべき姿でいることを阻止する社会への抵抗の手段なのだ。アブサロンが「内なる鏡」や「心的空間」と呼ぶこの閉ざされ唯我的小部屋は、日常生活における混乱や動揺に侵されない。それは、その後ポール・チャンが「delinking(切り離し)」と呼んだ、現在のデジタル時代に欠かすことのできない概念の前兆ではなかったか。それは彼自身にのみ課され、他人に課されることのない主観的ユートピアという生き方のモデル。つまり、大部分の革新的で建築的なユートピアへの拒絶を意味している。

君の手紙に書かれていた、ブラジルのパイオニアたちのくだりを読んだときも、「抵抗」について考えさせられたよ。あの画期的な展覧会『Les Immateriaux』を引き下げてアートシーンに登場したジャン・フランソワ・リオタールも、抵抗をテーマにした未完のプロジェクトを構想していた。今日のコミュニケーション時代にみる様々な抵抗の形は、優れた先見の明の持ち主であったイタリア人アーティスト、エミリオ・プリーニの作品とその妥協しない生き方に通底するものがある。

エミリオ・プリーニは、1960年代後半以降のアーティスト、批評家およびキュレーターたちに多大なる影響を及ぼしながらも、アルテポーヴェラ およびコンセプチュアルアート創成期の豪傑たちの中でも謎の多い存在だ。それはプリーニが、デュシャンの「これからの優れたアーティストは身を潜めて活動するだろう」という予言を体現するかの様に、展覧会への参加を最小限に抑えながらも、脱具象のラディカルな動きをほかのどのアーティストよりも推し進めてきたからかもしれない。その後デュシャンはアートの世界から身を引いたかの様に活動した。プリーニも同様に、制作に没頭しアルテポーヴェラ関連の展覧会という展覧会およびキナストン・マクシャインによる『Information』展(1970)やハラルド・ゼーマンによる『When Attitudes Become Form』展(1969)、さらにはヴィム・ビーレンとエディ・デ・ワイルドによる『Op Losse Schroeven』展(1969年、ゼーマンの展覧会の1ヶ月前にアムステルダムで開催され、プリーニが伝説の列車旅をすることになった展覧会 )といった歴史的な展覧会に参加した後の1971年以降は、アートの世界との積極的な関わりを取らなくなっている。

プリーニのアーティストとしての活動は、その結果として立ち現れるアート界における過度の表象性への抵抗で彩られている。本人曰く「できることなら制作はしない」であるし、最もラディカルな行為は(売買を目的とした)商品としてのアート作品を要求するアート界のニーズに応えることを拒否し、市場の拡大に加担することを拒絶することだと考えていた。プリーニは、彼の作品が掲載されている唯一のカタログ(1995年ストラスブールで開催された『Fermi in Dogana』展のカタログ)を快く思っておらず、その他の出版物への作品掲載はすべて拒否してきた。

僕は、ローマに行くたびにプリーニと会う様になった1990年代以降、1997年のドクメンタXにはじまり、フランクフルトやベルリンでの展覧会、そしてローマにあるヴィラ・メディチで開催された僕とキャロリン・クリストフ=バカルギエフとローレンス・ボッセが企画した展覧会に至るまで、彼の制作の軌跡に注目してきた。一連の展覧会から、プリーニが同じアイディアを繰り返し用いることがないことは明らかだった。彼が実践していたのは、まさにルーティン(繰り返し)の対極にあるもので、参加する展覧会ひとつひとつが新機軸であるべきだったからだ。そしてその新機軸を価値化することを嫌い、自分の概念を消費対象の作品として制作することを拒否し、終わりのない有形な作品レースから降りた。したがって「プリーニ作品」というブランドは存在しない。そのことで、一見、プリーニはあまり作品を作らなかったアーティストの様に思われるかもしれないが、実際には数々の真に独創的なコンセプトや芸術的新機軸を打ち出したアーティストなのだ。また、ひとつのアイディアから新たなアイディアを発表するまでの間に比較的長い小休止を置き、沈黙の期間を設けることも興味深い。プリーニがアート作品の商品化および歴史化に抵抗し、芸術体験としての展覧会の一過性および仮初めさを強調したことは、当時最も意欲的だった若手アーティストたちに多大な影響を及ぼしたに違いない。

それはまた、僕自身が展覧会を構想する際に、時間と空間の優位性をどう捉え、強調し、拡大して考えるかにおいてヒントを与えてくれる。特に、クリスチャン・ボルタンスキーやベルトランド・ラヴィエと展開している『Do It』プロジェクトで、見る人が自分で作品を再現できるような解説のあり方や、フィリップ・パレノと協同でマンチェスター国際フェスティバルのためにキュレーションをした『Il Tempo del Postino』展(その後アート・バーゼルおよびバイエラー財団の協力の下、Theater Baselに巡回)においてはことさらだ。

 


Emilio Prini – La Pimpa il Vuoto (2008). Installation at Galleria Giorgio Persano, Turin.

 

プリーニの作品については多少知っているつもりだったが、2008年秋にトリノのGiorgio Persanoギャラリーで開催された『La Pimpa il Vuoto (ピンパ:空虚)』展は 衝撃的だった。本展においてプリーニは、イタリアの国民的アニメ(フランチェスコ・トゥ-リオ・アルタン作)であるピンパのイメージを拡大し、がらんどうのギャラリー空間の白壁にすべて同じ大きさかつ目の高さで並べるべしという指示を出した。プリーニの行為を表現するのにアプロプリエーションという言葉は正しくない。流用されるオリジナルが増幅、誇張、拡大され、もしくは何らかの転覆工作のターゲットとなり、ほんの少しの形態の変化がオリジナルの受容を大きく異なるものにする通常のアートの文脈におけるアプロプリエーションに対して、プリーニの「ピンパ」は、厳密かつ非常に効率のよい引き算だ。作品に新しい意味は付与されていない。シチュアシオニストまたはシチュアシオニストの戦略である「逸脱」においてさえも、アプロプリエーションのパロディー的で皮肉な要素は何らかの批判の余剰生産に加担する。転覆行為が転覆たり得るのは、後付けの意味がオリジナルよりも余剰な場合である。一方、プリーニが約10年ぶりのローマでのインタビューで僕に話してくれたのは、「見る人はギャラリーがからっぽだということに気がついていないけど、そこはからっぽなんだ。アニメは芸術的には何も意味をもたない。アートの経験という意味において、アルタンのアニメは存在していない」だった。

『La Pimpa il Vuoto』展はアートのパラドックスだ。差し引くために何かを足す。 その結果、プリーニのトリノでの作品は、私たちが一般的に考えるアートの錬金術の逆をいく形となっている。存在するものを無に変えるからだ。展覧会のタイトルは、否応なく空虚の大御所であるイヴ・クラインを連想させる。プリーニ本人もまた、作品の目的が早くして亡くなったクラインの思想を発展させ、超えることであると言っている。ギャラリーの壁に配置されたアルタンのアニメ画像は、クラインの含意的な形而上学的行為の持つ精神性さえもかき消してしまう。精神的なものは、アニメ画像が無意味にそこにあることによって駆逐される。見る者には何も残らないが、それは明らかに何かがそこにあることによって喚起される空虚である。展覧会は直前まで無題で開催される予定だったが、何ヶ月にもおよぶ検討の末、プリーニとペルサノは最終的に『La Pimpa il Vuoto』とした。おそらくプリーニとクラインの関係にスポットをあてる目的と、作品の本質である深遠かつ動揺を伴う空虚性を見る人にお膳立てするという意味もあっただろう。

 


Emilio Prini – La Pimpa il Vuoto (2008).

 

今回、プリーニはどんな引き算を仕組んだか?自らの存在を打ち消すために、どんなしかけを用意したのか?最も顕著なのは、アルタンのオリジナルのイメージから色の痕跡がすべて取り去られていることだ。忘れてならないのは、「ピンパ」の特徴のひとつが大胆な色使いだということ。また、各コマの間の違いは最小限に抑えられていて、見る者が作品に関与する最初のステップは、繰り返しの中からわずかな違いを見いだすことである。すべてのコマに主人公であるピンパ犬の横顔が登場し、いつも飼い主であるアルマンドのことを見つめ、アルマンドもピンパを見つめ返している。ここに、ユーモアを伴いながらもプリーニのペシミズムが読み取れる。人は、人間同士よりも犬との方が話しやすいということか?この問題は今日にも通ずるものかもしれない。インターネット上でのバーチャルなやりとりは、様々なチャンスを生み出している一方で、対面で会話する際のぎこちなさや不安を回避するものではないか?ピンパとアルマンドのここでのやりとりは不可思議だ。ピンパが「今日、ウィンドサーフィンしたよ」と言うと、アルマンドは「でも風なかったじゃん」と言う。不在によって行為が駆逐されている。記号表現性のないキャラクターたちが交わす記号内容のない会話。上部にみえる吹き出しは、コマのほとんどを占めているにもかかわらず、無価値へと身を投じている。プリーニは、『La Pimpa il Vuoto』は自分の作品(・・)というより、自分好みのアート的な何かだとさえ言っている。

作品を完成させるのが見る者だとしても、最終的に彼らの手元に作品は残らない。それどころか消滅してしまう。かのセドリック・プライスの建築に関する提言が、ゆっくりではあるが深遠に若手の建築家や思想家に影響を与えた様に、プリーニの作品はアートの世界において、作品の一過性、不確実性の利用、意識的な未完のプロジェクトの重要性を語っている。プリーニの作品は潜在的な可能性を備えている。しかしそれは作品の中心ではなく、付随するものとして存在している。それはプリーニの制作活動が再び休止するとき、つまり、アート作品が表現してきたものそれ自体が何よりもサイレントであるというサイレンス(無音)の可能性に立ち戻る、いやむしろたどり直す場所に位置している。その姿を完全に明らかにしないまま消滅する『La Pimpa il Vuoto』展の一過性は、プリーニが僕に話してくれた「からっぽのギャラリーに化粧をするみないなもの」という言葉に示唆されている。

ハンルゥ、『ARTiT』で書簡を交わしはじめてもうすぐ5年になるけれど、まだはじめて間もない様な気もする。いままでのやりとりを一冊の本にまとめて、また再開するよい時期かもしれない。ローレンス・ウェイナー曰く「本は部屋(訳者注:生活ひいては人生)を豊かにする」からね。

では、
ハンス=ウルリッヒ

(訳 板井由紀)

 


 

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