CREAM鼎談:宇川直宏+八谷和彦+住友文彦

宇川直宏(ヨコハマ国際映像祭 コンペ部門審査員)
八谷和彦(ヨコハマ国際映像祭 出展アーティスト)
住友文彦(ヨコハマ国際映像祭 ディレクター)

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巻き込み型プロジェクトの可能性


八谷和彦「見ることは信じること」1996年 撮影:大島邦夫
電光掲示板に流れる、一見ランダムに明滅する光。しかし専用のビューアーで覗くと、
文字が流れていることに気付く。内容はネット上に存在するたくさんの人々の日記。
ヨコハマ国際映像祭では、Twitter上の個人のつぶやきも表示するアップデート版を出展。

八谷 今回の僕のCREAM出品作「見ることは信じること」も13年前の作品なんですが、ブログやウェブカムで他人の人生に触れることに慣れてきた現状にシンクロしているとは思います。ところでその展示場所の新港ピアに下見に行ったときに、横浜の『開国博』で映像作品「BATON」が上映されていたんです。それが割と残念な出来で(笑)、役者の演技をモーションキャプチャーでアニメ化する試みなどは面白いけれど、3部構成になっていて一部しか内容が分からないとか、隣のライブ会場の音も聞こえる、とか、全体的には見る側とのズレというか、「こんなすごいものがあるからご覧なさい」という、昔ながらの博覧会映像の限界を感じました。

ただ、このへんは非難するのは簡単ですが、では自分はどのように作るべきか、と考えるいいきっかけにもなって、その好例にこの前遭遇しました。青山の草月会館で行われた森村泰昌さんの公開撮影に行ったんです。来年の個展用の新作だそうで、モンローに扮した彼がピアノを弾く姿を撮る一方で、僕を含む大勢の観客も反対側から撮影されている。「カメラを意識せずに」とか演技指導されつつ、これはもう完成したら作品を観に行かずにいられない、うまいなぁと思って。やはり観る側をも巻き込んだり、見ざるを得ない状況を作ることが今は大事かなと思ったわけです。

宇川 飢餓感を経てようやく到達したプレミア感が相乗効果を得て、それを他者に語ることでまた広まっていく。そういうバズ(buzz)的ネットワークの導入は広告業界が早かった。単純な洗脳広告から、バイラルマーケティングに基づく「物語素」をふり撒く方向へ進んだわけです。バイラル(=ウイルス性)の言葉どおりウィルスをばらまいて、感染した人が勝手に広めてくれる。例えば「大人グリコ」のテレビCMにおいて、いまだにサザエさんは誰なのか明かされないというアレ。カツオは浅野忠信でワカメは宮沢りえ、という物語素に感染した人たちによって、未知のサザエさんの妄想が妄想を呼ぶように勝手に雄弁に語られ始めるんです。

八谷 広告と言えば宇川君は最近、車のCMやってましたよね。日産のCUBE


日産自動車『CUBE』TV CM http://cube-lounge.nissan.co.jp/CONTENTS/usp.html

宇川 あれもいい感じでバズ的な話題になって広まったんですよ。以前ジ・オーブのミュージッククリップを依頼された際、『ドラえもん』のキャラクターとあの昭和の原風景が『てんとう虫コミック』で建設された町並の中で展開する。オリジナルはそんなアイデアだったんですよ。ファッションブランドのラッドミュージシャンのショーがきっかけで実現して、結構オリジナルも話題になったんです、当時。それから9年経ったある日、広告代理店から「ご相談が」って連絡がきて、あのアイデアを今度は赤塚不二夫キャラでぜひ……という話。で、CUBEのCMが生まれたんです。ニコニコ動画のMAD(編注:既存映像を他のユーザーが編集・再構成したもの)みたいな感覚で、お茶の間を舞台にセルフMADできるならやる意味全然あるかなと。

さらにこれは並行でロングバージョンをYouTubeとニコ動でオフィシャル配信したので、かなりの反響もあって車の売上も上がったし、BGMとして流れていたTOKYO No.1 SOUL SETとハルカリの『今夜はブギーバック』のカヴァーも売れて、結果50万ダウンロード越えたし……。かなりの成功を得ましたね。TVを発信源にして、ネット上で広がるそういうバズ的ネットワークで成り立ってるコミュニケーションの中にも、映像が最も重要な媒介として存在している。その世界では実はオリジナルのジ・オーブのクリップが「これCUBEのパクリじゃね?」とかコメ付けられたり、パフュームの曲を当てられたりして、TVを経由したMADが堂々巡りを繰り返す、謎の逆転現象が起き続けています(笑)。

住友 そうなると、オリジナリティ神話は完全に崩壊してますね。

八谷 だとすれば僕はひとつ疑問があるんです。今回の映像祭にも面白そうな作品が色々あるけど、やっぱり現場に行かないとだめなの? ってことです。

宇川 今回の映像祭でもそうだけど、現場でないと体感できないものとして、インスタレーションていう形式はまだ有効でしょう。あとやっぱり、現場はいまだに音響やプロジェクションに関する課題と、逆にそこにアウラ的な価値もありますよね。

八谷 確かに僕も今回、自分のがインスタレーションだから、新港ピアみたいなところでやる意味があるとは思っています。ただ普通のスクリーンで見るだけのものは、もうネット+PCのモニタで見せてよ、って気持ちも同時にあって。

住友 映像インスタレーションをやる作家たちは、最近もう彫刻かと思うくらい、スクリーンサイズの厳密さや、マルチ画面の角度などにこだわります。それが身体体験に影響するわけだから。音も同様ですね。もちろんネットでも観られる作品があってよいし、美術系でもフィッシュリ&ヴァイスみたいな大御所がネットにアップしていますが、依然として両者に違いはあると僕も思います。

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ペーター・フィッシュリ、ダヴィッド・ヴァイス『事の次第』1987年(ダイジェスト)

「映像コミュニケーション」の再考

住友 巻き込み型の話が出ましたが、今回の映像祭のインスピレーション源のひとつが、ミシェル・ゴンドリーのしていることです。彼は著名な映画監督ですが、誰でも2時間で映画が作れるプロトコルというのを作って、それをもとに展覧会も開いて、プロトコルを公開した本も出している。

それで、僕らも映像祭で『ご近所映画クラブ』と題して、このゴンドリー・メソッドを使ってみんなで映像を撮るワークショップを開きます。重要なのは、独裁的な監督にその他大勢が従うのではなく、全員が作品と等距離であること。みんなで作って、みんなで笑って鑑賞会をやれるよう、よく考えられたプロトコルなんです。彼がその本で、とある批評家に対して嫌悪感を露に書いているのが、何も作っていない人間が僕らの映画に関して語ることはできない、それは参加した人の担当だ、と。

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ミシェル・ゴンドリーの著書『You’ll Like This Film Because You’re In It: The Be Kind Rewind Protocol』のPR映像。
彼の監督映画『僕らのミライヘ逆回転』の主人公たちを彷彿とさせる手作り感覚の映画制作の様子が見て取れる。

——お話の前半に出てきた定点カメラ的映像の重要性と、いまの巻き込み型の話とが同じ時代に出てきた動きだと捉えるなら、その関係性についてはみなさんどうお考えですか。

八谷 マット君という人が世界各地で——ときには現地の人々も一緒に——ヘンなダンスを踊る『Where the Hell is Matt?』って映像があるんですが、それって、いま質問のあった2つの動きの間にあるもののような気がします。東京の原宿や秋葉原でも撮影していて、自分にもできるし、自分もマット君と一緒にここにいたかもいしれないと思わせます。一方、訪ねたことのない国の様子も観られて、世界の多様性も感じられる。そして、何か幸せな気分になる(笑)。

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『Where the Hell is Matt?』 米国人男性・マット・ハーディングが旅先で自らダンスを踊る映像をサイトにアップしたところ、口コミで人気を呼び、チューインガム会社「Stride」のスポンサーによる世界旅行版などが生まれた。 http://www.wherethehellismatt.com/

宇川 ひとつ回答まがいのことが言えるとしたら、その2つの動向には、どちらも”成功×失敗”という考え方がない。もしかしたら”完成”という到達点も存在しないのでは?それは出来上がった映像よりもコミュニケーション自体が目的だから。そうなると少なくとも、従来の意味での「作品」ではないでしょう。子犬の成長記録は、誰も批評できない。みんなで作るゴンドリーの映画も、いわゆる作品じゃないからこそ、それを批評する人に彼は怒ったんですよ、きっと。失敗も成功もない実験。または失敗が成功の元で、偶発的な事故こそを味方として纏う行為ですよね。

八谷 確かに、作品だという前提に立つなら、さきほどのゴンドリーの批評家批判はちょっと甘いですよね。一方で、失敗も成功もないというのは、ドラマ性のなさという前半の話にもつながる。以前はともかく、現代なら成立する。ニコニコ動画の「猫なべ」なんて、鍋の中で猫が寝てるだけなのに、あれだけ大勢が観るわけですから。

宇川 結局、どの位相での「作品」あるいは表現なのかに意識的であればよいと思うんです。その先に何があるかっていうことで、実はいま自分でライブストリーミング専門のチャンネルを作ろうとしてるんです。これだけ動画共有サイトが増えて、『ギルガメッシュないと』からパイクのビデオアートまでがネット上にアーカイヴィングされ、同列上で再生できる状況で、本当の意味でレアな録画映像ってなくなったとも思う。だからこそ、そこでいかにライブ感に希少価値を持たせられるか、また、その映像を含めたネットワーク自体を表現として形にできるか、そのあたりが重要かと考えています。

例えばDJがライブプレイする様子をカメラ3台で配信するだけでも、世界のどこかで誰かが「いまこの曲をプレイしている」ことを同時体験できることが重要で、それが見せ方次第では(従来とは違う意味での)作品になる。さっき言った、何も起こらない日常からあわよくば偶発的事故を見届けられる、そんなライブ行為を映像として世界の側にばらまく表現。これは二度と同時体験することができない生(なま)であるからこそ価値があるわけですが、もしそこで録画映像に意味を与えられるとしたら、過去と現在を繋いでみせる行為。これが成功すると現在の意味すら変容させることができるかと。そういった、作品であって作品ではないっていう提案には僕は慣れてるんですけどね。もともと作家性と匿名性の間にイメージを投げかけるグラフィックデザイナーでもあるから。

八谷 ふと思ったのは、巻き込み型の話や、誰もが自分が写っている映像を観たがるという話って、よく考えると16年前に作った「視聴覚交換マシン」はその要素をすでに持ってて。我ながら天才だな、と。まあ偶然なんですが(笑)。

それと、僕は基本的に映像作家ではないのですが、継続中の飛行装置プロジェクト『OpenSky』を映像としてどう記録し見せていくか、今日の話で改めて考えてみようと思いました。飛行現場に立ち会える人は限られていて、不特定多数に届けるには映像しかない。ただ、飛べた/飛べないという成功と失敗が明確にあるので、そこだけが強調されない形で、どう上手く伝えれば良いのかを考えさせられますね。

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『八谷和彦―OpenSky2.0』展(2006〜07年、NTTインターコミュニケーション・センター)
開催時に用いられた予告編

宇川 それ、絶対ライブストリーミングですよ!! 2、3人失敗して墜落死する映像をライブ配信すれば話題になりますよ(笑)。ライブのジャンクとかデスファイルの世界ですね(笑)。

八谷 いや……乗るの毎回僕ですから(苦笑)。

住友 今回の映像祭でも、上映プログラムを別にすれば、いわゆる物語的な作品はほとんどないんです。テーマの「DEEP IMAGES」に込めたのは、鑑賞者が、自分たちはいったいいま何を見ているのか、様々な映像を前に能動的に自問してほしいという思い。そこには今日の話も当然大きく関わると思います。

——みなさん、今日はありがとうございました。

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うかわ・なおひろ
1968年、高松市生まれ。映像作家、VJ、現代美術家、文筆家、グラフィックデザイナー。MOM/N/DAD PRODUCTIONS、Mixrooffice主宰。京都造形芸術大学情報デザイン学科映像メディア科教授。来年ライブストリーミングスタジオ『DOMMUNE(ドミューン)』を広尾にオープン!!!
http://www.ukawa.tv/

はちや・かずひこ
1966年、佐賀市生まれ。メディアアーティスト。メールソフト「ポストペット(PostPet)」の開発者としても知られ、ポストペット関連のソフトウェア開発とディレクションを行なう会社「ペットワークス」の代表でもある。
http://www.petworks.co.jp/

すみとも・ふみひこ
1971 年、東京生まれ。金沢21 世紀美術館建設事務局学芸員、NTTインターコミュニケーションセンター学芸員などを経て2006~08 年まで東京都現代美術館事業企画課企画係長を務めた後、ヨコハマ国際映像祭2009ディレクターに就任。特定非営利活動法人アーツイニシアティヴトウキョウの副理事も務める。
http://ifamy.jp/

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