ホー・ツーニェン「空虚の彼方へ」(3)

空虚の彼方へ
インタビュー / アンドリュー・マークル
I II

 

III.

 


Ho Tzu Nyen, Hotel Aporia (2019), site-specific installation at Kirakutei, Toyota, 6-channel video projection, 24-channel sound, automated fan, lights, transducers and show control system, installation view. Photo Hiroshi Tanigawa. All images: Unless otherwise noted, courtesy Ho Tzu Nyen.

 

ART iT これまでの話の中で、物事の最も濃密な部分とその最も空虚な部分が一致しうるとおっしゃいましたが、あなたは《ウタマ-歴史に現れたる名はすべて我なり》(2003)の時点ですでに、シンガポールの創造神話とその「正式名称」の脱構築を試み、それについても言及していました。これもまた、もつれと空虚が互いに近づきあう事例のひとつです。ある意味、正式名称とは「空虚」なもの、つまり、そこに余計な内容はないはずなのですが、まさにこの空虚さこそが種々様々な身分を偽るものや詐欺師を呼び寄せ、その意味を複雑で込み入ったものにします。

HTN 私たちは濃密と空虚を反射的に正反対のものとして捉えてしまいますが、しかし、私は二元論的なものが壊れたり、閾を越えたりするような瞬間、ちょうど星がそれ自体の重力によって崩壊することでブラックホールが誕生するような瞬間に魅力を感じます。《ウタマ》は、植民地主義的な制度の上に成立したシンガポールの公式の物語を脱構築するための試みでした。植民地時代の最高責任者だったスタンフォード・ラッフルの代わりに、シンガポールを命名したと言われるサン・ニラ・ウタマというもっと古い時代の創設者を呼び寄せようとしました。ただし、ウタマもそれ自体がまったくの架空の人物であるとは言わないまでも、歴史上の別の人物のアレゴリーに過ぎません。問題は、いかにしてウタマを再本質化することなしに植民地主義的な物語を取り払いうるかということでした。自らを脱構築しうる物語によって、公式の物語を脱構築することなどできるのでしょうか。

 

ART iT 現代の歴史修正主義者や歴史否定論者がラディカルな展開に至らずにいるのは、そうした人々が知識の絶対無を掴めるかどうかというところで、本質主義的、国家主義的な枠組みの安全圏へと引き返すからです。これが彼らの根本的に矛盾しているところです。

HTN 深淵をのぞき、その向きを変えて、広く受け入れられている伝統の居心地の良さに避難する人々。そうした人々を理解し、そしておそらくその空虚に飛び込むように勧めることが、関係をつくるための手段のひとつなのではないでしょうか。ただし、そのためには自分たちも同じことを受け入れ、こちらの言説の枠組みが問われる可能性について心を開くのでなければなりません。ひょっとすると、その空虚の中で両者が出会うなんてことがあるかもしれません。

 

ART iT いずれにせよ、アートにはその空虚へと飛び込む意志のある人々がたくさんいて、その意志こそがアートを絶対的なニヒリズムから遠ざけています。一方、歴史否定論者は実証主義の立場に粘着することで絶対的なニヒリズムに接近するのではないでしょうか。

HTN 私は自分自身の内なるイヴ・クラインの意に反して、跳躍についてためらいがあることを白状しなければいけません。[1] ふと思い出すのは、東京裁判で開戦の経緯を質された東條英機の「人間たまには清水の舞台から眼をつぶつて飛び降りる事も必要だ」という発言で、そこからまた、中央公論の座談会(「世界史的立場と日本」)で、高山岩男が世界史を引き連れて日本精神の最高峰から華厳の滝へと飛び込めないものかと語る場面を思い出します。

私は跳躍というメタファーにある種の暴力が内在していると考えていて、それは特に「頓(immediacy)」や瞑想の否定に関する禅仏教の主張にある、ベルナール・フォールが「頓のレトリック」と呼んだものと組み合わされたときに顕著になります。私はどうしてもこれを弓道、そして武士道に結びつけてしまうのですが、そこでは鍛錬によって思考する時間を省略する反射神経を育てます。「リアルタイム」における殺人の技術と実践には、瞑想する時間の余裕などありません。私たちにとって、武士道から神風を貫くものは跳躍ではありません。おそらく、これはアルチュセールの「呼びかけ」の極端なかたちであり、そして、私はそもそも「頓」に抵抗感を抱いていて、それよりも遅さであったり、時間をかける権利、遅延や瞑想、思考、質問の権利といったものに居心地の良さを感じるだけなのかもしれませんが。

興味深いのは、ニーチェやハイデガーに精通していた西谷の哲学的課題の中心に、ニヒリズムの問題があったのではないかということです。おそらく西谷は深淵から伝統の襞へと撤退した完璧な事例であり、そのニーチェの解釈はジル・ドゥルーズの『ニーチェと哲学』と対照をなしているのではないでしょうか。そこで、ニーチェのニヒリズムはなんらかのかたちで閾を超え、生命力にあふれた、肯定的で創造的なものに姿を変えます。

 

ART iT 私たちは「クリエイティビティ」と呼ばれるものが飽和状態に達した地点にいます。それはすでにここ数十年のシンガポールのクリエイティブ産業の促進政策に見られたもので、私たちは現在それをソーシャルメディアに再び見ています。「創造的であれ、絶えず生産的であれ」という過度な社会的重圧は、人々が大衆的ニヒリズムに傾倒する時代に現れるものだそうで、気候変動の否定もそのひとつです。私たちは生成的あるいは肯定的なものを、生産性のようなものと混同すべきではありません。静寂や沈黙も肯定的に考えることができるものです。

HTN その通りです。シンガポールでは少し前に、アーティストやミュージシャン、演劇作家、デザイナーといった人々をすべて「クリエイティブ」と呼ぶ時代がありました。私はそれをアートのライフスタイルへの失墜、あるいは、アドルノやホルクハイマーのいう「文化産業」の最たるものだと捉えていました。ありがたいことに、少なくとも「クリエイティブ」という言葉はもはや流行ではなくなりました。そして、道教において無-行為や無為という考えとともに深く理解されているように、間違いなく静止や非-行為に力があることは私も同意するところです。

おそらく誰もがそれぞれ異なる創造性の概念を持っているのではないでしょうか。私にとって、創造性とは本質的に現状を繰り返すものではなく、別の言い方をすれば、現状とは本質的に非創造的なものです。その意味で、創造的なものはそこに破壊的なものを含んでいるのだと理解しています。ジョルジュ・バタイユによる洞窟壁画の考察はその最たる事例を与えてくれます。バタイユによれば、洞窟の壁に顔料を塗った最初の行為は、イメージの創造として捉えることができますが、汚損行為として捉えることもできるかもしれません。誤解を恐れずに言うならば、創造的行為に内在する否定的なものは、協調性を重んじるアジア社会とはうまくいかないのかもしれません。

 


Ho Tzu Nyen, Still from Hotel Aporia (2019).


Ho Tzu Nyen, Still from Hotel Aporia (2019).

 

ART iT 最後になりますが、私たちは文化生産者として、どのように価値を生み出すことができるのでしょうか。私たちが抱いている美術館をはじめとする諸制度の正当性は、文化の新しい局面によって挑戦を受けています。それは権威的なものを完全に回避しながら、同時に大衆へのアウトリーチが可能となる局面です。それは普通、大義としてあるのだと思いますが、問題は、そうしたものすべてがGoogleやFacebook、TikTokなど、人々が使用するプラットフォームの所有者に回収されてしまっているというところです。

HTN 数多くの美術館がSNSで「映える」展覧会を企画し、SNSの速度に追いつこうという幻想を抱いているのは間違いないと思いますが、今日、美術館の救いはその遅さにこそあるのだと思います。それはソーシャルメディアの加速的な回路が要求する「頓のレトリック」に、中断をもたらすことができます。美術館は遅さの結節点のようなものとして、時代遅れや時期尚早に思えるプロジェクトのためのシェルターとして機能することができます。いずれにせよ、私は美術館を含む美術界の諸構造を、数あるそのほかのプラットフォームに並行する流通回路のひとつにすぎないものとして捉えています。そして、自分のプロジェクトのあるべき位置は、そうした複数のプラットフォームの間にある狭間や空間だと昔から想像してきました。

 

ART iT 現在、強力なアイロニーのひとつとして、美術館の社会的役割の正当性を(美術館における)脱植民地化の運動が立証しているということが挙げられます。実は、私たちは美術館を脱植民地化する必要性などなく、ただ美術館を完全に放棄することもできるのではないでしょうか。美術館や美術史を脱植民地化しようとすることには、ある意味で、このシステムに対する信頼が表れています。

HTN 私たちが一般的に美術館と結びつけている価値体系の行き詰まり、また、芸術における脱植民地化のレトリックがそれ自体を救う最後の砦になりうるのではないかということに同意します。問題は、まさに脱植民地化がほとんどレトリックとしてのみ遂行されていて、それが構造的に行なわれているわけではないということです。

この脱植民地化の動向についての関心は、それが環境破壊という惑星規模の問題をポスト植民地主義的な批評という未完のプロジェクトにつなげるところです。しかし、この適用範囲の広さはその弱みでもあります。この普遍化したもつれの領域で、あらゆるものはつながっていますが、そのつながりには強度が欠けているように思えます。それはまだ礼儀正しすぎるので、もっとラディカルにならないといけません。

 


 

[1] イヴ・クライン(1928-1962)は、1960年に建物の2階の窓から外へと跳躍するというアクション《空虚への跳躍》を試みている。参考URL:http://www.yvesklein.com/en/oeuvres/view/643/leap-into-the-void/

 

 


 

ホー・ツーニェン[何子彦]|Ho Tzu Nyen
1976年シンガポール生まれ。ポスト植民地主義時代の東南アジアにおける歴史、神話、政治を探究すべく、ときに過剰なほどに歴史的参照項を織り交ぜた、観客を没入させるような映像インスタレーションを発表している。その活動は現代美術のみならず、映画、演劇にまで及び、制作、キュレーション、執筆活動といった多面的展開を見せている。

ホーは、メルボルン大学ヴィクトリアン・カレッジ・オブ・ジ・アーツ(1998-2001)を経て、2007年にシンガポール国立大学東南アジア研究プログラム(2003-2007)で修士号を取得。2003年にシンガポールのSubstationで個展『Utama – Every Name in History is I』を開催。2006年から2007年にかけて、個展『The Bohemian Rhapsody Project』が上海多倫現代美術館をはじめ、オスロ、メルボルン、シドニーを巡回し、2011年にはシドニーのArtspaceで個展『Earth』を開催。同年、第54回ヴェネツィア・ビエンナーレにシンガポール代表として出場した。その間にも、第26回サンパウロ・ビエンナーレ(2004)、第3回福岡アジア美術トリエンナーレ(2005)、第1回シンガポール・ビエンナーレ(2006)、第41回カンヌ映画祭監督週間(2009)などに参加。その後も森美術館のMAMプロジェクト(2012)、ビルバオ・グッゲンハイム美術館(2015)、香港のアジア・アート・アーカイブ(2017)、上海の明当代美術館(2018)、クンストフェライン・ハンブルク(2018)などで個展を開催、世界各地の展覧会や映像祭で作品を発表している。

日本国内では、上述したもののほか、『Move on Asia 2006 「衝突とネットワーク」』(ソウルのLOOPから巡回し、2006年にトーキョーワンダーサイト渋谷で開催)、堂島リバービエンナーレ2009、ヨコハマ国際映画祭2009、『Media/Art Kitchen – Reality Distortion Field』(東京都写真美術館、2014)、『他人の時間』(東京都現代美術館、国立国際美術館、シンガポール美術館、クイーンズランド州立美術館、2015-2016)、『サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から』(森美術館、国立新美術館、2017)、あいちトリエンナーレ2019、『呼吸する地図たち/響きあうアジア2019』(東京芸術劇場ギャラリー1、2019)に参加し、TPAM 国際舞台芸術ミーティング in横浜では、2018年に「一頭あるいは数頭のトラ」、2019年に「神秘のライテク」を発表している。

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