ホー・ツーニェン「空虚の彼方へ」

空虚の彼方へ
インタビュー / アンドリュー・マークル

 


Ho Tzu Nyen, Hotel Aporia (2019) , site-specific installation at Kirakutei, Toyota, 6-channel video projection, 24-channel sound, automated fan, lights, transducers and show control system, installation view. Photo Hiroshi Tanigawa. All images: Unless otherwise noted, courtesy Ho Tzu Nyen.

 

シンガポール出身のホー・ツーニェン(1976-)は、映像、マルチメディア、ときにキュレーションといった形式により、哲学的な探究、皮肉の効いたユーモア、暗黒的な感性を組み合わせた表現を展開している。ホーをその幅広い活動へと駆り立てる要因のひとつには、ポスト植民地主義時代の東南アジアにおける歴史、神話、政治の諸交点に対する包括的な探求がある。映像と歴史的な肖像画の形式を採る20点の絵画からなる初期作品《ウタマ−歴史に現れたる名はすべて我なり》(2003)では、シュリーヴィジャヤ王国の王子サン・ニラ・ウタマが1299年に発見し、命名したというシンガポールの起源として挙げられる物語の再検討を行なった。同作は、ひとりの同じ俳優が、ウタマだけでなく、鄭和(ていわ)、クリストファー・コロンブス、トーマス・スタンフォード・ラッフルズなど異なる時代の探検家を演じることで、起源とされる物語の仮構的な要素を強調すると同時に、1819年に英国出身のラッフルズがシンガポールを創設したという近代の物語を相対化する。また、同作は、制度的な歴史が知の構築であるとともに過去を上書きする過程でもあり、それ故に、常にすでにそれ自体の考古学として刻まれていることを示している。一方、マレーの伝説に登場するウェアタイガー(人虎)に焦点を当てた映像インスタレーションの《2匹または3匹のトラ》(2015)や《一頭あるいは数頭のトラ》(2017)では、ホラー映画のトロープ(転義的比喩)や写実的なコンピュータグラフィックスによる不気味の谷現象を利用することで、植民者/被植民者の遭遇に関する未解決のトラウマの分析を試みている。2012年以降は、「東南アジア」という一貫性を研究するプロジェクト「東南アジア批評辞典(Critical Dictionary of Southeast Asia, CDOSEA)」の枠組みで作品制作に取り組み、その批評辞典は、「altitude(海抜高度)のa、 anarchism(アナーキズム)」から「zone(地帯)のz、zoomorphism(動物形象)」まで、アルファベット順でキーワードを配列した、東南アジアの視聴覚表象のアーカイブであり、また、アルゴリズムを使ってその素材をモンタージュするなど、新しい作品をつくるための原動力となっている。

あいちトリエンナーレ2019の出品作《旅館アポリア》(2019)は、厳密には東南アジア批評辞典によるものではないが、同じような方法論に基づいている。豊田市にある旧旅館・喜楽亭を使ったサイト・スペシフィックな委嘱作品である同作は、その場所の歴史に対して、京都学派による第二次世界大戦期の日本軍の政治陰謀への関与、神風特攻隊、映画監督の小津安二郎や漫画家の横山隆一のような文化従事者の潜在的なつながりを掘り下げている。旧旅館の建築内に映像インスタレーションを組み込み、低周波による音響効果や工業用扇風機を利用することで建物自体に生命を吹き込んだ同作は、歴史に取り憑かれた幽霊を呼び起こすものとなった。

ART iTでは、2019年11月にシンガポールでホー・ツーニェンを訪ね、あいちトリエンナーレの表現の自由をめぐる論争に対する見解や、その論争と自身の作品の関係について語ってもらった。

 


 

I.

 


Ho Tzu Nyen, Still from Hotel Aporia (2019).

 

ART iT 近年の日本美術における最大の出来事となったあいちトリエンナーレ2019のなかで、あなたの作品《旅館アポリア》(2019)は最も優れた作品のひとつに挙げられていました。トリエンナーレをめぐる議論の大半が、表現の自由や検閲を中心とした展示室の閉鎖に割かれましたが、論争の根底をなす問題のひとつは、歴史認識、また、歴史や記憶、物語との心情的なつながりに関する問題でした。これらはあなたの制作活動の核となるテーマであり、《ウタマ−歴史に現れたる名はすべて我なり》(2003)のような初期作品にまで遡ることができます。こうした点を踏まえて、あいちトリエンナーレで起きた出来事について、どのように考えているのか教えていただけますか。

ホー・ツーニェン(以下、HTZ) あいちトリエンナーレ2019(以下、あいち)における私の経験には偏りがあります。それはまず第一に、私がよそ者であるということ、次いで、出来事に対する私の理解は、小津安二郎や神風特別攻撃隊の草薙隊、京都学派の哲学者など、歴史上の人物の軌跡から第二次世界大戦期の日本の歴史を検討した《旅館アポリア》の制作を通じたものであるということ。ですから、必然的に、日本文化の深いところに1930年代後半から40年代前半のある種の傾向が現在も消えずに残っているのではないかという思いが頭をよぎりました。

プロジェクトを提案したとき、なぜ私が京都学派を扱いたいと考えるのかがどうやら不思議だったようです。日本で私が関わった美術関係者の大半がおそらく左寄りの考えを持っていて、京都学派についてどこか素っ気ない態度をとっているように思えました。もしかしたら、京都学派の多様なメンバーがどんなことを話し、書いていたのかについて、それほど知っている人がいなかったのかもしれませんが。

ただ、これにより、京都学派のリサーチに対する私の関心はより一層高まりました。あいちを経て、その印象はますます強まったのですが、日本における左翼と右翼の分類はやや硬直していると思います。ある人物について誰かと話をすると必ず、あの人は中道だとか中道左派だとか、誰それは極左だとか、すぐに政治的な立場の話になり、誰もがその枠組みに嵌め込まれてしまう。それは西谷啓治(1900-1990)が、戦時中、京都学派は右翼に頬を叩かれ、戦後は左翼にもう一方の頬を叩かれたと語っていたのを思い出させるもので、この言葉も京都学派、そして、アジアのポリティクスを再考するというアイディアに興味を持つきっかけになりました。

 

ART iT たしかに大東亜共栄圏という概念それ自体が左翼のレトリックを援用したもので、それは結果的に汎アジア主義とともに軍国主義的な言説の道具になってしまいました。これもドイツの国家社会主義やイタリアのファシズムに相応するもので、左翼と右翼が互いに絡み合うのは珍しいことではありません。

HTZ 大東亜共栄圏の中心的な提唱者のひとりに、京都学派左派に位置付けられる三木清がいます。昭和研究会に参加したことで、彼が唱えていた東亜協同体論が当時の帝国主義的な言説に吸収されてしまったのは間違いありません。三木は日本における左翼と右翼の混乱を表す典型例です。自分が完全に信じているわけではない文章も、生き延びるため、生活していくために発表することがあったのではないでしょうか。一方、彼は共産党員との個人的な関係があり、それが逮捕に繋がり、やがて死に至ることになりました。私には彼が好奇心旺盛で、さまざまな意見に耳を傾ける気まぐれな人物に見えました。また、彼は1942年に陸軍報道員としてフィリピンに派遣され、そこで現地の軍政概要の起草に関わったとも言われています。このような状況が左翼だとか右翼だとか簡単に識別できない奇妙な立ち位置を生み出すのです。

振り返ってみると、私がこの時期の日本の歴史に惹かれる要因のひとつには、この非一貫性と厳格な分類にこだわる風潮の共存にあるのではないかと思います。たとえば、汎アジア主義の言説が、右翼や超国家主義(ウルトラナショナリズム)の団体や集団とみなされるものと関連づけられるとはいったいどういうことなのだろうといつも驚かされます。汎アジア主義という概念は、論理的必然として国境線の解体を伴うのですから。昔から興味深いのは、20世紀初頭に数々の国家主義者や反植民地主義者が右翼団体の資金と援助を受けて、アジア各地から日本に亡命していたことです。孫文はその最たる例ですね。

このような非一貫性や矛盾は、京都学派に関連するもうひとりの人物、西洋では「D. T. Suzuki」として知られる鈴木大拙にも見受けられます。戦後、鈴木は禅の講義やジョン・ケージをはじめとするアーティストへの影響を通じて、アメリカ合衆国における日本のイメージの回復にあたり極めて重要な存在でした。平和主義者として知られていますが、そんな彼も1890年代に中国(当時は清)との戦争を宗教的行為と評していました。つまり、彼の平和主義は対アメリカ合衆国のみのものであり、対アジアという点では違ったのです。それどころか、彼は日本の近隣諸国に対する植民地政策を道徳的行為だとさえみなしていました。禅僧が戦争を奨励するとはどういうことなのでしょうか。これは彼に限った話ではありません。そこで、私は禅宗が中国から日本に入ってきたときに、それがいかにして武家文化と結びついたのかについても考えはじめました。

 

ART iT おっしゃる通り、茶道も禅と武家文化の両者に密接に結びついています。

HTZ 弓道もそうですね。武士の美学や生き様にぴったりと一致しているのがわかります。仏教はどのようにして武家文化における暴力と殺人の技術に包まれ、いろいろな面で神風思想に達するに至ったのか。この問いは私を京都学派の哲学の根源にある非一貫性のようなものに向かわせました。たとえば、西田幾多郎の基本概念である絶対無(absolute nothingness)。完全無欠であると同時に無である。これは禅の宗教的体験を通じて直観するに至ったものですが、理性的思考や合理的議論に基づくその哲学体系の基礎にもなりました。結果的に、この非一貫性への感情は、私がリサーチしたあらゆるものを通して増殖し、あいちの検閲をめぐる議論に対する私自身の理解を形づくるものになりました。日本国憲法は表現の自由を保障するものですが、その一方で、河村たかし名古屋市長のように憲法を覆すためにマスメディアやSNSを利用する政治家もいる。

日本の伝統文化や現代文化は本当に素晴らしいと思っていますが、なかには当惑してしまうものもあります。日本文化において、美と狂気は分かち難く複雑に絡まり合っているのかもしれません。こうしてあいちの出来事から数ヶ月が経ちましたが、私自身、自分にとってあれがどういう意味を持っているのか、私たちがここからどこに行くことができるのかについて、未だに考えつづけています。

 


Ho Tzu Nyen, Still from Hotel Aporia (2019).

 

ART iT ということは、《旅館アポリア》はある意味で暫定的なテーゼだということでしょうか。

HTN 物事を解明できなかったからこそ、あの作品が存在すると言えるのではないでしょうか。この主題を意識的に調べはじめたのがわずか2年前なので、この間にほかの誰かの役に立つような答えにたどり着けるのではないかという幻想は抱いていませんでした。ただ、個人的なレベルでは答えを見つけるために全力を尽くしますが、自分の作品においては簡単な答えのない問題に関心があります。《旅館アポリア》の起点のひとつには京都学派がありますが、キュレーターの能瀬陽子さんが喜楽亭を勧めてくれたことで、あの旧旅館を文字通りホテルとして考えるようになりました。京都学派の第二世代だけでなく、彼らの同時代人たち、漫画家の横山隆一、映画監督の小津安二郎、神風特別攻撃隊の草薙隊、そして、喜楽亭の元女将が登場する舞台として。

 

ART iT 京都学派について、あいちから声がかかる前から調べていたそうですが、そもそも興味を持つきっかけはどんなものだったのでしょうか。

HTN それは確実にパク・チャンキョンの影響ですね。ふたりともベルリンの世界文化の家の『2 or 3 Tigers』(2017)に参加し、チャンキョンは京都学派に関する作品を発表しました。その作品は、後日、中央公論に掲載されることになる1941年と42年に開かれた世界史的立場と日本をめぐる3度の座談会を英訳した書籍を扱っていました。「近代の超克」という1942年のシンポジウムは広く知られていますが、その書籍が扱っていたのは、4人の京都学派による小さな集まりでした。私はそれに惹かれ、チャンキョンともそれについて意見を交わす機会を何度か設けました。

その書籍『The Philosophy of Japanese Wartime Resistance(戦時日本の抵抗の哲学)』の興味深いところは、翻訳者のデヴィッド・ウィリアムズによるそれぞれの座談会に対する解説で、それは座談会自体の翻訳とほぼ同じ長さで書かれています。彼は座談会の内容の理解にその文脈は絶対に欠かせないので、その長さの解説が必要になったと主張しています。彼は自分自身を修正主義的な思想家、歴史家であると称し、高度なレトリックをもって、私たちの第二次世界大戦期の日本に対する理解を再構成しようとしています。その主張の大半が疑わしいものではありますが、同時に、私は彼の振る舞いに惹かれていました。ウィリアムズ曰く、私たちの1940年代の日本に対する理解は、彼がホロコースト以後の自由主義の枠組みと呼ぶものに創り出されていて、彼自身はその枠組みに異議を唱えているのだ、と。面白いことに、彼は自分自身を左翼であると自認していますが、私が知る限りそれはなんとも言えません。このように、私が初めて京都学派に触れたとき、そこにはすでに懐疑的なものがあったのだと思います。

 

 

ホー・ツーニェン インタビュー(2)

 


 

ホー・ツーニェン[何子彦]|Ho Tzu Nyen
1976年シンガポール生まれ。ポスト植民地主義時代の東南アジアにおける歴史、神話、政治を探究すべく、ときに過剰なほどに歴史的参照項を織り交ぜた、観客を没入させるような映像インスタレーションを発表している。その活動は現代美術のみならず、映画、演劇にまで及び、制作、キュレーション、執筆活動といった多面的展開を見せている。

ホーは、メルボルン大学ヴィクトリアン・カレッジ・オブ・ジ・アーツ(1998-2001)を経て、2007年にシンガポール国立大学東南アジア研究プログラム(2003-2007)で修士号を取得。2003年にシンガポールのSubstationで個展『Utama – Every Name in History is I』を開催。2006年から2007年にかけて、個展『The Bohemian Rhapsody Project』が上海多倫現代美術館をはじめ、オスロ、メルボルン、シドニーを巡回し、2011年にはシドニーのArtspaceで個展『Earth』を開催。同年、第54回ヴェネツィア・ビエンナーレにシンガポール代表として出場した。その間にも、第26回サンパウロ・ビエンナーレ(2004)、第3回福岡アジア美術トリエンナーレ(2005)、第1回シンガポール・ビエンナーレ(2006)、第41回カンヌ映画祭監督週間(2009)などに参加。その後も森美術館のMAMプロジェクト(2012)、ビルバオ・グッゲンハイム美術館(2015)、香港のアジア・アート・アーカイブ(2017)、上海の明当代美術館(2018)、クンストフェライン・ハンブルク(2018)などで個展を開催、世界各地の展覧会や映像祭で作品を発表している。

日本国内では、上述したもののほか、『Move on Asia 2006 「衝突とネットワーク」』(ソウルのLOOPから巡回し、2006年にトーキョーワンダーサイト渋谷で開催)、堂島リバービエンナーレ2009、ヨコハマ国際映画祭2009、『Media/Art Kitchen – Reality Distortion Field』(東京都写真美術館、2014)、『他人の時間』(東京都現代美術館、国立国際美術館、シンガポール美術館、クイーンズランド州立美術館、2015-2016)、『サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から』(森美術館、国立新美術館、2017)、あいちトリエンナーレ2019、『呼吸する地図たち/響きあうアジア2019』(東京芸術劇場ギャラリー1、2019)に参加し、TPAM 国際舞台芸術ミーティング in横浜では、2018年に「一頭あるいは数頭のトラ」、2019年に「神秘のライテク」を発表している。

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