山内祥太《舞姫》、パフォーマー:小倉笑 ©陳河好
類と類の双子山
大型のLEDモニターには、おそらくはゴリラのような動物のCGが映し出されている。「おそらくは」と書くぐらいには半信半疑だ。その体表は、少し暖色がかかったようなオフホワイトで、「肌色」と表現したくなるぐらいには私たちと類似したテクスチャーをつくり、頭からつま先までを彩っている。そう、すっぽり全身だ。つまりこの動物には体毛が見当たらない。生殖器がない。「ない」とともに「ある」も際立つ。乳首がある。5本の指がある。皮膚にたるみがある。そして、二足で屹立している……。
ならばこの動物は何であるか。「類人猿に類する」としか言いようのない、この「類・類人猿」は。好奇心はただちに自問となる。そもそも「類人」、つまり「人に類するもの」とは何を指すのか。類・類人(猿)は、なおもわれわれに類するものであるのか、ないのか。「舞姫」が提起するのは、この問いだ。
「不気味の谷」にいる。人間とその似姿のあいだに横たわる溝に、山内祥太は私たちを引き摺り下ろした。だが彼が用意した「谷」は、乗り越えるべき障壁として立ちはだかるものではない。ここは私たちのセルフイメージ、「人間」をめぐる衛星軌道だ。引力と斥力がつりあうギリギリの円周。こちらは類・類人に接近中、まもなく既知と未知が接触するだろう、オーバー。

LEDモニターには、ちょうど類・類人猿の腹部が映し出されたあたりに、長方形の穴が空いていて、ショッキングピンクの色で発光するケーブルが裏から伸びている。穴の向こうからこちらへ垂れ、床を這うように伸びたケーブルは、モニター前のハンガーラックに吊られた、人型のラテックスに差し込まれている。ハンガーが差し込まれていることから、それがボディスーツであることがわかる。ややあって入室したアクターがスーツを広げ、身に纏った。ラテックスは新たな表皮となり、ケーブルは臍の緒となった。同期開始。モニターに向かい合うアクターに合わせるように、類・類人猿が同じ姿勢、動きを見せる。アクターの体の節々に取り付けられた半球状の装置はセンサーであり、この「同期」はモーションキャプチャーと呼ばれるものだ。モニターは姿見となり、類・類人猿はアクターの鏡像となった。
「舞姫」が開演する。

「不気味の谷」は、1970年にロボット工学者の森政弘がとある文章で示した、グラフの線形を指した言葉だ[1]。少なくとも、当初は。ロボットの形状と人間との類似性をX軸とし、ロボットへのユーザーの好感度をY軸としたこのグラフは、「谷」を描いた。比例関係にあったはずの二つは、Xがある値に達した途端に、急激な反比例に転じ、その後、極端なV字回復を果たす。つまり、ロボットはあるレベルまでは、人間のかたちに近づくにつれ好かれるが、一定以上人間に近しい形状になると、強く不気味がられてしまう……。「不気味の谷」は、専門の枠を超えて、人形造形、CGアニメーションといった、広範な表現者たちに浸透したバズワードとなった。「谷」に「類人」たちが殺到する。線形グラフが示す隆起を、リアリズムの前に立ちはだかる、最後の陥没と読み替えて。
類・類人猿の姿は、「不気味の谷」に動員されたさまざまな「類人」のミクスチャーを表している。CGで表現された類・類人猿は、アクターが身にまとうセンサーと同期することで、アニメーションとなったからだ。
センサーを介して抽出した動きを、人工物にトレースさせる「モーションキャプチャー」。CGアニメーションによって知られたこの技術は、「不気味の谷」問題へのひとつの対処法として、ロボット工学にも取り入れられている。アニメーション表現とロボット工学とが、「谷」を介して合流している。それだけではない。
部分的な身体運動の模倣・移植によって、トレース元となった実在の人物の「内面」までも人工物に植え込むような表現は、CGの技術開発である以前に、アニメーションにおける「類人」の伝統に深くかかわるアプローチである。いまやディズニーアニメーションのアイコンとなった初期作品「蒸気船ウィリー」は、誕生まもないリップシンク(声音と口唇の運動がシンクロしている描画表現)の達成を見せるものであった。動物が人語を話し、ゆえに人格を獲得し、ひいては歌い踊り、共同的なシンクロをかなえる。今日にいたるまで商業的なアニメーションにおける「キャラクター」が擬人、いや「類人」であるのは、リップシンクに始まる系譜のうえに表現がおかれているからだ。
ならばこのように言い換えることもできるだろう。リップシンクとは、黎明期のアニメーションにおいて開発された、原初のモーションキャプチャーなのだ。

大胆にデフォルメされた動物が擬人的なキャラクターだとみなされる最短経路、もっともミニマムなモーションキャプチャーとしての、リップシンク。このような等置によって浮かび上がるのは、両者に貫通する「被り物」の比喩だ。ボイスアクターを「中の人」と呼称するように、吹き込まれた運動によるインスタントな解決は、人造の「類人」を被り物、ボディスーツに置きかえる。
アクターが、自らを包むラテックスからゆっくりと身を剥がす。爬虫類の脱皮を思わせるような慎重さをともなって。モニターのなかの類・類人猿もまた動作を共にする。静かに混乱した。モーションキャプチャーは、類・類人猿というアンリアルを「スーツ」に喩え、命を吹き込む。だがその技術はいま、その見立てを自ら脱臼させかねない「脱ぐ」モーションをCGに与えている。「着ている」比喩が支えるリアリズムによって、「脱ぐ」舞を。パラドキシカルな再帰性こそが、本作のアンリアルエンジンだ。

「舞姫」はスーツを取り払い、暴露する。モーションキャプチャーは、たんにセルフイメージを交換しているのではない。「谷」をめぐる問題そのものをもすり替えているのだ。あくまでもリアリズムの洗練をめぐる技術的課題であったはずの「不気味の谷」が、比喩の力によってクリアされたことになっている。いうまでもなく、リップシンクはもちろんモーションキャプチャーもまた、「類人」の造形的なリアリズムを棚上げする技術である。ミッキーマウスが口笛を吹くように。荒唐無稽なデザインの巨大人形ロボットを「モビルスーツ」と形容するように。
リアリズムの「谷」であったはずの陥没は、「スーツ」の比喩によって埋め立てられた。しかしそのパテは、人間とそうでないものの溝を温存している。声を人間的な「内面(中の人)」とし、ネズミのような「外面(被り物)」の口唇に表れているとするように。内—外の峻別は、パイロットと機体の関係と同様に、主—従の関係を保持する。
「舞姫」はそれを暴露し、そして撹乱する。類・類人猿もアクターと動きを同じくして、脱いだ。私たちは、たわんでいた表皮のCGもまた、着られたスーツであったことを知る。モニターのなかで脱皮した類・類人猿は、脱ぎ捨てられたスーツとほぼ同様のテクスチャーを露わにした。つまりミラーリングはまだ続いている。脱ぐアクターと脱がれるスーツ、あるいは着る主体と着られた客体、ひいては生命を吹き込む人間と吹き込まれた人形……主従の関係はたえず転倒する。着うるかたちか、それとも着られうるかたちか。ハンガーラックに掛かった服のようにそれは宙吊りにされる。
しかし、やがて。露わになった類・類人猿の肌に深く皺が刻まれ、乾燥を感じさせるテクスチャーへと変質し始める。その老衰に呼応するようにして、アクターの舞も一変する。まるでスマホに表示されたチャットアバターの表情を色々と試すように、好奇心たっぷりにポーズをとる試着者から、姿見に写った醜悪な姿を前に動揺し、目を背けては祈るように御前へと向き直る、悪霊に取り憑かれた巫女へと。他方で、その運動にシンクロする、モニターのなかで老衰した類・類人猿が、アクターの顔や体躯を、恨めしそうに覗き込む(ように映る)様子は、まるでアクターの身体自体が類・類人猿にスーツとして着られたかのような錯覚をもたらす。着る—着られる主従が逆転する。その気配を察知したかのようにアクターがラテックスのスーツをふたたび手に取ると、類・類人猿の肌が若返る。ふたたび艶かしくポーズを試すアクター。しかし、またもや類・類人猿が老衰し……着、着られのいたちごっこは続く。

露出したのは、類人をめぐる比喩のダイナミクスだ。「スーツ」という比喩を足がかりにして「不気味の谷」を行き来する者たち、それ自身の不気味さだ。さらにいえば、「舞姫」が暴露した比喩は「スーツ」だけではない。比喩はそもそもの「谷」に忍び込んでいた。思い出そう。それは、たんに線形グラフがつくる二つの隆起を指していたものであったはずだ。
提唱者の森は以下のように述べていた。「筆者は、なまじ類似度を上げたがために危険状態に陥るよりは、ひかえ目な類似度において相当の親和感の得られる、不気味の谷の左側の山の頂上付近を推奨したいのである[2]」。
彼が注目をうながしているのは、値が急落しふたたび回復する「谷」の手前、いまだ人間に近しい形状とはいえない「類人」の位置に、ひとつ目の隆起があることだ。つまり「谷」は「双子山」であり、「崖」に見えたもうひとつのピークこそが森にとっては興味を惹くものであったのだ。モーションキャプチャーが「着るアクター—着られるスーツ」といったイメージの誤謬をつくるのなら、線形グラフに与えられた「谷」という比喩は、「乗り越えるべき陥没」という誤謬をつくっている。ひるがえって捉えなおすべきだ。「谷」なる陥没地帯に特有の問題があるのではない。「双子山」なる二つの隆起が、ひとつの力がつくる連続した軌跡なのだとしたら。
イメージすべきは、不気味の谷でうずくまる静物でなく、好悪の双子山を行き来する動物である。注目すべきは、「谷」と見紛うような、値の急激な乱高下である。同一のものが正の向きから負の向きに転じたような極端な上下。「動き、というものは、人間を含めて動物一般の、したがってまたロボットのいのちなのであるが、この動きというファクターが加わると、図1の山はいっそう高く、また不気味の谷はさらに深みを増すのである[3]」。まるで何かを逆手にとって/とられてしまい、文字通りに「反転」してしまったかのように。

テイクオフ。「舞姫」が表すのは、同一の比喩がもたらす、引力と斥力だ。うすもの一枚を介した表裏、着る—着られる主従を交代する羽衣の舞は、双子山の運動を捉えるのにもっともふさわしい。モーションキャプチャーがもたらす「スーツ」の比喩もまた、別様に双子山を再生産している。この波形をつくる運動を捉えるには、比喩自体の動きを検出せねばならない。つまり比喩を動かさねばならない。ならばこの舞台は、それをかなえる観測設備、あるいは比喩によって好/悪の情動を捕獲する装置、エモーション・キャプチャーなのだろう。
そこに表れたのは、「人間」というセルフイメージの、あるいはナルシシズムの、ギリギリの衛星軌道だ。好ましい似姿は私が着る鏡像に、そうでない似姿は私を着ようとする異物に映る。自他を自他のテクスチャーに「する」こと。私たちはこうして他者と肉薄しているのだろう。こちら管制室、「家族」の引力と「差別」の斥力が釣り合う、この円周を「人間」と呼ぼう。オーバー。
実在の空間を3Dスキャナーによって、角張ったポリゴンと解像度の粗いテクスチャーのハリボテに変換し、あるいは、自身を映す動画に自らの音声をあえてアフレコによって重ね「音ズレ」を明示した映像作品。ラテックスで顔や体躯を覆うアクターたちが匂いを纏い、振り撒く演劇作品やCGアニメーション。山内祥太の作品がもつ一貫した性格は、人間の「深み」——内臓ひいては内面といった——が、きわめてコンパクトな表層の情報——声やテクスチャーや匂いといった——によって把握されている、という逆説の暴露・誇張にある。軽量化され、外面に畳み込まれた「他者」だ。
「舞姫」は、その核心に純化した、集大成的なパフォーマンス—パントマイムだと言ってよい。「類人」に行使される引力/斥力はそもそも、すでに人間が人間に対しておこなっている、「他者」の処理をめぐるデータパフォーマンスなのではないだろうか。
他者の外面とは不思議なものだ。一方でそれを「テクスチャー」と呼ぶとき、私たちは固有の内面がせり出た肌理として外面を読む。だが他方でそれを「フィルター」と呼ぶとき、私たちは固有のものが暴露されずに済む、あるいは固有のものに直面せずに済む防護壁として外面を眺めている。そうやって私たちはなんとか、かけがえのない「他者」をまなざし、あるいは有象無象の「他者」を一瞥したことにできている。だが二つの運動は表裏一体で連続している、薄皮一枚だ。
フィルタリングの操作が固有のテクスチャーの実現にとってかわるような倒錯に、あるいはフィルターとして固有のテクスチュアリングを施すような操作に、すでに私たちはじゅうぶん親しんでいる。「舞姫」は、そうした往来運動を「スーツ」化した外皮によって表した。
「谷」は、「双子山」は、人間が人間にはたらかせる引力・斥力のかたちだ。同日に開催された霊長類学者の山極壽一と山内とのトークイベントでは、ゴリラと類・類人猿とのあいだの「谷」が話題にのぼった。なかでも筆者にとって興味深かったのは、「舞姫」が舞台装置の構造によって、あらかじめ排除している踊りのパターンだ。山極によれば、ゴリラは回転によって群れの同胞とミラーリングを図り、共同体のリズムを確認する。臍の緒に縛られた「舞姫」は回転を考慮しない。互いが「類」であることを確認する舞は、そこに与えられる比喩をも決定するのだろうか。「双子山」の向こうから、類人が覗いている。
「舞姫」が終演する。モーションアクターが、ボンテージスーツのようなベルトに取り付けられた、第二陣のセンサーを取り外す。類・類人猿の四肢が力なく脱臼し、くたびれ、吊り上げられるようにした残った手足も落ち、肌色の塊となって転がった。振り返ったアクターの姿に目眩をおぼえる。首から足先まで肌の色が連続し、一糸纏わぬ姿であるかのように見えたのは、タイトスーツが身を包んでいるためだ。それはわかっている。だが筆者には、それ自体が、体毛も生殖器もなく、肌の肌理も塗りつぶした、軽量化された「人間」の姿に見えた。

不意に思い出す。ウェブ上で見かけた陰謀論者たちが、要人の首元に見える皺を指し、当該人物が「ゴム人間」である根拠としていたことを。続けて想起する。ラテックスのスーツと同様に、CGによって描画された人間の肌もまた、そのきめを光沢でコーティングしたように映り、その匿名的な質感が奇妙にもエロティシズムを喚起することを。テクスチャーへの注視は、不気味さはもちろん、性的魅惑に「落ちる」契機であるのかもしれない。「スーツ」の比喩がはたらくことで、それが内面なきハリボテでなく、アクターを秘めたテクスチャーにとって代わるとき、好奇と疑念の「双子山」をも私たちは登り始めている。ふたつ目のピークに達したとき、その乱高下を私たちは「恋」の道程だと振り返るのだろうか。
アクターがモニターに背を向け、何かを足元から履くようなパントマイムを始めた。装いを新たに、また別なる人類が登場する——。
「明倫茶会」とは:京都芸術センターが実施する特色ある事業のひとつです。各界で活躍される方々を席主に迎え、それぞれの趣向を凝らした設えでお客様をお迎えしています。お茶の種類や菓子、形式なども含め、席主とともに創意工夫を重ねながら、領域横断的で一期一会の場を生み出してきました。
第161回明倫茶会では、霊長類学者であり、公益財団法人京都市芸術文化協会(京都芸術センター運営団体)理事長の山極壽一氏を席主に迎えて開催しました。アフリカに由来する飲み物や菓子を味わいながら、山内祥太による《舞姫》を鑑賞し、身体とテクノロジー、そして人間の本質をめぐるレクチャーとトークを行いました。詳細は下記よりご覧ください:https://www.kac.or.jp/events/20250826/
注釈:
[1]森政弘「不気味の谷」『Energy』第7巻第4号、株式会社エッソスタンダード石油、1970年、33-35頁なお、同記事は著者公認でブログ「getrobo」に転載された。ブログ記事は以下のウェブアーカイブにて内容を確認することができる(閲覧時、2026年3月1日)URL: https://web.archive.org/web/20250827214536/https://www.getrobo.com/
[2] 同上
[3] 同上
図:
図1の詳細は注釈[1]よりご参照ください。
