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中国現代美術の裏地   文/日埜直彦

IUHunJGsBMU 賈樟柯『世界』(2004) 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の映画「世界」(2004)は、北京近郊の「世界公園」を舞台としている。世界各国のツーリスティックな名所をミニチュアで再現したテーマパーク、登場人物はその従業員だ。高さ1/3ほどのエッフェル塔、ハリボテのView More >

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感覚的資本論

彼らは落胆とともに映画館を出る。思い描いていた映画ではない。理想と違う。頭の中に流れている、決して完結する事のない包括的な映画ではない。自分で撮りたい映画ではないし、もし彼らの心の内を覗き見る事ができたら、実際に彼らが生きてみたいと思う映画でもないだろう。        ジョルジView More >

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ニッポン国デザイン村:2

暴走のデフォルメ 週末の深夜、静まりかえった住宅街に、突如として爆裂するエキゾースト・ノイズ。空吹かしのエンジン音がブンブブンブンとリズムを刻み、絶え間ないクラクションがパラランパラランとメロディを奏でる。コンクリートとガラスの森に響く、ジャングル・ドラムのごときコール&レスポンView More >

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「私」を構成する映像  (後半) 文/仲正昌樹 

 展覧会全体が、「森村」の中に取り込まれ、彼のアイデンティティの中に組み込まれている、「父」と「息子」たち、相互の葛藤、もつれ合いを再現していると解釈することができる。「父」たちの分身を意識化した形で演じる「森村」のイメージを通して、展覧会を訪れる“我々”は、自らの内にも、それらView More >

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「私」を構成する映像 (前半) 文/仲正昌樹

 ドイツの芸術批評家ヴァルター・ベンヤミンは、『複製技術時代の芸術作品』(1936)で、写真や映画などの「複製技術」の発達によって、人間の知覚の仕方が変化し、それに伴って、芸術の在り方も大きく変化しつつあることを指摘している。 人間は、生の現実をそのままストレートに知覚しているわView More >

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8:美術はだれのもの?——北川フラム更迭問題をめぐって(後編)

前編はこちら 教育、文化、学術を排他的に自立させぬことには成立しない省庁的な行政区分では、ひとたびこの領域を文部省が所轄するようになれば、文化をめぐる為政から市場原理や産業的奨励が排除されるのは当然のことだろう。むずかしいのは、市場原理や産業指数に代わって文化がおのれの価値を自己View More >

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連載 田中功起 質問する 3-6:保坂健二朗さんから 3

件名:ノーテーション的につくること 田中さんの第3信はこちら|往復書簡 田中功起 目次 ようやくスパークリング・ワインがおいしい季節になりましたね。もう2年くらい前のことでしょうか、田中さんのポッドキャスト「言葉にする」の録音を僕の家でしたときに、赤ワインを2本飲んだこと、覚えてView More >

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追悼 大野一雄  文/麿赤兒 (舞踏家・大駱駝艦主宰)

写真: 荒木経惟 存在が非在の衰弱体であることを身を持って我々に示された、奇蹟の舞踏家である。 土方巽と共に一方の舞踏の始祖として103歳という命を生き、 その横たわった死の姿もまた舞踏である。 その姿は我々舞踏の使徒にとって大いなる慈悲の光であるとともに、 胸元に突きつけられたView More >

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