エリック・ボードレール インタビュー

風景論の折り紙
インタビュー / アンドリュー・マークル


The Anabasis of May and Fusako Shigenobu, Masao Adachi and 27 Years Without Images (2011), Super 8 and HD video, 66 min. All images: Courtesy Eric Baudelaire.

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ART iT まず、先日のヨコハマトリエンナーレ2014でのアーティストトークの続きから始めましょう。あなたの話の中で心に残ったこととして、「プロの」ドキュメンタリー映画について、その客観性に対する強迫観念の話がありました。客観性に対する強迫観念は英語の主要な印刷メディアにおいても明白なものとなっています。この客観性という考え方は、なにかそれ自体が非常に理想的な修辞学的なフレームワークと化しているようです。

エリック・ボードレール(以下、EB) そうですね。アメリカのニュースメディアはこの客観性という考え方について非常に深刻に捉えています。もしくは、表向きにはむしろ深刻に捉えているといった方が良いかもしれません。ニューヨーク・タイムズのような新聞は自分たちの記事についての「客観性」を監視する内部組織を作りましたが、イラク戦争前の報道を見ればわかるようにもちろんそれは完全な失敗です。この客観性の考え方こそがもちろん彼らのビジネスとなっているものではありますが、ノーム・チョムスキーは非常に具体的にニュースメディアにおいて絶対的に「客観的」な観点などあり得ないとその理由と過程を述べています。私にとっては、主観の問題が前面に出ている世界の方が理解しやすいと思っています。そうすれば、あなたが伝える情報や形式について考えることから始められて、少なくともその立ち位置は決められるからです。
これは私が映画を制作するときにとるアプローチと強く関連しています。つまり、議論を起こすような争点を問題として扱うときに、主観的な視点に基づきながら、面白い方法で物語をどう構築できるか、議論を立ち上げる場所として視点の主観性をどのように使うことができるか、といったことです。たとえば、エロル・モリスによるロバート・マクナマラやドナルド・ラムズフェルトについての映画のように、独自な方法としては興味深いものの、ただ破壊するためだけに、たったひとつの視点を作り上げるような映画の話をしているわけではありません。私は通常、主体的な立場にある人と一緒に映画を制作しています。しかし、彼らが守るべき立場、もしくは彼ら自身が創り上げた世界は、現実の倫理的、政治的、道義的な問いを提起するが故に問題となるのです。足立正生さんはその良い例です。しかし、一方で、私はこの主題および主人公にある意味、感情移入をし、友情といった形を持っています。イスラエルとパレスチナの問題と関係しているかどうかといった問題や、最新作「Letters to Max[マックスへの手紙]」(2014)においてはコーカサス地方における内戦の話ですが、私が興味を持っている問題について、こうした主題や主人公との関わり方がより適した方法だと考えています。
正しい唯一の視点などないのです。だからこそアーティストが面白い映画を作る担い手となれるのです。なぜならアーティストにはこうした感情移入や、登場人物と非常に強い情緒的なつながりといった考え方を組み込みつつ、その人物を危険に陥らせることも可能だからです。問題はあなたがどのように作るかということ、また、どこまで遠くまで追いこんでいくか、そうすれば妥協しない複雑なものが創造できると思います。

ART iT 一方で、あなたの映画は非常に強い構造的な要素を持っていますよね。例えば、「Sugar Water」(2007)は実存しない地下鉄の駅でポスターを貼って行く男の行為を巡って作られたものですが、これは「アナバシス」や「アグリー・ワン」と同様に、足立正生の映画制作へのアプローチに対する観点が映画の構造を前もって決定づけていますね。

EB 今回想すればそのように言えると思いますが、これは自然に起きたことです。私が制作に心を躍らされた映画作品は一般的に「装置」に基づいたものです。装置とは、どうやって映画の機能が、そこで語られる作者、主題、物語、歴史の間の関係の調整の中で述べられたかという構造的な前提となるものです。つまり、これが私のチョムスキーの『マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学』*1に対する返答とも言えるのです。作者と主体の間での交換の構造が明確であり、実際にそれが映画自体の形を決めているのです。
私はそれが作品を議論の場所にしたいという欲望から来ていると思っています。昨晩、私は足立さんに会って、「アグリー・ワン」について長時間にわたり意見を交わしました。私は彼に、少なくても私にとってこの作品はおそらく、1)映画製作のプロセス、2)映画自体の中にこのプロセスが反映されているという手法、3)この映画が作りだす議論、という3点において本質的に映画らしくないと話しました。この構造についてはフランソワ・トリュフォーが語ったふたつの方法に要約できると思います。ひとつは映画を作る上で、脚本と「反したもの」を撮影しなければならないというもの、また撮影したものに「反する」映画を編集すること。トリュフォーはこのことを、一定の意味で使っていました。そして私はこのアイディアを用いて、できるだけ「反映画」を押し進めたと思っています。
もうひとつのトリュフォーの考えは、「病んだ映画」—脚本家の声と監督の演出の間で登場人物が抜け出せなくなっている理由から「アグリー・ワン」のように欠陥がある映画— のコンセプトを受け入れることです。トリュフォーはヒッチコックの全作品の中で最も好きな作品は『マーニー』(1964)であると言っていましたが、それはそれが「病んだ映画」だったからでした。他のヒッチコックの映画はどれも完璧です。構成は完璧、映画としての機能も完璧です。しかしながら、その後の議論は『マーニー』のような病んだ作品ほどには豊かなものには発展しません。私は「病んだ映画」を作ろうと決心したと言っているのではありません。ただ、私は「病んだ映画」を作る環境下で制作できる映画を作っているのです。しかし、今、「アグリー・ワン」についてはっきりしていることは、この映画が生み出す議論が私にとって重要であるということです。タイトルが示しているように、これは醜い映画なのです。


Above: The Ugly One (2013), a film by Eric Baudelaire based on a story by Masao Adachi, with Rabih Mroué as “Michel” and Juliette Navis as “Lili,” 101 min. Below: Sugar Water (2007), HD video projection, 72 min.

ART iT 「アグリー・ワン」の構成についてですが、前半のミッシェルとリリーというふたりの主役が演劇的に演じるシーンと、終わりに向かっていくディナーで、元急進派のグループがとんでもなく現実的な何かにすべてが一致した議論をしていて、役者が演技をしているのかしていないのか、もしくは役者が監督の指示に従っているか否か、与えられた役の中にいるのか、役をこわしているのかを見ている人が問いかけるような後半のシーンとで平衡をとっているように思えました。

EB 「アグリー・ワン」はふたつの頭をもつ怪物です。足立さんの映画は演技性が高く、極めて表現主義的で演劇的です。足立さんの考えから出現した登場人物と脚本を使って作りましたし、この映画が何か別のものへと形を変える前段階では、その点をこの映画のための基本として使おうとしました。これが、あなたが述べたように、演技性が高く保たれた特性がベイルートの生活の現実との関わりの中へ消滅していく瞬間です。私は登場人物が彼らの役と彼らの人としての個性の間でさまよう姿を描き出そうし、その結果すべてが一緒に混ざっています。これが形式的にはドキュメンタリーにより近い「アナバシス」以後にはっきりし始めた何かだと考えています。「アナバシス」は、ドキュメンタリーとしてのアプローチとフィクションとしてのアプローチの双方を並列することによって、さらにはその対立の中で全員を迷わせてしまうことによって、同じ主題にとどまりながら、現実について問い直す場所としてのフィクションの領域を探るという私の興味を引き出してくれたのです。

ART iT 映画の中で、ボイスオーバーがドキュメンタリーとフィクションの使用域の間の移動を知らせているようにも見えます。例えば、最初の方で足立さんによる、再帰的なボイスオーバーがあり、半ばに向かって、男性の登場人物が足立さんの脚本から順番に詳細を語り、そしてディナーの後に、リリーの声が入る。これは、ボイスオーバーが映画自体の媒介の上に議論する場所であると提案しています。これが制作に対してあなたの考え方が反映されたものですか?

EB そのとおりです。ここには映画が機能する三つの空間があります。ひとつは厳密に足立さんの脚本から取り出されたものです。ふたつ目は、主役たちが俳優としての彼らと登場人物としての彼らのふたつの役割の間で、迷わせるような環境や条件を反映してメタ映画として私が書いたシーンによって構成された空間です。そして、そこには三つ目の空間があり、あなたがおっしゃったようによりドキュメンタリー的なアプローチのものです。この映画はこの三つのモードの間で変化し、足立さんの脚本にある物語や筋書きを、複層的な映画のボキャブラリーがそれぞれ競合するようにしているのです。それぞれさらしています。

ART iT 足立さんはどのようにこの映画をご覧になりましたか?

EB このプロジェクトを私と行なうと決めたとき、彼はこのプロセスの結果がどうであれ同意していました。編集の段階で、映画を強くするために、彼はいくつかのシーンについての強い批評を提案しましたが、一方で、私がとても強く議論をして、正しいと思ったことを実現することについては非常に協力的で、納得したようでした。この映画については、しばしば、複雑すぎる、とか引き込まれるのが難しい、もしくはあまりにも実験的であるなどと表現されるのですが、昨日足立さんとお話したときは、彼はまったく反対の批評をしました。この映画がとても古典的だと言うのです。これこそが私が彼と一緒に仕事をしたいと思う理由です。彼は75歳になってもパンクで、あらゆるコンセンサスに満足せず、芸術や人生において被膜をやぶるところまで常に持っていくのです。


Installation view of the solo exhibition “Circumambulation” at Elizabeth Dee Gallery, New York, 2007, with works from the series “Blind Walls.”

ART iT 少し話題を変えますが、日本について驚いた点は、この信じられないような歴史が毎日の会話の表面から抹殺されていたことでした。かつて学生たちが道路を占拠して、警察と戦っていたという事実は、あなたがアナバシスの中に挿入したような映像を見なければ、何もこのことについては語られません、風景論についても同様です。これらの出来事が過去に起こったという手がかりになるようなサインが、今日の風景には全く存在しません。これは、あなたがパリの建物の写真の上に落書きされたアクリル板を用いて制作した作品「Blind Walls」(2007)に、過去と現在が並行していて、まったく触れ合わないという点において似ているように感じます。

EB まず、ご存知のように「アナバシス」に挿入した映像は現実のドキュメンタリー映像です。若松孝二監督がこのデモのことを聞いて、カメラを持ち出し、それを「性賊 セックスジャック」(1970)に使用しています。
しかし、「Blind Walls」との関連づけはおもしろいですね。私自身は考えてみたことがありませんでした。この作品は足立さんに会う前に、そして風景についての理論を考える前のものですが、政治を理解するために役立つ、風景の中にある何か構造的なものの痕跡を探すという興味に向かっていたことは確かです。私にとって、それはグラウンド・ゼロから始まっています。ニューヨークの風景における劇的な変化は、その消失したものと、その回りに残された目に見えるものの双方の観点から、風景というイメージをどのように使うか—写真か映画における—考える手段であり、そして我々が生きている政治的な構造を議論する手段として、非常に興味深いものでした。

ART iT 「Circumambulation」(2006-07)は、あなた自身の風景論を表した作品と言えますか。

EB ええ、ただ完全に直観によるもので、「略称・連続射殺魔」(1969)の知識は持っていませんでした。「よそ者の風景論」でした。あれは非常に個人的な意思表示なのです。他の人との会話を通して、自分が意識的に作ったものではないものが関連していることがわかるのは興味ぶかいです。。人々は作品を制作するなかで、理論的な根拠をまずおき、作品を制作していると決めてかかりますが、ほとんどの場合は逆だと思います。作品は衝動的な要因で作られ、物事の関係に言葉を与えるときに、理論的なディスクールが作り上げられていき、様式が現れるのです。従って、作品が非常に理論的に見えたとしても、それはその創造においては衝動的なものがずっと強いことの方が多いのです。最初の何回かの上映の後の質疑応答の中で、理論は即席的に作られていくのです。



*1 ノーム・チョムスキー、エドワード・S・ハーマン共著『マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学』(訳/中野真紀子、トランスビュー、2007年)※原著は1988年刊行

エリック・ボードレール インタビュー(2)

エリック・ボードレール|Eric Baudelaire
1973年ソルトレイクシティ生まれ。現在はパリを拠点に活動している。イメージと出来事、ドキュメントと物語(フィクション)の関係性への関心に基づいた映像作品で知られる。入念なリサーチに基づいた複雑な構造は、観客に対して、イメージの生産と消費の現状に関する問題を投げ掛ける。ニューヨーク映画祭やトロント国際映画祭をはじめ、数多くの映画祭で作品が上映されると同時に、映像作品のみならず、写真や版画、インスタレーションをロサンゼルスのハマー美術館(2012)での個展や、パレ・ド・トーキョー、バルセロナ現代美術館で発表している。日本国内では、2008年、ヴィラ九条山に半年間滞在し、「[sic]」(2009)を制作。その後、2013年には京都国立近代美術館で開催された『映画をめぐる美術――マルセル・ブロータースから始める』(翌年、東京国立近代美術館に巡回)で、「重信房子、メイと足立正生のアナバシス そしてイメージのない27年間」(2011)を発表している。ヨコハマトリエンナーレ2014では、足立正生の脚本を基にしつつ、裏切り合うような複雑な関係を結ぶ映像作品「アグリー・ワン」を発表した。

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