やなぎみわ

テーマは「生と死」「過去と未来」「日常と祝祭」。

次の世代のために作っていきたい。


ポートレート:永禮賢

本年度ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館出品作家に選出された作家に、旧作、新作の制作意図と背景について聞く。なぜ「テント」で、なぜ「女性だけの旅の一座」なのか? そして、ヴェネツィアに出展することの意味とは?

聞き手:編集部

—-ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館での個展決定、おめでとうございます。

ありがとうございます。コミッショナーの南嶌氏から推薦したいというメールをいただいて、あっという間の1年が経ちました。

—-まさに制作は佳境に入っているところかと思いますが(このインタビューは2009年4月に行いました)、まずはご自身の言葉で、どんな展示になるかを語って下さい。

タイトルは「Windswept Women」副題は「The Old Girls’ Troupe」。外観は日本館全体を黒いテントで覆い尽くす新作インスタレーションで、内部には、少女から老女の女性のポートレート写真が入った巨大フォトスタンドと小さな映像作品を展示します。移動する家(テント)で旅する、女性だけの旅の一座がモチーフです。

—-老女と少女が寓話の1シーンを演じるシリーズ『フェアリーテール』の延長線上にある作品でしょうか。

そうですね。あのテントをかぶった女性像に、ビジュアル的にはつながっています。テントがパビリオンにかぶさって、中に入れる状態になったという形です。テーマ的にも「生と死」「過去と未来」「日常と祝祭」など、関連性はありますね。

—-テントへの関心はどこから?

移動する家にあこがれがあるんですよ。集まってまた解散するような集団にも。いつも同じところにあるイエというものにずっと閉塞感を感じていましたからね。(写真家で評論家の)藤原新也さんのように実家が旅館で、どこまでが家族でどこからが客なのかよくわからないようなイエや、(心理学者の)岸田秀さんや(劇作家で詩人の)寺山修司さんのように、大衆劇場や映画館に預けられて育つなんていう環境にあこがれていましたね。

大学のときに寺山の映画を観に行って、『田園に死す』の「屋台崩し」のラストシーンにはずいぶん感動しました。母を殺そうとして何度も恐山のあばら屋に帰るけれど結局殺せず、ふたり向き合って食事しているときに家の壁が倒れると新宿の雑踏の中にいる、というものですが、 密室が壊れて一気に白日の下に晒される爽快感、いきなり虚実が逆転する光景にはいまだにあこがれがありますね。

貴種流離譚への共感


Yanagi Miwa Windswept Women, 2009, Photo installation: five gelatin-silver prints
240 x 340 cm (300 x 400 cm framed) each, Courtesy the artist

—-寺山の名前が出たところで、やなぎさんの作品の中にある演劇性や物語性について聞かせて下さい。

演劇はいつかやりたいことですね。美術でも演劇でも、何かを表現すれば必ず他人との齟齬がそこに出現するわけですよね。演劇はそれが痛みとしてお互いに感じられるのが面白い。痛みを栄養分にして成り立っている。昇華の仕方が露骨でそれがとても健全で、観ていて救われる気がします。美術でももちろんそれは可能ですが、演劇のほうが生々しく、即効薬、荒療法に近い。効き過ぎて死んじゃうようなこともありうると思いますが。

舞台美術や舞台衣裳にあこがれて、学生時代はそっちに行こうかと思っていました。どちらかというと猥雑な舞台が好きで、大衆演劇やオペラや、フェリーニのような魔術的祝祭的なばかばかしさにも惹かれます。寺山の祝祭性は、東北ということもあってウェットですけど。

—-直接作品のモチーフとなったガルシア=マルケスの『エレンディラ』や、愛読書だという桐野夏生の『グロテスク』など、主人公が王侯貴族のような貴種ではないにせよ、貴種流離譚もお好きなようですね。
 後者は、エリート家庭に育った女性が、昼間は一流企業の管理職を務めながら、夜は売春婦となり、最後は立ちんぼうにまで落ちぶれて殺されてしまうという、実際の事件に基づいた悲劇的な物語です。

漫画家志望だったので学生時代に漫画をよく読みました。貴種流離譚や、ジェンダーや年齢のトランスは、日本の少女漫画では定番のストーリーでした。 当時の少女漫画家は、過酷な執筆生活で身も心もぼろぼろになって文字通り命を削って描いています
が、同じように読者も生きるために物語を求めていたんでしょうね。

ヴェネツィア・ビエンナーレが決まったときに、まず森川久美さんの『花のサンタマリア』を読み直しました(笑)。森川氏がヴェネツィア取材をして描いたのかどうかはわかりませんが。でも当時の少女漫画は現地取材無用の意気込みがありましたね。何十年も前に綿密なヨーロッパ取材をした、宮崎アニメのリアリティも私たちの世代には影響が大きいけれど……。

—-でも、やなぎさんは……。

私は単に宮崎アニメの少女が気に入らないだけです(笑)。いつからか国民的アニメと言われて、ああいった母性的少女の主人公に子供が影響を受けるのはどうかと思いますね。あれはただ宮崎氏の好みの女性だと親が教えないと。

—-SFは好きなんでしょうか。

SFはそんなに入れ込んでいたわけではありませんが、時間の遅延など、中にある仕掛けに惹かれるものはあります。

最近、自分の制作と重なるところがありそうで興味を持ち、デヴィッド・フィンチャー監督の『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を観たんですが、ずいぶんグロテスクでしたね。莫大な費用と人員をつぎ込み、綿密な特殊メイクと複数の人間の身体パーツでひとりの俳優を作るというCG合成技術を駆使して、80歳の老人からティーンエイジまでのブラッド・ピットを生々しく作っている。一流スペシャリストが渾身で制作したシーンはどれも目を見張る、というか、すべてが目を見張るように作られていました。

かつて美術は新しい視覚効果を提供するものでしたが、いまはそれを巨大予算の映画が担っているわけですよね。でも、果たしてこれを「新しい視覚効果」と呼びうるのかどうか。『ファイト・クラブ』とはすべての意味で対極の映画でした。

—-パトリシア・ピッチニーニは好きですか。

正直、ロン・ミュエックのほうが好きなんですよ。ミュエックは映画技術の出身ですが、だからこそ物語性やエンタテインメント性についてすごく意識的で、緊張感がある。あの大きさもね。今回の私の作品もそれなりに大きいですが……。

—-なぜ大きくしたかったんでしょう。

理由は特にないんです。でも必然でしたね。大きいとハリボテのようにばかばかしく見える。時間や記憶の結晶のような家族写真をフォトスタンドごと巨大化するというのは、何年も前からアイディアだけはありましたが、どうも現代美術的すぎてお蔵入りになっていたものを、比喩や記号的な置き換えも無しで、ふとまた作りたくなった。単に大きな女性の肖像写真が作りたくなったんです。

無限や無時間への恐怖

—-これまでの作品はいずれも物語的な要素が強く、『マイ・グランドマザーズ』や『グランドドーターズ』ではテキストが重要な役割を果たしていました。ヴェネツィアでの新作でもテキストを使われますか。

特に無いですね、今回は。

—-「テキスト」の語源は「テキスタイル」「テクスチャー」だと言われます。京都芸大では染織を専攻されていますが、「織る」ことへのこだわりはいまだにあるんでしょうか。

工芸をやっていたころには、素材と技法を用いて独自のディテールの積み重ね、集積をやっていたので、無意識にはあったんでしょうね。いまも『マイ・グランドマザーズ』の未来の祖母たちのストーリーに囲まれたり、『グランドドーターズ』の様々な国の老女たちの思い出語りが連なって一枚布を織りなしたりすると、ぐっと来るんですよ。

—-ドイツ・グッゲンハイムでの個展(2004年)の図録に収録したドミニク・ゴンザレス=フォレステル、ハンス・ウルリッヒ・オブリストとの鼎談で「草間彌生さんの集積アートに近しいものを感じる」と話していますね。

学生時代には、自分で作ったドロドロしたファイバー作品の中で寝食を取ってたんですよ。作りながら作品に埋もれ、密着し融合し一体化してしまう快楽的な制作でしたね。でも息苦しくなって「繭」から這い出てしまい、同時に卒業して社会にも出たので一気に「大風邪をひいた」状態になり、しばらく何も作れなくなりました。

—-同じ鼎談で「線的に進む時間には恐怖感を覚える。だから『エレベーターガール』では時間は凍結していて、『マイ・グランドマザーズ』では循環している」という趣旨の発言をされています。「終エンドポイント点は怖い」とも述べている。

無限であり無時間であるというのは、実は怖いんですよ。止まっている時間というのではなく、瞬間と長い時間がつながっていて、すごく怖い感じがする。閉塞感を感じてしまって。物語ということは、そこに有限な時間があるということですよね。小説や映画、漫画のサブカルチャーの素地の上に、西欧のファインアートと呼ばれるものの成り立ちや歴史、モダニズムも後から勉強して学んだという接ぎ木状態なので、物語に依ったり、また相対化して突き放したり、というアンビバレンツはありますね。

—-夭折願望や不老長寿願望はありましたか。

夭折願望は、思春期から20代前半くらいまではありましたが、いまはすっかりなくなりました。長寿にあこがれますが、周りの人間すべてを見送る覚悟はまだないので、中途半端な状態です。老いていくというのは、実際には残酷なものだろうけど、年を取らないとわからないことがあるということを、最近わかり始めたので、これはなかなか面白い、知らないで死ぬのは惜しいなと。若いときにまったく意味不明だった作品が、すんなりわかったりすると、ああ生きててよかったなあと思いますよ。

学生のとき、張り切って観に行ってもわけがわからなかった美術作品や映画、小説などが、自然に腑に落ちたり、ひとつひとつ噛み締めるように作り手に共感できたり。でもそれはある一定の時期までで、それ以上年を取ったらまたフォーカスが合わなくなるのかもしれませんが、最も晴れやかな領域までは生きたい。しかし思うようにはいかないのが人の寿命でしょうね。

—-これも愛読しているという安部公房は、どういうところが好きですか。

冷静な理屈と筆の走りというか疾走が混乱して、創っては壊す逸脱へのこだわりに共感しているのかもしれません。演劇に携わったこともそういうところが深くつながっていたんでしょうね。『フェアリーテール』でテントの作品を作るときに、掘り続けることによって蟻地獄のように家を維持している『砂の女』と、ダンボールをかぶって放浪する『箱男』を同時に読んでいましたが、特に『箱男』では主体と客体を巡って小説の書き手が小説の中で何度も交代し、物語を壊すので、複雑でややこしい。『箱男』は電化製品のダンボールをかぶって生活するのですが、私の作品では、やっぱりダンボールにはならなかった。結局、テントの、家の形になっているんですよね。

—-安部公房は理科系出身で、クールな印象がありますね。ウェットな寺山修司と両方が好きだというのは、やなぎさんの中の二面性に対応しているということでしょうか。

その辺り、どっちつかずで、自分の中で拮抗しているところがありますね。気がつくとウェットで過剰な世界へ引っ張られますが、ハタと気付いて引き返してます。

分身願望と人生死

—-一方で、やなぎさんには分身願望があるように思います。
図録『フェアリーテール 老少女奇譚 』に、ノナ・トクエ・ピザンという「1924年、上海生まれの文筆家」との対談が掲載されていますが、後に「一人二役の対談 」と明かされています。

クリスティーヌ・ド・ピザンというのは世界で最初の職業作家、フェミニストと言われている中世フランスの文筆家です。他は私の祖母の名で、それを組み合わせて。私設図書館をやっている老女ということにしました。

—-近しい方には知られていますが、「うさこ」というぬいぐるみの「家の主」もいますね。

ノナ・トクエ・ピザンと 同 じで、まさにおばあさんみたいなものかもしれません。私が生まれたときからずっといて、ご神体みたいなものですから「姥(うば)尊信仰」にかけて「うさ尊」と呼ばれています。山姥や奪(だつえば)衣婆(三途の川の渡し賃を持ってこなかった亡者の衣服をはぎ取る老婆)のごとく厳しくて不条理ですよ。いつも誠意をもって答えてはいますが、頭が上がらないですね。

—-ときどきお告げみたいなものもあるのですか。

お告げというより容赦ない喝が入ります。ヴェネツィア・ビエンナーレも、観に行くたびに「なんであんたの作品はないの」と嫌味を言われて ……。

—-作品作りにうさちゃんの影響はあるのですか。

うさちゃんは美術については古典主義で、現代美術無用論者です。なんでそんなものが 必要なのかまったくわからない彼女になぜ作るのかを説明し、毎回けんもほろろです。そのために作品が変化することはあります。

—-うさちゃんのためにつくっているのでしょうか。

そうですよ。うさちゃんのために作るということは、自己救済でもあり、美術自体のためでもあり、私を育てたおばあさんたちのためでもあり、次の世代のためでもあります。そういえば、次の世代とかはこれまでは考えなかったのですが、最近は考えますね。

—-それはお子さんが生まれたから?

確かに人間の生死に直に触れるのは、生命の時間の流れに自ずと身を投じることになります。これまでずっと制作だけ続けてきて、学生のときからずっと同じ生活でしたからね。うさちゃんは年取りませんし。昨日できたことが今日はできなくなる老人や、逆に昨日できなかったことが今日できる子供がいると、人間の命の時間の有限と、世代の送りが身近に感じられる。

私が幼少のころ、たくさん時間を割いて世話をしてくれた人のことはほとんど覚えていませんが、きっと祖母たちがやったのでしょう。彼女たちは老い先短い時間や体力をずいぶん使ってくれたと、いまさらながら気がつきましたね。記憶にも残らない淡々とした時間の集積の上に人はいるんだなあと。こういうことを言う作家は、胡散臭いと思っていたんですけど(笑)。

—-今回の新作には、これまでに登場してこなかった年齢層の女性が取り上げられています。
嬰児を除く、少女から老年までですが、これも同様の心境の変化によるものですか。

前シリーズ『フェアリーテール』の密室劇では、老若の二項対立 …… 真ん中をジャンプした人生の端と端だけの世界が何度も登場しますが、あの作品を作ったとき、生老病死というものはやはりファンタジックな霧の中にあり、そして無時間を生きていたと思います。どの作り手にも、アールブリュット的な永遠の春、子供のころの全能感を宿した無時間を疾走している強さってありますよね。観賞者もそういうものを期待している。でも作品が増えて昇華されるのと反比例して、そんな疾走感は無くなっていく。

それでいいと思います。頓挫も倦怠もない不変の作品にあまり興味がないのです。毎回どこか逸脱していきたいですね。老いることや死ぬことが急激にリアリティをもって迫ってきましたから「強風から身を守ることなく、大地を踏みしめて踏ん張る巨大な女性たち」というのは、そういうところから来ているのかもしれません。

—-モデルが装着している「付け胸」もなかなか衝撃的ですね。

若いモデルもおばあちゃんモデルもいて、付け胸もすごい巨乳から垂れ乳まであるんですが「 垂れ乳踊り」って面白いのではないかと( 笑 )。だいたい、風に吹かれて踏ん張る女性のモノクロ写真なんて、どうやってもシリアスになりそうですよね。そこを何とかしたい。知的ゲームのユーモアもいいけど、もう少し即効力があるほうが好きなんですよ。モノクロ写真で笑えた作品って、私は、内藤正敏氏の「 婆バクハツ!」と森村泰昌さんの「 駒場のマリリン」くらいでしょうか( 笑 )。どちらも道化の破壊力です。

ヴェネツィアに出ることの意味

—-自分の活動や作品を美術史的にどう位置づけていますか。

作家が自分を美術史的に位置づけると、ろくなことにならないのでは? 「 所在 」や「 所属 」を求めることはしないほうがいい。「アートヒストリーに残りたい、ニューヨークで成功したい」などと欧米の若い作家などが普通に言っているのを聞くと、時間の一方向性とファインアートへの信仰の厚さに感心するばかりです。ただ、欧米にいると、「信仰の強化」はされるのでしょうね。

2006年から07年にかけて、美術から最果ての「辺境」を体験したことは大きかったと思います。ひとつは、大学で教えてみたことですね。漫画やアニメの錚々たる教授陣がいるんですが、メディアの末端まで届く表現を目的にすれば、自ずと個人のアートとは遠ざかります。ファインアートは国内での産業としては弱いのに、選民意識は強く、欧米のブルジョワのためにあるように位置づけられている。初めてファインアートの寄る辺なさを感じたんですが、これが結構よかった(笑)。そういう場所のほうが、美術とは、制作の個人性とは何か、などなど、自分のやっていることが明快に見えてくるんです。常に自分に問いかけていなければ霧散してしまうんですよ。

もうひとつの「辺境」は、大手の新聞の紙面審議委員になったこと。新聞社の本社に行きましたが、完全な男性社会の中で、政治、経済、社会 …… というヒエラルキーが厳然とある。生活文化は報道の緊急性の無さから審議の対象にならず、芸術は、メタ的な世界というか、「 虚業 」としてひとまとめにされているように感じました。もちろん、派手に経済的システムに乗ったものだけは机上に上がりますけどね。

さっきも話したことですが、ハリウッドに代表されるエンタテインメントと美術の境界線が曖昧になっている時代に、拡散の一途を辿る美術について考えさせられました。アートとは幻に過ぎないんじゃないか、実際には存在していないんじゃないか、ということを真剣に考えた、実のある2年間だったと思います。

—-やなぎさんは非欧米圏の作家ですが、それをウリにはしていませんよね。

自分の国、というか、自分が生まれただけの国のヒストリーを作品化するのって、何か嘘くさいって感じてしまう。もちろん、そうしたものを根深く背負っていたとしても「それって本当?」って考えちゃうんです。自分の文化圏の様式や、政治的な問題を作品に安直に反映させたものも好きじゃありません。そうしたものをそのまま使うことが世界を変えることにはつながらない。例えば国家という「フィクション」を「フィクション的 」に見せたところで、結局、言論に太刀打ちできないでしょう。

ビジュアルが起こす奇跡って、そういうところにはないと思うんです。ごく「私事(わたくしごと)」なことが「 公事(おおやけごと)」に奇跡的に、そして必然的につながるのが理想的ですね。

—-そういうやなぎさんが、ヴェネツィア・ビエンナーレに抱く思いを聞かせて下さい。

ヴェネツィアという街の劇場性には、すべての人を物見遊山の貴族的気分にさせてくれる魔力があって、あの祝祭的な雰囲気に魅惑されてしまうんですよ。「街に選ばれた、呼ばれた」みないな錯覚とかね。幸か不幸か、そんな恋心はもうないので、精一杯実直に、よい新作を作ることだけを考えました。作品は新作で、招待状やポスター、図録も自家製。貸画廊で初個展をした初心に戻った気分です。

街自体が歴史遺産であり、欧米のアートフェスティバルの殿堂のようなビエンナーレに出れば、西洋が生んだ美術やフェミニズムの土俵に上がってしまうことで起こる様々な齟齬が発生します。「非欧米国」の「女性」という二重のマイノリティも、使えるべきは全部使って認められたいという作家もいるかもしれない。好評不評どちらにしても、予想外の試練をくれそうで楽しみですね。

やなぎ・みわ

神戸生まれ、京都在住。京都市立大学大学院美術研究科修了。1993年に京都で初の個展を開き、その後、『エレベーターガール』で話題となる。96年にはシルン・クンストハレ・フランクフルトで開催されたグループ展 『 PROSPECT’96』に参加。以後、国内外で活躍する。主な作品シリーズに、『マイ・グランドマザーズ』『グランドドーターズ』『フェアリーテール』など。主な個展にドイツ・グッゲンハイム美術館(2004年、ベルリン)、丸亀市猪熊弦一郎美術館(同年)、原美術館(05年、東京)、大原美術館(05年、倉敷)、チェルシー美術館(07年、ニューヨーク)、ヒューストン美術館(08年)、東京都写真美術館(09年)などがある。6月20日から9月23日まで開催される個展『婆々娘々!』(国立国際美術館、大阪)では、『マイ・グランドマザーズ』全作品に加え、ヴェネツィア・ビエンナーレに出品する新作も展示される。

第53回ヴェネツィア・ビエンナーレ『Making Words』
6.7 – 11.22
http://www.labiennale.org/it/Home.html
ディレクター:ダニエル・バーンバウム
会場はヴェネツィア島のジャルディーニ地区、アルセナーレ地区ほか。やなぎみわの「Wind swept Women : The Old Girls’ Troupe」は、ジャルディーニ地区内にある日本館で展示される。

この記事は『ART iT』24号にも掲載されています。

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