2010年記憶に残るもの ジュディ・アニア

1. 森村泰昌 なにものかへのレクイエム——戦場の頂上の芸術


A Requiem: Unexpected Visitors/1945, Japan (2010),
courtesy of the artist

20世紀の男性性、そしてその仰々しさ、その成功と失敗の意味を検証する森村の個展が2010年の展覧会の中で際立っていた。2010年上旬、ART iTによるインタビューで森村はアメリカのダグラス・マッカーサー将軍と昭和天皇との1945年の初会談の写真を再現する作品に関して、「…ある種の結婚写真のようでもある。マッカーサーが夫で、天皇は妻。…日本はアメリカ文化を迎え入れ、憧れた。複雑な愛憎関係の中で、日本的なものとアメリカ的なものが妙なからまり方をしていきます。両者を『親』として生まれた自分が見えてきました」と語っている。これは森村の1990年の「[西洋]美術史の娘」宣言から継続し発展していると言えるのではなかろうか。

『森村泰昌 なにものかへのレクイエム——戦場の頂上の芸術』
東京都写真美術館 2010年3月11日–5月9日、豊田市美術館2010年6月26日–9月5日、広島市現代美術館2010年10月23日– 2011年1月10日、兵庫県立美術館2011年1月18日–4月10日

関連記事: レビュー(東京会場)フォトレポート(愛知会場)森村泰昌とのインタビュー仲正昌樹「『私』を構成する映像」

2. 女性作家

フィオナ・パーディントン、イヴォンヌ・トッド、スキーナ・リース(シドニー・ビエンナーレ)
マリーナ・アブラモヴィッチ『Marina Abramović: The Artist Is Present』


Marina Abramovic – Installation view of the performance The Artist Is Present at the Museum of Modern Art, 2010. Photo by Scott Rudd, © 2010 Marina Abramovic, courtesy the artist and Sean Kelly Gallery/Artists Rights Society (ARS), New York.

2010年シドニー・ビエンナーレは社会的および政治的な問題にどちらかというと無関心に見受けられたが、それにも関わらず幾人かの情熱的な女性作家とその力強い作品を世界に紹介し、歴史とイメージ生成とを問い直したことは特筆に値する。これは特にニュージーランドのフィオナ・パーディントンイヴォンヌ・トッド、そしてカナダのスキーナ・リースについて言えることである。彼女たちの歴史とイマジュリィがどのように操作されるかへの関心は、同時期にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催されたマリーナ・アブラモヴィッチの個展『Marina Abramović: The Artist Is Present』と類似している。
アブラモヴィッチのリバイバルパフォーマンスは論議を呼び、浴びせられた批判に対して作家は「パフォーマンスアートはずっと生きたものである必要があります。額に入れて壁に掛けてしまってはいけません。私たちがパフォーマンスを行い、再現しなければ美術のファック野郎や演劇のファック野郎やダンスのファック野郎に今以上にクレジットもなしでパクられることは明らかです。パフォーマンスアートのこのような酷い扱いに心底うんざりしているんです。ポップビデオのファック野郎にまでパクられています。私の目的は若い人たちにボイスやアコンチの素晴らしい作品を新たに経験してもらうことです。そのための一番の方法はそれらの作品を実際のパフォーマンスとして蘇らせることです」と言っている(The Observer, Sunday, October 3, 2010)。この彼女の威勢の良さは、生涯彼女を師と仰ぐであろう若い作家たちの作品に引き継がれている。

第17回シドニー・ビエンナーレ『The Beauty of Distance—Songs of Survival in a Precarious Age』
キュレーション: デヴィッド・エリオット、シドニー市内各会場 2010年5月12日–8月1日

『Marina Abramović: The Artist Is Present』
ニューヨーク近代美術館 2010年3月14日–5月31日

関連記事: ジュディ・アニア「第17回シドニー・ビエンナーレ」

3. 美術の検閲

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ラリー・クラーク(パリ市立近代美術館で現在開催中の個展は18歳以下鑑賞禁止とされている)、リチャード・プリンス(1983年の写真作品「Spiritual America」がテート・モダンで開催された展覧会『Pop Life, Art in a Material World』から撤去された)、ビル・ヘンソン……いずれも瑞々しい、若い身体を写真で描写する初老の男性作家である。社会にとってのジレンマは、それ自体に実際に問題があるかどうかということだ。美術と美とは何世紀もの間、切っても切れない関係にある。また、美は若さの中に容易に見られるものである。社会は一体何に対して不満があるのだろうか?子供たちを対象とした犯罪が起こるかもしれないという強迫観念で満ちたこの時代において、美を祝福する作家に焦点を合わせ、(たとえその美が若者による不注意な暴力の中に見出されるものであっても)その祝福を搾取と一緒にしてしまうのは安易なことかもしれない。しかしそれらを一緒にすることは青少年が置かれる状況に変化をもたらすことはなく、社会にとって非生産的な行為である。
そして今度はワシントンD.C.の国立肖像画美術館が2010年11月30日に故人であるデヴィッド・ヴォイナロヴィッチの作品を『Hide/Seek: Difference and Desire in American Portraiture』展から撤去した。宗教を問わず、イメージが冒涜的なものであり得るという概念は驚異的な耐性を持っている。イメージ(そして言葉)が力を持っていることは明確であり、だからこそあらゆる宗教や支配層がそれらをコントロールしようと試みるのだ。しかし、ヴォイナロヴィッチのスーパー8フィルム作品「A Fire in My Belly, A Work in Progress」(1986–87)に磔にされたキリストの上を蟻が這い回るイメージが登場するからといって攻撃するのは行き過ぎている。更に、国立肖像画美術館の館長は上司にあたるスミソニアン協会事務局長、G.ウェイン・クローに撤去を命じられ、特に抵抗することもなく従ったように見受けられる(正確にはクローが館長と二人のキュレーターのうち一人との三人で相談して決めたというように報道されている。確かに抵抗した印象は受けない。参考。でもはっきりと肯定する情報も否定する情報も見当たらない)。美術の自由、そして言論の自由(具体例:ウィキリークス)はまだ始まったばかりの21世紀において危険にさらされていることは確かである。

ラリー・クラーク『Kiss the past hello』
パリ市立近代美術館 2010年10月8日–2011年1月2日

『Pop Life, Art in a Material World』
テート・モダン 2009年10月1日–2010年1月17日

『Hide/Seek: Difference and Desire in American Portraiture』
国立肖像画美術館 2010年10月30日–2011年2月13日

4. 『アバター』

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ジェームズ・キャメロン監督の3D大画面倫理物語(自立、相互依存とそれに対立する無制御の欲望およびその結果である植民地主義についての物語)とクリストファー・ノーラン監督の『インセプション』が2010年に大ヒットしたアメリカ映画だ。私たちは一体誰の現実を生きているのでしょう? ウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』やデヴィッド・クローネンバーグの『イグジステンズ』(いずれも1999年公開)を筆頭に、多くの映画がその質問を提示し続けている。更に言うと、誰の話を信じることができるのか——全て信じられるか、ひとつでも信じられるか? 作中でアリアドネという「夢の設計士」を演じるエレン・ペイジは『インセプション』を村上春樹の小説に喩えている。ペイジは、村上の本は複数の超現実的な世界を組み合わせていることが成功の理由であり、また、そうしていながらも誠実さと「感情の芯」を失うことはないと述べている。しかし、『インセプション』はその主要な観客を特殊効果より向こうに導くことはできたのだろうか? そして『アバター』は果たしてその観客に自立について何か伝えることはできたのだろうか? あるいは特殊効果にばかり目を奪われて一切のメッセージ性や観念の体系に気付くことはできなかったというようなことはなかっただろうか?

5. 4月のメキシコ湾原油流出事故、そして10月のハンガリー有害汚泥流出事故


Photo BP PLC.

私たちは今、津波、地震、人災といった大規模災害がテレビやパソコンの画面に毎日毎日映される、過去に類を見ないメディア崇拝の時代に住んでいる。驚いたことに、イメージが私たちの考え方、感じ方、生き方を変えるという昔からあるお決まりの話は未だに語り継がれているのだ。しかし、それらを目の当たりにすることが何かを少しでも変えるという確かな証拠は何ひとつ存在しない。

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