第17回シドニー・ビエンナーレ

『The Beauty of distance: songs of survival in a precarious age』
( 隔たりの美: 不安定な時代を生き抜く唄)
2010年5月12日ー8月1日
シドニー市内各所


Paul McCarthy – Ship of Fools, Ship Adrift 2 (2010), rigid urethane foam, steel, wood and carpet, 600 x 365 x 730 cm. Courtesy the artist and Hauser & Wirth.

 『シドニー・ビエンナーレ2010 The Beauty of distance: songs of survival in a precarious age』は参加作家166名、展示作品440点を擁し、ビエンナーレ37年の歴史でも最大規模である。『The Beauty of distance: songs of survival in a precarious age』( 隔たりの美: 不安定な時代を生き抜く唄)をテーマに掲げ、アーティスティックディレクターであるディヴィッド・エリオットが、ストックホルム近代美術館での『Wounds: between democracy and redemption in contemporary art』(1998年)、森美術館(東京)での『ハピネス: アートにみる幸福への鍵』に続いて、広く美術の現状を評する3度目の展覧会である。
 エリオットの展覧会はシドニー現代美術館(以下MCA)、シドニー・ハーバーにあるコカトゥ島をメインに、埠頭2/3、シドニー・オペラハウス、アートスペース、ニューサウスウェールズ州立アートギャラリー、植物園などを含む場所でも小規模の展示をおこなうなど市内に各所に広がっている。順応性がありつつ相反するものが含まれる展覧会でもあり、ゆるく構成されている反面、核心部分に荒々しく焦点が当てられていて、謙虚でありつつ大げさであり、不思議なようで世俗的でもあり、教訓的でもありながら不可解なものでもある。

 今回のビエンナーレがわかりにくくなっていたのはMCAとコカトゥ島の展示のためである。MCAは非常に密集していて、公募展のような展示で展示されていることで絵画や彫刻のよさが損なわれており、一方、コカトゥ島は迷路に迷い込んだ観客を救うアリアドネの糸(訳注1)が必要な場所であった。島自体は魅力ある場所であるが、2008年のキャロライン・クリストフ=バカルギエフによるビエンナーレでも同様であったが、独創的な空間が複雑かつ無秩序に続くため、展覧会の会場として使うには非常に慎重な考察が要求される。

 一方、埠頭2/3は今年のビエンナーレでもっとも成功した会場だといえるだろう。展示された3作品の相互関係が確立し、埠頭という場所に対しての作家の試みと想像力の世界への上陸というメタファーが付加されていた。
 ポール・マッカーシーの「Ship of Fools, Ship Adrift 2」(2010年)は埠頭の大部分を占めていた。粘着性ウレタンで作られた船は海ではなく陸を向いている。アメリカのマウントラッシュモアのグロテスクに作り替えたとも見えるその「帆」はこどものような人形の顔でできている。英雄的ではまったくないが、この作品はしばしばクリエイティブな企業の間違った努力や人間が作り出す汚物への厳しい指摘がみえる。マッカーシーにとって、我々は全員、自分たちが作ったものの終わりに向かって不必要に、むこうみずに突進する救いようのない馬鹿である。ふたつ目の作品はもうすこし楽観的である。ダニカ・ダキッチのビデオインスタレーション「Isola Bella」(2007/08年)はサラエボ近くに住む若者のための家の居住者を近くで見つめている作品で、作品の主題について想像をひきだすような演劇的なスペースを作り上げ、装置として使っていた。


Regina José Galindo – Confesión (2007), video of a performance at La Caja Blanca, Palma de Mallorca, Spain, 2:25 mins. Courtesy prometeogallery di Ida Pisani, Milan and Lucca.

 
 コカトゥ島では壮大な作品(蔡國強のLEDがきらめく車を使ったインスタレーション)がダニエル・クルックスの、上海公演で太極拳をする年老いた男性をCG操作した黙想的な映像作品の隣にあった。さらにいくと、島の古い発電所では、杉本博司の奇妙にクリーンな『ファラデー・ケージ』(2010年)が電気が放出するシューシュー、パチパチとする音に伴われて展示されていた。
使われていない発電所に向かって昇って行く大きな鉄の階段を使ったインスタレーションは、作家が実験的に撮影した静電気写真のライトボックスが階段の両側に並んでいる。この作品における放電のインパクトは光り輝く乳白色の背景の上に黒い非常に細かく複雑なデザインとして現れ、一方、階段の最上部には、ライトボックスのイメージとは反対に黒の背景に白く斜めに強く切り込みが入ったイメージがこちらは印画紙にプリントされて上から掛かっており、その写真の前には、古い木造彫刻の日本の「雷神」像が置かれていた。
 外ではこの島に捨て置かれたクレーンが点在しており-一度は造船や海上活動に使用されたもの、島はそれ以前は刑務所であった-そこから丸い穴があいた旗が下がっていた。この本質的な「空虚」によって、旗は本来もつ信号合図としての装置として機能できない。ガーダー・アイダ・アイナーソンによるデザインは、ナショナリズムと革命の乱用に対する批評である。また人間の蛮行を見せるヤン・フードンのビデオインスタレーション「East of Que Village」(2007年)は荒涼として不毛な風景で野犬と人間が生き抜く暴力的な動きを冷静に見せている。島の他の場所にある、息が詰まりそうな部屋で、レヒーナ・ホセ・ガリンドのビデオ作品「Confesión」(2007年)はWaterboardingと呼ばれる水責めの拷問を違う形に変えて自分自身が主人公となって見せている。


Fiona Pardington – Portrait of a life-cast of Pitani, Solomon Islands (2010), pigment inks on Hahnemuhle Photo Rag, 175 x 139 cm, framed. Courtesy the artist; Two Rooms, Auckland; and the Musée de l’Homme (Musée National d’Histoire Naturelle), Paris.

 現代美術館における展示はエリオットの展覧会コンセプト、すなわち西洋の啓蒙主義の功罪について、自由に描いた知的な根拠を強調するものであった。雑然とした展示に関わらずいくつかの作品は好ましい印象を与えた。フィオナ・パーディントンの部屋は、『Ahua: A Beautiful Hesitation』というタイトルの額装された大きなポートレート作品。1840年代に型をとられたニュージーランドのマオリ人およびポリネシア人のライフマスクを撮影したものである。写真家として、パーデイントンは写真というメディアが持つ、動的なものと不動なもの、あこがれと失うこととの間の緊張感のバランスをとることができる特筆すべき能力を発揮している。このシリーズは素晴らしい方法で、彼女の主題を荘厳なものとして見せている。

 さらに注目に値するのはオーストラリア、ニュージーランド、北アメリカの先住民族の作家たちの参加である。彼らの作品に繰り返し表われるシャーマン、手品師もしくは聖なる道化師などのイメージは啓蒙主義の西洋的な概念と釣り合いがとれる重要なおもりとしての役割を果たしていた。Superdelux@artspace (東京からスーパー・デラックスが企画参加)は、ビエンナーレのライブプログラムの多くが行われる会場であるが、その場所でスキーナ・リースが魅惑的なパフォーマンスをおこなった。『Raven: On the Colonial Fleet』(2010年)と題されたそのパフォーマンスはエネルギーに溢れたものであり、見た人の誰もが北アメリカの先住民族が同じようなことを考えたことも見たこともないだろう、と思うようなものであった。リースの衣装はネイティブ・アメリカン、パンク、SM、ゴスおよびテロリストのシンボルがぶつかりあったものであった。パフォーマンスの最初から3分の1まで、ビデオプロジェクションが同時に行われ、耳をつんざくほどのスラッシュメタルとテクノ音楽が切れ目無くラップに変わって行き(リースは歌手でもある)、さらに1973年アカデミー賞でハリウッドにおけるアメリカ先住民族への偏見に対して抗議したマーロン・ブランドのオマージュへと移っていった。リースはビエンナーレのカタログに「自分は聴衆を打ち負かそうとしているのではなく、彼らを見ることでかれらとファックしているとゆっくり認識するのだ」(カタログp.119)


Skeena Reece
 – Raven: On the Colonial Fleet (2010), performance at SuperDeluxe@Artspace for the 17th Biennale of Sydney. Photo Sebastian Kriete, courtesy the artist
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 多くの大きな現代美術展と同じように、『The beauty of distance』はよい部分とよくない部分がある。そのカタログにおいて、エリオットは地球上の知的かつ美的な伝統と同様にその土地の伝統に対しての永続的な興味について言及している。彼の考察は展覧会のなかで裏付けられており、それは喜ばしいことである。ただし、同様に期待はずれの部分がある。結局、不完全な「The beauty of distance」(隔たりの美)はこの「precarious age」(不安定な時代)に住む人々とアートの、変化に富んだ狂気を反映しているものだと言えよう。

ジュディ・アニア

訳注1. ギリシア神話より、クレタ島ミロスの娘であるアリアドネがテセウスに渡した迷宮を脱出させる糸のこと。

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