『Inner Voices—内なる声』@ 金沢21世紀美術館

Inner Voices—内なる声
金沢21世紀美術館
2011年7月30日(土)– 11月6日(日)
http://www.kanazawa21.jp/

アジア・パシフィックの女性が語る言葉はどんな言葉なのか、そして女性であることが作品になにかの影響を与えているのか。本展に参加しているアーティストは、女性という共通点こそあれ、国も言葉も彼女達を巡る社会状況も多岐に渡る。
しかし、女性アーティスト達の作品、つまり彼女達の観点を通じて見る世界は、奇妙なことにここ数ヶ月の間に世界で起こっている社会情勢を反映しているようだ。これらの作品は決してここ数ヶ月で作られているわけではないにも関わらず、今の世界で起こっている社会情勢に対して予言的であり、また運動の背景を推量できるような要素を持ち得ている。こうして見ると、現代美術が如何に社会と密接に関わっているのか、現代美術の特性を改めて感じることができる展覧会となっている。


イー・イラン : 中央:「水牛」(2007)、左右:『オラン・ブサール シリーズ』(2010) : 『スールー諸島の物語』(2005)

展覧会に足を踏み入れ、最初に目にするのは展示室7の奥の壁に掲げられたイー・イランの作品「水牛」(2007)。PVCに印刷された4メートルにも及ぶ水牛が躍動する写真作品である。イランは当初、マレーシアで農耕や移動のために使われてきた水牛が耕耘機や自動車といった機械に取って代わられつつある事実を基に、この作品を水牛へのオマージュとして制作していたものの、制作時にマレーシアで繰り広げられていたデモを目にしているうちに、水牛とデモに参加する労働者の姿が重なって見えるようになったらしい。写真の中に写るオレンジのロードコーンからその影響が窺い知れる。花嫁の持参金代わりの役割も果たした水牛は、近代社会において、通貨が普及するにつれその価値が変換しつつある。そうした貨幣価値への変換、大量に存在することでせまりくる脅威になる水牛と労働者を、マレーシアの路上の混沌とした雰囲気に近いように大型で、野外広告と見紛うPVCといった素材にプリントしている。
同じ部屋にある、マレーシアの伝統的な技法であるバティック(ろうけつ染め)を使って絹に描かれた『オラン・ブサール』シリーズ(2010)は、デジタルプリントの転写手法もつかっており、伝統的な部分と現代的な部分が混在している。実はバティックは伝統的な手法とされているものの、近代に故意に作られた伝統であることを、その少しキッチュにも見えるイメージで露にする。また、支配階級であり、海洋の権力者という意味である「オラン・ブサール」という男性的なモチーフを、敢えて主に女性が担うバティックで表現したことで、両義性を持った作品となっている。権力に向かって時に上を向いてあがめているようだったり、それを争って奪おうとしたりする姿は、マレーシアにおいて顕著な権力への枯渇とリーダーがもつストレスの強さを示しており、そうした姿を女性たちが冷静に見つめている、と受け取ることもできる。こうした歴史の背景にはもちろん、マレーシアの植民地時代という歴史的背景が無視できないが、それを敢えて植民地支配の問題とせず、ローカルな問題にしているところに、この作品の魅力がある。
一方、別室の展示室9では、『スールー諸島の物語』(2005)のシリーズを見せている。この作品はより個人的な物語が出発点となっている。彼女の出身地、マレーシアのサバ州はボルネオ島東部に位置し、かつてフィリピンが領土権を主張したこともある場所である。スールー諸島は現在フィリピン領であるが、15世紀頃はスールー王国が統治をし、王国の統治はサバ州にまで及んでいた。スールー諸島はスペインさらには日本の植民地になるなど、歴史に翻弄された島でもある。そうした島の歴史を、デジタル処理した画像で幻想的に物語を展開している。美しい島の風景と人物で構成された寓話的に見えるシリーズでもあるが、一方でこれがスールーもしくはサバだけの問題ではなく、国や国境、さらにはアイデンティティの問題を呈示している、個人的でありながら普遍的な政治問題を扱った作品であることがわかる。


: 塩田千春「不在との対話」(2010) : 塩田千春「或る関係」(2011)

塩田千春はあいちトリエンナーレ2010でも見せていた「不在の対話」(2010)を金沢21世紀美術館の空間にあわせて展開している。またその脇に展示された新作ドローイング作品「或る関係」(2011)は塩田作品が持つ親密さと孤独、つまり、人と関わりたいという欲求を持つ一方でひとりでいることも好み、また人との距離感や家族関係といった人間関係に関して誰もがもつアンビヴァレントな部分を見せている。不在であることを表現する一方で、人種や国境、個人の思想を越えて人と時に親密に、時に非常に客観的に見つめる塩田の作品の本質をインスタレーションとは違う形で感じ取れ、非常に興味深い。


上・下: キム・ソラ「時を 食う 時」(2011)

展示室11に展開するキム・ソラの作品「時を 食う 時 / TIME EAT TIME」(2011)は、1ヶ月に渡る金沢での滞在を経て奇妙に構築された新作インスタレーション作品である。この地で70代の男性3人にインタビューをして得た物語を、そのインタビューが行われた状況や、彼らの話にしたがって、別のフィクションを作り上げている。そのフィクションを立体化してインスタレーションとした結果は、元に語られた話からは推測できないほどミニマルな、ホワイトキューブ空間に適したモノクロの世界の美しい作品となっている。
ソラは、インタビューした人や場所との偶然の出会いを彼女にとっての必然の出来事として引き受け、その流れに身を委ねつつ、自らのアイディアを挿入して作品を制作する。ランダムかつ整然と展示された写真からは、もはやインタビューされた男性の物語を推測するのは不可能である。それらはポートレートではなく、フィンランドの風景がモノクロで撮影されたものだ。フィンランドという撮影対象は金沢で彼女が男性達にインタビューを行ったカフェから着想されたもので、金沢におけるフィンランドスタイルのカフェというディスロケーションの面白さと、さらにその転移がキム・ソラのフィンランドへの旅によって身体化される。モノクロの写真はそれ自体が美しいが、どちらかというと人間の不在を感じさせるもので、インタビューそれ自体とは切り離されたコンセプチュアルなものであった。あたかもインタビューの時間を彼女自身が噛み締めながら、旅の時間の経過を楽しんでいるようにも見える。
一方、展示室奥に展開する彫刻作品やレシピ、歌にもほとんどインタビューした話の物理的な痕跡はなく、すべて形、素材、音といった部分がレシピや彫刻、音楽に転換されている。
見る者を迷わせる彼女のインスタレーションは、だからこそ小さな手がかりによって物語を読み解く、もしくは見る個人の読み物を作り上げる喜びがある。それは彼女自身が作り上げるフィクションを読むような喜びだ。文学への造詣が深い[注1]彼女が作り上げた一冊の本を読むような感覚を与えている。


上・下: シルパ・グプタ「他の誰か」(2011)

シルパ・グプタは横浜トリエンナーレ2008や森美術館の『チャロー・インディア』(2008)にも参加するなど、すでに日本で何度か作品を見る機会に恵まれてはいるものの、どちらかというとこれまでは視覚的な効果が目立つものが多かったため、そちらに目が行き、社会的な側面を深く理解することができなかった。今回展示された作品は、いずれも彼女の社会的なメッセージを強く感じることができるものである。特に、展示室14におけるインスタレーションは薄暗い明かりの中、黒い塊と固いスチールの本棚が浮かび上がる独特な空間が生まれている。
スチールの本棚は「他の誰か」(2011)という作品で、そこに置かれたスチールで出来た本はいずれも著者が匿名を使って執筆した本の初版本のスチール製レプリカとなっている。初版本を模したデザインの表紙には、下部に匿名である著者名と、匿名を使っている理由が記されている。例えばジョージ・オーウェルの『1984』は初版本のカバーと同じデザインで有るが、下の部分に、「Used: Pseudonym(匿名を使った)」「Reason: For Fear of Disrepute(理由:評判が悪くなることを恐れて)」と記されている。そこに置かれた本はすべて著者が何らかの理由で匿名を使うことを選んで執筆した本である。その理由は、オーウェルのようなものや、ハリー・ポッターの作者のように冒険小説であるが故に女性であることを隠すため、もしくはイランの作家、アフサネ・モカダムの『Death to the Dictator (独裁者に死を!)』のように言論統制によって処刑されるのを恐れてといった理由まで多様である。そしてこうした匿名で書かれたのは、決して古い本ばかりではなく、最近出版されたものも含まれている。分野は違うが創作活動をするものとして、創作に伴う責任とそれに対する反応が生むことに対する恐れ、そしてそれでも作品を世に送り出そうとする意思が古今東西を問わず存在することを見せている。
一方、同じ部屋にもうひとつ展示されている大きな黒い塊は、マイクを集めた作品「私はあなたへと落ちていく」(2010)である。普段集音に使うマイクを逆にスピーカーとし、そこからノイズのような声が発せられている。暗闇に置かれていることもあり、それ自体の不気味さと、目に見えない声がざわめく様子は、匿名を使わざるを得ない社会の声なき声を象徴しているようでもあり、声の意味するところは明確でないにも関わらず、監視されているような不思議な感情を見るものに与えている。


シルパ・グプタ「私はあなたへと落ちていく」(2010)、Tiroch DeLeon Collection

明らかに監視社会国家のアーティストであるが故に、ある意味、こちらが持っていた先入観を裏切る瑞々しい映像と絵画作品を見せていたのはミャンマーの作家、ワー・ヌである。映画関係の仕事についていた両親の下で育った彼女は、実に自然にカメラを扱っている。「春のティータイム」(2003–04)は蟻がゆっくりと食べ物を運ぶ様子を写しており、暖かい柔らかな陽射しの中に存在する自然を優しい目で見つめている。時折電車の映像がそれを中断し現実の世界に戻しつつ、それがまた春の柔らかい陽射しへと戻っていく。誰もが持つ現実と夢見心地の往来を叙情的に捉えている。


ジェマイマ・ワイマン 左:「戦闘 #6」(2008) 中央:「戦闘のための変装」(2008) 右:「肖像の集合(髑髏)」(2009)

この展覧会に参加しているアーティスト達はここで言及しなかった他のアーティストも含め、皆、ローカルな問題や個人的な問題を扱っていながらも、そこに留まることなく、どこにでも起こりうることとして俯瞰しているような印象を与える。確固たる意見や信念はもっているものの、冷静で客観的な視点がそこには存在する。そうして彼らが意識を向けている問題に対して単純に非難するのではなく、立ち止まって考えてみることを見ている者に促す。
また、これまでひとりきりで抱えていた考えを大声ではなく、皆で共有しようとする動きが垣間見える。しかしそれは強制でも、訴えを聞いて欲しいというエゴから生まれる動きでもなく、何か不条理であると思われることに対するリアクションがさざ波のように共感を呼んでいく動きである。
今現在、ウォール街で起こっている座り込みや、9月19日に東京の明治公園で行なわれた「さよなら原発集会」でも見られるように、これまで内なる声であったものが少しずつ表に出てきている。冒頭に掲げた、現在の社会情勢とシンクロするというのはその点においてであり、こうした、権力にこれまで無視されてきた市井の小さな声が少しずつ大きくなってきているのだ。そうした社会が彼女達と同じ方向を目指すのかはわからない。しかし多様性を見せつつ、グローバル社会で共有される問題を相互に見つめ合うこと、そこから問題意識の共有は始まるのであり、そういう意味で、彼女達の視点が集められたこの展覧会を通じて、視覚的な美しさに留まらない何かが見えてくるだろう。

注1 ART iT 国際版 Special Contributions: Abstract Reading with Sora Kim(2010/11/01)

全て: 金沢21世紀美術館 展覧会『Inner Voices—内なる声』(2011) 展示風景 撮影:木奥惠三(シルパ・グプタ「他の誰か」を除く) 写真提供:金沢21世紀美術館

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