高嶺格 インタビュー

インタビュー/アンドリュー・マークル


「とおくてよくみえない」 (2011), 陶, コンピュータ, プロジェクター, スピーカー, 鏡. 音響・プログラミング: 松本祐一. 映像: 小西小多郎. Photo: ART iT

ART iT まずは展覧会の背景について聞きたいと思います。会場の入り口に横浜美術館の館長、逢坂恵理子さんの文章があり、その中で、2004年同美術館で行われた『ノンセクト・ラディカル 現代の写真III』で映像作品「木村さん」が展示上映中止になったことについて触れています。また、会場出口の高嶺さんが書いたテキストの中に「復讐」という言葉がありますが、今回の展覧会を行う上で2004年の出来事に対する復讐という要素はありましたか。

高嶺格(以下、TT) それはないですね。最後のテキストの中で書いていた「復讐」という言葉は、もともと2009年にアムステルダムで行われたグループ展『The Demon of Comparisons』に出した作品の中で使っているテキストなんです。今回の個展でも「木村さん」を展示できない状況は変わらない、そういう美術館の状況の中でなにができるのかをポジティブに考えようと思いました。記者会見のときにも言ったのですが、そもそもセンサーシップの問題はこの美術館だけ、日本の美術館だけの問題ではなく、多くの美術館が抱えています。結果的にはできなかったけれども、少なくとも横浜美術館はあの作品を一度やろうとしたということがあり、やりたいという意志表示をしてくれたという意味で特別な関係を持っている。だから、横浜美術館だけの失敗、失態ということではないと思っています。この作品は、イギリスの公立美術館であるアイコンギャラリー(バーミンガム、2002)でパフォーマンスを行いましたが、このときは、ギャラリーディレクター、ジョナサン・ワトキンスが強い意志を持ってやろうとしてくれたので実現できたんです。でも、だからといってイギリスであればどこでもできるかといえば、そうではないと思うんですよね。展示するための基準が国という単位で明確にあるわけではなくて、なにかの条件でできたりできなかったりする。「木村さん」はそういったことを見るためのものさしになる作品だと思っています。木村さんといっしょにいる時間の中で感じたこと、学んだことが今回の作品に繋がっていっていることはあるかもしれませんが、美術館の中で「木村さん」という作品ができなかったということとはまた別の問題です。

ART iT 先日、アラタニウラノで初めて「木村さん」を見る機会がありました。これまでいろいろな話を聞いたことはありましたが、実際に見ると、支配者/被支配者、能動的/受動的といった関係性が非常に複雑だと感じました。ある角度から見ると、木村さんは受け身に見えるけど、別の角度から見ると支配者にも見える。フェラチオも似たような関係性を持っていると思います。そういった関係性を「とおくてよくみえない」という作品の中で強調しようという意図はありましたか。また、「とおくてよくみえない」というインスタレーションは「木村さん」を引き継いだものとはいえませんか。

TT 木村さんとの付き合いの中では、支配/非支配、受容/復讐みたいなことを日々感じていたんだと思います。それをもう少し社会全般というか広く考えられないかと思っていて、「木村さん」の作品の中では身体障害ということがやはり大きいので、個人的な関係の中で感じたこととしてあの作品は作ったんです。フェラチオについては2004年に水戸芸術館で発表した作品に「A Big Blow-job」というタイトルをつけてから、いろいろ考え始めました。若い頃にはフェラチオは男性の一方的な暴力的な行為というイメージがあったんですね。しかし、どうやらそんなこともない。自分が受けている暴力の一方で、暴力に対して復讐もしている。その対象が一本の性器ではなく、地球とか宇宙全体のようなものに繋がっているようなイメージがどんどん湧いてきたんです。そういった復讐、大きな復讐みたいなこととして、フェラチオのことをもう一度考え直せるのではないかと思いました。今回の「とおくてよくみえない」ではワークショップでディスカッションをしながら、僕はフェラチオに対してこういう感情を持っていると伝えて、それに対する意見を聞きながら、イメージを膨らませていき、それが社会の中で一体どういう着地点が見つけられるのか、ということを考えながら作りました。最初に長時間ディスカッションをして、その後にオブジェを作る。自分で作ったオブジェをのちのち自分の口に入れる、という想像の中でディスカッションおよびオブジェを作るという行為がありました。最初はやはりけっこう抵抗があって、人前で言うことではない、なんで口じゃないといけないのか、いろんな行為があるのにどうしてフェラチオなのか、わけがわからないといった意見もありましたが、ディスカッションが進む中でみんながいろいろと考えはじめて、個人的な体験を話してくれるようになったんですよね。僕自身、とりあえず陶器のオブジェを作るという前提で始めたけれど、みんなの総意でそれはやめたいということになればやめてもいいと思っていました。でも、最終的にはみんながやる気になってきて、すごい集中力でオブジェを作りました。撮影もオブジェを作ってくれた人にもう一度集まってもらってやっていますが、最初は嫌だと言っていた人も、撮影になったらまるでモデルのように歩いたり、自分が作ったものだけをしゃぶることにしていたけれど、人が作ったものも舐めちゃった、全部が同じくらいにかわいくなってきたという人も出てきたりしました。2回しか集まっていないですが、どんどん変わっていって、最終的にとてもいい時間になったと思います。



Above:「Lesson」より(部分からの再構成) (2008/2011再構成), 木, カラーモール. Below: 「戦争」 (2011), 綿. Photo: ART iT

ART iT 美術館批判について聞いたのには、最初の絵画を飾っている部屋のこともありました。高嶺さんが制作したのか、それともどこかで拾ってきたのかわからない毛布があり、隣のキャプションを見ながら、真剣なのか、皮肉を込めてふざけているのかわからなくなってきました。

TT おそらく美術館に対する批判というのは二番目で、一番はむしろ観客に対する批判です。この展覧会の前に横浜美術館ではドガ展をやっていたんですね。印象派であれば30万とか40万人とか山ほど人が来る。会場が混んでいて絵がよく見えないけど、解説文とかを読んで満足そうに帰っていく。価値が定まっているものを見て、もっともらしく書いてあるキャプションを読んで、やっぱりドガはすごいみたいなことを言いながら出て行くわけですよね。そこではなにかすごくいい加減なことが起こっている。そこで起こっていることはすごくくだらないと思っているんですよね。だから最初の部屋はドガ展の壁、解説文、タイトルを残し、ドガの絵だけが別のものに置きかわっている、ということを考えていました。しかし、やっぱりそれは美術館的にはちょっと無理だということで、壁だけ残して、毛布を展示しました。毛布を選んだのは日用品、いわゆる毎日触るものであるということ。その柄、そこになにが描いてあるかということを普段はほとんど気にしないけれども、それがないと生きていけないようなもの。そういうものがいいのではないかと、毛布にしたんです。

ART iT 下町を歩いていると、そういった毛布が並んでいるのを見ることがあり、おじいちゃんやおばあちゃんの家を訪ねるとそういった毛布が置いてある。しかし、若い世代の部屋にああいったキッチュな毛布はなく、無印のブランケットがあったりする。すごく身近なイメージがあるものだけれども、少なくとも若い世代にとっては日常的な生活からはちょっと離れているという感覚もあるのではないかと思いました。展示された中に、女の子が描かれていて、その回りにカラーガイドが入っているものがありましたね。

TT あれは刺繍で、6、7年前にイスラエルかパレスチナの蚤の市で数十円か数百円で買ってきたものです。アクセントとして置いてあるという感じです。


「物々交感論」 (2005/ 2011 再制作), 人形, モニタ, スピーカー. (人形): 伝 五姓田 芳柳 「外国人男性和装像(仮題) 外国人女性和装像(仮題)」より, n.d. Photo: ART iT

ART iT 「物々交感論」のモニタの横に観光地で良く見かけるような顔の部分をくり抜いたフィギュアを追加していましたよね。それらが映像に対してつっこみを入れている。あれもまた美術館に対する批判、批判というとちょっと厳しいですが、つっこみなのかと思いました。あれらもまた作品の一部と考えていいのでしょうか。

TT あの作品のフィギュアに関しては、以前、国立民族学博物館で展示したときに、木彫りのアフリカのフィギュアを置いたことがありました。今回、最初は監視員の人にこのフィギュアの役をやってもらえないかと提案しましたが、それは少し難しいと言うことで、横浜美術館のコレクションの中にあったものを選びました。あの映像は1993年に3ヶ月くらいニューヨークにいたときに、アメリカに対する漠然とした思いがある中で撮影していたんですよ。実はあれ以外にもいっぱい撮影した素材があって、そのままほったらかしにしていたものを、約12年振りに民族学博物館で作品にしたんですね。もともとはアメリカについての作品を作ろうと意気込んで始めたものの、それができなかったというひっかかりがずっと自分の中にあった。つまりあのフィギュアは、あのシーンが面白かったという理由で、その部分だけ使っている自分、そのふがいなさに対してつっこんでいるんです。

ART iT 映像だけ見るとあの頃の高嶺さんがすごく美しいと感じました。おかしな服装になればなるほど、より高嶺さんらしさが映像の中に表れている。それに対してつっこみを入れる奇妙なフィギュアは余計なものではないかと思いました。しかし、高嶺さんの他の作品の中にも、メインになるものの横に障害となるようなものがあるのではないかと。例えば、今回も出品されていた「Do what you want if you want as you want」ですが、3つのモニタのどれにも明らかな被写体が表れていないので、どれに集中すべきかわからない。例えば、私は右側にある2つのモニタの手の動きを見ていましたが、左側のモニタに映る風景を見ることができませんでした。さらに、日本語の字幕が流れていて、テキストも少し離れた壁にあり、話している内容を集中して聞こうとするのだけれど、意図的または意図的でない障害が重なっていたように感じました。


「Do what you want if you want as you want」(2001/ 2011 再制作), モニタ. Photo: 今井智己

TT 「Do what you want if you want as you want」は、失敗作として出してるんです。僕はイスラエルに2回、都合半年ほど行ってたことがあるんですが、あの作品に出てる女の子は、1回目のときに、たまたまヨルダンの国境で一緒に並んでいて知り合いになった子なんです。ドイツで生まれ育っているけど、これからパレスチナに住み始めると言ってて、そういうタイミングに出会った。「ガザに親戚がいる」と言うので、僕はガザに行きたかったから連れてってもらったりしてた。で、2回目に行ったときに、連絡をとって会おうということになったんだけど、再会した彼女は、パレスチナ独立運動の旗手みたいになってて、自分の置かれた状況について、そらもうスポークスマンみたいにバーッとしゃべる。こっちは「うわあ大変やな」と思いながら、その話を聞くための姿勢を見つけられない。どう聞いていいのかわからない。もちろん、心情的にはパレスチナ側にシンパシーを持っているけれども、僕は2回ともイスラエルの金で渡航していて、あろうことかイスラエル国立のダンスカンパニーと仕事をしている。その状況で、自分になにができるんだろうということが頭の中でぐるぐる回っているだけで、ただのデクノボウです。何も役に立たない者としてそこにいる。闘士である彼女は、デクノボウに向かって一生懸命話をしている。自分の不甲斐なさに叫びたくなりながら、その一方でイスラエル人からは「お前の顔は岡本公三に似ている」とか言われたりするから、イスラエルにいるときには毎日気持ちがグラグラしっぱなしでした。そんなこんなを思い出しながら作った作品です。
2001年に大阪の画廊で展示して、そのときもビデオと共にテキスト(*1)も一緒に展示したんだけど、オープンの直後に9.11が起こって、テキストを更新しようと書き始めたけど完成しなかった。彼女の伝えたいことを、日本の、しかも画廊で、どういう文脈で見せることができるか?失敗作は失敗作として認めた上で、それでも見せることに意味があるということがあり得るか?ということなんですが。

ART iT 高嶺さんのテキストの使い方に特別な理由や方法論はありますか。また、個人的なことを作品として扱う際に、テキストを使うことによって経験から少し距離を置くという考えはありますか。

TT 今回の展覧会はかなりテキストが多く、全部ちゃんと読もうとするとかなり時間のかかる展示になってしまいました。個人的な題材、身の回りの人などを扱った作品だと、誤解を招いてはいけないので、そんなときに特に言葉を注意して使いますね。特に「木村さん」なんかはイメージを扱った作品だったので、そのイメージをパブリックに見せるためにはどうしようかと。パフォーマンスを記録した映像を編集して、言葉を乗せるまで一年かかりました。「Do what you want if you want as you want」の場合は、しゃべっている彼女には申し訳ないけれど、内容はニュースで聞いたことのあるようなことなんですよね。僕が感じたストレスはニュースや本で通して知っている事柄を、より身近な人、友人が語っているということに対するどうしようもなさ。それがあのとき残っていた困惑みたいなもの。彼女がしゃべっているのをそのまま流して、それをどう聞くか。あの作品を見た人が僕と同じように困惑するのではないかと思うんですよね。「ベイビー・インサドン」のテキストは基本的には嫁の父親に向けて制作しましたが、もちろん作品として発表されるので、多くの人が見るということは意識の中にあるわけですよね。僕自身の一人称の視点で書いていますけど、あれは日本人を意識して書いているんです。内省的というか、最初から最後まで僕はこんなふうに思ったんだと書いているものを他の日本人が見たとき、「僕」の中にそれぞれをどう投影できるかを考えて作っています。


「ベイビー・インサドン」 (2004), 発色現像方式印画, アクリルマウント, DVD, モニタ. Photo: ART iT

ART iT その一方で「A Big Blow-job」や「鹿児島エスペラント」、「common sense」ではテキストを使って、誤解を生み出すようなシチュエーションを作ることもありますよね。

TT あの作品シリーズは、土に彫られた文字を光が発見していく、そうした見せ方をすることでテキストが特別な質感を持って見えてくる。この作品の場合は、ナレーションでストーリーを語ったり、映像で文字を出したりするよりも、自分が見つけた言葉みたいな感じで読めるのがおもしろいと思いました。

ART iT 「とおくてよくみえない」ではいろいろな人を集めて、ある主題に対してみんなでしゃべり、作品を作るという方法をとりました。それに対して、「ベイビー・インサドン」のような作品はもう少し個人的なものを作品にしている。集団的なものと個人的なものの間にはどのような違いがあると考えていますか。

TT どういうプロセスで作るかというのは、扱っている主題によって、感覚的に選んでいるんだと思います。「ベイビー・インサドン」のように国の歴史に関わることを扱っている場合は、個人的な視点の方が有効だと思いました。在日を語るときには、大勢に相談して進めるのではなく、自分の中で考え、落とし込んだものを提示する。逆に「とおくてよくみえない」の世界観は、むしろ自分ひとりでやると、個人の妄想の域を出ることがないから、人を巻きこむ。作品がどういう形になるのかということを僕が全部決めない方が面白くなるだろうし、いろんな意見を聞きながら軌道修正している方が、プロセスとして楽しいし、より現実的な世界観として提示できると思ったので、人を集めて制作しました。

ART iT 出口のところにあるテキストは「とおくてよくみえない」の一部ですか。それとも別のものとして発表したテキストでしょうか。

TT 別ですが、ベースになっているテキストです。「とおくてよくみえない」のワークショップで最初にあの紙を全員に配りました。ただ、あの詩は2年前にできていたので、それが先にあって、その延長線上で今回の映像が撮影されています。だから、詩もかなり抽象的です。まだ身近にないユートピアについての詩なので、自分でもどういうアプローチで近づいていけるかというのを探りながらやっている。そのとき、自分ひとりで考えるよりはいろんな人の助けを借りながらいっしょにやる。人を集めたというのは、いっしょに考えながら進んでいきたいと思っているからだと思います。

*1 高嶺格 「Do what you want if you want as you want」に寄せて (2001)

高嶺格『とおくてよくみえない』
4月23日(土)-7月10日(日)
広島市現代美術館
高嶺格『とおくてよくみえない』広島市現代美術館 特設ウェブサイト

高嶺格『とおくてよくみえない』
1月21日(金)-3月20日(日)
横浜美術館
高嶺格『とおくてよくみえない』横浜美術館 特設ウェブサイト

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