ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス インタビュー(2)

技巧(テクネ)が生むいたずら

II. ローマの休日
フィッシュリ&ヴァイス、目に見える世界の透明性について


Detail of Untitled (2000/10) as installed at 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa, 2010. Carved and painted polyurethane objects. Photo Osamu Watanabe. All images: © Peter Fischli/David Weiss.

ART iT 前回、『Airports』や「Visible World」といった、今日におけるイメージの陳腐さを受け入れているとも言える作品について話をうかがいました。しかし、それらの作品を鑑賞する側としては、どうしても見たままの率直さを受け止めずに深読みしてしまうこともあります。個人的には例えば雑誌から引きちぎられた広告のページとテーブルのインスタレーション作品「Sun, Moon and Stars」(2008)を見たときのことが挙げられます。そのときには一体どういう意味を持った作品なのかうまく理解できませんでした。後に残っていたのは何かを逃してしまったということ自体ではなくて、むしろ何かを逃した悦びでした。あなたたちの作品の多くには、深読みしてしまう危険と趣旨を完全に逃してしまう危険との間の繊細なバランスが見られるように思えます。

ペーター・フィッシュリ(以下PF) 私が好きな美術作品にはそのように何かを逃す体験をするものが多いです。作家の意図や作品が何を意味しているかがあまりにも分り易すぎるという理由で他の美術家を批判することだってあります。何かを逃すということ、本当は一体何が起こっているのか不思議に思わせることこそが美術の重要なポイントのひとつです。

ダヴィッド・ヴァイス(以下DW) ここでまた言葉の問題にも戻ってきますね。『Airports』の写真集(1990)を作ったときに、撮影した空港の名前を書かない方が良いことに気付きました。人は大抵そこに写っているのはヒースローかケネディか知りたがり、それだけで満足してしまいます。でも私にはその情報がない方がイメージとしてある意味もっと深みが増すように思えるのです。だから美術家としては情報を隠すという手法もあります。先ほど挙げられた広告のインスタレーションの場合は逆に情報が多過ぎるからこそ、なぜそれらのイメージが一緒に組み合わさっているのか鑑賞者には分からない、ということになるのでしょう。人をこらしめるという要素もあるのかもしれません。


Installation view of Sun, Moon and Stars (2007/08), 797 facsimile reprints of advertisements, offset prints in color, 38 vitrines of wood, glass and steel, each 78 x 177.5 x 72.5 cm, total 268.2 x 77.0 x 72.2 cm. Courtesy the artists; Galerie Eva Presenhuber, Zürich; Sprüth Magers Berlin/London; Matthew Marks Gallery, New York.

PF 広告のプロジェクトのきっかけはごく単純です。2007年にスイスのリンギアーAGという報道会社が年報のためのプロジェクトを私たちに依頼しました。そこで、リンギアーAGの収入について調べてみたところ、雑誌の収入の9割以上はキオスクでの売上ではなくて広告収入だということが分かりました。よし、業績報告なのだから業績に注目しよう。年報を広告で一杯にすれば発行者が喜ぶのではないか——雑誌の発行者は誰だって広告をたくさん載せたいわけだから、と考えました。
それから色んな雑誌の広告を集めだして、ニューススタンドとは要するに現代についての百科事典なのだということに気が付きました。「Suddenly This Overview」でやろうとしていたこととあまり変わりません。ニューススタンド、つまり駅や路上で雑誌などを売る小さな売店には想像しうる全てのテーマについての雑誌が並んでいます。携帯電話、コーヒー、食べ物、フライフィッシング、武器、壺、鳥、猫——なんだってあります。これは凄い、と思いました。
色んな雑誌の広告を切り取ってセクション別に分けて並べてみたら、それぞれの広告が全て連関している様子が見えてきました。そこで、私たちはこのたくさんの広告ページを使って誰かの生涯をまるごと表すことができるのではないかと考えました。花嫁と結婚式から始まって、ホテルでのハネムーン、妊娠、赤ちゃん、その赤ちゃんが成長してポップミュージックやスニーカーを買うティーネージャーになって、という設定で。人の生涯はその人が消費する物だけを通して表すことができます。初めて消費したのは哺乳瓶に入っているミルクだったり、ということです。ジョルジュ・ペレックの小説『物の時代』(1965)とそっくりとまでは言いませんが、似たようなコンセプトです。


Installation view of Sun, Moon and Stars (2007/08), 797 facsimile reprints of advertisements, offset prints in color, 38 vitrines of wood, glass and steel, each 78 x 177.5 x 72.5 cm, total 268.2 x 77.0 x 72.2 cm. Courtesy the artists; Galerie Eva Presenhuber, Zürich; Sprüth Magers Berlin/London; Matthew Marks Gallery, New York.

DW また、例えば車というような特定のセクションに限って考えるとしても、それは人がどのようにして車を売ろうとしているか、その広告に至るまでの思考やコンセプトについての記録になっているのです。ボルボは安全と家族を意味し、また別の車は地平線の前に若い男女と共に写っている。それぞれのイメージに途轍もない努力がつぎ込まれています。
それらの広告が雑誌の中にあるときには特に気に留めることは殆どありませんが、よく見るとかなりシュールなイメージもあったりします。とにかく全て何かを売るためのイメージで構成されているのです。その一方で、売り手としては広告を基に人々が商品を買ってくれるという希望や見解しかないわけです。

PF だから何かを逃すという話に戻ると、これで作品の背景は話しました。でももちろん他の要素もあります。


Installation view of Sun, Moon and Stars (2007/08), 797 facsimile reprints of advertisements, offset prints in color, 38 vitrines of wood, glass and steel, each 78 x 177.5 x 72.5 cm, total 268.2 x 77.0 x 72.2 cm. Courtesy the artists; Galerie Eva Presenhuber, Zürich; Sprüth Magers Berlin/London; Matthew Marks Gallery, New York.

ART iT 特に「メディア批判」の作品というわけではなかったのでしょうか?

PF これにはすぐさま気が付きました。みんな消費社会云々を非難するので、批判の型にはまってしまうのは容易なことです。議論の内容はもちろん知っていますし、正当なものだとも思いますが、私たちはそれをしたくはありませんでした。
あるいは、こうした批判は常につきまとうものなのかもしれません。批判の要素はあるには違いないけれど、それをもしっかり見据えつつ、広告の世界において夢、希望、不安や象徴がひとつになっていることにまつわる作品なのだと言うこともできます。

ART iT そういう意味では、私にとってあなた方の作品に妙に距離を感じる理由のひとつは、作品を理解するための情報が全て作品自体に含まれているという点です。空港の写真は必ずしも空港の批判ではなく、空港の理想化とも限らない。空港のイメージそのものであるという事実だけは確かで、より深く解釈したくなければそれでよい、という。

DW 私は作品の多くをある種の招待と考えています。作品に招き入れられて、それからどう理解するかはあなた次第。誘惑とも言えるかもしれません。

PF 「より深く」というのはどういうことなのでしょう。作品に深入りするということ。これはいくつもの意味を持つことができます。もちろん、スーザン・ソンタグの「反解釈」という非常に説得力のある概念もありますが、そのような態度には鑑賞者を煙に巻いてしまう危険性があります。最終的には作品自体のフォルム、つまりこの写真の表面やその粘土のオブジェのフォルムがあるだけで、どれだけ知的・感情的に深入りするかというのは各々によることであり、作品自体から読み取ることはできません。


From the series “Airports” (1987- ), C-print photograph, 160 x 225 cm. Courtesy the artists; Galerie Eva Presenhuber, Zürich; Sprüth Magers Berlin/London; Matthew Marks Gallery, New York.

ART iT もしかしたら窓ガラスのような透明性という見方もあるかもしれません。自分の姿が窓の表面に反射されていて、窓を通して何かを見ることも、窓そのものを見ることもできます。『Airports』では自らの空港の経験が反射されると共に、誰か他の人の空港の経験を見ることも、単に空港のイメージを見ることもできます。

PF 実は今、『Airports』の写真を基にまた新しい本を作っているところなのですが、過去12年か15年くらいの間に写した800ほどの空港の写真を見ていて、突然「あれ、これは天気についての本になるな!」と気付きました。イメージの編集を始めると、雨が写っているものや雪の写っているものが目について、実際に天気を中心とした本として構成することもできることに気が付きます。
でもそれは同時に現代の紋章学、ロゴや標識についての本にすることもできます。空港の飛行機では国旗やロゴが混合されているのがとても面白くて、例えばアリタリアの場合はイタリアの国旗の色はもはや国家の象徴ではなくなりブランドと国家とが重なり合っています。この重なり合いに興味が惹かれますが、これもまた作品のひとつの要素に過ぎないのです。


Detail of Untitled (2000/10) as installed at 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa, 2010. Carved and painted polyurethane objects. Photo Osamu Watanabe.

ART iT この「透明性」——そして前回のシャーデンフロイデの話もですが——からもうひとつ、個人的に興味深い作品を思い出します。1997年にミュンスター彫刻プロジェクトのために作った菜園(ガーデン)です。この菜園はある意味、ポリウレタン製のオブジェのインスタレーションのような、模倣や複製に関わる作品のアンチテーゼのように思えます。この作品について話を聞かせてください。

DW 庭園(ガーデン)には以前から興味がありました。ドイツとフランスとの間の地域に素晴らしい庭園が多数あるので写真をたくさん撮っています。ポリウレタン製のオブジェのインスタレーションとは、誰かの作業場と見られるかもしれないような小屋を建てたことと、菜園自体をまるごと作り上げたこととが似ていると言えます。使った土地には元々菜園などなく、芝生と木が生えているだけの空き地でした。この土地を家庭菜園にしたいと考えたのです。5人家族に相応しいくらいの広さで、架空の人が個人的に野菜や果物を育てるのです。
だからこれもやはり幻想についての作品ですが、それと同時に実際にちゃんとした菜園がそこにあるわけです。あらゆる植物を植えるために、まずは温室で育ててからこのプロジェクトに協力してもらった園芸家の助けのもとで土地に移しました。ジャガイモはどこに植えて、タマネギやトマトはどこに植えて、といったことを決めていきました。その前には何もなかったのです。



Above: From Suddenly this Overview (1981/2006), “Brick,” unfired clay, as displayed at 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa, 2010. Photo ART iT. Below: Three Bricks (2009). Courtesy the artists; Galerie Eva Presenhuber, Zürich; Sprüth Magers Berlin/London; Matthew Marks Gallery, New York.

PF ミュンスターのプロジェクトで面白かったのは、美術館を抜け出して街中のあちこちに作品を置いたことによって、美術がホワイトキューブの文脈から抜け出した最初の作品のひとつになったことです。これまで何度も指摘されてきていますが、レディメイドのような作品はその制度化された文脈を必要とします。それがなければただの自転車の車輪になってしまいます。私たちはこの状況に興味を持ち、美術作品と認識されるギリギリの境界線上にあるものを作りたいと思いました。
ミュンスターで作品を探して廻るとき、見に来た人はもしかしたら美術作品として認識する彫刻、もしくは美術と想像しうる範囲内の彫刻を見つけるのかもしれませんが、大勢の人が私たちの菜園まで来て「フィッシュリ&ヴァイスの作品はどこにあるの?」と首を傾げていました。作品の真ん中に立っていながらも。でももしかしたら単純に菜園にいることを楽しんでもらえたかもしれません。花を眺めたかもしれません。私たちの美術作品を見つけることができなくて苛立ちをおぼえたかもしれませんが、穏やかな一時を過ごして後から私たちと話したときに「ああ、菜園まで行ったけれど、作品は見なかったよ」と言うのです。
公共の場における美術について、そして公的(パブリック)とは何か、私的(プライベート)とは何かについて考えて作った作品でした。人間は狩猟採取社会から耕地のある定住型の生活様式に発展したことを考えると、菜園とは個人が所有することができた一番最初の物のひとつではないかと思います。その発展があってからこそ「これは私の土地だからここに植えたものは私のもの」などというようなことを言い始めたのでしょう。

DW そしてこのメンタリティは今も尚健在だと言えます。多くの人は菜園や庭園を訪れることをわけもなく躊躇うかもしれません。なんとなくそれは誰かのものであるという感覚、誰かがそこで仕事をしていてそこにある植物や野菜はその人のものであるという感覚が潜在的にあるのかもしれません。

PF 若い頃にそのようなことを経験しています。この木からリンゴをとってもよいものか? スイスでは殆どの木は農家のものですが、例えば山などといった自然の中では公共のものとみなされるので果物や木の実を摘むことができます。そのような訳で、菜園はこういった所有の問題などについて言及しています。私たちにとって興味深いことでしたし、今でも面白いと思っています。


All: Detail of Sun, Moon and Stars (2007/08). Courtesy the artists; Galerie Eva Presenhuber, Zürich; Sprüth Magers Berlin/London; Matthew Marks Gallery, New York.

ART iT 個人的には美術作品のように見えない美術作品だという概念が特に興味深かったです。

DW どちらかというと1回切りやワンシーズンのみの公演の舞台作品のようなものかもしれませんね。

PF しかしミュンスター彫刻プロジェクトでは、キュレーターによって企画されていたり、鑑賞者が街を歩いていることが展示の周りに透明のホワイトキューブを創り出していることも明確です。それでも私たちの作品には不確定なところがあって、一瞬立ち止まって考えなければなりません。

DW 私たちの場合は展覧会が終わった途端、土地の所有者が菜園を完全に撤去してしまいました。

PF その土地はゴルフのトレーニングのために使っていて、展覧会の前に菜園のために是非使わせてくれと懇願したところ、半年間だけ貸してくれることになりました。美しい菜園ができたと思ったのですが、展覧会が終わってすぐにブルドーザーに乗って全部更地にされてしまいました。まるで菜園がひょっこり現れてまた消えたかのようで、なかなか良かったです。

ニュース
『ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス』金沢21世紀美術館で開催(2010/09/18)

フォトレポート
ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス @ 金沢21世紀美術館 Part 1
ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス @ 金沢21世紀美術館 Part 2

『ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス』
会期: 2010年9月18日(土)– 12月25日(土)
会場: 金沢21世紀美術館
http://www.kanazawa21.jp/

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