ホァン・ヨン・ピン[黄永砯]インタビュー

無個性の多様性
インタビュー/アンドリュー・マークル


Palanquin (1997), bamboo, cane, snake skin, colonial hat, cushions, 177.9 x 313.1 x 60 cm. Exhibition view, “House of Oracles,” Walker Art Center, Minneapolis. © ADAGP Huang Yong Ping, courtesy the artist and kamel mennour, Paris.

ART iT まず、あなたの初期の作品「Large Turntable with Four Wheels」(1987)[以下「Large Turntable」]から話を始めたいと思います。この作品はある意味では自己決定から逃れるための装置だったと言えます。「Large Turntable」の習作として描かれたドローイングから、このプロジェクトには比較的複雑な計算と計画、あるいは一定の自己決定が関わっていたことが窺えます。「Large Turntable」が最終的に表すシステムとあなた自身との関係性は、どのように思い描いていたのでしょうか?

ホァン・ヨン・ピン[黄永砯](以下、HYP)「Large Turntable」のための計算は実際にはそれほど精密なものではありませんでした。ターンテーブルの内容は全て偶然性を以て決められましたし、ターンテーブル自体が出す結果自体も一種のランダム性の具体化と言えます。全体としてどのように組み合わさっているのか実際に計算するのはかなり難しいことでしょう。システムの全てのオペレーションがターンテーブルによって決められますので、どのようにすれば美術家が自己決定を逃れることができるかについて言及することがシステムの目的だというのは今おっしゃったとおりです。ですから、あなたの質問への答えとしては、「Large Turntable」は、どの作品でも関わってくる一個人による決断を最小限に抑える方法として思い描いたのだと言えるでしょう。どのオペレーションをとってもその間には必然的な関係性はありませんでした。そして当然ながら、ターンテーブルを回すときにはそれがどこで止まるかを決定づける原理もないわけです。

ART iT 「Large Turntable」の構想を練っていた頃、あなたは何故自己決定から逃れたがっていたのでしょうか?

HYP 一般的に美術家の最も重要な要素は自己決定だと考えられていますが、これは必ず誰もが自覚できる自分自身の限界というものに根本的に制限されてしまうものです。当時はそういったことについて考えていて、美術作品がその作家自身を表すものだという概念を深く疑っていました。だから、「Large Turntable」では、それが生み出したものが私自身を映し出すかどうか判断できないようにしました。美術についての、個人による決断・スタイル・考えを中心とした議論から前進したかったのです。


Left: Large Turntable with Four Wheels (1987), painted wood and mixed media, approx 120 x 120 x 90 cm. Right: Preparatory drawing for Large Turntable with Four Wheels (1987), watercolor, ink and photo collage on paper, 41 x 41 cm. Courtesy Walker Art Center, Minneapolis.

ART iT 当時、中国国内あるいは国外で起こっていた特定のことに反応していたのでしょうか?あなたが持っていたその関心が置かれていた文脈について詳しく聞かせてください。

HYP 1980年代の中国では——もしかしたら今でもそうかもしれませんが——自己決定というものが欠落していました。全てのことがあらかじめ定められていて、全ての思考が既に公式に形成されているという状況でした。’85美術運動の美術家たちは自分たちがなんらかの自己決定を得られるだろうという希望を持っていましたが、私には表面的な問題にしか思えませんでした。というのは、西洋の現代社会は「個性化」として形容することがありますが、完全に個性化された社会なんて本当に存在し得るものだとは私には思えません。今、西洋において個性に強い関心が持たれているとは言えるのでしょうか? また、あらかじめ定められた事柄や制限を踏まえて、中国が個性化されるのは不可能なことに思えます。だからこそ、中国では個性化という概念がそこまで重要視されるようになったわけですが。そういう意味では個性は特定の文脈を超越する普遍的な問題で、それが1980年代の中国と関係があるともないとも言えますし、今の西洋とも関係があるともないとも言えます。私は自己認識というものの性質と、本物と言えるような個性化の可能性そのものを問題として取り上げていたのです。

ART iT しかしながら、例えば2005年にウォーカー・アート・センターの企画による包括的な回顧展『House of Oracles』では、そこで展示された全ての作品は最終的に「ホァン・ヨン・ピン」という一人の美術家の制作活動と世界観を表すのだと推測することができました。

HYP 制作の面では、どの作品も個性というものの性質を探求しますが、個性はあらゆる形で明示されることができます。大抵、作品とはそれを作った美術家を表すものだと考えますし、回顧展では、ある美術家が作った全ての作品がひとつの名前の下に集合させることができます。これが潜在的には現実となっていることは否定のしようがありません。でも、一旦作品を作るとそれはそれ自体の意味合いを持つようになります。ですから、全ての作品をひとつの空間に集めた回顧展を以てしても、美術家が意図する全体像は見えません。


Both: The House of Oracles (1989-92), installation with tent and related objects of metal, cloth, water, wood, brass, papier mâché, 320 x 480 x 480 cm. Exhibition view, “House of Oracles,” Walker Art Center, Minneapolis. © ADAGP Huang Yong Ping, courtesy the artist and kamel mennour, Paris.

ART iT では、「The House of Oracles」 (1989–92)のような、ひとつの空間に占いの道具やオブジェを集めたインスタレーションはいかがでしょう。そういった作品にはどのような意味があるのでしょうか?

HYP 第一に、「The House of Oracles」はそのような作品だとは考えていません。私が普段から自分の仕事に使っている道具、あるいは様々なアイディアの痕跡を展示したインスタレーションです。制作の完了した「完成品」ではなくて、作品制作の準備をするための空間でした。もちろん、一旦展示すればそれ自体も作品のようなものになります。大きく矛盾した状況ではありますが、そういった曖昧さや複雑さは好きです。
作品や、「Large Turntable」のような道具や易経の占いといったものを使いたい理由などについて、私なりの解説をしてみました。でも、その解説が作品の意味を語る上で決定的なものだと安易に考えてはなりません。作品とは、作家自身の個人的な解説を超えなければならないものだと思います。作家の解説があなた自身の作品の解釈に繋がることはあるかもしれませんが、それが本当は間違った方向に導いているという可能性も充分にあるわけです。

ART iT フランスに引っ越してからは、偶然性を用いた実験からポストコロニアルの歴史や時事問題といった特定のテーマを取り上げるようになりました。これは「Large Turntable」へと繋がった自己表現にまつわる考察とは大きくかけ離れていたと言えるのでしょうか?

HYP 大きくかけ離れているとも言えますし、そうではないとも言えます。この問題は、例えばこのように捉えることができます:私たちには個性がない、あるいは、多様な個性がある。このふたつは実際には同じ問題ではありませんか? ある意味、多様性とは個性の欠如でもあります。1989年にフランスに引っ越して、もう「Large Turntable」を個性から逃れるために使うのはやめようと決めました。特定の道具を使わずに、それぞれ異なる文脈やテーマから出現する諸要素を使っていろんな作品を作れるのではないかと考えたのです。これと中国でやっていたこととの間にはとてつもない違いがあります。でも、実際のところ、どちらも同じような結果に繋がりました。つまり、今度は多様性を使って個性を取り消していたのです。


Top: Bat project II (2002), sheet metal, 20 x 15 x 6 m, installation view 1st Guangzhou Triennial, Guangdong Museum of Art. © ADAGP Huang Yong, courtesy the artist and kamel mennour, Paris. Bottom: Colosseum (2007), ceramic, soil, plants, 556 x 758 x 226 cm. Exhibition view, “From C to P,” Gladstone Gallery, New York. © ADAGP Huang Yong, courtesy the artist and Gladstone Gallery, New York.

ART iT 多様性は、どのように理解されているのでしょうか?

HYP 私にとって多様性は、主に私が作るそれぞれの作品の間の違いにあります。ある日、ひとつの作品を作って、また次には全く違う作品を作ることができます。セラミック製の「Colosseum」(2007)という作品と、ハイナン島に不時着したアメリカの偵察機の実物大のレプリカを使った「Bat Project」(2001–05)という作品を見て、それらは同じだと思うか、それとも違うと思うか。ある意味では似ていると言えるのかもしれません。でも、それらの間の違いこそが多様性を生み出しているのです。

ART iT フランスに引っ越してからは、何故作品に物語性や象徴的意味を加える必要性を感じるようになったのでしょうか?

HYP 今、話していることはフォルムの多様性だけでなく、意味の多様性についても言えることです。直感に反することですが、あまり意味を持たない物ほど、より広い意味を持ちます。何かを見てそれは黒いと認識しても、その「黒さ」には黒いという事実以上の実際的な意味はありません。しかし、その黒さが何を表すのかについて考え始めると、「死」からただ単に黒は黒だという考えまで、実に様々な可能性を想像します。赤でも同じですね——虐殺や革命といったコンセプトを連想することもできますし、ただ単に赤色だという可能性もあります。これらはそれぞれ全く異なる解釈です。そうすると、意味そのものが多様性の最も極端な局面と言えるでしょう。私の作品もそれと似たようなかたちで可能な限りたくさんの意味や象徴を含んでいて、多様な解釈が可能になっています。

ART iT まだ中国に住んでいた頃にも既にこの問題について考えていたようですね。1988年に書かれたダダと中国禅についての論文で、言葉を用いないコミュニケーションの有名な例である「拈華微笑」に言及しています。

HYP はい。お釈迦様が黙って花(華)をひねった(拈)とき、弟子たちの反応はそれぞれ違うものでした。一人は笑って(微笑)、他は皆、無反応でした。その花の意味はそれらの表情や反応から生まれています。ですから、これもまた多様性の一例と言えます。「拈華微笑」は「Large Turntable」の問題について別の角度から考えてみるひとつの方法でした。何故かというと、「Large Turntable」のコンセプトは意味作用から逃れるためのものでもありましたから。そしてそれと同時に個性の対極にあるものとしての意味というものについて考えたかったということもあります。私にとっては、黒は決して単に黒ではあり得ませんし、どのようなオブジェも決して単なるオブジェではあり得ません。別の意味の可能性が常にあるのです。


Both: Caverne (2009), resin cave with sculptures of Buddha and Taliban figures, shadow projection, variable dimensions. Installation view in the exhibition “Caverne 2009” at kamel mennour, Paris. Photo. André Morin & Marc Domage, © ADAGP Huang Yong Ping, courtesy the artist and kamel mennour, Paris.

ART iT では、初期の作品はある側面では個性を取り上げていて、また別の側面では意味を取り上げており、そのふたつの問題は相互に関係するものだということですね。それより後の「Palanquin」(1997)や「11 June 2002 – The Nightmare of George V」(2002)といった作品では、歴史的な題材を象徴的に取り扱っていますが、そういった作品は個性とどのような関係性を持っているのでしょうか?

HYP 意味を持つということは社会性を持つということでもあるので、意味の話をするときには、社会や政治と必然的に関わる作品の要素について話すことになります。「Palanquin」は意味にまつわる問題をいくつも想起させる作品です。鑑賞者は、一体誰が輿[palanquin]を担いでいて、誰が乗っているのかと問うかもしれません。そして輿に乗れるような人と、輿を運ばなければならないような人とのイメージは時代と共に移り変わっていくものかもしれません。「The Nightmare of George V」も、人間界における権力と自然界との遭遇、そして自然と歴史との交差点についての作品だと言えます。しかしこういった問題は作品に想起される可能性も、されない可能性も同等にあり、意味が多様性にあるという点では、必然的にありとあらゆる可能性が関わってきます。

ART iT そして前述の「Bat Project」や、タリバーンの戦士が仏像と共に座る「Caverne」(2009)といった時事問題に触れる作品ですが、そういった作品はある種の個人的な政治的世界観を表しているのではないでしょうか?

HYP いえ、そのような作品に私自身の政治観が表されているとは断言できないでしょう。「Caverne」を見て、私がタリバーンを支持していると本当に言えるでしょうか?「Bat Project」を見て、私が反米であるとか、アメリカを嘲っているのだと本当に言えるでしょうか? こういった作品はそれらの問題について明確な立場を表していません。私が創り出したものではなくて、世の中の議論と論争から生まれたイメージを使っています。ですから、何故そのようなイメージが作中に現れるのか鑑賞者が問い、自分で答えを決めることによってそれらの作品の意味が現れます。

ART iT 美術作品を通じたコミュニケーションは可能なのでしょうか?

HYP 抽象的な視点から言えば、作品をどこに置いてもなんらかのコミュニケーションが起こりますが、作品と鑑賞者との間のコミュニケーションは、その道というか手段においては実に様々なかたちがあり得ます。直接的な場合もあれば、間接的だったり障害があったりする場合もあります。鑑賞者の賛同と評価を求める開かれた場所のような作品もあります。でも、コミュニケーションとは誤解も関わってくるもので、作家が開かれた場所だと思っていたものが実際は鑑賞者にとっては閉ざされていたという可能性もあります。

ART iT 美術作品が鑑賞者に提示するものに対して作家に責任はあるのでしょうか?

HYP もし私が作家として自分の作品を通して言っていることに責任を持つと言ったとしても、本当に信じるのでしょうか? もし美術家があるコミュニティーや共同精神を代表しているのだと言ったら、本当に信じるのでしょうか? 美術家が言うことを信じるかどうかは鑑賞者の問題であって、美術家の問題ではないのではありませんか。


Top: 11 June 2002 – The Nightmare of George V (2002), concrete, reinforced steel, animal skins, paint, fabric cushion, plastic, wood and cane seat, 243.8 x 355.6 x 167.6 cm. Exhibition view, “House of oracles,” Walker Art Center, Minneapolis. © ADAGP Huang Yong Ping, courtesy the artist and kamel mennour, Paris. Bottom: Passage (1993-2005), iron, wood, light boxes, metal coiling doors, lion feces, animal bones, metal food bowls, cages 200.7 x 403.9 x 124.5 c, each, doorways 289.6 x 240.7 x 30.9 cm each, light boxes 36.5 x 133 x 17.8 cm each. Exhibition view, “House of Oracles,” Walker Art Center, Minneapolis. © ADAGP Huang Yong Ping, courtesy the artist and kamel mennour, Paris.

ART iT では、意味作用の他にはどういった種類のコミュニケーションが可能なのでしょうか? 例えば、「拈華微笑」の話では、お釈迦様はただ花を手に取っただけなので、その行動には特に責任は伴いませんが、それでも微笑んだ弟子の迦葉尊者には深い意味を持つ行動でした。

HYP こういったところが違うのではないでしょうか:花を手に取る人と、その行為を見る人とはそれぞれ全く異なる状況に置かれます。責任については、美術家は花を手に取る立場であって、その行為を見る立場ではありません。花を手に取るのは責任を必要とする行為だとは言えません。何か他の物を手にすることだって容易にできます。そして花を手に取ったとしても、その行為を目撃する人の解釈を否定することもできます。責任があるかどうかというのは存在と不在との関係性に似ている、つまり相互に含まれていると言うべきでしょう。

ART iT それでは、美術家が「The Nightmare of George V」の出来事や「Palanquin」の象徴的なフォルムを「手に取る」とき、それは花を手に取るのと同じことではないのでしょうか?

HYP 最終的には、花を手に取る行為にはなんら含意はないと言うことはできないのと同様に、「Palanquin」に含意があると思いたければ、それはあなたの見方ということになります。「Palanquin」は、輿を担ぐ人と輿に座る人との関係性についての作品です。今日、輿を担ぐ人が明日は輿に座っているかもしれませんし、その逆もまたしかり。花を手に取る行為の裏側に絶対的なものがあるわけではないのと同じように、その関係性は絶対的なものではありません。完全かつ深い相対性の中に存在するのです。

ART iT 話を聞いていて、グラスゴーの現代アートセンターで作られた「Passage」(1993/2005)という作品を思い出しました。「EC Nationals[ヨーロッパ共同体の国籍保持者]」と「Others[その他]」とのための入国管理風のゲートを隣り合わせに設置した作品です。

HYP はい、それもまたある意味での最終的な同等性についての作品でした。鑑賞者が「EC Nationals」の方を通っても、「Others」を通っても、いずれも等しくグラスゴー動物園のライオンの糞や食べかすの入ったおりを通り抜けなければなりませんでした。「EC Nationals」の方は生花で彩られて「Others」は糞だらけというわけではありません——それは本当に区別することになりますね。どちらの入口も「違う」と同時に「同じ」でした。どちらの方に属する方がいいかという先入観に関わらず、どちらも等しく臭くて、それぞれを通り抜ける鑑賞者は同じ問題に遭遇しました。

ホァン・ヨン・ピン[黄永砯]インタビュー
無個性の多様性

第17号 彫刻

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