ジェローム・ベル インタビュー

対決のサンクチュアリ
インタビュー / 大舘奈津子


Theater Hora, “Disabled Theater” Photo Michael Bause

ART iT あなたはコンテンポラリーダンスの振付家として、劇場での上演をするだけでなく、現代美術の展覧会や美術館での活動も増えています。日本で言えば2008年の横浜トリエンナーレへの参加もそうです。何か特別な理由があるのでしょうか。

ジェローム・ベル(以下、JB) ここのところ、ニューヨーク近代美術館(MoMA)での「ショー・マスト・ゴー・オン」の上演依頼やテート・モダンのオンラインプロジェクト(1)など現代美術からのアプローチが増えてきています。横浜トリエンナーレでは『ピチェ・クランチェンと私』を上演しました。
今回のドクメンタ13もそうですが、理由は特にわからないので、自分でも驚いています。もしかしたら単に現代美術においてコンテンポラリーダンスが流行しているだけかもしれません。

ART iT それだけの理由だとは思いません。あなたのダンスにはアプローチにおいて現代美術と近い部分があると思います。

JB そうかもしれませんね。ただ、友人であるティノ・セーガルは美術館の中でパフォーマンスを展開することを続けているのに対して、私自身はそうした美術館の中でのパフォーマンスにはまったく興味がありません。私は「劇場」という装置が好きであり、装置としての「美術館」にはまったく興味がありません。美術館は観客がいつでも立ち去ることができ、十分には暗くない場所です。そうしたところは私の場所ではありません。厳密にはこうした定義には異議があるかもしれませんが、少なくても私にとって美術館はそういう場所です。従って、私にとってはそういう場所である美術館はあくまでも記録を見せる場所だと思っています。

ART iT つまりご自身の中で美術館と劇場の区別ははっきりしているということですね。

JB はい、そう理解しているため、依頼があって美術館で見せるものは映像、つまり舞台を録画したものです。それは博物館に展示されている著者の手紙のようなものであり、作品そのものではありません。私にとっての作品は「劇場」という黒い箱の中にあります。

ART iT ドクメンタのプロジェクトですが、それは「美術館」を使ったものになりますか。それとも「劇場」を使ったものになるのでしょうか。

JB アーティスティック・ディレクターのキャロライン・クリストフ=バカルギエフのおかげで市内に小さな劇場を見つけることができました。古い映画館でドクメンタの創始者の兄弟であるポール・ボードの建築によるものです。そこは繭の形をした素晴らしい場所です。カッセルはあまり美しくない町ですが、その美しい場所で、新しい作品を発表します。

ART iT 具体的にはどういうものになりますか。

JB スイス、チューリッヒにある障碍者の劇団HORAに在籍する精神障碍者であるプロの俳優たちです。作品は現時点(2011年11月)ではまだはっきりしていませんが、パフォーマーにおけるグループの役割と、個人の役割が混在したものになると思います。

Theater Hora, Photo Michael Bause

『ショー・マスト・ゴー・オン』では、グループ、コミュニティーの部分が全面的にでました。それの反動というわけではないですが、次のパリ・オペラ座での作品は『ヴェロニク・ドアノー』という、オペラ座のスジェである彼女個人についての作品となりました。見ている人からは私が彼女に全て言わせているとも言われましたが、舞台で語られたのは彼女自身の言葉です。もちろん、作品制作にあたり彼女と私の二人三脚で制作しました。
今回はその両方の部分が入ったものになると思います。普段グループで活動をしている彼らではありますが、公演となると個々の部分が出てくるものです。立てない人も、話すことに困難を感じている人もいますから、そういう個性が舞台では重要になるでしょう。しかし、まだ具体的に見えているわけではありませんが。


“Veroinique Doineau” Photo Anna Van Kooij

ART iT どういう経緯でそうした作品を作ろうと思ったのでしょうか。そしてドクメンタという美術作品が集まる場所で見せることについてはどう思っていますか。

JB キャロラインは、カッセル郊外にある元修道院で、戦時中強制収容所として使われ、現在は精神病のためのクリニックになっている場所に私を連れて見せてくれました。彼女は何らかのアイデアを持って私を連れて行ったのだと思います。そうした経験が今回の作品に繋がったことは否めません。そうしてある種偶然に生まれる繋がりというのは嫌いではありません。
ドクメンタという現代美術の展覧会でプロジェクトを行なうことにためらいが全くなかったと言えば嘘になりますが、友人のティノ・セーガルも、私にその能力があるのだからやった方がよいと提言してくれました。新規のプロジェクトで、インスタレーションではなく、公演を行なうことができるということで参加することにしました。
ドクメンタが行われるカッセルは、その開催される3ヶ月間、文化的にもその知的レベルでも素晴らしい場所です。5年に一回行われるドクメンタでのプロジェクトは、多くが野心的で、非商業的なものです。そうした場所に理性を失った精神病の患者を連れてくることは、理性とはなにか、文化とは何かといったことを巡るある種の人間の問題を提起すると思います。まだ主題についてははっきりしないのですが、人間、人類の根本についてのものになると思います。子供の心に溢れ、透明性がある作品になると思います。

ART iT 「透明」という言葉、よく使われますが、どういうことでしょうか。

JB コントロールというか操作することは嫌いなのです。劇場というのはコントロールする場所ではありますが、自分はそれをしたくありません。何かを隠すのではなく、すべて見せるのが自分のやり方です。

ART iT 最初の質問に戻りますが、ドクメンタが初めての現代美術の展覧会ではありませんね。2007年にリヨン・ビエンナーレの参加が、美術展や美術館から多く声がかかるきっかけになったのではないかと思いますが、そのときの経験はどういうものだったのでしょうか。リヨンでは、音楽を聞かせるというアーカイブを見せるアプローチだったわけですが。

JB リヨン・ビエンナーレには正直言って失望しました。そこで自分は美術館というものに興味がないことがはっきりわかったのです。その時は『ショー・マスト・ゴー・オン』をリヨンのオペラ座で上演することになっていて、それもあって、ビエンナーレに参加することにしました。午前は美術館で仕事をし、午後はダンサーとオペラ座で仕事をする形をとったのですが、午前中、美術館の中でひとりで仕事をすることが非常に苦痛でした。逆に午後は何もかもがうまくいき、チームでの仕事することが喜びでした。その時に理解したのです。自分はインスタレーションのような作品を制作することが好きではなく、美術館は私の場所ではない、ということが。意識もできないもっと深いところで、私は劇場を欲していて、それ以外の場所では生きていけないということなのです。自分の欲望はそこに根を張っているのです。
美術館で仕事をするのは退屈です。私はグループやコミュティーで仕事をすることが好きですが、一方、アーティストの仕事は孤独です。ときに孤独でいることは好きですが、孤独な仕事をすることは好きではありません。
私のことをアーティストだという人もいます。最近は特に美術と演劇やパフォーマンス、ダンスなどの領域が入り組んでいますものね。それでも自分のホームグランドはコンテンポラリーダンスの世界であり、そこに根があります。やはり私はピナ・バウシュ、マース・カニングハム、トリシャ・ブラウン、イヴォンヌ・ライナーなどのコンテンポラリーダンスで育ってきました。コンテンポラリーだけでなく、ニジンスキーにももちろん影響を受けています。なので、やはり振付家というのが正しいかもしれません。美術展などに参加を要請されることもありますが、あえて自らを「振付家」と考えています。

ART iT たとえばティノ・セーガルの美術館でのプロジェクトについてはどのように思いますか?グッゲンハイム美術館での展覧会や、美術館で行なわれるパフォーマンス『キス』でも、ある種のスペクタクルを美術館内で行っています。美術館という場所性を意識し、行なっています。あなたは先ほど美術館には興味がない、というお話をされましたが、劇場でなければという理由はどこにあるのでしょうか。

JB ティノ・セーガルは本当に近しい友人でもあり、彼が行っていることについては非常に敬意を払っています。どのプロジェクトも素晴らしく、美術館という場所に対して最適なものだと思います。なぜ劇場か?そこには時間があるからです。美術館に時間という概念が存在しないとは思いませんが、鑑賞者がつまらないと思えば作品の前からすぐ立ち去ることができます。鑑賞者に決定権があるわけです。それが美術そして展覧会の良いところでもあります。
しかし、自分にはやはり、強制された時間が必要です。そうした決まった時間の中で正確に作り上げる装置が私にとって重要であり、それがあるからこそ皆が同じ時間を共有することができるのです。そこにいることで、ダンサーとだけではなく、観客ともある種の共同体を作り上げる、と言ってもよいでしょう。
美術において鑑賞者は時間に寛容ではありません。美術における作品の神秘化(mysterisation)も実際にあると思います。劇場ではそういうことはなく、時間の経過を黙って静かに体験することができるのです。作品を鑑賞する時間というより、飛行機に乗っているように決まった時間を過ごさなければならないという事実に惹かれているのです。個人的には劇場は鑑賞者としての私を守ってくれる場所だと思っています。

ART iT そうした劇場での公演という伝統を守る一方であなたの作品は非常に、前衛的というか真の意味でのコンテンポラリーダンスであると思います。つまり、今までにないダンスを作ることに心血を注いでいます。だからこそ、劇場というシステムを壊さないのは意外にも思えます。

JB そうですね。それはロラン・バルトの考え方に即しているかもしれません。バルトは「何も壊してはいけない、記号は整理して、ひっかくものだ」と話しています。私自身はコンテンポラリーダンスの伝統の中に身を置きたいと思っています。どんなアーティスティックで前衛的な動きをしたとしてもそれは伝統的なものに対しての相対的なものです。自分は伝統も、歴史的に起こったことも未だに信じているのです。したがって、伝統的なものを拒否するのではなく、少しずらすということを行なっています。
私はイタリアの劇場も非常に好きです。赤くて金色に縁取られていて、子宮のようでもある、と誰かが言うのを聞いてその通りだと思いました。劇場はそのように、何らかの母性につながるものがあって、保護する場所という役割を担っていると思います。少なくとも外界に対しては保護していますよね。そしてそこにフィクションが現れる。そしてそこで行なわれることは真実ではない、と皆が知っている。それこそが「保護」に繋がっていると思います。そこが面白いところです。そこで表現しているものは真実ではない、ということなのです。どんなにひどいものであっても、それが真実ではないわけですから、耐えることができます。
よく言うことですが、自分の欲しいシーンを実現するためには、人を殺すことも厭わないと思います。それほど劇場での自分の作品に対する欲求が強いのです。美術館で、自分の映像作品がうまく行かなかった場合、三回試して駄目なら簡単にあきらめられますが、劇場ではそうは行きません。
劇場では、常に新しいことをしたいと思っています。そして幸運なことに、新たな仕事の依頼は増えています。従って、旧作に関してはアシスタントに委譲して行なうことになります。旧作について自分の作品はどれにも常に目を光らせて、全てを私が責任を負い、オリジナルに近い状態で上演するべきだと言われることもありますが、私は過去を生きているのではなく、現在を生きています。当然、新たな作品を作ることにより興味をそそられるのです。
もちろん、初演から10年たった今でも、『ショー・マスト・ゴー・オン』を上演することによる新しい発見はあります。自分の作品、自分の人生、劇場、社会についてなどいろいろなことについての新たな発見です。それすらなかったらこうして以前の作品を上演することはないでしょう。


“The show must go on” Photo Mussacchio Laniello

ART iT 作品が新たに再解釈される、という点では必要なことだと思います。

JB もし、人々が私の作品にずっと興味を持ち続けてくれて、30年後、50年後に同じものを上演するとするならば、確かに何らかの形を考えないといけないでしょうね。ただし、自分はあまり作品の「保存」ということには興味がありません。物事は消滅して当然だと思いますし、それは自然に任せるべきだとも思います。ただ、まだそれについて結論はでていません。例えばクラシックバレエにおいて、我々はなんとかその形をできるだけ維持しようとしています。社会情勢などはまったく関係なく、物語も空想の世界です。しかしながら歴史があります。
私はバレエのそうした在り方には全く興味がありませんが、一方で、自分の作品が後世でも上演されるためには何らかの方法を考えなくてはなりません。
現在のところ、自分が考えた方法は、映像に残すという方法です。作品を映像に残して、メディアテークや大学など、要請があればどこにでも渡しています。そしてもし私の作品に興味がある人がいれば、それらの映像アーカイブを見ることができる状態にしてあります。そして彼らもしくは彼女らがそれを使用して空間を作ればよいのです。

ART iT 美術館で作品を保存することに近い形ですね。

JB そうですね。そうは考えていませんでしたが、言われてみると近いと思います。
ただし、このように映像にアクセスできるようにしているだけで、もちろん一番興味があり、私にとって重要なのは生の公演です。インターネットやデジタル技術の発展により、いろいろなことの普及が広がっていますが、生の公演が持つ強さそしてその一方での儚さは何にも置き換えることができません。ハリウッド映画の特殊効果がもたらすリアルさに対抗する、生の公演が重要だと思っています。

(2011年11月12日、彩の国さいたま芸術劇場にて)


(1) BMW Tate Live: Performance Room, Jérôme Bel, Shirtology, Tate, 22 March 2012

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