ミン・ウォン インタビュー (3)

 

インタビュー/アンドリュー・マークル

 

III. 上級編: Yishmór, Tishmór, Tishmór, Tishmrí, Eshmór, Yishmrú, Tishmórna, Tishmrú, Tishmórna, Nishmór
ミン・ウォン、自作のこれからの展開とヴェネツイアで自国を代表した経験を語る

 

ART iT 前回は観客と、あなたの作品における、性別を変えるだけでなく社会的、あるいは文化的な役割をも変える装置としての服装倒錯との関係についての話で終わりました。これはファスビンダーの『13回新月のある年に』(1978)におけるフォルカー・シュペングラーの演技を想起させます。彼は性転換者の女性を演じるのですが、最初は明らかに男性としか見えないのに、段々と演技に引き込まれてしまいます。明らかに男性であると同時に、明らかに女性なのです。これは観客が実際に見るものよりも俳優自身の信念の問題です。

MW そうですね。そして更に複雑な場合もあります。一部の人は私を見て、「男性でも女性でもない」と思うのではなく、「中国人だ! イタリア人の母親ではない!」と思うわけです。それも人々を当惑させます。あるいは、イタリア語は話せないから台詞を言い間違っていて、映画史上に残る有名な台詞を台無しにしているのがストレスになる場合もあります。
私はいつも人に私の作品に対する反応について聞くのですが、面白いことに『Angst Essen / Eat Fear』についてはドイツ人の主婦を演じるブリジット・ミラはドイツ人なら誰でも知っている。だから私が彼女の役を演じているのを見ると最初は不快に思うが、しばらくすると驚きも偏見も乗り越えて言葉自体、原作の脚本自体に注目し始める、と言われました。原作を見ていると、例えばブリジット・ミラの演技や映画の視覚的な要素などに捕われるので、登場人物が何を言っているのか注意して聞かない。そういった理由で、原作よりもそこから派生した私の作品を見る際に脚本に注目することになるのかもしれません。つまり、私の作品を通して原作を見るときに捕われがちな要素を一旦棚に上げ、原作自体について再考することができるようなのです。これは予期もしていなかった素晴らしい解釈で、今後もなんとかしてそのようなことをしていきたいと思います。

 

ART iT あなたの作品はこれからどのように展開していくのでしょう。今後もワールドシネマのリメイクというかたちで制作を続けていくのでしょうか。

MW 今後も引き続き個人的な旅になると思うので、ただひたすら自分の道を進みます。今のところ、イスタンブールで極めて個人的な、ちょっとしたお気に入りのプロジェクトを始めることになりそうです。多分、ドイツに滞在し『Angst Essen / Eat Fear』を作ったときにその周辺で見られた問題や、トルコが過渡期にあることに関係するものになると思います。トルコは今までずっとアジアとヨーロッパの間の最後の辺境でしたが、とうとうEUに加盟することになりました。ヨーロッパの定義、アジアの定義というのは非常に興味深いトピックだと思いますし、トルコ自体が極端な二重性を持っていることに惹かれます。トルコの映画史に注目しているのですが、あちらのポップカルチャーは非常にユニークなんです。トルコではシンガポールの映画産業と似たような「劣化コピー」の歴史、マレーシアと比較できるほどの宗教問題を抱えています。そしてそれ以上にトルコ映画にはメロドラマに満ちた独自の表現と独特な音楽があります。今のところ、具体的に挙げられるのはそれくらいで、まだ色々調査中です。でもそれが私が興味を惹かれるものの一例です。

 

ART iT 今後、アメリカやイギリスの映画を取り上げることはあると思いますか。

MW 英語圏の映画の問題は、基本的にデフォルトとしていわゆる主流を形成し、ワールドシネマと見なされることはないということです。世界中の他の映画は全てワールドシネマかハリウッド風の主流映画とされますが、それは不正確だと思うのです。とは言っても、とても好きなハリウッド映画もありますし、別に避けようとしているわけではありません。例えば『悲しみは空の彼方に』(1959)は私の一番好きな映画のひとつで、シンガポール館のプロジェクトで取り上げました。監督のダグラス・サークはアメリカ人ではなくて、ドイツ人ですが。
そしてサークはファスビンダーやウォン・カーウァイに影響を与えています。このように、いくつもの連関があります。敢えて外国語の映画を取り上げているわけではありませんが、最近はなんでもグローバル化されているため、誰もがいろんな国の映画を見ているわけですが、私は各国において政治的に興味深い時代に作られた映画に惹かれます。

 


Video still from Life of Imitation (2009).

 

ART iT 既存の作品を取り上げるのではなくて、オリジナルの物語や長編映画を作ることを考えることはないのでしょうか。

MW 考えることはありますが、100%オリジナルなものはあり得ないと思います。物語のテンプレートは世界中に三つか五つくらいしか存在しない、と言いますよね。
私は旅というものを信じます。ひとつの夢は中国に行って、自分探しの旅をまた一歩進めるプロジェクトを実施することです。現在、あらゆることが起こっている国ですし、私の場合は祖先が中国人なので更に意味の層が重なります。私の苗字は中国語で「黄」という意味なので、比喩的な巡礼として黄山を登ってみたいです。
そのような訳で、そのうち明らかに既存の作品から派生しているのではないプロジェクトにも着手すると思います。これまで使った作品は、全ての人が生きる過程で必要とするマーカーにあたります。まずは何かに依存していたのが、そのうち自分なりのマーカーに繋がっていくのです。私はそれをとても強く意識してきました。「オリジナル」なものはいつ作るのか。制作プロセスの一部を放棄するという点で、もしかしたらこれらの作品のような模倣からオリジナルなものが現れるのかもしれません。

 

ART iT 特に2009年ヴェネツィア・ビエンナーレで特別表彰を受けてから、シンガポールとの関係はどのようなものになりましたか。

MW 私がシンガポールとどのように関係しているか。シンガポールが私とどのように関係しているか。私は国民的英雄です! 冗談はさておき、シンガポールではやっとアーティストとして関心を持たれるようになったと言えます。それまではずっと、『チャン&エン——ザ・ミュージカル』を書いた人として知られていたので。
シンガポールは今、人口の構成が変わる興味深い過渡期にあると思います。そのような変化がナショナルアイデンティティにどのような影響を及ぼすか。今年はマリーナ・ベイ・サンズという総合リゾートがオープンしてカジノの街として生まれ変わりましたが、それこそナショナルアイデンティティに強い影響があるはずです。傍観者として興味があります。

 

ART iT ヴェネツィアの賞について書かれたストレーツ・タイムズ紙の記事を読みましたが、シンガポールは文化に対して結果を非常に強く重視した姿勢をとっている印象を受けました。その記者はあなたの特別表彰が2001年から展示に参加しているシンガポールのヴェネツィアでの初の受賞であると書いていました。

MW ある程度は理解できることですが、当時ナショナル・アーツ・カウンシル(NAC)に勤めていた官僚たちと話すと、それが全く彼らのメンタリティであることが分かります。まるで本当はアーティストには関心がなくて、自分の手柄として考えているかのようです。「私が5年間担当してきたからやっと成果が出たのだ」と。
本当に結果重視です。芸術にどんどん投資していますが、殆ど軍事政策です。実際、芸術に関わる閣僚の一部は確か軍隊経験者だったと思います。バランスの問題ですね。

 

ART iT ヨーロッパに長く滞在してきた後、シンガポール館で展示をすることに関して違和感はありましたか。

MW いえ、全く。むしろ、シンガポール館で初めてシンガポールの歴史を直接的に取り上げる展示を実現できたと思います。捉え方によっては2005年のリン・ザイチュンによる、ヴェネツィアにマーライオンの像を持ってくるという案もそれに値するかもしれませんが、他の年は基本的にアーティストが作品を作る、という内容でした。シンガポール館のキュレーターであったタン・フークェンと一緒に、シンガポール館という概念やシンガポールとは何かというテーマを扱うことに決めました。それで、例えば、シンガポールという国が一体どこにあるか知っている人は少ないので、展示に東南アジアの地図も取り入れました。

 


Video still from Life & Death in Venice / Leben und Tod in Venedig / Vita e Morte a Venezia (2010).

 

ART iT ヴェネツィアでの審査員の一人はポストコロニアル理論で知られるホミ・バーバでしたが、直接話しましたか。

MW ほんの少しだけ。「彼らこそ私の子供なのです!」と、周りの人々に誇らしげに言っていたのを覚えています。審査員も自分たちの思惑を少しだけ忍び込ませているのが分かりました。公式な賞の一覧では、それぞれの賞にタイトルと短い説明が付けられていました。私の賞は「拡大する世界」で、説明はなぜか「恥辱」や「人種・性別のステレオタイプの強制」がどうのという奇妙なものでした。私のプロジェクトは実際には祝賀的なものでしたが、まるで非常に抑圧的なコンテクストにあるもののように映ってしまいました。いわゆるポストコロニアルな考え方というのは時折ユーモアに欠けることがあるようですね。シンガポールでの状況に何も問題はないと言うわけでは決してありませんが、シンガポール館には審査員たちには見えなかったらしい喜びの要素がありました。

 

ART iT 例えばファスビンダーのようなアプローチでシンガポールを取り上げるなど、もっと批評的なプロジェクトを考えたことはありますか。

MW とどめは敵が油断しているすきをついて刺すべきです。シンガポールには批評的な作品を作るアーティストが大勢いますが、最初から批評的であるため、そのままの意味に固定されるあまり、多義的な奥深さを持つ可能性が制限されてしまいます。シンガポール館の全体においてあらゆる批評が表されていました。NACは多分、伝統を振興して国を立てている様子しか見えていなかったのではないかと思いますが、実際には独立以降にあった出来事、私たちが失ったものについてのインスタレーションでした。
批評的な作品さえも、その対象となる政府に助成されていることの多いシンガポールでは、アーティストは慎重で内省的でいなければなりません。なかなか難しい問題です。2003年に映像作家のロイストン・タンが長編映画『15』でシンガポールの10代の軽犯罪者や麻薬密売人を取り上げた際、政府によってシンガポールの「反体制の映像作家」として海外に売り込まれました。政府公認の反逆者ということです。奇妙なことに、広報で文字通り、「シンガポールの反逆者」というような決まり文句を使っていたのです。マーケティング自体にその概念が含まれたことに私は違和感を覚えました。ロイストン・タン自身もきっと複雑な心境だったでしょう。矛盾していますが、政府はこのようにして自己アピールをするわけです。だからアーティストとしては政府に依存するシステムから抜け出さなければならないのです。
でも、シンガポールで作品を作りたいとは思います。まず、シンガポールにはコラボレーションができる人たちのネットワークが既にあります。良いチームを作るのは難しいのでそれは大事なことです。また、インスピレーションの源でもあります。多分、私の作品の全てはシンガポール出身で歴史上の特定の時期に住んでいたからこそ作っているものであり、それは今でも私自身を特徴づけるものでもあるのです。

 

All images courtesy the artist.

 

ミン・ウォン: 旅する異邦人 文 / フー・ファン

 


ミン・ウォン インタビュー
反復がもたらすシネマへの提案

I. 初級編:アフリカ系カリブ人、アフリカ系黒人、インド系アジア人、東アジア人、中国人、アイルランド人、ウエールス人、東ヨーロッパ人、ユダヤ人

II. 中級編: アップレーゲン、アオフレーゲン、アオスレーゲン、ベレーゲン、バイレーゲン、ダールレーゲン、アインレーゲン、エアレーゲン

III. 上級編:Yishmór, Tishmór, Tishmór, Tishmrí, Eshmór, Yishmrú, Tishmórna, Tishmrú, Tishmórna, Nishmór

第3号 シネマ

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