フランシス・アリス「終わらない物語」


Paradox of Praxis I (Sometimes Doing Something Leads to Nothing) (1997), Mexico City, video documentation of an action, 5 min. Photo Enrique Huerta. All images: Unless otherwise noted, courtesy Francis Alÿs.

 

終わらない物語
インタビュー / アンドリュー・マークル

 

ART iT あなたは絵画、ドローイング、彫刻、パフォーマンス、映像、インスタレーションを含む横断的な実践によって、各プロジェクトのためにさまざまな作品を制作していますね。最終的に映像作品が多くを占める場合でも、それぞれの作品が多様なテーマや状況に取り組んでいます。各作品が状況に応じて変化するプロテウス的なアイデンティティを持ちながら、同時に具体的な記録としてもまとめられています。こうしたダイナミズムについてどう考えていますか。

フランシス・アリス(以下、FA) そうですね。テーマに関しては、おそらくあなたが考えるよりも狭いものだと思います。たしかにいろんなメディアを使っていますが、それは私が建築を学んで、なにか特定のメディウムの教育を受けたわけではないからなのかもしれません。だからこそ、私は特定のメディウムに習熟した人と恊働して、プロデューサーとか指揮者のような、なにかを実現するために人々をまとめる役を担うことがよくあるのです。
出来る限り広範なテーマを扱いたいと思いますが、これまでやってきたことを見ると、そこにはさまざまな角度から取り組んでいるわずかなアイディアしかないことがわかるでしょう。ここ最近は、広い意味で私の作品の詩的なものと政治的なものとの緊張関係だったり、一連の介入を通じて、どのように参加者が個人や集団行為へ、もしくは一匹の動物へと還元されうるのかということについて語られていますが、結局は、いつも初期から展開しているアイディアから導き出された要素があるだけなのです。

ここ東京都現代美術館で開催している二期制の展覧会は、偶然にも第一期(メキシコ編)が初期作品を扱い、これまでの足跡を概観するものになり、第二期(ジブラルタル海峡編)は近作を扱った、より焦点を絞ったものになりました。私のキャリアはまだ20年くらいで、そこまで長いものではありません。最初は逆ピラミッド型のように始まって、あるアイディアが別のアイディアへと展開していき、それがどんどん広がり続けて、中堅と呼ばれるような地点まで来ると、ピラミッドの向きが反転して、再びひとつのアイディアへと収斂していきました。自分には大量の時間とエネルギー、いわば信念しか残っていないのだと気づいて、自分が展開してきたアイディアの原型をやり遂げるべく、自分自身を制限していきます。

馬鹿げた話ですが、私自身の実践に対するこうした基本姿勢はほとんど変わっていません。それは常に物語ること。できれば、とても短い物語で、具体的な場所や時間をきちんと扱っているために、非常に現実的でありながら、解釈の可能性、さらには元々の文脈に依存しないアレゴリカルなものの余地が残される物語を。

重要なのは、アイディアに継続的な拡張の可能性があるかどうかです。初めての経験でしたが、三年前にこれまでの活動を振り返る展覧会をテート・モダン(ロンドン)やウィールズ(ブリュセル)、ニューヨーク近代美術館で開催しました。美術館側は回顧展と呼びましたが、個人的にはやや時期尚早だと感じました。これまでの活動を分析する必要に迫られた結果、同じアイディアを行ったり来たりしながら、最終的に別の方向へと導いてくれるような新しい展開が生まれてきていたのだと実感しました。そこには基本計画などありません。それは複数のエピソードからなる長編物語だけど、そこには時系列がなくて、既に7つのエピソードを持ちながら、3つ目のエピソードから始まるというスターウォーズのような、時系列が入れ替わった長編物語みたいなものです。

異なった複数の探求に並行して展開していくアーティストもいるけれど、私の場合はむしろ線的に展開していきます。表現上はすごくハイブリッドでバラバラに見えても、テーマに関して言えば、それはもっと「ルート」のようなもので、自分がどこに連れて行かれるのかはわかりません。

 

ART iT あなたの作品はそれぞれ複数の領域に作用しているのではないでしょうか。おそらく、すべての作品に一貫している領域があり、その上で、さまざまな方向へも向かっているというような。

FA そこに関しては私よりもあなたの方が理解しているかもしれません。私は自分の物語を正確に伝えられなくても、自分がその物語から外れているかどうかを察することには優れています。奇妙な基準があるんです。あなたがどこかに、たとえば、カブールに招待されるとしましょう。そこは非常に魅力的で豊かな場所なので、一週間の滞在期間しかなくても、その場所に反応して10個の案をすぐに思い付くでしょう。ただ、実際には、あなたの物語に合うものはその中にひとつしかありません。私は自分の作品をよく知っているので、そこから選ぶべきものがわかるのです。

たとえ、その案が最も魅力的なものや壮大なものでなくても、それこそが私の長編物語の展開に合う、制作すべき価値のある唯一の選択肢なのです。全力でそれに取り組みはじめれば、人生の1年半を費やした上で、20分間の映像作品もしくはある一日のパフォーマンスとなるのです。拡張を続けていき、あるとき何よりも切迫したものに気づく瞬間がおとずれ、自分自身を批判的に見つめることになるという良い例ですね。ときには全く新しいところからやり直すことがいいかもしれないので、もどかしいところかもしれませんが。

 




Top: When Faith Moves Mountains (2002), Lima, in collaboration with Rafael Ortega and Cuauhtémoc Medina, video documentation of an action. Photo Francis Alÿs. Bottom: Barrenderos (2004), Mexico City, in collaboration with Julien Devaux, video documentation of an action, 6 min 36 sec.

 

ART iT それではあなたの核となるアイディアは何なのでしょうか。例えば、メキシコシティで道路清掃員が列になってゴミを押していく「清掃員[Barrenderos]」(2004)のような作品と、それ以外のプロジェクトを繋ぐものとは何なのでしょうか。

FA ペルーのリマ郊外でボランティアがシャベルを使って砂丘を動かす「信念が山を動かすとき[When Faith Moves Mountains]」(2002)と同じような構造を都市に適用したものが「清掃員」だと言えるかもしれません。そして、「信念が山を動かすとき」はメキシコシティの路上で氷の塊を押し続けるパフォーマンス「実践のパラドクス1(ときには何にもならないこともする)[Paradox of Praxis I (Sometimes Doing Something Leads to Nothing)]」(1997)と関連しています。このようにすべての物語を繋げていけるのですが、ある意味、これは表面的なことです。自分自身がやっていることを本当に理解してしまったら、もはや続けることはないでしょうし、自分のしていることを急に外側から見ることになったら、アイディアの沸騰するマグマに触れる機会を失ってしまうでしょう。

そういうわけで、私は十数年間、回顧展を断ってきました。振り返るとは儚い瞬間です。これが数年間で私が言い得たもののすべてなのだと実感するわけです。自分の制作をより良く理解しようとすることに対して、自分自身を閉ざしていたのかもしれません。私は人々が私の作品について書いていることをほとんど読みません。読んでしまうと影響されてしまうでしょうし、それが必ずしも適切な方向へと影響するわけではありませんから。

昨日、東京藝術大学でのトークで、長谷川祐子さんが私の初期作品、たしか「コレクター[The Collector]」(1990-92)について訊ねてきたのですが、それに答えているとき、自分の話していることが、制作当時に考えていたことと全く違っているのだと気づきました。私はただ、あの作品について既に書かれていることを繰り返していたのです。最低最悪です。本当に酷いことですが、こうしたことは逃れられません。それが習慣というものでしょう。もしもあなたがアーティストで、作品を観客に見せることの儚さを楽しむのなら、彼らはそれを受け取り、自分のものにするでしょうし、最終的には彼らの解釈があなたのものになるでしょう。

私は当時34歳で、生活は今とは全く異なり、なにもかもが違いました。正直に言えば、何が私を駆り立てたのかわかりません。何よりもまず、ああしなければならなかったのではないでしょうか。もちろんノートを見れば、あの頃考えていたことをなんとなく再構成できるけれども、それも確実に昨日のトークで話したこととは異なります。このような自己分析、とりわけ他者の解釈を通した自己分析はとても不安定なものなのです。

 

ART iT とはいえ、「Ambulantes」、「眠るものたち[Sleepers]」、「Beggars」といったアーカイブに関する実践も行っていますよね。

FA 他の都市と同じように、メキシコも急速に変化しており、ある種の社会文化的慣習は記録に残さないと消えてしまうかもしれないと実感して、ドキュメンタリーやアーカイブの制作を始めました。例えば、1999年にリマに訪れたとき、そこには大規模な露天商のコミュニティがありましたが、2000年に再訪すると、それらはすべて無くなっていました。おそらく独裁政権下で行われたのではないでしょうか。彼らは無法者ゆえに軍隊に送り込まれ、その週末の間に先コロンブス期にまで遡るこうした慣習が一掃されているに違いありません。それ以来、このような「絶滅寸前の慣習」のより系統的な記録を始めました。これには都市計画や建築という私の学術的な背景も関係しているのかもしれません。私は建築自体よりも、都市計画やその都市の歴史、中世型都市モデルからルネッサンス、近代的な都市概念という流れに興味を持っていたので。

 

ART iT そのように変化し続けながらも、動くことのない都市というモデルが、移動する人々や都市を徘徊する自分自身の動きへの関心を引き起こしたのかもしれませんね。

FA それは間違いないでしょう。私には現在メキシコシティがどこへ向かっているのかよくわかりません。グローバル経済があらゆるものを規格化し、とりわけ安価なアジアの商品が流通する昨今、この国の生産は一変してしまいました。アジアとラテンアメリカの架け橋が繋がったことは、一方ではとても素晴らしく、25年前には想像すら出来なかったことです。しかし、もう一方ではそれが急速に社会モデル全体や地元産業へと影響しており、その向かう先は全く見えません。

 




Top: A Story of Deception (2003-06), Patagonia, in collaboration with Olivier Debroise and Rafael Ortega, 16mm film, 4 min 20 sec loop, with cut painting. Bottom: Politics of Rehearsal (2005), New York, in collaboration with Performa, Rafael Ortega and Cuauhtémoc Medina, video, 30 min.

 

ART iT 実際、ラテンアメリカの停滞する近代化に対するリハーサルというアイディアに繋がる作品もありますね。「信念が山を動かすとき」や「虚偽の物語[A Story of Deception]」(2003-2006)も含まれると思いますが。こうした作品全体への解釈は、ラテンアメリカの発展とともに変化していくと思いますか。

FA 実際に変わってきています。ラテンアメリカには一度も近代など訪れていませんし、それは既にグローバリゼーションによって乗り越えられ、それもすぐに別の種類の経済によって乗り越えられてしまうのではないでしょうか。リハーサルの作品群は、ラテンアメリカの歴史における非常に具体的な瞬間に触れています。これらの作品で表現しようとしたアイディアは、社会自体のレベルでは未だに当てはまりますが、地政学的な観点から見れば、おそらく既に別の段階へと移行しているのではないでしょうか。

これらの作品に関して、絶えず遅延する結論へと向かうシシュフォス的特徴の域を越えたところで私が言おうとしていたことについて、もっと深いところまで立ち戻らなければいけませんが。リハーサルという仕組みそれ自体は非常に有効な制作方法でしたし、それに没頭した三年間はとてもいい時間でした。この方法を限界まで突き詰めていき、アニメーションや即興、映像、音声作品、さらに舞台へとその原理を適用していきました。舞台的な要素をより強めようとした唯一の試みが、ニューヨークのパフォーマ・ビエンナーレのために制作した「Politics of Rehearsal」(2005)というストリップを扱った作品です。これは耐え難い経験でした。路上で介入していくことも、劇場でパフォーマンスを行うことも、どちらも見せ物で、つまり、そこには観客がいるわけですが、タイミングという点で両者は完全に異なっています。

映像版の「Politics of Rehearsal」では、その日の夜に上演するリハーサルイベントのための非公開のリハーサルだけを映しています。この非公開のリハーサルとその後に上演されたパフォーマンスには内容だけでなく、その進行にもほとんど違いがありません。ピアノ伴奏のマーラーに合わせた女性ソプラノ歌手のゆったりした歌声が、その横で進行するストリップの行方を引き延ばしていくのではないかと考えていました。ストリッパー、ソプラノ歌手、ピアニストのトリオでリハーサルを行うこと、それはライブイベントとしても通用するような忠実なリハーサルでしたが、舞台パフォーマンスとして上演されたときには、私には上手くいっているとは感じられませんでした。即興全体、その緊張感がパフォーマーの唐突に生まれた自意識へと消えていってしまったのです。

 

ART iT この作品には、ストリップとラテンアメリカにおける開発過程や近代化の関係性を語る、批評家兼キュレーターのクアウテモック・メディナの声が重ねられています。これも実際のパフォーマンスの一部としてなされたのでしょうか。

FA この声は後から加えたのですが、正真正銘の即興でした。彼には、カメラに向かってしゃべってくれとだけ頼みました。彼は映像を見ながら、映像が展開することのなかった意見や関係性を加えていったのです。この作品はおそらくこの時代全体の最後のエピソードとなるものです。彼の語りは、このプロジェクトの本質を呼び戻すもので、私自身が語るよりもある意味とても明瞭な形で、私たちがこれまで話し合ってきたたくさんのことを要約してくれていました。

 




Top: Re-enactments (2000), Mexico City, in collaboration with Rafael Ortega, two-channel video documentation of an action, 5 min 20 sec. Bottom: “Francis Alÿs: Mexico Survey,” installation view, the Museum of Contemporary Art, Tokyo. Photo Keizo Kioku.

 

ART iT あなたの作品は詩的なものと政治的なものという概念でよく語られていますが、私が感じるのは、さらにクアウテモックの語りを考慮すれば、この一連のリハーサルの作品は論争を巻き起こすものにもなっているということです。詩的なものと政治的なものの間には、論争すべきものも存在していて、そういうところにラテンアメリカの状況に対するあなたの具体的な批評もあり、それがあなたの作り出す状況や作品を実現していく方法に反映されているのではないでしょうか。

FA その頃、ラテンアメリカに起きていたことに怒りを感じていましたから、批評的になりましたね。とはいえ、それだけではないことも願っています。「論争」という言葉はある出来事に持ち込まれて適用されるわけで、それは非常に重要で、具体的な状況に対する反応なのです。特定の場所、特定の時間に起きたことの一側面に反応し、取り組みつつも、なんの参照情報がなくても成立する物語を創ろうともします。ある地域で制作し、その場所で作品を発表したとき、あるひとつの形で解釈されるでしょう。しかし、その作品がいろんな地域で見られ、異なる解釈のパラメーターの下に置かれても、それでも作品はそれ自体の在り方を持つ必要があり、ここにこそアレゴリカルな作用が入り込んでくるのではないでしょうか。

プロジェクトには複数の在り方があると考えています。ある場所でのみ生き残るプロジェクトもあれば、他の場所へと運び出されて、もともとの意味を失ったり、他のものへと展開したりするような、不安定な過程を辿るプロジェクトもあるでしょう。メキシコシティで銃を持って歩いた「再演[Re-enactments]」(2000)はその良い例です。あの作品は自分自身の実践に関するものであり、映像によるドキュメンテーションに対する自分の反応に疑問を投げかけている作品です。悲しいかな、今日メキシコは暴力と結びつけられてしまいますが、当時はそうしたこともなく、他の主要都市と同じようなものでした。しかし、後に表面化してきた暴力性との曖昧な関係性によって、私が最初に意図したものとかけ離れた解釈が持ち込まれました。それに対して私に出来ることなどほとんどありません。出来ることと言えば、物語ることです。ここには、ひとたび作品が自分の元を離れれば、どんなプロジェクトも自由な在り方をするのだということが表れています。観客は見たいものを見るでしょうし、当然見ている瞬間にその場所が持っている残響に影響されます。それは15年後ということもありえますが。

リハーサルの作品の話に戻りましょう。おそらく、あれらの作品は私が制作した最もタイムスペシフィックかつサイトスペシフィックなエピソードで、ラテンアメリカにおけるターニングポイントに取り組んだ作品です。当時、ラテンアメリカはいわゆる急成長経済ではありませんでした。サリナス政権時代の話になりますが、あれはメキシコが先進国の仲間入りを果たすのだとメキシコ人全員が信じてしまったメキシコ史上最大の詐欺行為でした。北米自由協定[NAFTA]はただの紙切れに変わり果て、メキシコは自分たちが先進諸国の一員だという虚栄心のために数十億ドルも支払ったのです。

しかし、それ以来、この世界は凄まじく変わってしまいました。全体的なバランスや進歩という概念もかなり変わりましたね。形式的にも、アレゴリカルな面でも、なにかが残されています。リハーサルの作品がある種のシシフォス的な物語として解釈されることが増えてきている一方で、その文脈や出来事はそのような言説へと迷い込んでいきます。おそらくそれは良いことなのでしょう。

この作品について、長い間話していませんでしたが、今回思い起こさせてくれてよかったです。これを作らねばならないという衝動に駆られていた頃に再び自分を差し戻し、そこにどれだけ今日的な意味があるのか考えなければいけませんし、語られるべき別の物語が生まれるような状況が展開するかどうか考えなければいけませんね。

 

 


 

フランシス・アリス|Francis Alÿs
1959年アントワープ生まれ。「歩行」などのシンプルな行為や、数百人の参加者を伴う大規模なプロジェクトを通して、社会的、政治的問題を扱い、そこに潜在しているものを詩的かつ物語性に満ちたアプローチで浮かび上がらせる。1986年、ヴェネツィアからメキシコに渡り、建築家として活動するが、90年前後よりアーティストとしての活動を開始する。

2012年にはドクメンタ13に参加、ヴェネツィア・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレ、イスタンブール・ビエンナーレ、ハバナ・ビエンナーレなどの国際展にも複数回の参加経験を持つ。また、2010年から2011年にかけて、テート・モダン、ウィールズ、ニューヨーク近代美術館で巡回回顧展が行われ、アイルランド近代美術館(2010年)、ハマー美術館(2007年)、ポルティクス(2006年)など各地の美術館で個展を開催している。日本国内では、金沢21世紀美術館に作品が所蔵されており、東京国立近代美術館で行われた『ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ』(2009年)にも出品している。

現在、東京都現代美術館で二期にわたる日本初個展『フランシス・アリス展』が企画され、『MEXICO SURVEY メキシコ編』に続いて、『GIBRALTAR FOCUS ジブラルタル海峡編』(2013年6月29日-9月8日)が開催されている。同展は広島市現代美術館(2013年10月26日-2014年1月26日)に巡回する。

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