ホセ・レオン・セリーヨ インタビュー(2)

駆動するヴォイド
インタビュー / アンドリュー・マークル
I.


Installation view at Okayama Art Summit 2016. Photo courtesy José León Cerrillo.

II.

ART iT あなたは「Subtraction Screens」という一連の作品を制作していますが、それらは多義性に富み、興味深い作品ですね。それはフレームかもしれないし、窓かもしれない。くぐり抜けられる門のようなものかもしれないし、ある意味では障害物として考えることもできる。画像を見ながら、まるで空間自体があちこちに移動するかのように、絶えず位置や方向を変化させる空間という考えが浮かんできました。

ホセ・レオン・セリーヨ(以下、JLC) 実際は空間が動いているわけではなく、観客の立ち位置が動いているというところが面白いですよね。これは先ほど話していたことにも関係ありますね。抽象的なこととの関係において、客体を主体の位置に差し向けるわけです。

ART iT それは観客のための空間を用意していると考えられますか。

JLC はい。その部屋に存在するあらゆる作品が相互に関係していて、同時に空間にも関係しているという意味では、舞台装置ですね。しかし、それは決して交換可能ということではありません。この作品にとって、展覧会の空間をどのように扱うかということはとても重要です。というわけで、この作品は空間や建築に直接関係するので、岡山の展示会場を見ておくことは必要不可欠でした。


Above: Installation view of “The New Psychology” at Andréhn-Schiptjenko, Stockholm, 2014. Below: Place occupied by zero (RAL5022 and RAL3015) (2013), powder coated aluminium, dimensions variable. Both: Courtesy José León Cerrillo and Andréhn-Schiptjenko.

ART iT 岡山ではどんなものを見せるつもりでしょうか。

JLC まだ考え中ですが、「Subtraction Screens」や「New Psychology」に関連した作品になるでしょう。かつて学校だった場所が展示会場になる予定で、建物全体を使おうかと、そういうことを考えています。あなたはこれらの作品の衝立が知覚を変化させるだろうと指摘しましたが、私はこれらがグラフィック的には彫刻、ほとんどドローイングのようなものとしても関連付けています。これらの衝立が占有するのは青写真のような、ほとんど心的空間なので、実質的には見えない彫刻なのです。非常に繊細なもので、広い空間の方がうまくいくと思っています。完成したら、そこには作品がこの世界に存在している主体という矛盾や、私たち自身が世界とどのように関係しているのかという問いが生まれるのではないでしょうか。大きなことを扱うための繊細な手段として、こういうことを意図しました。とはいえ、物それ自体を扱うような、リチャード・セラみたいなものではありません。

ART iT ある意味で、それは不在の鏡のようなものとして考えられますか。

JLC そうですね。私の作品には、光源の場所によって光を透過したり反射したりするマジックミラーを組み込んだものもあります。そうしたものは確実に作品をより自己言及的にします。

ART iT ほかに、「Subtraction Screens」をモニタ上で見ていると、それらが誰かがパソコンで同時に立ち上げた複数のブラウザやウインドウのようにも見えてきました。

JLC それは作品にさらなるレイヤーを加えますね。私たちはいつもアートのイメージを見ていますが、昨今の私たちのアートの体験のほとんどはコンピュータを通したものになっています。ですから、あなたの指摘はまさにこの作品に対するもうひとつのレイヤー、もしくは作品に本来備わっていたレイヤーだと言えますね。

ART iT しかし、それは必ずしも意図的ではなかった、と。

JLC 意図していなかったとは言えませんね。建築や工学系のプログラムで作業するためにコンピュータを道具として使っています。これが先ほど私の彫刻との関係が非常にグラフィック的だと言ったときに意味していたことです。あなたがおっしゃったように、この作品をモニタ上で平面として見たとき、それは完全にフラットで、コンピュータのウインドウを連想させたわけですよね。しかし、この作品は立ち位置を変えながら見たとき、ある地点ではフレームになり、フレームの中のフレームの中のフレームといった具合になるので、空間においてもどこかモニタ上と似たように機能します。


Both: Installation view at Kiria Koula, San Francisco, 2014.

ART iT それでは、2014年にサンフランシスコのKiria Koulaで発表した「Poem」の作品に移りましょう。この作品は透明なパネルでつくられているので、一列に並んだときに各作品のディティールがひとつの共通の視覚面へとなだれ込んでいく可能性があるという点で、「Subtraction Screens」と似たような入れ子効果を持っていますね。

JLC はい。または、相互にわかりにくくしたり、否定しあったり、パリンプセストのようでもあります。数年前からこの「Poem」のシリーズをはじめましたが、基本的にはグラフィカルな表記法の体系のようなもので、常に同じですが、毎回違った形で再配置していて、さまざまなメディアに取り組んでもいいのだという気持ちになります。これもまた、先に話していた抽象、内容、言語といったものに関連しています。この作品では、反復を通じて意味のシステムを構築する可能性について考えています。空間を変化させるという考え方と同様に、この作品は解釈という詩的な行為を示し、それから、そうした解釈を形に落とし込んでいるのです。あなたが挙げたバージョンは、6つの異なるパネルで構成されていて、同じ文字がすべて異なる方法で並べられているものです。そして、そこには詩的な行為が形となる解釈の可能性の中に残されています。

ART iT プッサンの絵画を論じた著作の中で、T.J.クラークはロサンゼルスのゲティ美術館で展示されていた絵画「Landscape with a Man Killed by a Snake(蛇に殺された男のいる風景)」の前景に描かれた疾走する男について書いています。走っている男の不自然な腕の上げ方は、まるで注意を促しているような、危険を伝えているような身振りのようです。後景に描かれた漁師と比べて、クラークはこの男は物語というものを越えて、記号、もしくは言語になるかどうかの瀬戸際のところにいると述べています。私はこれも解釈が形になる方法のひとつだと思い浮かべました。

JLC しかし、クラークがそのように感じたのは、彼が毎日美術館を訪れて、この絵画を見ていたからではないでしょうか。そのような反復を通じて、この男は記号になり、識別されたのではないでしょうか。
私としては作品をそれぞれ別々に話すのは、それらが互いに作用しあうので妙な感じがします。しかし、衝立もそれ自体反復しているので、本来そのように機能しているのでしょう。反復は意味に向かう方向、そして、差異に向かう方向をつくりだします。なぜなら、反復を通じてのみ、それぞれすべてが異なるということが理解されるのです。このような考え方を典型的に示しているのが、「Unstable Examples」という別のシリーズです。それは常に同じ小さなフレームですが、毎回それぞれ塗り方が違うので、毎回異なる解釈をされます。隣同士に並べて見てみても、支持体は同じかもしれないけれど、それでもまったく異なるものとして理解されるでしょう。ある意味で、これはクラークの述べた疾走する男の真逆。疾走する男は、常に同じであることを通じて記号になる。T.J.クラークが美術館を毎日訪れて、疾走する男のことを考えたり、見つめたりしても、その男は常に同じでまったく変わらないままであるという反復。
このように、反復は確かに私が作品を通して考えようとしていることです。「Poem」シリーズ自体、反復の一例だし、私はあらゆる作品はずっと展開し続ける単独の作品だという考え方が気に入っています。毎回、ひとつの空間を扱うだけではなく、むしろ、作品は時間においても展開している。時間を貫く彫刻として。

ART iT 私も「Substraction Screens」を見たときにそう思いました。この作品はあるボリュームを部分部分に分割して計算する、微積分のようだ、と。もともとはまとまったひとつの空間が部分部分に分割されたものの断片だという感覚がありました。

JLC いいですね、それ。この作品は実際にはヴォイドではないけれど、空間、まるで窓ガラスのようになります。それは空っぽであると同時に満たされている。まるでウィトゲンシュタインの「あひる−うさぎ図」みたいに、あひるにもうさぎにも見えるけれど、両方を同時に見ることはできず、どちらか片方しか見えないというような。


CARNE (2015), site-specific installation at LIGA, Mexico City, powder coated steel, silkscreens on acetate, silkscreen on cotton paper, varied dimensions. Courtesy José León Cerrillo and LIGA.

ART iT 窓ガラスといえば、昨年、あなたがメキシコシティの建築組織LIGAで発表した、屋上のガラスのペントハウスを用いた「Carne」(2015)というサイトスペシフィックなインスタレーションのことが思い浮かびました。

JLC LIGAはメキシコの若い建築家たちがはじめた本当に面白い組織です。当初は、建築家が必ずしも建築でなくてもいいけど、作品を発表する場所として考えられていましたが、ある時点で、彼らはアーティストも展示に招待しはじめました。私は2008年にニューヨークのDispatchで「Oh My Cannibal」というプロジェクトを実施しました。オズワルド・ヂ=アンドラーヂの『喰人宣言』を引用し、マリオ・パニとメキシコ国立自治大学とともに手がけました。このことが、LIGAが私に興味を持った理由のひとつだと思いますが、私はほかの場所で同じプロジェクトの焼き直しをしたいとは思いませんでした。LIGAの建物は1960年代に建てられたもので、基本的にガラスの直方体のペントハウス、単純なガラスのグリッド構造の建物で、街の景色を360度見渡すことができる。私はその構造そのものをシルクスクリーンの作品を展示する支持体として使うことにしました。シルクスクリーンには、1985年の地震で崩壊した建物の壁画や、メキシコ国立自治大学のモニュメント、エスパシオ・エスクルトリコの一部など、さまざまな建物の抽象的な要素を用いました。自分で自分のプロジェクトを転用して、さらにガラスのペントハウスの構造を再現した空間的な構造を付け加えました。私は既存の構造を利用し、ただそれを回転させることにしました。最小限の身振りで最大限の効果を得たということです。充満と空虚、外側と内側の間、それはまるで超モダニズム的なコンセプトでしたが、街全体が背景になっていて、線の純粋性は歪められていました。

ART iT ということは、ポストモダニズムではなく、ねじれたモダニズムのような感じでしょうか。

JLC そうです。ポストモダニズムに関して、それは建築を記号に、引用可能なものへと変えてしまいました。建築をあの疾走する男の腕に変えてしまったわけですね。しかし、ねじれという考え方は転覆させるというわけでもなく、いいアイディアですね。中心は同じに保ったまま、その位置が少しだけ回転するということですよね。

(協力:岡山芸術交流)

ホセ・レオン・セリーヨ|José Léon Cerrillo
1976年サン・ルイス・ポトシ(メキシコ)生まれ。現在はメキシコシティを拠点に活動する。94年から98年までニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツに学び、2003年にコロンビア大学にて修士号を取得。彫刻のみならず、インスタレーション、パフォーマンスやポスターなど、言語への関心に基づいた幅広い表現を通じて、抽象やモダニズムを失敗した形式として再考し、残された可能性を探求している。
近年の主な展覧会に、joségarcía(2016)やLIGA(メキシコシティ、2015)、Kiria Koula(サンフランシスコ、2014)、Andréhn-Schiptjenko(ストックホルム、2014)での個展、ニュー・ミュージアム・トリエンナーレ(2015)や『EXPO 1: New York』(MoMA PS1、2015)、『Registro 04』(モンテレー現代美術館、2015)、『Abstract Posible』(タマヨ美術館、2011)などがある。また、ミュージシャンのサラランデンとのコラボレーションで、テンスタ・コンストハル(ストックホルム、2012)、LAND(ロサンゼルス、2010)、Proyectos Monclova(メキシコシティ2009)でパフォーマンスを発表している。
岡山芸術交流では、かつて校舎などに使用されていた建物(旧後楽館天神校舎跡地)の階層を縦断、部屋を横断する彫刻作品「ゼロに占領された場所」シリーズや「Poem」シリーズの新作を発表している。

岡山芸術交流2016
2016年10月9日(日)-11月27日(日)
http://www.okayamaartsummit.jp/
旧後楽館天神校舎跡地、岡山県天神山文化プラザ、岡山市立オリエント美術館、旧福岡醤油建物、シネマ・クレール 丸の内、林原美術館、岡山城、岡山県庁前広場、岡山市内各所

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