ウォン・ホイチョン インタビュー (3)


Installation view of the mixed-media and video work RE:Looking (2002) at Eslite Gallery, Taipei, in the exhibition “Days of Our Lives: Selected Works 1998-2010.” All images: Courtesy Wong Hoy Cheong.

 

取り残された歴史をすくいあげて
インタビュー/アンドリュー・マークル

 

III. 変革としての演劇
ウォン・ホイチョン、美術におけるプロパガンダ、政治と透明性について語る

 

ART iT 作品の中でしばしば教育学への関心に触れているとおっしゃっていました。教育学を学び、実際に——アクティビストとしての活動を続けながら——教育者として務められたとのことですが、教育学はあなたの現在のプロジェクトとはどのように関わっているのでしょうか?

ウォン・ホイチョン(以下、WHC) およそ18年間、教鞭を執っていたのですが、当時の方が美術家としての活動と教育者としての活動との間に今以上に強い関係性がありました。3年くらい教えた第三世界の美学についての授業でもそうでしたが、多くの場合、私にとって教室とは変容や教育学などといった概念について考える場となります。時には更に複雑な問題、例えば意識化について考えることもありました。つまり、どうすれば学生に自らを意識させ、自分自身と自分たちが暮らしている環境や社会とが相互に関係していることを認識させることができるのか、ということです。
でも、10年近く前に教職を離れてからの作品は以前より教育的でも啓蒙的でもなくなり、もっと自由で遊び心のあるものになっていると思います。現役の教育者だった頃でさえも、啓蒙は美術を変革のための計画の一環にしてしまう場合もあることに気付いていました。個人的にはそのような計画は不要なものだと考えています。

 

ART iT 啓蒙的な作品にはどのようなものが挙げられますか?

1990年代後期にアジア通貨危機があり、マレーシアとインドネシアでのレフォルマシ[改革]運動が発足しました。1998–99年頃にその政治的大変動にまつわる作品をいくつか作ったのですが、その中には例えば官僚に送る葉書などもあります。一種のプロパガンダ的な要素があり——それ自体は悪いとは思いません——そういう意味では啓蒙的でしたが、今ではそのプロジェクトは果たして美術作品として成り立っていたのか、プロパガンダとしてでさえ効果的なものであったかどうか疑問に思います。このプロジェクトでは、人々に当時の無法状態を認識させ、たった一枚の葉書を最高裁判所長官、警察の総括監察官や首相に送ることによって政治的な行動を起こすことができるのだと皆に知らせることを目的としていました。この葉書は3〜4万枚以上配布・発送しました。政治的な行動という側面が美的な要素より優先的な位置を占めていましたが、もちろん、ヨーゼフ・ボイス風の社会彫刻と捉えることもできます。
また、先ほどお話しした「Sook Ching」[粛清]のプロジェクトも挙げられます。当時、教育学と美術にまつわるいくつかの特定の問題をいかに表現できるかについて考えていたという点でも実験的な試みでしたが、ビデオは最終的にドキュメンタリーという形を取り、教育もオーラルヒストリーの取得も、そしてある意味では意識を持たせることも目的としていました。対照的に、「Doghole」を作ったときには映画製作の美学や技術面、特殊効果や俳優と仕事をすることに興味を持っていました。共有された歴史ではなくて個人的な記憶や歴史に関心があったのです。似たような題材を異なるかたちで扱うこの二つのプロジェクトを比べるとどのような変化が起こったのかよく見えるのではないかと思います。

 

ART iT では、美術とアクティビズムとの間よりも教育とアクティビズムとの間に関係性を見出しているのでしょうか?

WHC アクティビズムと教育とは密接な関係にあると思います。偽善的な言葉で本当はあまり使いたくありませんが、権力の付与について考えるのも大事なことです。アウグスト・ボアールはかつて彼自身の『被抑圧者の演劇』(1973)の概念とそれにおける俳優と観客との間の共存のための対話に絡めてエンパワーメントについて語っています。パウロ・フレイレの意識化は読み書きの能力という、もっと基礎的なところから始まりましたが、読み書きできるということ、言語へのアクセスがあるということは、それだけで一種のエンパワーメントなのです。つまり、教育とはアクティビズムなのです。何故かというと、言語があればその有用性にも目的にも関わらず、読み書きをすることも、学習をして自らの考えを表現することもできます。小説を読むことができたり、ぼったくりに遭わずに買い物ができたりしますし、また、文字として書かれていることと政治家が言っていることとの差異を見出すことができるかもしれません。読み書きができるということと教育とアクティビズムとはそれぞれ密接に関わり合っていますが、その一方で、美術とは必ずしも政治的である必要はないと思います。最近参加したシンポジウムでまさにこの問題が取り上げられました。一部のパネリストは、彼らの作品の中の社会的な主張が壁に掛けられた途端にそれ自体が政治的な行為になるのではないかと発言していました。それは言い過ぎではないかと思います。私にとって社会的な主張とはあくまでも社会的な主張であって——つまり、あなたが世界に対して持ってる意見ですね——政治的な行動というのは対照的に目的が伴うものであり、変革を望むことを表現するものなのです。

 


Top: Installation view of Aman Sulukule, Canim Sulukule / Oh Sulukule, Darling Sulukule (2007), video, 13 min 52 sec, with mixed-media elements. Bottom: Detail of above. Both: As installed at Eslite Gallery, Taipei, 2010-11.

 

ART iT 政治的な作品において必ず生じる問題はまさに作家の主観を逃れることはできないということかもしれません。近年の参加型の、コミュニティー重視のプロジェクトでは、言うなれば「カメラを人づてに回す」というような戦略がよく見られます。これも一種の意識化かもしれませんが、実際に政治的な力関係においてなんの変革ももたらすことはないのではないかと疑ってしまいます。

WHC 基本的に、美術家としての活動とアクティビストとしての活動は分けるように心掛けています。第10回イスタンブール・ビエンナーレのためにロマのジプシーのコミュニティーと「Oh Sulukele, Darling Sulukele」(2007)のプロジェクトを行ったときには、あるコミュニティーに3ヶ月間滞在し、国際的な芸術祭のための作品を作るやいなや荷物をまとめて帰っていくことの複雑な状況を強く意識していました。現地の方々には私の意図をよく説明し、プロジェクトに参加したいかどうかの判断は各々に委ねました。彼らが私に権限を与えるのであり、決してその逆ではありません。

 

ART iT それはある意味、現代の恋愛において多くの人がまず「君とは付き合えないけれど、しがらみも何もない一夜限りの関係なら」と断ってから関係を持つ様子と似ているのではないでしょうか。情報開示の姿勢こそが偽善なのだという可能性もあるのではありませんか?

WHC それと同時に、あなたたちが直面している問題について話し世間による認識を高めるために来たと言うのもまた偽善的ですから、透明性を重視する方がいいと判断しました。もし私が偽善的であって行きずりの関係のメンタリティで行動していると思うのであれば、私を拒否することもできます。ロマの人々を対象としているNGOとの対立はありました。何故現在進行している立ち退きの問題を扱わずに子供が遊んでいる様子の映像作品を作っているのか聞かれました。交渉の必要性が生じましたが、同時に、私自身もNGOの出身なので彼らの視点を理解することはできましたし、大変矛盾しているようにも思えました。

 

ART iT 具体的に、どのようなアクティビズムに関わっていらっしゃるのでしょうか?

最初は裁判なしに拘留された人たちを対象とするNGOで働き始めて、そこから人権擁護団体を発足しました。1990年代に入った頃にNGOでの仕事では充分ではないと思って社会主義の政党に入党しました。後に他の党と合併して野党の人民正義党となった党です。その合併を含め、過去20年ほどの間、党派政治に関わってきました。選挙中にはキャンペーンマネージャーを務め、戦略や計画、資金集めを行い、キャンペーン資料を書いたりデザインしたり、選挙活動に向けて候補者に概要説明をしたり——いろんな意味でとても政治的正義ではない仕事と言えますね。
昔から、政治的な活動と美術の活動との間で時間とエネルギーを配分しています。結局、波がありますね。例えば2〜3年の間は美術に専念して、その後は数年間、政党での仕事に戻ったりします。同時に両立させようとすると、一方はエゴと自己満足が、もう一方は交渉と妥協が中心となるので、まるで精神が分裂したような状態になってしまいます。
私の作品や美術における経験を政界におけるプロパガンダに使うことに対して抵抗がないことは言っておくべきかもしれません。昨年は美術の技能を投票用紙や投票者のトレーニングマニュアルのデザインという地味な形で活かしました。後々もっと遊び心のある、個人的な関心事に基づいた美術活動に戻ることができる確信がある限り、そういったことに対してなんの抵抗もありません。

 

ART iT では、政治活動の際には美術を完全に放棄するわけではなくて、違う目的に使っているということでしょうか。

WHC はい。そしてロシアの構成主義のポスター、中国の文化大革命のポスター、ベトナムの1950年代のポスターなどを見ると、プロパガンダとは非常に力強く美しい美術作品にもなり得るのだということがよく分かります。イメージとテキストとを使って民衆との結束を作り出すことができるという点でプロパガンダは素晴らしいと思います。まさにそれが目的ですよね。共感を生み出すということ。でも、美術界においてそのプロパガンダとしての有効性や有用性を基に評価される必要はないと思いますし、そういう意味では「美術ではない」と言えます。この辺りのことについては未だに考えているところです。もうすぐ次の選挙があるので、戦略のためにいくつかの視覚的なアイディアを練っています。どのようにすれば美術をポスター、アニメーションのGIF画像、バナー画像、パフォーマンスのような行動やブランディングを通して更に直感的なプロパガンダに作り替えることができるかというのは興味深いことではないかと思います。どうすればターゲット層を引き込むことができるか考えなければならないという点では宣伝とあまり変わりません。

 


Installation view of the photographic lightbox series “Maid in Malaysia” (2008) at Eslite Gallery, Taipei, 2010-11.

 

ART iT しかし、相違点としては、プロパガンダと宣伝とは本質的に不透明なことが挙げられるのではないでしょうか。プロパガンダも宣伝も、どれほど観客の反応を考えて作られたものか明らかにすると共感を得られなくなりますが、それに対して、美術作品の価値はなんらかの生粋の表現が透明性を持って反映されているかどうかに掛かっている部分があります。

WHC これは広く議論されてきたことですね。美術家とは自分のために作品を作るものか? 私はそんなことはないとずっと思っています。誰も読まない文章を書くことになんの意味があるのでしょうか? エミリー・ディキンソンがそれをやっていたとも言えるかもしれませんが、それはただ誰も興味を持たなかったというだけのことで、彼女もきっと本当は生前に誰かに作品を読んでもらいたかったに違いないと思います。美術家はナイーブではありません。全てとまでは言いませんが、多くの美術家はコレクターのために同じアイディアを繰り返したり、別にフォーカスグループを実施するというわけでもないのに特定の観客をターゲットとした作品を作ったりすることもあります。
政治においてはもっとそれは集中的です。中流階級、農家といったグループを狙ったり、都会と地方との労働者層の差別化を図ったりします。また、取り扱う問題に合わせて年齢層も考慮しなければなりません。でも類似点はあると思いますし、もしかしたら全てのことは複雑なマトリックスのようなかたちで相互に共謀し関わり合っているのではないかと思いつつあります。この10年間、『Chronicles of Crime』はもちろん『Maid in Malaysia』までも含め、あらゆるかたちでその共謀について考えてきました。『Maid in Malaysia』では実際に国内でメイドとして働いている方をモデルとして雇ったので、それを彼女たちを利用した、搾取したと解釈することもできるかもしれません。実際に聞かれます、あなたはメイドを搾取しているのではないか、と。そして私は「あなたもメイドを搾取しているのではありませんか?」と返します。私たちはみんな共謀者なのです——少なくとも私はモデルとしての相場に見合ったお給料を払いましたし、他の社会人と同じように接しました。たとえそれがあなたの言う行きずりの関係のような、たった一日だけのことでも。
こういったことに取り組んでいくことは非常に興味深く矛盾に満ちています。一個人として、アクティビストとして、政党のために働く者として、美術家として、そして元教師として、私たちは常に内省的であり、脆弱であり、好奇心でいっぱいであり続けなければならないと思います。例えば、自身の行動を反省することができなかったり、生徒からの影響を受けることはなかったりすると、生徒と通じ合うことが非常に困難になります。また、政治家の場合は、公の場で失敗を認めることができなければ支持者の共感を得ることはとても難しくなります。学習とは一生涯続くものなので、内省的であることをやめた途端に人としての成長が止まります。生徒が何に興味を持っているのかについて関心がなくなった途端に良い教師にはなれなくなりますし、有権者の考えていることを気にしなくなった途端に政治家としての成長も止まります。
そしてこれは美術に関して言えることでもあります。自分自身を通して考えたいのですが、政治にも関わっていることもあり、私たちがこの共謀のマトリックスとどのようにして関わっているのか知りたいという気持ちもあります。そのような関係性はないと信じこんでしまうのか、それとも認識してしかるべき責任を持つのか? 密接不可分に思える物事をどのようにして回避するのか、または紐解くのか? 今も答えは分かりませんが、私たちがいつも関わっている共謀や対立の類型が段々理解できてきたように思えます。——まあ、私たちというより、私だけかもしれませんが。

 

 


 

ウォン・ホイチョン インタビュー
取り残された歴史をすくいあげて

« I. 事件としての演劇 | II. 消費としての演劇 | III. 変革としての演劇

第9号 教育

Copyrighted Image